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「相変わらずだね、ここは」
閑散とする辺りを見回して、ハーデスは手の松明を高く掲げた。
『この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ』
そう刻まれた巨大な青銅の門は、死者にとって苛酷な旅路のはじまりである。罪深き者ほど道の奥深くに送られて、這い上がることは叶わない。
ハーデスは中を覗いてから、ちょうど良い岩場の窪みに松明を挿した。タルタロスの入口があるこの辺りは、常に靄で白んで月明かりが届かない。松明の明かりはそんな靄に乱反射して、ぼんやりと明るく辺りを包んだ。
「ケルベロス」
ハーデスの声が響き、視界に幕を張っていた靄が一瞬揺らいだ。青銅の門から少し離れたところにはアケローン川が流れており、ハーデスは空いた両手を額に充てて川面を眺める仕草を見せる。すると、やたらと不穏をまき散らす雑な呼吸音が近づいた。
「ケルベロス。今日からここがお前の住処だよ」
途端に、乾いた大地を巨大な何かが踏みしめた。地を鳴らすと同時に風が巻き起こって銀髪が舞い上がり、すぐそばに突然巨壁が立ったような感覚がある。もうひとたび動けば大地が震え、振動が谷間を伝う。そして、返事の代わりにあげた禍々しい唸り声が、追い打ちをかけるようにタルタロスに響いた。
「……不服だって?」
獰猛な声に、ハーデスは優しく応える。振動に落下してしまった松明を拾い上げて元の位置に戻しがてら、ケルベロスを見上げるその表情は慈愛に満ちていた。
「まあ確かにね、ここで暮らすのは大変だと思うよ。でも、住めば都と言うとおり、お前みたいなやんちゃな犬には、意外に住みやすい場所かもしれない。それに、相方となるアケローンの渡守シャロンはとても優秀な魔女でね。怒ると怖いけど普段は優しいから、ケルベロスもきっと気にいるよ」
ハーデスが「やんちゃな犬」と笑って見上げた先には、黒い毛並が美しい大きな魔獣がいた。
成人として月並みな身長のハーデスを優に見下ろせる巨体が山のようなら、揃えた前足は言わば巨岩である。普通ならばひとつの体躯に対してひとつのはずの首は五十に分かれ、そのどれもが靄の中でめいめい唸ったり、動いたりしている。また、五十の首が集約する首周りには、何匹もの蛇が鬣となってひしめいて、擦れ合う音だけが耳に聞こえた。
すらりと伸びた尾は翼竜の滑らかな緑の鱗に覆われて、足先に伸びた爪は鎌のように鋭い。しかし、明らかな魔獣であるケルベロスが犬と呼ばれる所以――それはただ、いくつもある顔が犬のそれだからに過ぎなかった。
「そんな顔しないでよ」
分かれた首がそれぞれに辺りを窺っては恨めしそうな目で自分を見ているのに気付いて、ハーデスは仕方なさそうになだめた。
「シャロンにタルタロスの守りまで頼むわけにはいかないんだよ。この間の件は、お前も噂に聞いているだろう? ……大丈夫。不眠の特性を持つケルベロスにとってこの仕事は簡単さ、ずっと門を見ていればいいのだから。脱走者に気をつけて、冥界の規律を破る者がいれば、番人としてその刃を向けて構わない。暗がりが心配なら、もっと明かりを灯してあげるよ」
そう言って、ハーデスは不貞腐れるように寝そべったケルベロスの頬を背伸びして撫でた。遠くでは、今日二度目の大地の唸りが聞こえる。ハーデスは流れる川の向こうに目を凝らした。
「もうそろそろ、時間なのだけれど」
見据えた方角にあるのは、最後の審判を終えた者が過ごす『地獄の前庭』だった。そこからアケローンの渡守シャロンが、毎日決まった時刻にタルタロス行きを命じられた罪深き死者を舟で引き連れてくる。
その最終便が到着する直前、アケローンの流れが気持ち緩やかになったのを見たハーデスは、未だ動かないケルベロスを呼んだ。
「ああ、来た来た。ほらケルベロス、こちらへ」
見る間に川面が明かりの透けた擦り硝子のようにぼんやりと光る。その上をまず小さな豆粒ほどの強い光がひとつ、やがて白い靄の中に浮かんだ舟を認め、それを漕ぐ暗い人影まで見えるようになると、ケルベロスはやっと顔を上げた。