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冥界の闇は濃い。
空に浮かぶ赤月は名の通り血のように赤く、どんなに待っても夜は明けない。鳴き飛ぶ鴉と、群れを為す翼竜が舞うのは薄赤い月明りに藍を混ぜた濃紫の空で、見渡す限りの暗い大地には、腐臭のする沼や囁く草花が生い茂る原野が点々としていた。
なかでもひときわ目を惹くのは業火の焔が揺らめく高台で、赤々とした炎は休みなく冥界の天を焼く。その向こうには、踏み入る者を惑わす木々がひしめく迷いの森が広がり、暴風の大地へ繋がった。
波打つ山々の中でも一番に高い煉獄山はその内面でぐらぐらと灼熱の溶岩をたぎらせ、地の底から揺らすような轟音を響かせる。その大地の唸りが沸点を迎えると、鼓動を打つ火口から特有の青い潮流が同色の炎とともに溢れ出した。
青の炎は燃えながら山肌を流れ、外気に晒されてなお銀色に鈍く光りながら地に伸びる。その様子はまるで蠢く触手のようで、跡に生きるものは何もない。
やがて冥界を囲う嘆きの川アケローンにまで辿り着くと、触手は天まで届く真っ白な蒸気の狼煙を上げる。回数は時間を空けて日に二度ばかり。毎日決まった時刻に上がるそれは、冥界に生きる民が時を知る術となっていた。
この広大な大地を治めるのは、冥界の王ハーデスである。
彼が冥界の統治にあたり、様々な魔族や魔獣を統べることになったのはもうだいぶ昔のことだった。弟のゼウスとポセイドンがそれぞれ天界と海界を治め、ハーデスの冥界と併せてこれを三界、治める者を総じて三界神と呼ぶ。
ハーデスの直轄下に置く組織は冥府と呼ばれ、多くの魔族や魔獣が属した。彼らの業務は部族間の紛争や土地管理、天界や海界との連絡など多岐に渡るが、その主な役割はタルタロスにおける死者の管理である。
タルタロスとは、冥界の大地に開いた大穴だ。便宜上その周囲一帯を指す言葉でもあるが、その本質は「地獄」である。
安易に下方を覗けぬほど深い穴は漏斗状で、道はひとつ渦を巻いて下層に繋がる。階層は第一圏から数えて最奥九圏まで区分けされ、五圏と六圏の間にはディーテの市と呼ばれる燃え盛る城門が配置されていた。
そこから下は堕落した天使と重罪人のみが堕とされる深淵で、各圏では審判が下った罪人が責め苦を味わう。過去に牢獄として使われた地は草木も生えず惨憺として、神々が忌み嫌う果て地であった。