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第六話

「優里ちゃん……早かったんだね」


「学校終わって急いできたからねー」


 優里ちゃんはニコッと笑って僕を見る。


「ごめん、僕のせいで――」


 ――“迷惑をかけた”と言う途中で優里ちゃんが僕に抱きつく。


「ごめんね、みー君。わたしのせいで仕事クビになっちゃったね……ごめんね」


 優里ちゃんは僕に抱きついたまま謝ってきた。


 ……違う。


 優里ちゃんのせいじゃない。

 全部、僕のせいだ。

 そもそも僕は仕事になんの未練もない。

 迷惑をかけることを承知でつき合ったのだから。


 ――こうなるために働いていたのだから。



 僕もしっかりと優里ちゃんに謝ろうとしたが、少しうそくさく思えて話題を変える。


「携帯電話は先生にバレてない? 大丈夫?」


「うん、大丈夫だよ……でも携帯電話のお金がないの」


 そうか……プリペイド式だからチャージした分を使い切ったのか。

 僕は近くのコンビニで携帯電話のカードを買い、残高を補充する。


「これで大丈夫だけど連絡はとれるの?」


「うん、あのあとから先生と一緒に寝てたけど、今日から自分の部屋に戻れるんだぁ」


「ごめん……辛かったね……」


 僕が申しわけなさそうに言うと、優里ちゃんは笑いながら答えた。


「ううん全然。先生と恋バナしたり、いっぱい喋って仲良くなったし楽しかったよ」


 僕は影のある暗い子が好みだが、今は優里ちゃんの明るさ、(たくま)しさに心が救われる。


「先生が来週から外に遊びに行ってもいいって言ってた。これでまた逢えるね」


「そっか、まだ僕とつき合ってくれるんだ。もう嫌になったかと思ったよ」


「当たり前でしょ、大好きだもん。そんなこと言うと怒るよー」


 優里ちゃんは僕を少し(にら)んで、そして微笑(ほほえ)んだ。


 よかった……僕はホッと胸をなでおろす。


 僕たちは軽くキスをして、今日はそのまま帰ることにした。


「あんまり帰るのが遅いと、先生に怪しまれるからさ……また来週ね、みー君」


 そう言って優里ちゃんは自転車に乗って帰っていく。


 僕はその後ろ姿が見えなくなるまで見送った。





 帰りの電車の中で僕は安堵(あんど)する。


 このまま連絡できなければどうしよう……優里ちゃんの心が離れていたらどうしよう……と心配していたが杞憂(きゆう)に終わり、無事に再会できた僕は心に余裕が生まれた。


 あとは母さんのこと……そして仕事のこと……



 考えながら家に帰り、夕食の支度をしていると玄関を開ける音がする。父さんが帰ってきた。


「ただいま……」


「おかえり……」


 昨日、言い争ったばかりなので気まずい。


 ほとんど会話のない静かな二人だけの夕食。

 居心地が悪い。

 早く食べ終わって自分の部屋に行こう、と思っていたときに家の電話が鳴った。


「はい、日比です」


 父さんが電話に出た。

 僕は(かす)かに聞こえる話の内容に聞き耳を立てる。

 どうやら病院からかかってきたようだ。


 父さんは電話を切ると、すぐ居間に戻ってきて僕に言った。


「母さんの意識が戻ったらしい。今日は遅いから明日以降に面会してほしいって。俺は明日仕事だから満斗が行ってくれるか?」


「うん、わかった」


 母さんの意識が……

 よかった。

 今日は優里ちゃんと再会できたし、母さんの意識も戻った。


 たった一日で状況が大きく変化する。

 今日は良い方向へ変わってくれた。

 明日からもずっとそうだといいな……


 僕は数日ぶりに穏やかな眠りについた。



 ◇  ◇  ◇  ◇



 次の日、僕は午前から母さんの見舞いに車で向かう。


 病室を訪れて母さんを見ると、マスク型の人工呼吸器が外されて鼻に管が通されている。

 母さんは僕を見つけると、少し苦しそうにしながら声をかけてきた。


「ごめんね、満斗……忙しいのに来てもらって」


「ううん、全然。母さん……大丈夫?」


 大丈夫じゃないのは僕もわかっている。でも、何を話せばいいのかわからない。


「胸が……苦しい。私はもう駄目ね、迷惑ばっかりかけるわね」


「全然、迷惑じゃないよ。苦しかったら喋らなくていいから」


「もう駄目なのは自分でよくわかるわ……痛いのや苦しいのは嫌だわ」


 僕は確信した。

 母さんの表情で。

 もう長く生きられないことを母さんは知っている。


 うそはつきたくなかった。

 でも本当のことも言いたくなかった。


 何を言えばいいのだろう?

 僕は迷った挙げ句、


「母さん、産んでくれてありがとう」


 と母さんの手を握って唐突に言ってしまった。

 僕は涙が(あふ)れてくる。


 母さんは泣いている僕を見て、


「そんなこと言ってくれるの? ありがとう」


 と、少し微笑(ほほえ)んで答えてくれた。



 ――最低だ。僕は最低だ。

 自己嫌悪に陥る。


 こんなときまで……こんなときまで悲劇の主人公みたいな、くだらないクサいセリフを僕は吐いてしまった。


 本当は泣いてはいけなかった。

 母さんを元気づけてあげなければいけなかった。


 やっぱり僕の本性はクズなのだろうか。

 結局、自分のことしか考えていないのか。


 僕は反省しながら病院をあとにした。





 家に帰ったが、とくに何もすることがない。


 でも今は新しい仕事を探す気にはなれない。

 ただし、父さんの目が気になるから家でダラダラと何もしないわけにもいかない。


 僕は就職する前にアルバイトをしていた本屋の店長に連絡をとってみることにした。


 するとタイミングよく、


「ちょうど今、アルバイトの募集をしているので来てほしい」


 と言われ、あっさりともう一度本屋でアルバイトをすることになった。


 本当はアルバイトではなく、正社員としてどこかに就職するのが最良なのだろうけど、母さんのことが気にかかる。


 それに――


 いつの日か――そう遠くないうちに、僕と優里ちゃんの関係はバレてしまうだろう……

 だからアルバイトで充分だ。


 次は――次こそは“その日”が来ることを覚悟しておかなければならない。


 僕は本当に駆け落ちできるのか? 


 そんな勇気があるのか? 

 優里ちゃんの気持ちは?

 駆け落ちしたそのあとは?


 それに母さんのことはどうする?

 父さんにも迷惑がかかる。


 母さんと話したあと反省したはずなのに、また“自分の理想通りの人生になるか”ばかり考えている。


 ――今さらながら僕は葛藤する。


 僕の人生をドラマティックにするためには、すべてを捨てる覚悟が必要だ。


 母さんも……捨てるのか?

 捨てることができるのか?


 だけど……だけどだけどだけど……


 仕事も、長生きも、平穏も何も興味がもてない。

 何をしても楽しくない。夢中になれない。


 僕は今、悲しい物語の主人公になろうとしている。それが僕の人生で一番大切なことだ。


 あと少し……あと少しで僕の夢が叶う。


 そのためには父さんも、母さんも、優里ちゃんさえも……


 誰も幸せになれない、そんな物語が僕の夢なのか? いつからそんなことを望むようになったのだろう……今となっては、何もわからない。



 でも、もう……引き返せない。

 何もないんだ。僕には……ほかに何もない。



 ◇  ◇  ◇  ◇



 それから僕は、一週間のうち四日間は本屋でアルバイトをして、二日間は母さんの見舞いに行く。

 そして残りの一日……日曜日は優里ちゃんとデートをする、そんな日々を送ることになった。


 優里ちゃんとのデートは、いつもの駅で待ち合わせ。そして誰にもバレないように、電車に乗って大きな街まで行く。





「ねぇ、みー君。指輪買って」


 ある日、デートで街中を歩いていると優里ちゃんが店の方を指さす。

 指さしたほうを見ると、店には指輪が置いてあったが、二千円の安物の指輪だった。


「んっ? もっと高価な指輪にしない?」


「ううん。安くていいからさ、みー君も同じ指輪してよ。お揃いがいいの」


 僕は身体に金属が触れているのが嫌いだ。指輪やピアスどころか、時計すら身につけたくないのだが、そう言われては仕方がない。


 二千円では安すぎるので、七千円のペアリングを買って薬指につける。


「ありがとう……大切にするね、みー君も大切にしてね」


 優里ちゃんは、とてもうれしそうだった。

 指輪を見ながら優里ちゃんは僕に話しかける。


「わたしはクリスマスプレゼントにみー君にあげるマフラーを編んでるんだ。間に合うかなぁ」


「そういえば去年は、まだつき合ってなかったもんね。楽しみにしてるよ」


「わたしにはプレゼントいらないからね。今日の指輪で充分だよ」


 僕は優里ちゃんとデートをしながら想像する。


 このまま優里ちゃんと結婚して家庭をもって普通に暮らす――そんな未来を。


 そんな人生でも僕は幸せと思えるのだろうか?

 そんな人生でも僕は満足できるのだろうか?

 そんな人生でも……悪くないのだろうか?



 ◇  ◇  ◇  ◇



 クリスマスの二週間前、僕は一人で街に出て買い物をしていた。


 残念だけど、イブもクリスマスも日曜日ではないので優里ちゃんとデートはできない。

 二日遅れでクリスマスのデートをする予定だ。


 ――プレゼントはいらないからね。


 そう優里ちゃんに言われたものの、何もないわけにはいかない。


 何をプレゼントしたら優里ちゃんが喜ぶか……考えてもわからなかったが、とりあえず香水を買った。


 買い物の帰りに携帯電話が鳴る。

 父さんからだ。


「満斗、母さんの容態が急変した! 先に病院へ行くからな」


 僕は電話を切ると、そのまま急いで病院に向かった。





 電話を受けてから病院に着くまで一時間くらいかかっただろうか? 


 病院の受付で母さんの名前を言うと、


「しばらくお待ちください」


 と言われ、受付で待たされる。


 父さんは病室にいるのだろうか?


 五分……十分……二十分……


 早く母さんのところへ行きたいのに、いつまでも待たされる。

 僕は受付の人に、


「急いでいるんです。早くしてください」


 と少し怒って言ったが受付の人は、


「もうしばらく、お待ちください」


 としか言わなかった。


 三十分近く待っただろうか……僕はやっと案内される。





 地下へ。



 霊安室へ。



 霊安室の扉を開けると、父さんが壁ぎわに立っている。

 母さんは中央で静かに目を閉じている。

 久しぶりに化粧をしている母さんの顔を見た。


 転院してから三ヶ月しか経っていないのに――



 ――母さんが死んだ。


 僕は泣いた。声をあげて泣いた。



 ◇  ◇  ◇  ◇



 母さんの葬式で泣いて、火葬場でも泣いた。


 母さんが亡くなって数日はずっと泣いて……そして考えていた。


 僕は十歳の時までしか本当の母さんを知らない。


 そのあとはボーッとしていたり、わけのわからないことを話したり……ときどき元の穏やかな母さんに戻る……そんなくり返しだった。


 それでも母さんの人生は幸せだったのかな?

 最後に母さんは何を思っていたのだろう?



 ――人はいずれ死ぬ。


 やっぱり僕は、自分の人生をまるで物語のような、悲しくて切なくて美しいものにしたい。


 もう母さんはこの世にいない……


 僕を縛る心の鎖がひとつ消えた。





 クリスマスから二日後の日曜日、優里ちゃんとデートの日だ。


 優里ちゃんには母さんが亡くなったことを黙っていた。

 余計な心配をさせたくなかったからだ。


「はい、みー君」


 デートの最初にそう言って、優里ちゃんは手編みの黒いマフラーを僕の首に巻いてくれる。


「ありがとう、これ僕からも……」


 僕も優里ちゃんに香水を渡す。


「えーっ、いらないって言ったのに……でも、ありがとう」


 優里ちゃんはうれしそうに笑った。



 僕たちは街を歩く。

 優里ちゃんは僕の少し後ろを歩いて、携帯電話で友達か誰かとメールをしている。


 メールをしながら優里ちゃんが僕に話しかける。


「ねぇ、みー君。最近、先生がわたしを怪しんでるんだぁ。毎週、遊びに出かけてるから……だからデートは二週間に一回にしない?」


「えっ? 先生が……そっか。デートを二週間に一回ね……ちょっと寂しいな。でも怪しまれないほうが大切だからね」


 そう言ったけれど、本当はもうバレても構わないと僕は思っている。

 僕は覚悟ができている。

 たとえ優里ちゃんを傷つけることになっても……


「ねぇ、優里ちゃん。どっかお店に入ろうか?」


 僕が優里ちゃんのほうを向いて話しかけると、優里ちゃんは携帯電話の画面から目を離して僕の顔を見ながら、


「うん、そうだね。入ろっか」


 と言った。





 その時……



 その時……僕は気づいてしまった。



 彼女が……



 小村優里ちゃんが……





 ――浮気をしていることに。





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