第二話
よし、決めた。
僕は児童養護施設で働くために、まず専門学校に入ることにした。
学費は今まで期間社員やアルバイトをして旅行のために貯めていたお金を使おう。
児童養護施設で働くためにはいろいろ資格があるが、保育士を取得するのがどうやら一番の近道らしい。
ただ、ひとつ問題があった。家から近い専門学校は入学試験科目にピアノがあったのだ。
――それは難しいな……入学試験科目にピアノがない学校は、隣の県にしかない。
だが、とてもじゃないが僕はピアノを弾けそうにない。仕方ないか――
家から遠いが、隣の県の専門学校を受けることにしよう。
ピアノのない試験はとても簡単で、勉強から暫く離れていた僕でもあっさりと入学できた。
一緒に入学した同級生は、ほとんどが高校から直接進学してきているので、僕よりふたつ年下ばかりだ。
――福祉系ならば何かしら就職できるだろう――
就職氷河期なのでそう考えている人間が多いのか、いわゆる元不良とか軽薄そうな服装や態度の学生が多かった。授業もまじめに聴いちゃいない。
……まぁ、僕も他人のことを言える立場ではないが。
ピアノの授業だけは苦戦するが、それ以外はまったく問題なく二年間が過ぎ、無事に学校を卒業した。
友達も数人できたが、僕が何をしたいのか……何を求めているのかは絶対に誰にも話さなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
僕の目的達成への道はここまで特に問題なく進むのだが、卒業してからが困難を極める。
そのころは就職氷河期だったので、施設の採用枠がひとりに対して何十人も応募があるような状態で、どこの施設でも倍率が二十〜五十倍だったのだ。
落ちるほうが当たり前、受かるのは学生の時からその施設でアルバイトをしていたなど、なんらかのコネのある人間ばかり――
施設を受けては落ち、受けては落ち……をくり返し、卒業してから本屋でアルバイトをしながらの就職活動を二年以上も続けることとなる。
そんなある日、アルバイトの休憩時間に雑誌を読んでいると“就職をしたが合わなくて、五月病で辞めていく新入社員が多いので、五月〜六月が就職活動の狙い目”という情報を得る。
僕が専門学校を卒業してから三年目の六月に、その雑誌の情報通りようやくチャンスが巡ってきた。
僕の家から電車を乗り継いで一時間半かかる場所にある児童養護施設の募集があった。
少々遠いが、住み込みとのことで問題はない。
僕はその施設に応募することにした。
――試験当日、早めに家を出て施設に向かう。
最寄り駅から歩いて五分ほどの、海の見える港町にその施設はあった。
〈潮風学園〉安易な名前だ。
そこは一名の採用枠だが、応募が僕を含めてたったの四人だけだった。
職員らしき若い男性に案内されて、施設の中に入る。
どうやら目の前にいるその若い男性が、ひとりだけで試験の監視をするらしい。
……僕は悪知恵を絞った。
施設の多目的室が試験会場で、僕は入り口でわざともたついて最後に入室し、一番後ろの席に着いた。
職員らしき若い男性は多目的室の一番前に立って筆記試験の監視をしている。
だがすぐに退屈そうにして、時折あくびをしたり携帯電話を取り出して見たりしている。
僕は監視がゆるいことを確認し、机の下に携帯電話をそっと隠しながら出して、筆記試験の答えを調べはじめた。
――ブラジルの首都はブラジリアなのか、リオ・デ・ジャネイロじゃないのか。
そうやって、カンニングをして筆記試験を終えた。
そのあとの面接は、応募者全員同時だったので、みんな似たような志望動機を言っていた。
採用試験が終わってほかの三人の応募者が帰ったあと、僕はひとり残ってその施設の小学生の男の子たちと一緒にサッカーをして夕方まで遊んだ。
もちろん、良い印象を残すためだ。
――われながら悪質な人間だな――
そう思ったが、手段を選んでいられない。僕はもう二十四歳だ。なんとしても二十代で人生を完結させたい。
……何かしらの物語にしなければならない。
僕には何もなかった――
将来の夢も、情熱を傾ける趣味も、腹を割って話せる友人も。
何をしていても誰と話していても、いつも俯瞰的なもうひとりの僕が、冷めた目で僕を見ている。なんのために生きているのか……ばかり考えてしまう。
それならば……せめて……何かしらの物語になるような人生を自分でつくろう。それが僕の目標、生きる意味だ。倫理や道徳はクソ喰らえ、だ。
◇ ◇ ◇ ◇
三日後、家に採用の電話がきた。父さんも、退院して家に戻ってきていた母さんも喜んでいた。
「やっと一人前の社会人だなぁ。満斗がどうなるか、ずっと心配で仕方なかった……」
「私は満斗を信じてたわ……よかった」
父さんは目を潤ませて、母さんは微笑みながらそう言った。
――ごめん、父さん、母さん。
僕は、別に働きたいわけじゃないんだ。
僕は……そうだな……できれば、どこか影のある肌の色の白い少女がいいな。
……誰も信用できず、社会にも背を向けて自分の殻に閉じこもっている。
そんな少女と恋におちて……周囲から許されず、僕たちは一緒に逃げよう。
駆け落ちしよう――
そんなくだらない妄想を、現実にしようと考えているだけなんだ。
迷惑をかけることも承知のうえなんだ。
本当にどうしようもないクズなんだ。
許してほしいとすらも思っていない。
自分勝手、自己満足の結晶だ。
でもそこまでしないと、冷めきったもうひとりの僕は消えてはくれない。
◇ ◇ ◇ ◇
八月一日から働くことになったので、“就職が決まったから”と急いで本屋のアルバイトを辞めた。急に辞めることになったが、店長は理解ある人で快く送り出してくれた。
さぁ、やっと僕の目標の第一歩まできた。
そしてついに……八月一日、施設に行った僕は施設長から仕事の説明を受ける。
「――で、最初の二年間はここの施設に住み込みで働いてもらう。家賃はないが、光熱費として月に一万円を給料からひかせてもらうよ。それから、うちの施設は〈男性棟〉〈女性棟〉〈幼児棟〉の三つあるが、君には〈幼児棟〉で最初は働いてもらう」
……? 幼児棟?
「彼が幼児棟のリーダーをしている和田君だ。あとは和田君から説明を受けてくれ」
施設長の説明が終わり、和田さんに今いる建物の反対側にある建物へと案内される。
どうやら、小学生〜高校生までの子どもたちと幼児とでは住んでいる建物が違うらしい。
少し不満もあるが仕方ないか……
そして幼児棟の案内をされ、一緒に働く職員たちを紹介され、最後に幼児棟の二階にある六畳間に行き、和田さんが部屋を指さして言った。
「ここが日比君の部屋になるからね」
――そうか、この部屋がこれから僕の拠点になるのか。けれども、荷物は最小限にしよう……いつか逃げることになるかもしれないから――
そんなことを僕は考えていた。
――それからしばらくは、特に何かを考えることもなく働いた。
とにかく忙しい。
まずタイムカードがないのだ。出勤をしたら印鑑を押すだけだった。理由は簡単で、出勤時間、退勤時間をわからなくするためだ。
朝の六時には印鑑を押して子どもたちを起こし、朝ごはんの用意をして保育園に連れていく。
昼は掃除をして夕方まで休憩。
そして夕方になると保育園へ迎えにいき、子どもたちを風呂に入れて夕食を一緒に食べる。
夕食が終わると布団を敷き、子どもたちが寝るまで一緒にいて、全員寝てから記録を書く。
日曜日は昼間もずっと子どもたちはいる。
休憩時間すら、まともにとれない。
そして月に一回あるカンファレンスは、日常業務の合間をぬって行われ、深夜二時にまで及ぶこともあった。
影のある少女と出逢うどころではない。就職して三ヶ月後には、心も身体も疲れきっていた。
もはや、なんのために働いているのかすらわからなくなりそうだった。
――そんな毎日を送っていたある日、和田さんに呼び出された。
「そろそろ夜勤をやらなきゃね」
と言ってきた。
今の仕事の上に夜勤まで……想像すると嫌でたまらなかったが、一ヶ月後には夜勤をすることとなった。
最初の夜勤は和田さんと一緒に行い、夜勤業務の説明を受ける。
夜勤は〈男性棟〉〈女性棟〉〈幼児棟〉すべてをまわり、誰かタバコを吸っていたり、夜中に子どもが施設から逃げ出すことのないように見回りをする業務だ、と教わった。
「次からは日比君ひとりでするんだよ」
簡単にそう言われたが、たとえば高校生の男の子がタバコを吸っていたとして、ほとんど面識のない僕の注意に従ってくれるのだろうか?
◇ ◇ ◇ ◇
――それから二週間後、僕の不安は的中した。
僕ひとりで初めての夜勤となり、二十三時過ぎの見まわりをしていると、建物と外壁の隙間で高校生らしき男の子がタバコを吸っていた。
「あっ……」
高校生らしき彼は少し驚いた様子だった。
「タバコ……吸ってたの?」
「ごめん……あのさ、川口さんには内緒にしてくれる?」
――川口? あぁ、確か主任の……
専門学校で聞いたことがある。
新しく入った職員に反感を持ったり、どんな人間か試したりするために、わざと怒らせるようなことをしてきたり、嫌がらせをすることもあると。
職員の部屋のドアに、昆布が大量に貼られていたこともあったそうだ。
――ここで厳しく叱るのはよそう――
そう考えた僕は優しく語りかける。
「じゃあ、見なかったことにするからさ。それ吸ったら、部屋に入りなよ」
「……うん、わかった。お兄ちゃんありがとう!」
お兄ちゃん? 先生って呼ばないんだ?
高校生らしき彼は、僕のいうことに拍子抜けするほど素直に従ってくれた。
ホッとした僕は見回りを続ける――
次は女性棟だ。
年頃の女の子たちが寝ているところを見回るのは、正直とても緊張する。
さっさと見回って出よう――
そう思って、小さな懐中電灯を片手に女性棟の廊下を歩いていると、複数の女の子の喋り声がリビングルームから聞こえてくる。
「あっ! お兄ちゃん」
三人の中学生〜高校生らしき女の子たちが起きていて、暗いリビングルームで喋っていた。
「ごめんごめん。もう少ししたら寝るから」
「お兄ちゃん、小さい子たちのところに入った新しい先生だよね?」
「ねぇねぇ、幼児棟の先生たちってかわいい人多くない?」
見回りの職員が来たというのに、屈託のない笑顔で僕に一斉に話しかけてくる。
「お兄ちゃん?」
僕は、先ほどタバコを吸っていた高校生らしき男の子にも“お兄ちゃん”と呼ばれたことを話した。
「うん。だって、新しく先生が入ってもすぐに辞めたり、毎年実習生さんが来るからいちいち名前なんて覚えてられないもん。お兄ちゃん、お姉ちゃんって呼んどけば、みんなに通用するしね」
少し癖っ毛の茶髪の女の子が答えてくれた。
「あれ? 茶髪にして怒られないの?」
僕は答えてくれた女の子に質問してみる。
「これは地毛だよー。いつも聞かれるの」
そう言って彼女は笑った。
「お兄ちゃんって、まつ毛長いねー」
そう言って、その女の子は僕に顔を近づけてきた。僕は少し照れてしまって後ずさりする。
「お兄ちゃん、名前は?」
「日比満斗……だよ」
「ふーん……覚えた! わたしは小村優里、よろしくね」
それが彼女――小村優里ちゃんとの初めての出会いだった。