第一話
「はぁ……はぁっ……あぁっ……」
胸が苦しい……膝の震えが止まらない。
んっ? 今から大好きな女の子に告白しよう、とかじゃあないんだ。
んっ? 別にマラソンをしてきたわけでもないんだ。
いや、そんな軽口をたたいている余裕すら今の僕にはない。
肉体的に疲労しているわけじゃない。
それどころか、乗客の少ない昼間の電車に乗り、座席に腰掛け、電車を降りてからもゆっくりゆっくりと歩いてきた。
……目的地のホテルは……あそこ……なのか?
膝が震えて力が入らない。
「おえっ……ゔっ……」
緊張と恐怖で吐き気が止まらない……九月で暑いはずなのに寒気もする……これ以上前に進めない……まるで自分の身体が自分じゃないみたいだ。
なんとかフラフラと歩いて、ホテルのエントランスに着くと、見知った顔の中年男性ふたりが立っていた。
僕の職場の上司たちだ。
もうすぐ“元職場の元上司たち”になるのだろうけど――
ホテルのロビー横にあるカフェスペースに、僕と中年男性ふたりは座った。
僕が奥側のソファー席に、中年男性ふたりは手前側の椅子席に並んで腰をかける。
――おいおい、普通は礼儀として上司たちが奥のソファー席、僕が椅子席だろう。
でもこれはわざとなわけで……
――前にテレビで見たことがある。
海外の電車で、向かい合った四人掛けの座席に三人が座っていて、奥の一席だけが空いている。
そこに日本人などの旅行者を狙って親切そうに声をかけ、座らせて逃げられなくしてスリなどの犯罪を行う。
そう、この座ったポジションは僕が逃げられないようにするためのものだ――
「夜中に夢で宝くじが当たる夢を見たんだよ。でも何等が当たったか、確かめようとしたところで目が覚めちまった。そしたらなんと、スクラッチの宝くじが本当に五千円当たってたんだよ!」
「えー、すごいですね。じゃあ途中で目が覚めなかったら、もっと高額が当たってたかもしれないですねぇ」
宝くじが当たったのは主任の川口さん。年齢はおそらく四十代半ば。
もうひとりは僕の直属の上司の和田さん。年齢は三十代後半だろう。
僕の目の前でまるで僕が存在しないかのように、ふたりが他愛もない話をしている。
――そうか、ひょっとしたら僕はもう死んでいるのかもしれない、もしくは夢なのかもしれない――
そんなことを考えていると、上司たちの会話が途切れた。
「日比君、そろそろ本題に入るけど……」
川口さんがこっちを見て、僕に話しかけてきた。
一秒でも早くこの時間が過ぎてくれ……
僕の頭の中はそれしかなかった。
「……$^*#*($!§®€×√‼⁈ 弁護士 ¤π¿※©£¶∆ 裁判 £®¢⁈‼π⁉±¤ 懲戒免職 √±¶¤‰÷¤µ……」
頭が朦朧として何を話しているのか、よくわからない……
ただ、ときどき僕にとって明らかにマイナス要素であろう単語が聞こえてくる。
「――ということで君は若い、将来もあるから懲戒免職にはしないでおこう。裁判もしない。辞職扱いにしようと思っている。ただし、今ここで誓約書を書いてもらう」
川口さんはそう言って〈誓約書〉と書かれた紙を僕に差し出した。
〈誓約書〉
私、 日比 満斗 は 小村 優里 が高校を卒業し、施設を出るまでの期間、一切の接触をいたしません。
これを破った場合、いかなる処罰も受け入れます。
年 月 印
声を振り絞って僕は聞いた。
「……優里さんは……元気ですか?」
「今は個室にいる。逃げたり万が一のことがないように、ほかの職員が見守っている。ずっと君の心配をしているよ」
和田さんが、少しだけ優しげな声で応えてくれた。
涙が溢れてきた。優里ちゃんに謝っても謝っても、謝りきれない。
――でも僕は知っていた。
本当は、僕は……反省なんかしちゃいない。
悲劇の主人公面して自分に酔っているだけなんだ。
今も唇を噛みしめているけれど、この唇から血が垂れたならどんなにドラマティックだろう――
そんなことを僕は考えている。
――これが僕の望んだ人生だったから。
悲しいのは本当に悲しい。申しわけない気持ちも確かにある。
でも、僕は最初から悲劇を望んでいた。
現在の緊張と恐怖で吐き気がする状況は、僕が自ら望んだ結果ともいえる。
僕はペンを持って何秒か間をおいてから、誓約書に日比 満斗と、自分の名前を署名した。
そして、家で書いてきた始末書とも顛末書ともいえないような反省文を提出した。
そのあとも何か上司ふたりと話をしたが、何を話したのか覚えていない。
頭がはっきりしだしたのは、帰りの電車の中だった。
――しばらく優里ちゃんと会うことはできないな……親には仕事を辞めたことをなんて説明しよう。
そんなことをぼんやりと考えながら家路についた。
帰った時には夕方になっていたけれど、家には誰もいなかった。
そういえば父さんは、母さんが入院している病院に“見舞いに行く”と言ってたな……
――僕は父、母と三人家族だ。
現在、家には僕と父さんのふたりで住んでいる。
ほんの三日前まで、僕は職場の中にある個室を寮代わりにして暮らしていた。だからそれまでは、父さんがしばらくひとりで住んでいた。
◇ ◇ ◇ ◇
母さんは――あれは僕が十歳の時だから――十五年前のことか……病気で入院した。
母さんの病名は“急性の精神分裂病”、現在では病名が“統合失調症”に変わっている。
十五年前の夏の終わりのころ、僕と父さんが居間に座ってテレビを見ながら、台所で母さんが夕食を作って持ってくるのを待っていた。
その日その時まで本当に“普通”だったのに――ごくごく普通の母親が、その日その時までは何気ない日常の……普通の会話をしていたのに……
突然、台所から泣き声が聞こえた。いったい何事か、と僕と父さんは台所の方を見た。
すぐに母さんが泣きながら居間へやってきた。
「どうしたの? 何があった?」
僕たちは心配して母さんに尋ねると、母さんは興奮して泣きながら答えた。
「やっとわかったの! ノストラダムスの予言は本当だったの!」
何? テレビの話? 母さんは何を言っているの? 僕たちがわけのわからないまま狼狽えていると、
「まだわからないの? こういうことよ!」
そう言って、父さんの頰を叩いた。真顔で演技には見えない。
僕の頭は真っ白になった。
……目の前で起こっていることが、まるで映画やドラマのような別の世界のこと――他人事のようにしか感じられなかったし、今から思えばその時の僕たちは、完全にパニックになっていたのだろう。
母さんをなんとかなだめて落ち着かして、布団に入ってもらった。
ひと晩寝れば治るかもしれない……きっと疲労がたまったんだ。
僕はそう自分に言い聞かせた。けれども母さんはその日、一睡もせずにブツブツと独り言を呟いたり、ときどき興奮して夜中に大声でわけのわからないことを叫んでいた。
――次の日の朝、暴れる母さんをなんとかタクシーに乗せて病院へ行った。自家用車もあったのだが、父さんはとても運転できる精神状態ではなかった。
近所の病院では診られないと断られ、隣の市の町はずれにある大きな精神病院まで行った。
そこの病院で母さんは、窓のない四方を柔らかい壁で囲まれた部屋に隔離された。
「満斗助けて! 満斗助けてー!」
母さんの叫びが、その部屋から出ていった僕の背中に刺さる。
僕は声を出して泣いていた。父さんは状況を飲み込めておらず、顔が真っ白のままだった。
――その後一年間ほど入院して少し良くなり、退院して家に戻ってきたけれど、その一年後にはまた再発して入院した。
それから母さんは、入退院を何回もくり返して現在に至る。
◇ ◇ ◇ ◇
父さんは自分の仕事と母さんのことで頭がいっぱいだよな……仕事をクビに――いや、辞めたと知っただけでもショックだろうな。
今、僕は連休中だと思っているみたいだし……言えないよなぁ……
――僕の就職が決まったとき、父さんはホッとしたようだった。
それまでの僕はフラフラと定職に就かず、バイトをしてお金を貯めては海外――アジアに絞ってタイやフィリピンに旅行していた。
僕は別に海外旅行が趣味なわけではない。
とある目的があったのだ。
――映画や小説のような人生を送って死にたい――と。
母さんはある日突然おかしくなってしまった。
僕は……僕はいったい、いつからおかしくなってしまったのだろう?
物心がついたころから――もちろん母さんが病気になる前から――
僕は大人になって就職して、結婚して子どもがいて……なんてとても考えられなかった。
そんな人生になんの意味があるのか?
たった一回の人生なんだ。映画や小説のようにドラマティックな人生を送りたい。長生きなんてしたくない。若い間に格好よく死にたい。
もしも仕事をするのならば、殺し屋か探偵になりたい……
本気でそう思っていた。
◇ ◇ ◇ ◇
高校三年生の時、面談で先生に職員室に呼ばれたことがある。
進路面談のことだろうとは予測できた。
「おい日比、生徒のなかでおまえだけだぞ! 進路が決まってないのは」
そう担任の先生に言われた。
この高校は一学年につき特進組を入れると十五組あるから……四百人以上もいて僕だけなのか……
なんだ。みんな普段はいきがっているくせに、結構まじめなんだな……
「それになんだ! 将来の夢“旅人”って。ふざけてるのか!」
別にふざけてなんかいない。
僕は大まじめだ。それどころか、“ドラマティックに生きて死にたい”なんて書いたら意味がわからないだろう。説明するのが面倒くさくて、妥協して書いたつもりだったのだが――
結局、最後まで進路を決めることのないまま高校を卒業した。それからはテレビのブラウン管の検査をしたり、電信柱をなくして電線の地中化をするための箱を作ったりなどの期間社員やアルバイトをしていた。
そしてお金を貯めては海外に行き、何かドラマのようなことが起きないか? ずっと探していた。
十八歳でタイへ旅行に行った時、ゴーゴーバーへ行き、そこの店の女の子と仲良くなって部屋へ泊めてもらったりもした。
そのときに童貞を捨てたが、最初は緊張でまったく勃起しなかった。海外旅行での一番の思い出だ。
アジアの貧乏な後進国ならば困っている人たちがいて、僕は命を懸けてその人たちを助けて格好よく死ねるんじゃないかと思っていた――
もちろんそんなはずもなく、どこの国の人たちもそれぞれ自分の生活を一生懸命に生きていた。
何も持たない僕なんかが入り込む余地なんてなかった……
旅行をして、その隙間に期間社員やバイトを転々とする生活をニ年間ほどしていたが、どんなに頭の悪い僕でもさすがに気づく。
――あぁ、旅人って職業じゃない。このままじゃ何もできずに歳をとるだけだ――と。
そのころの僕は、レンタルビデオで映画もよく見ていた。
特に好きだったのが、主人公のタクシードライバーが歪んだ正義感で少女の娼婦を助ける映画だった。
僕も……助けたい……不幸な少女を助けてみたい。
そんなとき、閃いた。
児童養護施設には、親に虐待された子どもたちがいる。
心に傷を負った影のある少女と恋におちて、駆け落ちするのはどうだろう。
……とても哀しい物語じゃないか!
僕は児童養護施設で働くためにはどうすればよいのか調べはじめる。
――僕はその時、中二病という言葉を知らなかった――
僕が中二病を拗らせていると知るのは、何年も後のことになる――