悪魔の証明
登場人物紹介:
共通設定:
彼らはクトゥルフ探索者。1920年代のアメリカ、アーカムシティを前世とし、現代社会転生をしている。現在は宮藤留府近辺にて過ごしている。
ノア:28歳。前世での名前をルーカス・ジャックローダー。転生後の日本人名を夜原遥、現在名乗っているのはノア・クラーク。現世でも前世でも探偵を務めている。赤髪、紫の瞳と赤い瞳、赤い瞳は色盲、眼帯で覆っている。
オリヴァー:27歳。オレンジジュース農家を隠れ蓑にしながら覚せい剤その他薬を売買するブローカー一派の運び屋。前世は警察官。前世でも現世でも親友に先立たれている。前世での親友の死因にノアとリアムが深く関わっており、前世では親友の死後復讐に人生を狂わせた。
リアム:32歳。リアム・デイビス。前世での記憶はないが、前世と同じ運命をたどる。医者を務めていることも、幼少期に火事で家族を亡くし、またその際半身に火傷を負ったことも、すべて前世と同じである。ノアの親友。
国栖悠一:35歳。前世の記憶はなく、そして前世でも現世でも楽しそう。人の絶望が大好きな愉悦マン。前世では神父、現世では闇医者薬剤師。特に主人公を定めていない話だが、彼が主人公でないことは確か
誰が殺した と問いかける
それは自分だと 手を挙げる
断頭台を望みながら
手に持つナイフを振り上げる
己の手で
僕が殺した
僕が奪った
太陽の光を失い血濡れた前世の罪を背負う
酷く冷たい棺桶をうまれた水で満たそう
誰も彼がいないことを証明することは出来ない
誰が彼を殺したのか
それは僕だと手を挙げた
指折り数えて何回目
もう指は足りない、馬鹿じゃないの
嘆きの声を音にして
血に塗れた指先で、痕を刻む
細い首筋に両手を添わせて、ぐっと力を入れる
「ぁ ・・・がっ・・・!」
両腕に力を入れて、呼吸をじわりじわりと奪っていく
眉間の皺が深くなるほどに、その指先に力を込めて
零れんばかりに見開かれた双眸は、淀んだ海を映し出す
深い色を差し込むように
海に雫を零すように
そうして、まるで祈るようにして両手に力をこめる
いつだって、最後の瞬間に目を細める
笑うかのように
最後を告げるかのように
そうして痛みの中で、笑うのだ __________________
ああ、これで何回目
投げ出された四肢。
力なく横たわるオリヴァーの身体を見下ろしてから、ノアは今の時間を記録した
頬をこすって、そして秒針が刻む音に耳を澄ませる。
何度も繰り返されてきた行為。
静寂の中に響く一定のリズムに意識を向ける。
伏せられた双眸。
波間を彷彿とさせる瞳に光は宿らない。
そうして祈る。
そうして、願う。
その瞳が開かないことを…
「… 、本当に?」
「っ!?」
静寂の中に、静かに零れた声音はいつも通りで。
首に手を添えながら、彼は緩やかに身体を起こした。
「ざぁんねん、ざぁんねん。失敗だったねぇ、遥先輩」
オリヴァーは軽くせき込みながら、いつもの皮肉染みた笑みを浮かべる。
目を細めて、双眸を歪ませる。
「おめでとう、これで xxx 回目の実験結果が得られたねぇ」
「協力、ありがとうっす」
「次は失敗出来るかなぁ?」
「どうっすかねぇ」
「ははっ、頑張ってよね。…人殺し」
おめでとう。
そう言い出したのは、どちらからだっただろうか。
いつからか、どちらかが言い出して。
どちらも同じ様に数えている。
「いいデータがとれたっすよ」
目覚めた時間をカルテに記し、そうして次の実験を示す。
ああ、これは何回目。
後何度殺せば、後何度死ねば、終わることが出来るのだろう。
これは始まりを拒めなかった物語
運命に弄ばれ、形を得ない証明することが不可能な記憶に苛まれた2人
己の心が選ぶことが出来れば、辿るべき道があったとしても
愚かな心が傘を作る
終わりを望む彼らは、闇と霧が立ち込める道をただ進む
第一話:
熱を感じさせるソレが、ぬるりと手を伝う。
震えが伝わらないようにと必死にとりつくろい、視線が泳がぬようにと目頭に力を込める。
淀んだ海が覗かせる波間は、やはり淀みしかなかった。
眉尻は下がり、どうしてか。どうしてか、とても ...
ふと、オリヴァーは自身の腕に目を向ける。
ただ通りがかりに少しばかりからかって、反応を見る。
八つ当たりの発散、そんな小競り合いだったはずだ。
小気味いいと言葉にすることなど出来るわけもなく、ため息ばかりが漏れる感情の中で、しかし残されたものに首を傾げた。
適当に仕掛けた小競り合いの最中の不意な事故。
恐らくワザとではなく、しかしわざとではないというのにひどく焦っていたのは性格によるものだろう。
彼の爪によって刻まれた痕は深く、オリヴァーの腕には血がにじみ出ている。
「...なんで」
目にしている光景は、傷口を見せ断面から血を滲ませるその光景は、決しておかしな光景ではなかっただろう。
ぶつかって、爪が肌をえぐってしまい、血がにじみ出た。ただそれだけのことだ
予想外に深くなってしまったのは、色々な不運が重なったからとしか言えない。」
刻まれた傷痕、そうして滲みだす赤黒い血液
処置だと巻かれたハンカチを解いて、なおも滲みだした血にオリヴァーは目をむく。きっと、それはおかしな光景ではない。
しかし、オリヴァーにとっては血が滲むその光景は『異常』な光景だった
異様な回復力。身体に刻まれたどのような傷であろうとも瞬く間に回復し、本来であれば訪れたであろう死をなかったものにする身体。
致命傷となる傷を、その存在そのものを消す、不可思議な現象。
それが、オリヴァーが背負い続ける運命。
まるで前世から課せられた重たい楔のようだと、死ぬことが出来ないという事実に、命を落とした親友を追いかけられぬ事実に、何度打ちひしがれたことか分からない。
かつて前世と呼ぶべき過去を生きた人生では、自ら死を望み致命傷を受けて身を投じたにも関わらず、その記憶を所持したまま現世に転生し、そうして呪いとすら感じる現世では死ぬことすら出来ない。
心は死んでいくのに、どうあっても生命としての死を選ぶことが出来ない。
八方ふさがりのこのオリヴァーの運命に、普段であればすぐさま消えていただろう傷痕が明確に残っていた。
「っ、ははっ...。そう、君も...難儀だねぇ」
傷口を覗かせる腕をつかんで、痛みを如実に感じる。
締め付ければ、赤が緩やかに零れ落ちていく。
ぽたり___。地面を濡らす赤をオリヴァーは淀みの碧で見下ろした。
脳裏に浮かぶのは、血とは違う温もりを抱く赤銅色の髪の毛。
望むべく死のために。
痛みを選ぼう。
「君は、馬鹿だからさぁ。...きっと、手を貸してくれるよねぇ。
あぁ、本当、気持ち悪い話だよ」
自分で刻んだ爪痕は、すぐさま姿を消した。
残されたのは、彼が刻んだ傷痕だけ。
背もたれに体重を預け、空を仰ぐ。
曇天模様の空の下、碧に淀みが滲む。
____カラリ
足元に放り出されたナイフを拾い上げてから、ノアは目の前の人物に目を向ける。
眉を寄せ、泣き出しそうな笑みとすらとれる、彼の笑み。
口元は嫌味を零すのに、どうしてか彼の瞳は涙を耐えているように感じられる。
「やぁ、ひさしぶりだねぇ」
「...っすね。どうしたんすか?」
人気はなく、閑散とし、陰鬱とした空気すら感じさせる裏路地。
偶然会うような場所で決してない。人の気配をすることに対して違和感を持ち、誰かと出会えば警戒をする。そんな場所での邂逅は、緊張を感じさせる。
仕事のために踏み入れた裏路地、要件を済ませ足早に立ち去ろうとしていたノアの前に、彼、オリヴァーが立ちはだかっていた。
「これ、君のっすかね?」
「ん、そーだね」
拾い上げた抜き身のナイフ。
抜き身の為にどうしたって持ち手を持つしかなく、差し出すにも躊躇われる。
カツリ、と音が響く。
自分の足音だ。
コン、と音が聞こえる。
相手の足音だ。
「ああ、そうだ遥先輩。この間はハンカチありがとぉ」
「どう、いたしまして」
「丁度いい機会だ、これも返すねぇ」
双方ともに歩を進め距離を縮めてから向かい合う。しかしその動作でオリヴァーが借り受けていたハンカチをおとす。
先に身をかがめたのはノアで、ハンカチを拾い上げた。
「確かに、っ!?」
ハンカチは受け取った。
そう言葉にしようとして見上げた矢先、オリヴァーがナイフを所持していたノアの手首に掴みかかった。
オリヴァーはかがんだノアの手首を引き上げて、咄嗟のことで反応が出来ないノアを翻弄する。ナイフを握ったままかがみ、腕だけが引き上げられる。
翻弄されてしまうノアに対して今度は上から抑えつけるように、ノアが手にしているナイフに対してオリヴァーが手のひらを突き出した。
「っ、何、を!?」
「あ 、づぁ...!」
ぐにゅりとした鈍い感覚が、ノアの手のひらに伝わる。
ナイフを離すことが出来なくて、愕然として、ただオリヴァーがノアの持つナイフに対して手のひらを押し進めていく様から目をそらすことができなくなる。
赤が、溢れた。
ぬるりと、ナイフをから腕に熱が伝う。ぼたりと、赤い雫が染みを作り出す。
「ぃ、あ...!!」
「オリヴァー、くん...っ!?」
ノアのナイフを掲げた手を掴みかかっていたオリヴァーの手が緩む。
ノアの手首に刻まれたオリヴァーの刻まれた爪痕。しかしそれよりもノアにとっては目の前に広がる光景がただ、ただただ信じられなかった。
ナイフに伝わる重みも、刃が手のひらの肉を切り裂いていくことも。
ごりごりとした感覚から、骨をこすっていることすら掌が如実に感じ取っていた。
骨に当たればナイフはぶれ、更に肉を切り裂いていく。
にゅぐりにゅぐりと手のひらを、肉を抉れば抉るほどに、広がっていく傷痕からは赤が絶え間なく零れ落ちていく。
「はっ、ははっ...!...っ、ぃったいなぁ...」
「なに、してる...。何をしているんすかっ...!」
「ん~、ねぇ、せんぱ...ノアくんはさぁ。
いや、それともジャックローダーって呼ぶぅ?」
「っ!?」
「生きているのは、たのしー?」
曝け出されたオリヴァーの額には、球の汗がにじんでいた。
オリヴァーの掌から流れ落ちるようにして零れ続ける鮮血が、ナイフを握るノアの掌から腕へと伝い路地裏に痕跡を残す。
掌を貫通したナイフは、肉を裂いたままだ。
「たの、しいとか、そういう、ことじゃ」
「つまんないよねぇ」
「そういう」
「僕は、つまんないよ。なのに、なのにさぁ
追いかけることすら出来ないなんて、どれだけ弄べば気が済むんだって話ぃ」
「何の、話...を?」
眉を寄せて、どこかもの悲しそうにオリヴァーは笑う。
零れ落ちる鮮血に構うことなく、それどころか傷を広げるかのような振る舞いをする様子には戸惑う以外の選択肢がない。貫通したナイフは肉を裂き、骨をこすり、そのすべてをノアの掌に伝えてきた。
これまでに明確な言葉を交わしたことはない。
しかしノアは、オリヴァーが自身と同様に人生を繰り返してきたことを知っている。
そうして探偵という立場を使って、オリヴァーの身の上も多少なりとも調べた。
自身は知らなければいけないと、そう背負う意味を含めて、彼を知ろうとした。
故に、事実として知っている。
彼の親友もまたこの時代へと生まれ変わっていた。
自身とリアムとの関係を彷彿とさせる彼と彼の親友の在り方。
そして、彼の親友はこの時代でまた命を失くしている。
彼の親友は、もうこの時代に生きてはいない。
追いかけると表現するのならば、親友をおいて他の誰もノアには想像がつかない
では、追いかけることが出来ないとはどういうことなのか。
「...君は、生きるのは...。生きていたくは、ないんすか」
「ごめーさつ。でも困ったことにねぇ、誰の施しか知らないけれど、知りたくもないけれど。傷を負うことすら簡単じゃないんだよねぇ」
「どう、いう...?」
「こんな傷ねぇ、ものの5分で何もなかったことになる
僕の身体はそう出来ているんだ、でも、見て
これはこの間君が残した傷跡だ」
刺しぬかれた手とは反対の腕を見せつけるようにして示すオリヴァー。
先日、じゃれ合いとすら表現できる中での小競り合い。その中での不慮の事故でノアはオリヴァーの腕を爪で傷つけてしまっていた。
その傷跡を、真新しい血が滲むその腕を、オリヴァーは見せつける。
「っ!」
「消えないんだ、すごいでしょ
だから試しに来たのさ、こうやって、ね」
「っ!?」
先日負わせてしまった傷が消えていないことをすごいとは感じられず、当たり前のことだろうと思ったところで疑問は目の前の光景に対して言葉にならなかった。
オリヴァーが腕を振りまわせば、ナイフを握ったままのノアもまた翻弄される。
更に傷痕を広げ、肉を切り裂き、赤を生み出す切っ先。
ぐちゅりぐちゅりと音を響かせ、熱を四散させる。
確かに痛みを覚えているはずなのに、額に汗を滲ませ、眉を寄せ、痛みに苛まれているはずなのに。
それなのにオリヴァーの口元には笑みが浮かんでいた。
死ぬことのできない死にたがり。
浮かんだ想像にノアは顔の色を失う。
ノアはオリヴァーが辿った人生を知っている。
彼の辿った人生に、自分自身と、そして親友が刻んだ影響を知っている。
一度目の人生で、彼の親友を奪うことになったその罪を。
忘れることも、なかったことにすることも、出来ない。
例えばでも考えたくない、しかし脳裏を走り抜ける親友の死という可能性。
そうしてその時、自分が選びたい選択肢。
追いかけることすら許されぬ彼は、今の生に何を見出しているというのだろうか。
傷が消えぬことをすごい、と表現することは出来ないとしても、オリヴァーが何を示そうとしているかは何となく理解出来た。彼は負った傷すぐに快癒してしまう、だからこそ消えない傷をすごいと表現することになる。
ノアは喉を鳴らして唾を飲み込む。いやに脳内に大きく響くことになった音は、乾いた喉に違和感を齎した。
「この間の傷が、消えないんすね」
「そう、これも、どうなるのかなぁ」
「どう、っすかね。抜いてみるっすよ」
「...ああ、いいよぉ」
ナイフが貫通したオリヴァーの掌から腕を辿り、しっかりと支えるようにして掴みかかる。
ナイフを握る手に力を込めた。ぬるりとした血で滑らぬようにしっかりと握り込み、ずるずるとした感触の中、刃を引き抜いていく。
血に濡れた音がした。
肉を切り裂く感覚と共に、骨をこする感触がある。
喉から漏れる声を聞きながら、しかし聞こえぬフリをして一思いにナイフを抜き去った。
そうして零れるだけだった鮮血は、手のひらからあふれ出す。溢れ出た赤はオリヴァーの手の平から指先を伝い溢れ落ちてゆく。
「いつもだったらねぇ、ここで、血は止まる...
そうして肉が戻り、皮も戻り、傷すらなかったことにされる」
額に汗を浮かべながら、しかし痛みをなかったことにするかのような口調のオリヴァー。震える身体は如実に痛みを物語るのに口調は平素を装う。
平素を装うオリヴァーの言葉とは裏腹に、流れ落ちる赤は止まらない。ぼたりぼたりと零れ落ちる鮮血は路地裏を染めていく。
目を細めながら、手の平から零れる血を観察するオリヴァー。
ハンカチを拾うためにしゃがみ込んでいたノアは、解放されてゆるやかに立ち上がる。そうして返却されたハンカチを、また傷口を覗かせるオリヴァーの手の平へと添えた。
血を吸収し、赤く染まりあがるハンカチ。
無駄なことだと言わんばかりに笑うオリヴァーは、しかし何も言葉にはしなかった
「ねぇ、君
僕の望みを叶えてみない?」
「.........」
死ぬことを奪われた死にたがり。
生きることに何の意義も見いだせなくなり、しかし死すらも手に入れることが出来ない身体を持つ。
傷を負う事すら出来ない彼の望みを満たせる可能性がノアの手の中にある。
血に濡れたナイフを握り込む。
喉を大きく鳴らして、それでいてつとめて笑顔を作りだしてオリヴァーと目を合わせる。
「調べてみるのも、面白そうっすね」
「ああ、そうだねぇ
試してみようか」
____君に、人が殺せるのかどうかを
首を指示したオリヴァーに、相対するようにノアはナイフを掲げて見せた。
刃は血に濡れている。
そうして相対する2人は、口元にだけ笑みを浮かべていた
第二話:
自分自身とノアの関係において、どうにもはっきりしないことを言うことが増えたように感じたのはいつ頃からだったろうか。思考を持て余すようにして、リアムは握り込んだままのコーヒーアップを持て余しながらノアを伺った。
モヤモヤとした距離感。長い時間を共に過ごし、同じ時間を共有し、沢山の会話をしていたことによって、全て知っていると思いあがっていたのではないか。
リアムは積み重なっては淀む心の内の鬱屈を発散できず、冷たくなってしまった珈琲を無理やりに喉へと運んだ。
気になることが増えて、どうしても自身の中だけで解決することが出来ずに、気が付けばリアムは慣れ親しんだノアの家へと足を向けた。
顔を合わせてみればノアはいつも通りに笑って見せて、美味しいお菓子をもらったのだと差し出してくる。些細なやり取りはいつも通り、見かけに変わったところも見受けられない。
それでも何か違和感がある。長い付き合いだからこそ感じてしまう違和感を、ずと拭うことが出来ない。
「なぁ、ノアくん」
「どうしたの?」
「...いや」
しかし形にならない違和感をどう言葉にすればいいのか分からず、何を聞けばいいものかと言葉が続かない。
感覚的には、まず匂い。
ノアから血の匂いがすると気が付いたのは、職業柄よく触れ合う匂いだったからだろうか。
また仕事で無茶をしているのではないかと気持ちをもんで、しかし、見える部分に外傷らしきものは見当たらない。
怪我をしているのではとそれとはなしに聞いてみても、確認をしてみても、ノアは怪我を負ってはいなかった。
しかし日に日に、時に医者である自分よりも血の匂いが染みついているように感じられた。
何かまた危険なことに巻き込まれているのではないか、自分に何も言わぬ何か危険なことをしているのではないか、また、いなくなってしまうのではないか…
靄のようなものが心にため込まれていく
もうどこにも行かないでほしい、その言葉を飲み込んでから家を訪れた
ノアと対面することによって、さらに気が付いてしまった。
踏み込んだ瞬間に、最近ノアにまとわりついていた匂いを屋内にも感じるということに。
屋内に足を踏み入れると同時に鼻につき、じっとりとまとわりつくような匂い。
病院であれば常に清潔に保たれ、消毒の匂いが入り混じる。
しかし、ノアの家に染みついたものは鉄錆を彷彿とさせるような重たい血の匂い。
何をしていると紡ごうと顔をあげ、ノアの笑顔と相対して曖昧に終わる。
疑問はついぞ、言葉にならなかった。
なんとなく言葉に出来ないまま日が過ぎて、しかしよぎる不安からどうしてもリアムはノアの家を訪れる頻度が高くなっていた。
仕事で不在にしていることもある。
重々承知した上で、しかし、訪れずにはいられなかった。疑問はあったところで、今日もまた顔を合わせられた事実に安堵する。それだけが、霧のような不安の中で心を休ませる事実だ。
ノアの家の玄関前で少しばかり試案をして立ち止まっていると、ふいにこつり、こつりという地面を叩くかのような物音が聞こえる。
続いて、足音が聞こえた。屋内からではなく、屋外。
自分の背後から聞こえる音にリアムは振り向いた。
そうして、瞳に顔見知りの姿をおさめる。
「君は...」
「やぁ、デイビス先生。
どうしたのぉ?」
「...君こそ」
「うん、先輩に用事があってねぇ」
ノアの高校時代の後輩、オリヴァー。
これまでに少しばかりリアムとも言葉を交わす機会もあった彼は、今もふいな瞬間出会うことがある。
たまに患者の付き添いとして病院を訪れることもあったが、しばらく姿を見てはいないことを思い出す。
そうして、暫く目にしていない間に彼は随分と様変わりしていた。
何か大きな外見の変化があったわけではない
年齢の割には少し幼く見える顔立ちや言動、そうしてくすんだ金の髪。
相変わらずの姿とは裏腹に、彼は全身に傷ましい傷跡を負っていた。
包帯によって隠された首や腕の傷、松葉づえをついていることから足にも障害があるのだろうことが察せられる。
「随分と苦労が見えるようだが」
「ん、まぁねぇ。色々あってさぁ」
「養生をしてくれ、病院は」
「だいじょうぶだよぉ」
「そうか」
少しばかりリアムよりも背丈の低いオリヴァーはリアムを見上げながら、曖昧さを含んだ判然としない笑みを浮かべる。
どこか距離を感じさせる、曖昧な笑み。
これ以上は踏み込むな。
笑みによる拒絶は、彼の人の接し方を感じさせる。
大丈夫、その言葉とともに零される笑み。笑みとともに大丈夫だと言葉にされてしまえば、それ以上リアムは怪我に対して追及することは出来ない。
何か話題はと考えて、しかし家の前で話題にすることも考えつかないでいると、2人の間には沈黙という微妙な空気が流れた。崩したのはオリヴァーだ。
「今日は遠慮しておくよぉ、彼によろしくぅ」
「そういうわけには、君も何か用事があったのではないのか」
「んーん、いつでもいーからさぁ」
「だが...」
自分とて何か用事があったわけではない。
寧ろ、何もない。
であれば自分がと思うのに、しかしどうしてか言葉にならない。
オリヴァーが作り出す壁の前に、必要な言葉を紡ぐことが出来ないでいる。
あえて引き止めるのもおかしいのではないか、しかし、だからといって引き止めないということを選ぶこともよしとは出来ない。
何か用事があるのであれば自分が邪魔をするのもおかしい、とリアムは感じる
リアムはノアにいつでも会いに来ることが出来る。
…そうであるはずだから。
「やはり」
自分が遠慮をしよう、そう言い言葉にしようとして気が付く。
ふいに風が運ぶ血の匂いは、怪我をしているからといえばその通りだろう。
傷口が広がってしまったのでないかと、医者としての気遣いでもあった。
だが、言葉を紡げずにリアムは目を見開いてしまった。
匂いで判別したことなどあり得ない、ただ思考が繋いでしまった。
ノアの纏うこびりついた鉄錆にも似た匂いがオリヴァーか漂うと、鼻をついたような感覚だと、そう感じてしまった。
「っ...怪我が、酷いのでは、ないか。
よければ治療を」
「いらないよぉ、問題ない」
「医者をしているのは知っていると」
「そういうことじゃないからさぁ、大丈夫だよ
気にしないで」
明確な拒絶。
拒否という言葉を使うことはなく、しかし、意志を持って互いの間に壁をつくるオリヴァー。
これ以上踏み込むなという明確な線引きを感じながらも、リアムは心の中に湧き出た靄を前に言葉を探す。
毒のように心を苛んでいた何かが、今明確な形を得ようとしていた。
手を伸ばそうとし、口を開こうと、その動作の刹那____
声に気が付いたのか、はたまた気配を感じたのか。玄関の扉が内側から開かれ、家主は玄関前にて話していた 2人の姿を視界に留めることになる
「リアムくん、オリヴァー、くん...っ。何で」
「ノアくん...」
色を視認し揺れ動くのは、深き色を宿した瞳。
リアムとオリヴァーの姿を前に、探す言葉はなかなか音にならない。
そうしてリアムもまた、伸ばした手は何も掴まないまま、ノアを見つめて立ち尽くす他なかった。
「やぁ、遥先輩。
お邪魔しようかと来てみたんだけど、でも先生も用事あるみたいだしね?
今日は遠慮しておくよぉ」
「いやっ、君は...」
「だいじょうぶだよぉ、先生。気にしないで」
「っ、待って、オリヴァーくん...!」
オリヴァーを引き留めたのはノアで。
リアムの目の前で、ノアが手を伸ばしたのは、オリヴァーで。
痛々しく包帯が巻かれたオリヴァーの腕を、ノアは掴む光景が現実だった。
リアムは何も出来ないまま、目の当たりにする光景を視界におさめる。
「ごめん、リアムくん...。今日は」
「っ、すまない...。...、邪魔を、してしまったな」
「..ごめんなさい」
「謝らないでくれ。何も悪いことはしていないだろう」
「.........」
オリヴァーの腕をつかんだまま、ノアの視線はリアムへと向けられる。
しかし、紡がれる言葉はない。
故に、思考が走り抜ける。
否定をすることすら出来ない、悪い事への心当たり。
そんなものを認めたくなど、なかったというのに。
ノアとリアムの間に漂う空気に対して辟易したようなオリヴァーは、だからといって自身を掴むノアに対して抵抗をすることもなく、ただ呆れたと言わんばかりにため息を零しながら2人を見上げていた。
「...連絡をいれず来てしまったからな、また」
「うん、また。都合いい時、いくから...」
「分かった」
「じゃぁね~、せんせ」
「...大事に、な」
「受け取っておくよぉ」
ノアの謝罪を受けながら、リアムは毒のように心の奥底から湧き出る感情をぐっとこらえて2人に背中を向ける。
後ろ髪を引かれる思いなのに、振り返ることすら出来ない。
少しの話声、そしてから扉の閉まる音が事実として耳に届く。
何を、と聞くことは憚られる。それなのに心を苛む感情は、モヤモヤとまるで毒のようだ。
謝罪ではなく、理由を教えてほしい。納得させて、不安を消してほしい。
2人には何かあるのだろう、口に出来ない事実もまたあるのだろうと納得させようとしたところで、振り払うことの出来ない感情が心の中で淀む。
そんなことを望んでいるわけではないというのに。
どうして、と言葉にすることは出来ずにリアムは重たい足取りで自宅へと向かった。
2人で玄関に入ったはいいものの、ノアはそのまま背中を玄関に預け、そうしてずるずると項垂れ床に腰を下ろしてしまう。
何度目になるのか分からないため息を零してから、オリヴァーはうなだれたノアの前にしゃがみ込んだ。
「別に、僕はよかったんだけどぉ?」
「実験、っすから...。
ちゃんと定期的に、やってかないと...」
「本当馬鹿だよねぇ。どっちでもいーよぉ。
さっさとやっとく?」
「...、うん」
「ははっ、ほぉんと。
_____気持ち悪い」
オリヴァーの笑い声を聞きながら、ノアは頭を抱える。
リアムに対して何といえばいいか分からない。
説明すべきことだとも思えない、誰にも言えない、誰にも言うべきじゃない。
それは、リアムであったとしても、だ。
自分のことだけならばいい。
だが、このことを話せばオリヴァーと、そしてオリヴァーとの間に会った過去にまつわる話にまで至るだろう。
大切だからこそ話すことなど、出来ないのだ。
いつもの実験だといって、オリヴァーを傷つける。
経過を観察して、処置をして、そうしてその間に席を外したところでオリヴァーは何も気には留めないだろう。
承諾を得る必要もなく、リアムの家に向かったところで彼は何も気にはとめない。
オリヴァー自身が言葉にすることはないだろうと分かり、そうして、自身が言葉にする必要も感じられない。
ノアとリアムの2人の関係を気持ち悪いと吐き捨てるオリヴァーは、ただ、それだけなのだ。
死ぬことすら出来はしない死にたがりは、己の死のことだけを考えている。
死ぬための手段としてノアをただ利用している、ただ、それだけなのだ。
背負う理由はない。
しかし、背負うことを心が選ぶ。
彼への罪が、己を苛む限り。
オリヴァーへ致命傷を与えることは出来ず、その傷はなかったことにされる。
しかし少しずつの傷は、ノアが行うものであれば着実に蓄積されていった。
この傷は残る、この傷は残らない。
そんな繰り返しの検証で、少しずつ、少しずつ傷を蓄え死へと近づいていくオリヴァー。痛々しい様子になるたびに、どこか満たされたようにも見える。
実験を行うようになって、それだけのために隔離した部屋へと足を進める。
部屋には痛々しい道具が溢れていた。本来傷つける用途で使われるべきではない道具もまた、オリヴァーを傷つけるために使用される。
オリヴァーの身体を拘束し、さらにベルトで縛り上げて腕をテーブルへと固定する。
今回確認することは、彼の身体は切断を受け入れるのか。身体の切断は、彼を死に至らしめるのか。
ノアは工具をとりだしてから電源のコードをつなぎ、そうして手元のスイッチをいれる。
キィィンと甲高い音を響かせ回転をするグラインダー、その動きを確認する視線は冷たさに満ちていた。
円形部分が刃物であり、金属の切断すらも可能にする道具だ。
「痛そうだねぇ」
オリヴァーの当たり前の言葉に、ノアから肩の力が少しばかり力が抜ける。
そして拘束具の上からオリヴァーの腕を抑えつけ、グラインダーを握り込む。
甲高い音が響き、目を反らしたい現実を前に逡巡する。
しかし、もう、選んだのだ。
今更止まることなど出来るわけがない。
自殺痕がまざまざと残る手首に刃を近づけ、そうしてさらに突き付けるように力をこめる。オリヴァーに残る傷痕は、ほぼ自身が刻み込んだもの。しかしその自殺痕だけは、ノアが知らぬ傷痕だ。
「っ 、あ 、あ 、ぐぁ...!」
齎される痛みに、自然とオリヴァーの喉から悲鳴が漏れる。
刃が、肉をえぐるたびに全身が震えた。
拘束具がみしみしと音をたてる。
拒絶をしようと、逃げ出そうと反応を示す身体を、身を引くオリヴァーの身体を、ノアはぐっと抑えつける。
感じ取る震えはどちらのものであろうと構わない。ただ、目的を遂行するまでは止まることなど許されていない。震えていようとも、振り上げた腕を下ろすことなど選べるわけがない。もう痛みは、始まってしまっているのだから。
「あ あ あ ぁ !!!」
回転する刃が肉を裂き、血をまき散らせた。
骨を砕くこともなく、両断するかのごとく刃が差し込まれる。
血管を千切り、肉を引き裂き、骨すらも両断する。
それなのに、刃が通った後に、皮膚がすぐさま再生する。
ぐずぐずと崩れたはずの肉も、両断されたはずの骨も、断面を一瞬だけ覗かせるというのに、次の瞬間には再生をしていく
「ひがぁぁっ!!」
痛みだけは彼の身体にもたらしているというのに。
断面からずくずくとした肉が零れ落ち、血をしたたらせているというのに。
それなのに、彼の腕は拘束具に繋がれたまま指先までが、繋がっている。
確かにその瞳に、皮膚を切り裂き、骨すらも断った感触が残っているというのに。
血に塗れることを選んだ身体は、その罪を浴びているというのに。
それなのに、傷はそこに無い。
「っ...、ぁ...、ぅ...」
額に珠の汗を滲ませて、痛みを身体に刻み込まれて、彼は受け入れていたというのに。
それなのに、そこに。
____死はない
確かに切断を行ったはずのグラインダーを手にもったまま、ノアはオリヴァーを抑えつけていた腕から力を抜いた。
オリヴァーは拘束されながら背中を震わせ、額にたまの汗をうかべた状態で大きな呼吸を繰り返していた。
「っ、ははっ...はっ、...、どう、するぅ...?
もうちょっと、いっとく...??」
悲鳴をほとばしらせていた喉はかすれ、ゆっくりと声が紡がれる。
皮肉染みた笑みは相変わらずだ。
その笑みを向けられて、ノアは顔の色を失ったまま項垂れる。
「......、ご、めん」
「そう、じゃぁ、おめでとう...
今日も、しっぱいだ...」
「...、う...、ん...」
電源をおとしてから、グラインダーを投げ出す。
切断が可能であれば、徐々に四肢を欠落させることが可能であれば…
しかしその方法としての、手首からの切断は不可能に終わる。
オリヴァーの身体は致命傷の傷を受け入れない。
否、受け入れた後に無かったことにする。
そこに残るのは確かな痛みと、そうしてノアの手にもまた反動を残す。
失敗だと笑ってからのち、オリヴァーは拘束を受けたまま項垂れ、瞳を閉じる。
聞こえる呼吸音からただ気絶しただけだと悟り、安心をしてしまう事実にまた辟易する。
ああ、これで何回目___
カルテに結果を印しながら、ノアは項垂れる他ない。
部屋に、血の匂いが充満していた 。
今から行くと連絡をいれて、しかしノアからの返事を待たずにリアムはまたノアの家へと足を向けてしまっていた。
携帯の確認をし、返事がないことを視認してから玄関の前で立ち止まる。
毒のように広がる感情は際限がなく、気持ちは落ちていくばかりだ。
返事を待つべきだと思うのに、だからこそ扉を開くことが出来ないでいるのに、引き返すことも出来ない。
何をしているのだと、確認をしたい。
だが、言葉が形を得ない。
得ない限りに毒は晴れず、待てども答えはない。
そうして、日に日に血の匂いは強くなる。
携帯を見つめていても返事は来ず、やはり、今日は帰ろうと踵を返す。
あの日と同じく内側から扉が開いたのは、その時だった。
「...、君、は」
「...。
やぁ、せんせ」
姿を見せたのはノアではなく、オリヴァー。
先日見かけたときよりも傷が増え、更に痛々しい姿を晒している。
ノアと結び付けてしまった血の匂いは、やはりオリヴァーからも漂っていた。
「今日は失礼するから安心してねぇ」
「君は...ノアくんと、何をしているんだ」
「何って」
「...、今の、ノアくんは」
「知らない先輩だってぇ?」
「!」
知らない、その言葉にリアムは瞠目する。
否定することが出来ずに言葉を探し、しかし形にならずに喉を震わせる。
そう、知らないのだ。
お互いの事は全て打ち明けて、全てを知っているのだと思っていた。
幼馴染として長い時間を共に過ごし、まるで兄弟のように寄り添い、そして互いの痛みも共有してきた。
なのに、今はノアが分からない。
謝罪だけを繰り返すノアに、拒否の意図を感じる。
そのたびに、言葉が形を得ない。
「ほぉんと...きもっちわるいなぁ
彼に聞けばいいでしょぉ?」
「...、それは」
「教えてくれないから僕に聞いてみた?
それこそ、僕には関係ないよねぇ」
「だが、君とノアくんが...、話している、のは…間違いは」
「それでぇ?」
胡乱気に笑うオリヴァーは、リアムを見上げながらまるで試すように言葉を待つ。
ノアとオリヴァーが話しているのは間違いない、そう、ただそれだけのことだ。
2人が話す内容を問いただすことなど出来はしない。2人は学校の先輩と後輩で、今もリアムとは違うところで関係を構築している。そんな事実は分かっている。
だが、靄が晴れない。
「君はさぁ、自分が思っている以上に彼の事を知らない。
何でも知っているとでも思ったぁ?」
「っ...、そんな、ことは」
「どっちに対する、そんなこと?」
「.........」
何でも知っていると思っていたことなのか。
ノアのことを知らないということなのか
どちらという質問にすら、リアムは言葉を持たなかった。
言葉にすることで認めることを、ただ、拒んだ。認めたくなど、なかった。
「ほぉんと、ねぇ、ははっ。どっちにしたって僕には関係のないことだよぉ。
気になるなら彼に聞けばいい。そうでしょぉ?
僕は、彼の気持ちも、君の気持ちも分からないからさぁ。
じゃーね、せんせ。今日は失礼するよ」
オリヴァーを否定する言葉もリアムは持ちあわせず、ましてや引き止める言葉もなく、背中を見せて去っていくオリヴァーを見送るしかなかった。
その動きにはどこか違和感があり、足を引きずっていることも感じさせる。
風が運ぶ血の匂いも、医者としては放置すべきではないと分かっている。
だが、言葉にならなかった。
引き止めることも、出来なかった。
心の中に広がる毒がリアムの手を引き、その場に縛り付ける。
問いかける言葉は、ノアへ向けられる。
何故、___、と
第3話:
死に向かう生活の中における日常。
オリヴァーにとっては過ぎ去っていく日常を拒否する理由もなく、かといって行う理由もなく。いつやめてもいいと思いながら、しかし惰性のままに何となく続いていた延長線上の日常。
自室に帰り、眠り、適度に仕事を行う。
運転が出来なくなったらその時に考えるか、その程度ものでしかない。
納品業務などの荷運びは少々問題が出てきたので、小さなものの運搬だけを仕事としていた。
結果として主に少量の薬などの取引に限定され、行動も制限される。
それで十分だった。
オリヴァーにとって日常は別に守るべきものではなかった。
いつ無くなってもいいもの。
しかし続いていく日常を拒否する理由もなく、ただ何となく惰性に続けていた。
例えば空腹で死ぬことが出来るのであれば、日常を放棄してもいい。
しかし身体に飢餓は訪れるのに、それは紛れもなく苦痛をオリヴァーにもたらすのに、死に至ることは出来ない。
飢餓によって死ぬことを選ぶことが出来るのであれば、仕事も食も最初から求めるものなど何もない。
だが飢餓が齎すのは不快感や苦痛のみであり、死はない。
ならば惰性の中で衣食住の確保は行っておこう、最低限、苦痛がないように。
ただそれだけの理由で繰り返される日常は、オリヴァーの心を何も満たさない。
車で乗り付けて、そうして合図することもなく屋内へと足を踏み入れる。
薬の匂いに満ちた室内は薄暗く、陰鬱とした空気を漂わせていた。
足を踏み入れるごとに、床板が軋む。
木材の床は軽い足音を響かせながら、たまに悲鳴をあげていた。
「やっほぉ、国栖くん
納品と集金だよー、生きてるぅ?」
「その言葉、そのまま返してあげよう
随分と興味深いいで立ちじゃないか」
「心遣いどぉも」
ああ、気持ち悪いと互いに吐き捨ててから、さて取引だと仕切り直す。
闇の世界に生きる薬剤師と、運び屋を生業とするブローカー一派の一員。
互いの利害が一致する限りに相手はビジネスパートナーとなる。
金を生む流れを運ぶ一派。
薬が生む快楽を知り、闇の世界のパイプを担いながら金を生む、ただそれだけの集団。面白いものだと、国栖は鼻で笑った。
さて、しかし。国栖悠一にとって組織とのパイプ云々よりも、目の前の興味をそそるものの重要性が時に勝る。
興味深いと判断すれば、ただ、衝動のままに刃を手にする。
後にも先にも、自分のことも人のこともどうでもいい。
破滅的とすらとれる、衝動への直接的行動。
ただ興味深いと感じたから。
それ以外に、理由は必要ない。国栖悠一という男にとっては、己の衝動や興味を満たすことが、時に何よりも優先される。
金銭のやり取りをするために国栖に向かって差し出されたオリヴァーの右手。
金を渡すではなく、国栖は差し出された右手へと掴みかかる。
「っ!?」
容易く握り込める腕を力のままに自身の方へと引き寄せ、そうして右足を持ち上げ横から衝撃を叩きこもうとする。
しかしそれを、オリヴァーが左腕にて遮った。
「ったくさぁ、ほーんと、だるい」
「無理はしないほうがいいのではないかな、怪我人は」
「誰のせーだと思ってんのさぁ」
右足を遮った左腕は、即座にオリヴァーが身に着ける腰の鞄へと伸ばされた。
手早い動きでとりだされたソレを国栖が視認する間もなく、国栖の目の前にはスプレーが吹き付けられる
目を塞ぐ間などあるわけがなく、瞳にはじわりとひきつる痛みが襲う。
「っ 、あ ...!」
こみ上げる痛みに目頭を押さえ、しかし握り込んだ右手は離さず踏みとどまる。
舌打ちが一つ。
吹き付けられたものが催涙スプレーであると判断し、しかし、至近距離であるからこそこれ以上噴射を行えばオリヴァー自身も被害を受ける。
故に追撃はないと判断し、国栖は開かぬ双眸のまま右手をオリヴァーの方向へと伸ばす
「ぅあ!」
「少し、付き合ってもらおうじゃないかっ!」
首を掴んだと判断してすぐに、オリヴァーの右手を掴んでいた自身の左手を解放し、両腕でもってオリヴァーの首を絞めつける。
もがく足を払いのけ、吹き付けられた痛みを押し付けるかのように、オリヴァーの身体を抑え込むようにして床へと押し倒した。
「あ、がぅぁ...!!」
「...っ、はぁ...っ」
国栖の瞳には痛みが走り抜け、また喉にも焼けるような痛みがあった。
その痛みの鬱憤を押し付けるかのように、オリヴァーの身体にのしかかり、晴れない視界のままギリギリと両腕に力を籠める。
「残念だよ、その苦しむ姿が見えないのはねぇ」
配慮などを行うわけもなく、後頭部を力のまま打ち付けるように地面に倒した。
その衝撃はオリヴァーの全身を襲い、頭や背中は痛みを覚えていることだろう。
さらに首を絞められ、しかし痛みから逃れるにも国栖が体重をかけて身体を抑え込むことからもがいたところで抜け出すことは出来ない。
必死に抵抗を示すオリヴァーはもがくように腕を振りまわし、もう一度スプレーへと手を掛けた。その様子は視界を閉ざす国栖が視認することは出来ない。
押し倒されている以上、オリヴァー自身へと降りかかることとなる。
しかし躊躇することなく、スプレーへと手を掛けた。
「___!!」
今度のけぞり悲鳴を上げたのは、国栖だった。
双眸が閉じられている限りに、反撃を視界におさめることは出来ない。
顔面へと吹き付けられたスプレーが目を焼き、喉を焼く。
「ぁぁあ!!」
焼けるような痛みに喉が震え、痛みを覚える瞳を抑え込む国栖。
オリヴァーを締め付けていた両腕を解放せざるを得なくなる。
「っ、げほっ...、っ、!」
解放されたオリヴァーはせき込みながら、痛みを覚えながら、オリヴァーは国栖の拘束から抜け出そうともがく。
催涙スプレーの影響は自身にも多少なりとも及んでおり、生理的な涙がボロボロと零れ落ちていた。軽く焼けた喉と、締め付けられたことによって咳が込み上げる。締め付けられた喉はひゅーひゅーと音をたてるが、しかし構う事は出来ない。
痛みに喘ぎもだえ苦しむ国栖を押しのけてから、腰の鞄へと手を伸ばす。
距離を取るにもまず国栖から身動きを封じなければならない。
ナイフを手に取り左手に構える。
その折に、オリヴァーを襲ったのは衝撃だ。
「っづぁ、ぐっ」
闇雲に振り回された国栖の腕が側頭部を殴りつけ、起き上がろうとしていた身体はまたしも床へと倒されることになる。闇雲に繰り出される国栖の腕を躱すことが出来ない。
見えている分にはオリヴァーに分があるものの、純粋な腕力差が立ちはだかり、そうして元々の負傷がオリヴァーの足を引っ張っていた。
背中を打ち付けた際に身体を走り抜けた痛みに顔をしかめながら、動けと体を叱咤する。
後頭部を、側頭部を、そうして揺さぶられる脳は正常に働かず立ち上がることがままならない。
闇雲に、無遠慮に、国栖はオリヴァーにつかみかかる。
そうして掴みかかることで位置を確認し、痛みを押し付けるかのようにして、今度は腹部へと膝をたたき込む。
「あ 、ぐぅあっ!?」
「やって、くれたよねぇ...っ!!」
「ぁがぁっ!!」
見えないままに、何度も繰り返される行動。
床に倒れ伏したオリヴァーの腹部を、国栖は繰り返し繰り返し蹴り続けた。
ボキリと、身体に音が響く。
更に続けてボキリと、身体を音が襲う。
握り込んだナイフを手放し、身体を丸く抱き込んで腹部をかばうオリヴァー。
背中は震え、粗い呼吸の中でただ咳込む。
音をたよりに投げ出されたナイフを拾い上げた国栖は、一度左手でもってオリヴァーの足を抑え込む。
位置を確認して後ナイフを頭上高く振り上げ、一切の躊躇なく、一切の加減なく、オリヴァーの足に向かって振り下ろす!
「ぃっ、ぁ ぁ ぁ あ あ あ あ あ !?!」
「っ、ははっ、はははっ」
「ひぎぅ!?あ、ぅ がっ!」
何度も、何度も。
そのたびに肉を裂き、
そのたびに肉をえぐり、
時に骨を砕き、血でぬめり、ナイフをおとすまで何度も何度も繰り返される。
ずたずたになった皮膚はめくれあがり、形を成さない。
引き裂かれた肉からはずくずくと血が滲みだしていた。
赤黒い血が広がり、国栖の白衣を赤く染めていく。
じゅぶりと、血が泡立つ。
しみ出した肉片が油となり、ナイフを持つ手を滑らせた。
反動で国栖の掌もまた、皮がめくり上げ、自身のものかオリヴァーのものか分からない血で塗れていた。
しかし視認をすることも出来ず、双眸を襲う痛みとこみ上げる怒りが手の痛みをかき消していた。
「っ、はっ、...はぁ...っ。...、...」
抵抗は消え去り、ぐったりとして動きのなくなったオリヴァーの身体。
国栖は足を抑えつけることを止め、指先で辿りながら感覚でもって腕を探す。
投げ出された腕と、そこから手の平を探し、今一度腕で抑えつける。
軋みのある古い建物だと馬鹿にしたこともあったが、今この瞬間だけは床の材質に感謝を示そう。
そんなくだらない思考がよぎって、口角を吊り上げてから、
国栖はナイフを握った腕を高く振り上げた。
手の平のナイフがオリヴァーを床に縫い止める。
痛みが体中を駆け巡り、オリヴァーの視界は判然としない。霞がかった視界が、室内を染める赤をかろうじて捉える。全身が痛みを訴えていて、しかしその事実にだって乾いた笑いしか浮かんでこない。
ああ、どうせ治るのだ。
いつ治るのだろう。
痛みによってまとまらない思考の中、オリヴァーぼやける視界を手の平へと向ける。
それは、先日ノアに自身を傷つける様にと仕向けて、自ら手のひらを突き立てた傷口へと重なっていた。
傷の上から受けた、傷。
それが、治れば ___
「...っ、...ぁ...」
それが、治ってしまえば ...
その先の思考に気が付いて、オリヴァーは唇を噛みしめる。
折角手繰り寄せた死が、また、遠のいた。
本当に傷が治るかどうかは、まだ確認をしていない。
だがこれまでの人生の中で再三突き付けられた絶望を前にして、今更希望的観測など持てるわけなどなく。どうせ治るのだろうと、どこかで分かっていた。
額を床にこすりつけて、行き場のない感情をただただ押し付ける。
早く殺せと願うのに。
この身体は死を享受しない。
もう終われと、ただ願うのに、終わることが許されない。
痛みでボロボロになった四肢は簡単には動かず、また手を縫い止められている故に身じろぎも容易いものではなかった。
重たく鉛がのしかかったような感覚に、オリヴァーはただ這いつくばることしか許されてはいなかった。
そのままどれぐらいの時間が過ぎたのだろう。
痛みを忘れる程度の時間、その静寂を打ち破ったのは緩やかな足音だった。
オリヴァーのすぐそばまで近づく気配がある。
緩慢な動作で分かりきっているとは思いながらも視線を向ければ、見上げた先には相も変わらずの風体の国栖がいた。
視線だけを動かしていたオリヴァーの髪の毛を鷲掴み、無理やりに頭を持ち上げさせる国栖。
そうしてじろりと、身体を観察した。
砕いたあばらはどうなっているのか視認だけでは確認できない。
だがずたずたに引き裂いた足は大きな外傷が消えている。
細い筋のような切り傷だけが残ったような状況、数時間前の怪我が消えるなどという現状はあり得ないと断じることが出来る。
「へぇ、本当に治るのだねぇ
人ではありえない回復力、その手もナイフを抜けばたちまちに治るのかなぁ」
「...さぁねぇ、抜いてくれるぅ?」
「その前に、暴れられても迷惑だ
もう少し付き合ってもらわなきゃ困るからねぇ」
「さいっあく」
「愉しもうじゃないか」
国栖が目元を赤くしているあたりに、少しだけ優越感を感じてオリヴァーは笑う。
オリヴァーが気を失っている間に、顔でも洗っていたのだろうか。
催涙スプレーによる影響を滲ませたままの国栖を笑うことで精神を落ち着け、そうして行われる拘束に対しては唾を吐きつける。
物のように雑に扱われ、尊厳など守られるわけもない。
手足と首にそれぞれ拘束を受け、その状態で薬局の奥へと引きずられていく。
縫い止めていたナイフは抜かれ、刃には赤い煌きが残る。
止血など施されるわけもなく、傷口から赤黒い血をしたたらせたまま、血痕をそこかしこに刻んでいく。
しかしいつしか勝手に血は止まることを事実としてオリヴァーは知っている。
完全に断たれていたはずの肉は、もう穴を覗かせない。
実験室宜しく、薬品が立ち並び、陰鬱な空気を醸し出す場所に引きずるように連れてこられ、そうしてそのままベッドに身体を放り投げられる。
そのうえで国栖はオリヴァーの拘束具とベッドを括り付けた。
「重装備にするものだねぇ。
反撃が怖いのかなぁ?」
「随分と安い挑発だ
暴れられても面倒だからねぇ、そういうことでも構わないよ」
「反射はあるかもねぇ、ははっ、さっきの痛かったし仕方ないよね。
保険って大事だと思うんだ、さっすが国栖くん」
「最初は喉にしておくかい?」
「いいよぉ」
メスを喉元に突き付けられても、オリヴァーは調子を崩すことはなかった。
齎されるものは、痛みだけだ。
痛み以外のものは何も自身に与えられない。
寧ろ、殺せるものなら殺してみろと。
殺してくれと、願う程なのだ。
「ああ、じゃあ、望みどおりに」
「___っ!?!」
そうして国栖は躊躇なく、メスでもってオリヴァーの喉笛を引き裂いた。
ヒュゥとオリヴァーの喉が鳴る。
痛みによって齎される熱が瞬時に身体を焼いた。
反射で動こうとする身体は、しかし厳重な拘束によって抑えつけられている。
ギリギリと鎖が軋んだ。
メスによって切り裂かれた表皮と、断ち切られた血管から血が溢れだしていた。
喉笛は傷以上に血が溢れ出る。
どくりどくりと流れ出す血は、たちまちに周囲を赤く染め上げた。
「それじゃあ、時間を測ってみよう。
どれぐらいで回復するのかを」
「ひゅ...!ぁ...!」
喉の震えは声にはならない。
どくどくと熱が溢れ出てくるのを、ただ、身体から力が失われていくのを感じる。
国栖は、切り裂いた喉笛から血が溢れ出てくる様をただ眺めていた。
処置の方法は分かる。
だが行う理由もなく、その必要も感じられない。
ぱっくりと引き裂かれた喉笛からは血が溢れだしていた。
しかし、それは緩やかに傷口を小さくしていく。
いつしか流れ出る血は止まり、回復の様子を早送りで見せられているような光景だった。
「っ、げほっ...、ぅあ...」
喉元にまだ血を滲ませる傷口は晒しているものの、しかし、それは深い切り傷と言ってしまえばそれで済むような、そんな様相を晒していた。
計測した時間を書き記し、さてと立ち上がってから国栖は器具へと手を伸ばす。
「痛みはあるのだねぇ」
「...っさいなぁ...」
「いっそ痛みすら感じないのであれば、何を行っても一緒だっただろうに
難儀なものだ」
どこか声を弾ませながら、国栖は言葉を紡ぐ。
オリヴァーはこめかみを揺らしながら、しかし今は痛みで自由に言葉を紡ぐ事も許されない。
「人は本来、死の痛みも、死に至る痛みも記憶しない。出来はしない。
しかし君はそれを感じることが出来る。
よかったねぇ?」
「はっ...、分けて...、あげるほーほーが、...、ぅげほっ...
あればよかったのに、ねぇ」
「調べさせてもらえれば十分かなぁ
さぁて...痛みでの気絶と麻酔の関係も調べたいところなのだけれど。
先に一つ行っておこうか」
どんな医療器具を取りだすのかと思えば、国栖が手にしていたのは銀のスプーンだった。
試すような笑みを浮かべ、少しばかり上機嫌とすらとれる国栖の様子。
オリヴァーは背筋を走り抜ける悪寒を感じ、ぐっと喉に力を入れた。
もう自身の身体に、喉に、痛みは感じられない。
「そうそう、デイビス先生が不安げにしていたよ」
「...、何のこと」
「世話話をする機会があったものでね。
そして、何やら君たちが面白そうなことをしているのではないか考えたわけさ。君の話を全く別の筋から聞くこともあった、試してみる価値はあったようだよ」
「ああ、そう」
「デイビス先生はただ赤毛の探偵のことを気にかけ、君を気にかけていた。
そこに含まれる感情は何だろうねぇ」
「知りたくもないね。何を考え、何を気遣い、そんなことはどうでもいい。
ただ僕にとっては、悪意としか思えない。
それだけのことさぁ」
人柄について知れば、真意を知れば、そんなことはどうでもいい。
気遣いだった、心配をしていた。そんなこともどうでもいい。
オリヴァーにとって、どんな結果を齎されたのか。
それが今国栖に拘束をされ、好奇心と興味という傍若無人さで暴かれていく結果であり、そうして、オリヴァーが歩む今後の道に何の関与も出来はしないのだ。
何も知りはしないのだから。
無知故に繰り返される罪は、受け取るオリヴァーにとっては悪意となる。
「君はいつでも愉しそうだねぇ、国栖くん」
「ああ、おかげさまだ、感謝をするよ」
「反吐が出るよ」
「喜ばしいことだ」
喉の傷は姿を消した。
痛みはなく、その痕すらももう残ってはいない。
国栖はそのことを確認してから、首に手を添える。
「さっき、首を折ろうとしたのだけれどね」
「...ああ、そう」
国栖は空いた手でオリヴァーの首につかみかかり、ぐっと力を入れる。
細くなる気道は呼吸を阻む。
「折れるのだけれどねぇ、君の首なんて容易そうなのに出来なかった
どうやら、力に対する反動もあるようだ。不可思議な体だ」
「っあ 、ぐぅ...!げほっ...!」
体重をかけるように圧を加えてから、何もなかったかのように手を離す
瞬間気道を通り抜ける酸素に、オリヴァーは噎せ返った
喉を鳴らすのは今日一日だけでも何度目だろうか。
「では、こちらを試そう」
「っ、...っ...、はぁ...。悪趣味...」
「光栄だよ」
銀のスプーンがオリヴァーの眼前に示される。
何を、とは聞かないでも予想が出来た。
温度をもたない銀のスプーンは、肌にふれるとひやりとした感触を伝える。
まぶたに添えられてから、ぐっと押し付けられる。
塞がれていない瞳で愉しそうにする国栖を見て、顔を引きつらせながらも、どこか諦め、そうして辟易していた。
どうなったっていい。
ただ、痛みは身体を襲う。
いっそ死ぬことが出来たのなら、この苦しみからも解放されるのにと。
死ぬことを、解放を、オリヴァーは願わずにはいられない。
眼球と瞼の間に、つるりとスプーンが差し込まれた。
「ひぃぎぁっ!!」
くりゅ、ぐりゅ、ぐるゅ。
眼球をなぞるように瞼の下でスプーンが動く。
「ぁぎあぁ!?!」
じゅくり、じゅくりと濡れた音が響いた。
瞼の下で動く異物は強烈な痛みを身体に与える。
反射的に動く身体は鎖によって拘束をされている。
もう国栖の表情を仰ぎ見る余裕などオリヴァーにはなく、走り抜ける痛みにただ悲鳴を上げ続けることしか出来ない
「も...っ!、あ、ぎぁっ
ゃ...めろぉ、あ 、がっ!!」
「滑稽だねぇ」
更に奥へと、無機質な温度が瞳を暴く。
眼球がつるりと揺れた。
第4話:
ノアとオリヴァーの間で行われていた定期的な実験が行われなくなって数日が経つ。定期的にノアのもとを訪れていたオリヴァーが姿を見せなくなり、そうして連絡も何も入りはしない。
何かあったのだろうかとノアは思案して、しかし、いっそ実験など行われないほうがいいのかもしれないと思って立ち止まり、悩みばかりを繰り返し、しかしその中で一切姿を見せないことに募る疑問符が心を苛んでいた。
連絡先は交換をしている。
そうして、空白の時間に連絡を行ってもいた。
だが、ついぞ返事は返ってこないまま日々だけが過ぎていく。
ノアは携帯を見つめながら、ただため息を零した。
心配事があるのかと気遣いをし、ここ数日何度も声をかけてくるリアムには気を使わせてしまいただ申し訳なく思ってしまう。
説明をすることも出来ず、何でもないと笑って返すだけ。
一縷の望みをかけて、通話ボタンを押す。
響くコール音を聞きながら、今日もダメかと肩を落とし、通話をきろうとした。
その時に、コール音が鳴り止んだことを耳に留める。
「え...?」
『その反応はどうなのだろうねぇ』
「...っ!?その、声」
表示をされている名前はオリヴァーに間違いはなかった。
しかし、通話の向こう側から聞こえた声はオリヴァーのものではなく…
そうしてノアにとって忘れることも、意識をしないことも出来ない存在の声だった。
「国栖...悠一...!?なんで」
『へぇ。声で認識できるとはねぇ。光栄だよ。赤髪の探偵くん
彼にはしばらく実験に付き合ってもらっていてねぇ
でも、そうだね、そろそろいいかな。迎えに来てみるかい?』
「実験、迎え...って、まさかっ」
『君にそれが出来るかな?』
____プツッ
返事を待つこともなく、そのまま通話は途切れてしまう。
そうしてしばらくの間、何も出来ずノアはただ携帯を凝視していた。何か分かるわけでもないと分かりながら、しかし目を離せずにいた。
何の義理があるのだろう。
何をすべきなのだろう。
疑問符は確かに浮かぶ。
国栖の目的も分からず、そうして国栖の意のままに動かされるということには嫌悪感ばかりが募る。
自分は行動を起こすべきなのだろうか、そう考えてしまうことに嫌気がさす。
べきだとか、リスクとか、そんなことを考えて。
過去に囚われて、そうして、結局何を成したいのか。
雁字搦めの現実が、ノアの足を留める。
「どうして...」
どうして、こうなってしまったのだろう。
...、急いだところで何も変わりはしないことは分かる。
死ぬことが出来ないオリヴァー、国栖が実験というからには、何らかの『コト』が行われている。
死ぬことの出来ないオリヴァーの不可思議な体を調べているのかもしれない。
もしかしたら、国栖の行為はオリヴァーを望む死に近づけている可能性だってあるのでは?
考えて、しかしノアは首を振る。
実験を行うことによって死に近づくことが出来るのであれば、オリヴァーは最初からノアのもとになどやってこない。
数奇な運命だと言葉にしてしまえば容易く、しかしそんな容易さで受け入れられるものでもない。
「どう、すれば...」
どうすればいいと言葉にしても、虚空から返事などは生まれない。
頭を抱えて、項垂れて。
ああ、そうして
...結局のところ、選ぶほか...道はない _____
零れ落ちるのは深い、深いため息。
何度目か分からない、何度目か数えたくもなく、そうして理解したくもない。
立ち上がろうとして、またため息になる。
顔を上げて、しかし重たい腰を上げることが出来ずに項垂れる。
動けない。
葛藤のただ中で、ノアはただただ頭を抱えていた。
オリヴァーと自分の関係を何と称せばいいのか分からない。
ただ、責任があると考えていた
彼の生に、彼の死に、己は責任がある、...と。
過去、自分と同じ時代に生き、そうして錯綜する思いの中で、彼の大切なものを奪うきっかけを作り出してしまった。記憶がその事実をノアに突き付ける。記憶だけが巡る過去を証明する方法などありはせず、これまでにオリヴァーと明確な言葉で過去について語ったことなどはない。だが、事実であるとどこかで確信がある。その感覚を言葉にすることなど出来はしないけれど、記憶を疑うことが出来ない。
数奇なめぐりあわせの中で生きていることなど理解していた、その運命に対して何度歯噛みしたかなど分からない。
過去において彼から大切なものを奪い、しかし結果的には報復も受け、過去の蟠りについて今更言及することもなかった。
後ろめたさはある。
だからといって、義理はない。
生前のことを記憶があるからといって、互いに何かを求めているわけではないのは、探り合いの会話から理解している。記憶を証明することを、ノアはオリヴァーに求めてはいない。そしてオリヴァーも、ノアに対して死を与える以外の過去に関する『何か』を求めて等いないことはこれまでの会話で察している。
だからこそ、...義理はない。
ただ、関係ないことだと、義理などないのだと心が割り切ることを許さない。
オリヴァーが人生に活路を見いだせず、絶望する意図を理解してしまうからこそ、きっと、それを一番理解できるのは己であると考えてしまうからこそ。
ノアは割り切ることが出来ない、見捨てる事なんて選べない。
過去を切り捨てたところで、同じ絶望があったところで、それでもノアには親友という光がある。これまでに感じ続けた痛みや悲しみを前にしても、生を選ぼうと思える糸のような光に縋って、自分は笑うことが出来る。
では、彼は?
彼はまた生まれ変わった生の中でも過去と同じ様に、たった一つの光を失って
そうして追いかけることを、死ぬことすらも奪われているのだ。
そこに生まれた一縷の光、死を与えることが出来るというノアの存在。
己に出来ることを成さなければならないという事実がノアに義務感を、責任があると心が突き付けてくる。
「オリヴァー、くん...」
義理はない。
だが、見捨てる事を選べない。
選ぶことが出来ないというのに、足は動かない。
国栖悠一___
彼もまた、過去においてしがらみを持つ相手だ。
自身やオリヴァーと違って記憶は持ち合わせていないようにこれまで中止した結果判断を下しているが、だからといって関わることは避けたい人物だ。
過去における国栖を知っている故に注視し、警戒を行う。
だからこそ、ある程度の情報を仕入れてはいた。今の距離感を保ち、危険があれば即時手を打つ。それが国栖悠一に対抗する手段であると心得、なるべく相対することは避けていた
悪逆非道を快楽とする相いれることなど出来ない存在。
相対することによって己に、ひいては周囲に及ぼす被害を鑑みる。
オリヴァーに対して義理はないと何度も思考の中で繰り返す。
自身と、自身の身の回りのことを考えるのならば、オリヴァーを切り捨てたところで構わないはずだ。
彼は死なない。
実験と称した行動の中で痛みだけを与えられて、何度も治って、そうして国栖に弄ばれているのかもしれない。
それでも、彼に死はない。
国栖が飽きるまで責め苦が続いたところで、それでも彼は死なない。
死ぬことが出来ない。
失うものは何もない。
いいだろう、いいはずだ。自分自身にいい聞かせるように何度も何度も脳内で繰り返す。
それでも、ノアの中の葛藤は消えない。
「.........、くん...、ア...、くん」
オリヴァーの生に自分は何の関係がある。
死のない彼を助ける意味も、その義理もないはずだ。
たとえ国栖によって痛みを齎されていたとしても、それはオリヴァーと国栖の関係での話であり、自分には関係がない。
関係がない。
「...、なんで...」
「...ノアくん...?」
「...知らなければ...気が付かなければ、よかったのに...っ」
知らないままでいることが出来たのなら、葛藤すら必要がなかったのかもしれない。
それでも、オリヴァーの抱える運命も、オリヴァーが国栖のもとにいるということも、そして携帯電話に国栖が反応するという状況も知ってしまった。
迎えに来る、そんな言葉が表現するものを想像してしまった。
知ってしまった事実を、もう知らなかったことにすることは出来ない。
「ノアくん、どうした」
「...え...?」
「ノアくん?」
「っ、ぇ...、ぁ...、リアムくんっ」
リアムより声をかけられて、初めてノアは顔を上げた。
そして憔悴しきったノアの表情にリアムは虚を突かれる。隈が表情をくすませ、淀んだ色ばかりを感じさせる。
家に訪れても返事はなく、勝手知ったる家故に立ち入ってみれば項垂れて動かぬノアの姿。様子がおかしいと声をかけ、しかし声が届いていないのかノアはずっと俯いて唇を震わせるばかりだった。
「リアム、くん...。いつから?」
「少し前だ、声をかけてもずっと反応がなかったもので...、な
どうかしたのか、何かあったのか?」
「いや..っ」
言えるわけがない、とノアは唇を噛みしめる。
リアムを巻き込むわけにはいかない。
この葛藤の中に、この錯綜する状況の中にリアムを巻き込みたくない。
オリヴァーが親友を失うことで絶望をしたように、自身がリアムを失った場合など想像したくもない、その際にとる自分の行動が目に浮かぶ。
だからこそ、考えたくもない。
リアムを危険に近づけたくない。
自身の行動が彼に危険を及ぼすというのなら、それなら、ノアのとるべき行動、選ぶ行動は決まっている。
「何でも、ないっすよ」
「...。そんなわけないのだろう?
ノアくん、何か助けになることが出来るかもしれない
俺はそんなに頼りないか。話だけでも」
「だから、何もっ!」
言えるわけが、ない。
オリヴァーのことをどう説明する。
国栖悠一のことをどう説明する。
そして、自身のことをどう話す。
彼を巻き込みたくないのに、彼に悲しい顔をさせたくないのに。
それでも、話すべき内容など一つもない。
リアムに不信感を抱かせていることも、不安にさせていることも分かりながら、それでも、言えるわけがない。
他人の秘密を言えないから。
危険に巻き込みたくないから。
理由をこじつける様にして見つけることなんて沢山出来る。
出来るがそれは、すべて詭弁なのだ。
確かに理由の一つでありながら、しかし己の心にある最大のわだかまり。
自身の抱える闇を、リアムに知られたくない。
自身の抱える闇で、リアムを巻き込みたくない。
自身の抱える闇を披歴することで、リアムが抱く感情を想像したくない。
彼に呆れられれば、彼に見損なわれれば、それはもう。
まるで、人生の終わりのように思えた。
泥をかぶるのは自分だけでいたい。
彼は、彼のまま、記憶を持たぬまま、ただこの時代で綺麗に生きて欲しい。
身勝手な願いの押し付けだと心のどこかで感じながらも、結局ノアは何も行動することが出来ないでいる。
過去から引きずる重荷が、ノアに行動を許さない。
失いたくないという保身だとどこかで分かりながらも、選ぶことが出来ない。
「何も、なくて...
ちょっと仕事でうまくいかなくて、...それだけだから」
「...ノアくん」
「本当、何もないから!大丈夫、心配しないで、リアムくん」
眉間に皺を寄せるリアムにただ見つめられて、ノアは何でもないと笑ってみせた。
そうして、リアムの眉間の皺がより深く刻まれる。
「最近...」
「...、何?」
「最近、オリヴァーくんと何をしている?」
「っ...。え...、な、んで...?」
「...以前から彼は君の家を訪れていただろうか、頻繁に...
交友関係に口を出すべきではないと思ってはいるのだが...、彼の傷が...、気になってしまって」
何でもないよ。
久しぶりに会って、懐かしい学生時代の話をしているだけ。
そう言葉を紡げばいいだけのはずなのに、ノアの喉はあえぐ。
思考していることが言葉にならない。
ただ純粋に自身を気遣うことが伝わるリアムの視線に対して、返せる言葉が存在しない。
「ごめ、んなさい...」
「なぜ謝るんだ、ノアくん。
怪我をしているのならばきちんと医者が診たほうがいい、何か助けに」
「...関係、ないから...!!」
「ノアくん?」
「そんなこと分かっている、でも、...!
でも、リアムくんには関係ないからっ!」
蹲っていた体制から、ノアは立ち上がる。
膝をついて顔を覗き込むようにして向かいあっていたリアムを見下ろすようになり、そしてリアムの瞳は驚愕に揺れていた。
喉を震わせながら、ノアは口を堅く結ぶ。
しばしの間。
そしてノアは覚悟を決めたように表情に力を入れた。
深い色の瞳を揺らしながら、リアムと相対する。
「オリヴァーくんには、ちょっと調べものに付き合ってもらっていて
それはリアムくんには関係のないことだ、から...っ」
「何か危険なことをしているのではないか、君たちからは血の匂いが...!」
「それが何だっていうんすか」
「何、...とは」
「僕たちには色々ある、それだけ。
...、仕事、しなきゃいけないから...悪いけど」
「っ、ノアくん!」
「...っ、......行ってきます」
「ノアくん!」
リアムの言葉を振り払うように、ノアはそのまま家を飛び出す。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
謝罪を繰り返し、それを振り払うように走る。
呼び止めるリアムを振り返ることは出来なかった。
きっと追いかけてくることは、ないだろう。長い付き合いだからこそ分かる事実に、それでも、振り返ることが出来ずにただ走り抜ける
目的地は決まっていた。
国栖悠一。
もう、知らなかったころに戻ることは出来ない。
知ってしまった以上、己が果たすべき責任がある。
役割がある。
逃げることなど出来るわけがなかった。
所持品にナイフがあることを確認する。
警戒を強め、そうして、先に退路を確認する。
大きく一呼吸。
国栖悠一の薬局の扉を開け、まずもって鍵に仕掛けを施す。
いつでも開けることが出来るように、鍵を閉めることが出来ないように道具を挟み込んだ。
コツ、コツと鈍い足音がどうしたって響く。時折響く木材の軋みが、心臓を跳ねさせる。
床のきしむ音を最小限に抑えながら、ノアは足を進めた。
薬と、そうして血の匂いが鼻をつく。
ゴクリ...、と。唾を飲み込んだ。
「...、ほぉんとに来るんだから、君って本当馬鹿だよねぇ」
「え...っ?」
「まったくだ」
「ねぇ」
薬品棚の間のわずかなスペース
国栖とオリヴァーが和やかといっても差し支えないほどの空気で、殺伐と予想した様子とは違う状況で向かい合い座っていた。
ノアが来たことによって目を向け、光のない瞳を動かし、だらりとしながら顔を向ける。
オリヴァーの衣服には多量の血痕が見受けられたが、しかし、外傷は見受けられなかった。
「座りなよぉ、遥先輩
国栖くんが話あるんだってぇ」
「っ、そ、れは」
「実験結果を報告してあげようという施しさ。
黙って聞くといい」
「珈琲いれてあげよーか?」
「い、らないっす!
そんな場合じゃ」
「とって食われやしないし、むしろこれ僕が帰るための手段だからさぁ
きょーりょくしてくれるよね、せーんぱい」
「患者に結果を報告するのは医者の義務というだろう?」
「どの口が...!」
国栖に対して警戒し睨み付けるノアをしり目に、オリヴァーは飄々とした様子で立ち上がり、ざっくばらんに置かれていたビーカーに手を伸ばす。
何をするかと思いきや、周辺の実験器具でお湯を沸かしはじめ、サイフォンではなくフラスコに珈琲フィルターを設置した。
珍妙な光景に、疑問は募る。
「では実験結果を報告しようか」
「っ、話なんて...!」
「患者を引き取りにきたのだろう?
義務を果たしたらどうなのかな
まず眼球を摘出した際だけれど」
「っ!?」
「瞼から硝子体に対してスプーンを差し込んでね、皮膚を、血管を無理やりに引きちぎって摘出をしてみてね」
「な、っ、ぇ、...」
「案外綺麗にとれるものでねぇ
手に取って虹彩を覗き込み、あぁ...いい色だったよ
なかなか見物だった。
もう一度取り外してみてもいいけれど、興味は如何かな?」
「あるわけないじゃないっすか...!!
何をふざけっ」
「はぁい、珈琲」
虚を突かれたままノアは立ちすくみ国栖と向かい合っていたが、気に留めることもなくコーヒーを 3人分、3つのビーカーそれぞれに入れてきたオリヴァーはまたテーブルにつく。
そうしてオリヴァーはノアにもコーヒーを差し出し、座るようにと席をすすめた。
ノアは警戒しながらも少しばかり乱暴な手つきでイスに座り、視線を国栖に向ける
国栖のにやにやとした視線にコメカミが揺れた。
「ほんっと悪趣味だよねぇ、国栖くんって」
「中々いい虹彩だったからねぇ、光に掲げてすかすなど色々してみたけれど」
手元をひけらかす様にして、国栖は指先を動かす。
ノアは国栖を睨み付けつつもオリヴァーへと視線を向ける。
双眸には碧眼の瞳が確かに存在しており、眼球は失われてはいない。
「残念ながら 1日たてば眼球はとけてなくなり、そうして瞳は元に戻っている。視界は良好、残念な話だよ」
「まったくだねぇ、寝たら戻っちゃった」
「そんな、ふう、に...っ」
「次に出血量について確認しようと考えてね、ただ只管に血を抜いてみた。
ところが一定量で血は蒸発して、ただの黒ずみだけが残る」
その後もただ淡々と国栖は実験結果を読み上げていく。
オリヴァーは自分自身のことだというのに、こともなさげに相槌をうっていた。
国栖が話すたびに、その光景がノアの脳裏に浮かぶ。
眼球を摘出したこと。血を抜いたこと。飢餓の状態に晒されたこと。
四肢を切断し、その物理的に遮断したまま放置されたこと。
それでも今オリヴァーは五体満足で、平素と変わらぬ様子だ。
否、ノアによって蓄積された傷すら消え失せている。
「そうしてノアくん、いいや、Mr.ジャックローダー
君が刻んだという傷痕を全てなぞってみたのだけれど、面白いぐらいに綺麗に出来たよ、よかったじゃないか。
君が傷つけたという事実も、罪も、これで綺麗さっぱりだ。
感謝して欲しいものだねぇ?」
「っ...!!」
「血が蒸発せずに残るのであれば、ひたすらに献血を出来る慈善事業でも出来たかもしれないのに、恩恵を受けるのは自身だけ。
興味深かったのは痛みに喘ぐ悲鳴だけ。
もうそろそろ飽きたからね、返却のタイミングだろう」
「っ、お、まえ...はっ!!」
「飢餓に喘いで動けなくなったとしても、ただそれだけ。
四肢を切り取られて自由を奪われても、ただそれだけ。
翌日にはけろりとしている、面白くないよねぇ。
それに首を千切ってやろうかと思えば、折れないし、刃を受け入れなくなる。
メカニズムの解明すら許さないまま、痛みだけを享受する身体とはねぇ。
一体どんな罪を犯せばその興味深い身体を手に入れることが出来るのか。
君は知っているかい?彼の、罪を」
それはまるで反射のようだった。
抑えきれない感情が、そのまま行動に現れる。
拳を握り込んだまま耐え忍んでいた腕が、隠し持っていたナイフへと伸ばされた。
憤りが喉をつく。
許されないと、ナイフを握りしめる。
脳を焼ききるような衝動を抑えられない。
瞳を見開き、声にならない声を振り絞るようにしてナイフを振り上げ、そうして、振り下ろす。
視界を染めたのは、赤だった。
「だめだねぇ、せんぱーい。
ちゃぁんと傷つける先は選ばなきゃ、自分が大変だよぉ?」
「おり、ばー...くん」
「しまってくれるかなぁ?」
国栖をかばうようにして広げられたオリヴァーの腕が、ノアが振り上げたナイフを受け止めていた。
肌を滑った刃が皮膚を切り裂く。
傷が消え去っていたオリヴァーの身体に、深い赤が刻まれた。
ぼたりぼたりと鮮血が零れ落ちる。
「残念なことだ」
「ははっ、邪魔するに決まってるでしょぉ。
使えなくて何よりだよぉ」
「そうだねぇ?」
オリヴァーの背後にて、国栖は自身の手元でアイスピックをくるりと回転させた。
退屈そうに、しかし若干口元に笑みを浮かべながら。
くるりくるりと弄ぶようにして、アイスピックを回転させる
口元に浮かぶ笑みは挑発じみており、事実ノアは神経が揺さぶられるのを感じる。
「ああ、本当に君を傷つけるのはつまらない
どうして、の質問に君なりの答えを用意出来るかな?」
「っ...?ぇ...、何、が...」
「拷問を続けられた人間が狂い、意識を眠らせることがある。
時に痛みに対する感受性を鈍らせ、時に攻撃的になり、常軌を逸した行動に出る。
それは死を避けるための防衛反応であり、本来あるべき心を守るための死から意識を遠ざけるための手段だ。」
「...、...それが」
人は痛みを前にすると、心を変化させることがある。
痛みをありのままの痛みとして受け入れることに、心が耐えきれないがための防衛手段。時に痛みを感じる心を鈍らせ、時に痛みより勝る感情を生み出す。
心の死を避けるための眠り。
身体の死を遠ざけるための、防衛手段。
心を殺すことで痛みに耐え抜く、自衛を行う。
それは、身体を生かすための意志がどこかで働き、本来の心を守るための動作が、環境に応じて生まれるということである。
ただ少しでも痛みに対して耐え忍ぶがための生き残るための、ある種生理的な反応だった。生命の防衛反応であり、生存欲求に他ならない。
国栖はオリヴァーの背後でアイスピックを振り上げる
「っ、ま、って...!!」
ノアの制止を聞き入れるわけもなく、国栖はアイスピックを振り上げた。
気が付いていないわけではないだろうにオリヴァーはノアと国栖の間に立ちふさがったまま動かない。
そして、国栖の振り上げたアイスピックはオリヴァーの首元へと突き立てられた。
「っ、ぁっ、ぁがっ...!!」
「こうして何度痛みを与えても、しばらくたてば傷痕もなく、いたって普通に会話を繰り返す」
「や、やめっ...!」
「ぁ ぐぅっ...」
ノアのナイフを遮っていた腕でもって、オリヴァーは首元に突き立てられたアイスピックに手を伸ばす。
しかし国栖は露を払うかの如く動作でオリヴァーを退け、気にもとめない。
アイスピックの先端を皮膚へと差し込んで、皮を破る。肉を、貫く。
ぷつりとにじんだ赤を遮るように、徐々に力を加えていく。
ぐりゅり、ぐりゅりと鮮血を泡立てながら、
ぐじゅり、ぐじゅりと肉へとアイスピックを押し込んでいく。
与えられる痛みに悲鳴を上げ震えていたオリヴァーはついに膝をつき、項垂れ、首元に差し込まれたアイスピックに対してのけぞりながらもがく。
動け動くほどにアイスピックは肉をえぐり、深く差し込まれていく。
「痛みを身に受けて悲鳴をあげるのは反射だろうねぇ。
何を行っても真正面から痛みを受け入れるしかない。
しかし心は何も変わらない。
当然かなぁ?」
「やめ、やめろ...っ、何でっ」
「ひぎぅ、ぁ...っ!」
縋るようなオリヴァーの指先が、オリヴァー自身の首元に添えられる。
痛みから逃れるかのように、自身で喉をかきむしった結果、オリヴァーの首筋には赤い筋が刻まれていく。
押し込まれるアイスピックの先端は、皮膚を切り裂きじゅぶじゅぶと沈み込む。
じわり、じわりと、
喉元を確実にむしばんでいた。
「心はただ死を求めている、壊れきった心は己を守らない。
痛みを前に逃避する精神などすでに擦り切れていて、痛みに喘いだところで精神はこれ以上動かない。生存を望まないゆえに、防衛もせず、生存欲求による防衛行動など生まれはしない。これ以上の絶望など、感じはしない。
つまらないものだ」
「っ、ぁ 、や ...め ぇ...!」
「痛いのは嫌なのにねぇ?」
埋め込んだアイスピックをえぐるように動かせば、内側から皮膚が引きちぎられる。
内側から肉をえぐり、埋め込まれたアイスピックの先端が皮膚を突き破る。
ぶちり、という音と共に赤がノアの眼前に溢れた。
真っ赤に染まるオリヴァーの首元。
ひゅーひゅーとした呼吸が、ただ耳元へと届く。
「ははっ、君の表情のほうがよっぽど興がのるよ
いい表情だねぇ」
「...、ぁ...、お、り、ばー...、くん...っ」
「ぁ、、、...、は、...ぁ...」
「っ!!な、んで、こ、んなっ...」
ノアは握り込んでいたナイフを落とし、空いた手でオリヴァーの止血を試みる。
意味がないと知っている。すぐさま治ってしまうという事実を知っている。
それでも痛みに喘ぐ姿を見ていて、首筋から血を流す姿を目の当たりにして、どうして何もしないでいられるだろう。
「それが無駄であることは分かっているのだろう?」
「だからって!!」
「死を望む彼を手当てする、ねぇ?」
「何が望みとか、そういう、わけじゃ」
「死を望んでいる彼に対して、生きる道を示すことは絶望に他ならないのではないのかな」
「それとこれとは話が違う...!」
「本当に?」
「っ、...!」
止血を試みた首筋は、処置の結果を受けたわけではないだろうが、完全に血は止まっていた。
首筋を染め変えるほどに溢れ、零れ落ちる血はもうない。
広がった傷跡はどくりどくりと脈動を続けるも、しかし、血が零れることはなかった。
この結果を知っていた。
ノアが何も処置をしなかったところで、同じ結果になることを分かっていた。
死ぬことが出来ず、傷すらも残せない宿命を負ってしまったオリヴァーに傷を残せるのはノアだけ。
だからといって痛みを痛みのままにしておくことなど、選べはしない。
「彼は死を、死につながる痛みを望んでいる」
「...い、たいのは...好きじゃないけどぉ...?」
「痛みがなく死にたいとは、つまらないねぇ」
「ほぉんと君は悪趣味だねぇ...」
オリヴァーはゼェゼェと呼吸をしながら、か細い声を紡いだ。
「痛みがなければ死が訪れないのだとしたら、これは望みだろう?」
「君のはやだなぁ..」
「贅沢なことだ」
目が回りそうだった。
何の気もなしに、ただ会話の一環として人を傷つけることが出来る国栖にも、
怪我を負わされたというのに、会話を普通に紡ぐことのできるオリヴァーにも
血の匂いが溢れた空間にも、ただ、目が回りそうだった。
こみ上げる思いが喉を焼く。
言葉にならずに喉を震わせ、ただ、ただただ苦しかった。
「帰っていい、よねぇ...国栖くん。
そろそろ満足してくれないとさぁ、意地汚いにもほどがあるよねぇ」
「最後に一つ。
コーヒー代を頂戴しておこう」
「うわぁ、引くぅ。
ほーんと意地汚いね?」
「贅沢ものから受ける言葉になるとはね。
興は満たしすぎても興ざめだ、区切りをつけてあげよう。
十分、愉しめたよ」
「そ」
「な、ま、って...!!」
言葉を紡げないまま置き去りにされるノアの前で、国栖とオリヴァーは言葉を紡ぐ。
軽口のまま交わされる会話、諦めたようなオリヴァーのため息。
そして、国栖は座り込んだままのオリヴァーの頭につかみかかる。
紺碧の詰め込んだかのようなオリヴァーの瞳。
時に淀み、時に揺らぐ波間に、その眼前に、国栖はアイスピックを突き立てる。
アイスピックを突き付けられ、顔をそむけることを阻まれたオリヴァーは、受け入れるかのように眼前を見据えていた。
突き付けられた銀を、見据えていた。
目の前の光景に手を伸ばそうとするも、しかしノアの身体は動かない。
縛り付けるものは何もないはずなのに、眼前に晒される光景を目の当たりにして、身体を動かすことが出来ない。
伸ばした腕は虚空を掴む。
___ぷちゅり、と
音がした
銀が波間を切り裂いていく
ぐちゅり、ぐちゅりと音がした
銀が波間に波紋を広げていく
闇夜をうつす瞳が、享楽に揺れる
笑いを零す口元が半月に歪む
水音を響かせながら、国栖は何度も瞳に対してアイスピックを突き立てた。
ぐちゅり、ぐちゅりと零れる膿に。
ちゅぐり、ちゅぐりと満たされる血液に、
オリヴァーの喉から、喘ぐような悲鳴がもれた。
「や、め...、やめ...っ」
ノアはわなわなと震えながら、眼前へと手を伸ばす。
震える手は何も掴めない。掴めはしない。
ただ、悲鳴が聞こえる。
ただ、水音が聞こえる。
アイスピックが眼球をぐじゅりぐじゅりと潰していく。
アイスピックが瞳に差し込まれるたびに、オリヴァーは喘ぐような叫びをあげた。
半月の口元を憎々しく睨み付ける。
混じり始めた笑い声に、体が震えた。
「やめ、ろ、やめろ!!」
「それで誰がやめる。それで一体、何がなせる?」
描く半月が。
淀む闇が。
抱きたくない感情を、心に宿す。
憤りで歯を食いしばり、握った拳をほどき、そうして、手を伸ばす。
「...オリヴァー、くんっ...!!」
刃を手放して、やせ細った腕をつかむ。
そうして引き込んでから、国栖を顧みることなくノアは一目散に走り出す。
背中を見せても構わない。
当初想定していた経路をたどらず、ただ、ただただ一目散に出口を目指した。
追う足音は聞こえなかった。
オリヴァーの身体を引きずるようにしながら、ノアは裏路地を走る。
少しの距離を走っただけだというのに、激しい息切れに見舞われていた。
ついぞ立ち止まり、影に隠れながら壁に背を預け、そのまま座り込む。
「...ほんっと君ぃ、馬鹿だよねぇ」
「あ ぅ、ぅぅぅ...っ」
「はいはい...、逃げられたみたいだよぉ」
「っ、も、ぎみは...っ、なんでぇ...っ!」
やせ細ったオリヴァーは、引かれるままにノアに抱き込まれていた。
身長差もあり、そうして怪我があることから一切の抵抗を捨て去っていたオリヴァーはしゃがみ込んだノアの腕の中で、深いため息を零す。
ふいに触れた頬は血に塗れていて、片目だけの視界で手の平を見れば、血に塗れる。
無残なものだと、自嘲染みた笑みが零れ落ちる。
血に塗れた手を厭うことなく、オリヴァーはノアの頬に手を伸ばした。
「っ...、え...」
ぬるりとした感覚を押し付けるようにして、ノアの顔に掴みかかる。
憔悴をし、ぼろぼろになった表情に、今度は吹き出すようにして笑いがこみ上げる。
瞳から零れる筋を赤に染め変えて、オリヴァーはただ笑う。
「っ、ははは、はははっ!」
「オリヴァー...、くん?」
「なっさけない面だねぇ、っはは、おかげさまかなぁ」
「なにが、っすかぁ...!!なんで、何でこんな...っ!
抵抗、も、あぁ、もぉ、なんでぇっ...!」
「答えはあるけど、いーわない」
「っ、うぅぅ、うぅ、!」
「はははっ」
ノアのうめき声と、オリヴァーの乾いた笑い。零れ落とすものはそれぞれだった。
馬鹿だ馬鹿だと繰り返しながら、オリヴァーはノアの背中を血濡れた手で軽くたたいた。
続く嗚咽に、呆れつつも笑い、そうして背中を叩く。
次第にバランスを取り戻し始めた視界で空を仰げば、しかし仰ぐ月も星も見えない
建物から漏れるわずかな光と、空を隔てる影。月の光は視界には収まらない。
まぁ、こんなものだろうなと。オリヴァーはどこかで納得していた。
「...、帰る、っすよ...」
「ん?」
「...僕の家、に...、帰る、っすよ」
「...君の家は帰るところじゃないけどぉ?」
「その、ほうが...実験に効率...、いいから...
も、別に...何もいらない、っすよね...」
「......... っ、ははっ、はは!
そうだねぇ、その通りだ」
もう、オリヴァーの人生は死んでいるのだ。
死に向かって生きているオリヴァーに、必要なものなど何一つない。
死ぬために必要なことがあり、それ以外は必要ない。失われていいものしか持ち合わせていない。失いたいものすら失えないまま、ただ惰性で生きているだけなのだ。
「監禁ごっこって呼んでみる?」
「別に、何でも、...いいっすよ
...帰ろうか」
「そうだねぇ」
ああ、本当に馬鹿だねぇ。
何度目になるのか分からない、幾度となく繰り返された言葉をノアに浴びせながら、オリヴァーは自らの力で立ち上がる。
背負う光も何もなく、ただ淀んだ己の双眸でノアを見据えて、血濡れた手を差し出した。
幕間:
必要なものを手に入れて、必要な手続きを行って。
そんなことにノアはため息ばかりを零してしまう。
傷つけるための道具を仕入れる。傷つけるための手段を考える。必要という言葉でごまかしながら、結局傷つけるための行動を選ぶのだ。
それがオリヴァーにとって救いになると信じながら、それ以外ないと諦めながら、自分の行いに後悔を重ねていく。
警鐘を鳴らす己を押しとどめて、締め切った自宅へと戻った。
国栖の薬局からオリヴァーと脱出し奇妙な共同生活を始めてから、出来る限りに人との接触を断ちたくて、ノアは目的のためだけの必要最低限の行動を行うようになっていた。自ら望んで人と交流を行うことはしていない。
終わりが来ることを願いつつ、しかしいつまでも何も生み出せない奇妙な共同生活を続けてはいられない。終わりを迎えなければならない。
継続してはいけず、時間をかけてはいけない。そんなジレンマもまた、ノアを苛んでいた。
自宅へと戻り、荷物を投げ出すようにして自室に戻る。
オリヴァーには一部の部屋をのぞき自由にして欲しいと声をかけているが、さてどうしているだろうか。
ふいな思考に首を振り、そしてリヴィングへと戻って、ノアは気が付いた。
「え・・・、何。何の匂い」
リヴィングへ足を向けていると、ふいに鼻をついた匂いに首をかしげる。
血の匂いが染みついてしまったような自分と、屋内。
しかしそれとは全く別の匂いが室内に漂っており、疑問に思いながら匂いの方向へと足を向ける。
そしてリヴィングへ足を踏み入れて、その光景を目の当たりにして、がくり、と肩から力が抜けた。
「あ、おかえりー。せーんぱい」
「えーっと」
「んー?」
「何、してるん、すか?」
「ご飯作ってるよぉ」
「そ、っすね・・・いや、えぇっと」
「先輩も食べる?」
「た、べるっす・・・」
何食わぬ顔をして、いつも通りだと言わんばかりに振舞うオリヴァー。
キッチンに立って食事を作る、そんな日常を送る姿は逆にノアにとっては不自然に感じられた。
監禁ごっこだなんて語って、そうして死ぬための実験を施すための奇妙な生活。
始まったばかりのその生活において、オリヴァーは当たり前だと言わんばかりに日常にいた。
油がはねる音を聞きながら手を洗い、そうして自然な動作で差し出された食事に虚を突かれてしまう。
当たり障りのない、本当に日常の食事。
炒飯好きなんすよね、なんて。
そんな会話を普通にしていいものか迷い、ただただありふれた日常の光景にノアは言葉を失ってしまう。
そんなノアの様子に呆れたように笑うオリヴァーからは、平素感じる棘は姿を隠しているように感じられた。ありふれた日常の中で食事を作り、柔らかな雰囲気すら感じさせる、『ふつう』の状況。
ありえないはずなのに。
殺すための準備をする、死ぬための生活だというのに。
「えぇっと・・・」
「先輩さぁ、冷蔵庫の中身どーかと思うよー」
「えぇ・・・。いや、あの」
「食べれば?」
「そ、っすね、ありがと」
「まぁ、毒入ってるかもしんないけどね」
「ぅええぇっ!?」
目の前で普通に食事をしながら、毒を含んだ言葉を吐き出すオリヴァー。
同じフライパンで作られていたのだ、取り分ける光景も目の当たりにしているのだ。
それ以降に混入する可能性があるとはいえ、しかし、オリヴァーがノアに対して毒を盛る必要など皆無だということを知っている。
オリヴァーの望みを叶えることが出来る可能性を持っているのは、現状でノアだけなのだから。
そのノアを実際的に害するつもりなど、オリヴァーに無いことはこれまでのことで明らかだと分かる。
しかし吐き出される言葉や振る舞いには虚を突かれてしまう。毒の含んだ言葉が冗談だと分かりながらも、咄嗟の反応はいつだって手の平の上だ。
香ばしい醤油の匂いに、玉子のコントラストとぱらぱらとした米の感覚。
見た目にも香りにも美味しそうな炒飯がただ目の前にあり、なんとなく一度ため息を零してから舌鼓をうつ。
当然だと言わんばかりに美味しくて、そんな事実に逆に驚く。
日常の動作を行うことに対して、何をしているのだろうと湧き上がる感情を理解出来ず、ぐっと水とともに感情も言葉も飲み込んだ。
「ご飯、作るんすね」
「まぁねぇ」
「変な、話っすけど。お腹は減るんすね」
「お腹が減るだけなんだけどねぇ。
お腹減ってだるーってなるんだけど、それだけ。
前1か月ぐらい飲み食い抜いてみたことあるけど、しんどいだけでさぁ」
「ああ、なるほど」
「だから食べるよぉ」
「お腹減ると気持ち悪いっすからねぇ」
「説得力ないねぇ」
「えぇ・・・」
「れいぞーこ、あの中身でよくそんなこと言えたねぇ。
きっと僕のがまっしだよぉ」
「うぅ・・・最近色々あったんで」
冷蔵庫の中身と言われて、恐らくこの炒飯を作るのもぎりぎりだったであろう食材しかなかったのは自覚している。飲物にしても調味料にしても、最近扱いがぞんざいであり、ストックについてもまともにあるかと言われたら首を振ってしまう。
勝手に冷蔵庫を開けて中身を確認したのであろうオリヴァーは、どうかと思うと口に出来る程度には自身の食生活については整えていたのだろう。
死を望むが飢餓では死ねない、故に惰性で食事をする。
ノアが口にする言い訳、色々の原因はまさしく目の前のオリヴァーであり、そうしてオリヴァー自身自覚しているだろうに、それでもオリヴァーは馬鹿だねと言葉にしながら繰り返し笑う。
口に運ぶ炒飯があまりに普通で、ただ美味しく空腹を満たしていく。
心苛む現実ばかりがある中で、日常の、どこか心を解していくような味が逆に違和感がある。和やかな空気に、逆に肌がちりちりとざわめいてしまう。
死を求める故に、他の何も求めない。
故に、何にも執着しないからこそ頓着せず日常を送ることが出来る。
オリヴァーが日常生活を普通に過ごす現実を認識して、しかし日常風景を送ることが出来るという事実がまた心を苛むようだった。
「ご飯、・・・自分で作るんすね」
「まーね」
「・・・料理、好きだったんすか?」
「好きとか嫌いで考えたことはないかなぁ、空腹満たせればそれでいーよぉ」
「・・・僕は、誰かと食べる食事は好きっすよ・・・」
「残念だねぇ」
「そういうわけじゃ・・・」
オリヴァーの淀んだ瞳はノアを試すかのように細められる。
見透かされる気分になって、眼帯の奥の赤をなんとなく閉ざしてみる。
「・・・彼は・・・、料理はしたんすか・・・」
「それ聞くんだぁ」
「・・、だめ、っすかね?」
「そーだねぇ。・・・
・・・オレンジジュースで米を炊いたときはしばいたかな」
「え、えぇ・・・」
「そっちはぁ?」
「・・・。
食べてくれているか、・・・心配っす」
「君が言う?」
言葉に出さずとも、誰のことを言っているのか。
お互いに何故か手に取るように分かる。
忙しくなると、何か不安なことがあると食事をとらなくなってしまうリアムのことを思い出しながら、ノアはまた表情を曇らせる。
リアムが今もし食事をとれないほどに悩んでいるのだとしたら、それはおそらく自分に原因がある。
優しい彼に、ずっと一緒に育ってきた幼馴染に隠し事ばかりしているのは他ならぬノア自身なのだから。
ノアが今リアムのことを考えているように、オリヴァーもまた今は亡き親友のことを考えたのだろう。お互い、すぐに考えるのは大切な他人のこと。
そんな事実を、ノアは食事と共に噛みしめる。
オリヴァーと過ごす現状は日常なのか、非日常なのか。
死に向かうための生活は、歪に成り立ちながらもまわっていた。
第五話:
致死にいたる傷とは何か。
死を受け入れないオリヴァーの身体は、しかしノアが施す傷を少しずつ蓄積する。
消えないように、少しずつ、少しずつ。
大きく傷をつけても致死には至らず回復してしまうという事実がこれまでの実験で判明しているため、回復せず蓄積できる量を見極めながら徐々に傷を増やす。
出血を増やし、体から生命の営みを奪い、さて今日はどんなことをしようか。
繰り返される日々にお互いの日付感覚が失われていった。
同じことばかりが続く血に塗れた日々は、日常を麻痺させていた。
おめでとうxx回目の実験結果だ
気分はどうっすか?
早く僕を殺してみせてよ、人殺し
互いの間で何度も繰り返される言葉に、ノアの精神が少しずつ削り取られていく。
朝なのか、昼なのか、夜なのか。
屋内に充満する血の匂いが日に日に濃くなる。
そうして今日も、チャイムが鳴る。
「行ってくるっすね、・・・寝ていて」
「今日もデイビスせんせーかなぁ」
「多分」
「ははっ、いってらっしゃーい」
オリヴァーの言葉を背に受けて、ノアは玄関へと足を向ける。
締めきられ、光の遮られた室内。
誰の侵入も拒むようにして囲われた室内は薄暗く、陰鬱としていた。
とぼとぼとした足取りで玄関に足を向ける。
鍵を閉めチェーンをかけた状態の玄関。
鍵が閉まっていることを確認して、ノアは携帯を手に取った。
何度かの着信履歴と、反応をしていない連絡。
いつだって震えてしまう指をなんとか動かしてコール音を鳴らせば、すぐさま反応があった。
『ノアくん・・・』
「チャイム、・・・リアムくんっすよね・・・」
『・・・、ああ。食事を、持ってきた。
きちんと食べているか?また君は何か無理をしているのでは・・・』
オリヴァーを引き連れて家に戻ったあの日。
家に戻れば、居心地が悪そうに罰の悪そうな表情を浮かべながら、しかし待ち続けたリアムがいた。
ノアとオリヴァーは人目をさけてまっすぐにノアの自宅へと帰って来ていた。
途中で血を拭い、見つかったとしても大事にならない見た目に整えていたとはいっても、オリヴァーには傷が残っていた。
そのうち国栖がつけたものは時間が経過すれば消えてしまうものだが、ノアによる切り傷は残る。
憔悴したノアと、傷を負うオリヴァー。
相対したリアムは、ただ目を見開いていた。
リアムに対してノアは何かを言えるわけもなく、何かを説明できるわけもなく、ただ繰り返す。
「ごめん、なさい」
あの時も、今も同じように繰り返す。
ごめんなさい、と____
わけを説明もせず、何一つとして伝えず、ただ謝罪だけを繰り返す。
『・・・。すまない・・・』
そうしてリアムも扉を隔てた向こう側で繰り返す。
謝罪をしながら、しかし説明が出来るわけもなく、そして受け入れることもなく
ノアはただ、リアムを家から追い出す他なかった。
ごめんなさい、構わないでほしいと。
ごめんなさい、今は関わらないで欲しいと。そうノアは繰り返す。
だが、でも。リアムの疑問の言葉を聞きながらもノアがリアムの言葉に応えることはなかった。
ノアの後ろから手を振るオリヴァーを見ながら、促されるままにリアムは家を出るほかなかった。
何度もリアムがノアの家を訪れてくることに、リアムに対する自分の行動にノアは罪悪感が湧き上がってくることを感じる。
危険だからと突き放して、巻き込むわけにはないと説明をしないままに彼を拒む
リアムもまた、ノアの家を訪れて声をかける、そんな行動が彼を傷つけているのではないかと感じる部分があった。
心配などすることによってノアの心を害しているのではないかと、考えれば考えるほどに深みにはまる状況にリアムもまた項垂れるばかりだった
リアムにとって現状は分からないことばかりで、そうして、分からない故にノアに対して何と問いかけていいのか分からない。
ノアが大切だから心配をしたいのに、それすらいけないことなのではないかと思う。
ノアの心を害してしまうのではないかと、そう感じる。
開かれることのない扉を隔てた向こう側、想像するしかない表情は、しかし想像に難くはない。リアムはノアの家の合鍵を所持しているものの、かといってチェーンがかけられ言葉で拒否をされている現状で、合鍵を使う気持ちにはなれなかった。
苦しんでいるのだろう、と。・・・思ったところで言葉にはならない
『君は無理をすると、食事を忘れてしまうだろう。
・・・買ってきたものだが、・・・食べて欲しい』
「・・・、うん・・・」
『無茶をしてくれるな』
「・・・、ご、めん・・・」
結局リアムはなぜと問いかけることも出来ず、何をしていると口に出すことも出来ずに、ノアの自宅を後にする。
どうしていいか分からない。
どうすることが正解なのか、どうすることがノアにとっていいことなのか。
馬鹿と、怒鳴ってしまえばいいのだろうか。
馬鹿だと、掴みかかってしまえばいいのだろうか。
空いた手のひらを見つめながら、リアムは己に問いかける。
扉を隔てた向こう側。
君はきっと、泣きそうな顔をしているのだろうと・・・。
・・・、深い、深いため息を零した。
ノアは扉に額を押し当てて、小さく喉を鳴らす。
ごめんなさい、と繰り返して。
ごめんなさい、としか言えなくて。
何が正解なのか分からない。
それでも今更立ち止まることを選べない。
血に染まる両手を眺めながら、もう、何も知らなかったことには出来ない。
血に染まる両手を握りしめて、リアムに知られたくはないのだとかみしめる。
絞り出す言葉は、結局のところ謝罪の言葉だった。
扉に縋り付くようにしてしゃがみこみ、喉を鳴らす。
「ぅっ、あぁっ・・・、ごめ、んっ・・・、ごめんね・・・」
謝ることすらも申し訳なくて、謝罪以外の言葉が出てこない。
扉に縋り付き、どうにもできない状況に、どうにも出来る力のない自身に対しても、ただノアは謝罪の言葉を繰り返した。
オリヴァーの傷は日に日に増えていく。
致死の傷を何度も施されても、彼は平然と実験結果だと受け入れる。
お互いに、もう止まることなど出来るわけがない。止まることなど望んではいない。
締め切った部屋にて今日も2人は実験を繰り返す。
血に染まる両手と、血に塗れる体。
明らかに致死の量が流れておきながら、まともな食生活もしていないというのに、オリヴァーはまだ生きている。
痛みを享受しながら、生きている。
すでに心が死んだ人生で。
身体だけが生きている。
「おかーえりぃ」
「ただいまっす・・・」
「朗報だよぉ、先輩」
「うん?」
「身体、起きなくなったんだよねぇ。
動こうかと思ったんだけど動けなくってさぁ。
これ、もうすぐかなぁ」
「・・・え?」
「手足、感覚ないや。
近いのかもしれないねぇ。
ははっ、そっかぁ」
「・・・それ、って・・・」
「よかったねぇ、もうすぐ解放してあげられるよぉ」
淀んだ瞳を細めて、光が宿らなくなった瞳で、オリヴァーは笑う。
死に近づくことを喜ぶ彼は、身体が動かせないことに笑みを浮かべていた。
たとえ切断を試みても、彼の身体は切断をなかったことにする。
しかし、今は四肢を動かせないのだという。
蓄積した傷は確かに彼を蝕み、彼の自由を、生命を、少しずつ奪っていた。
ノアが傷つけ蓄積し、そうしてオリヴァーは死に近づく。
もうすぐだ、と彼は繰り返す。
もうすぐ逝けると、彼は言葉にする。
「・・・、お墓・・・、どうしよっか」
「お墓ぁ?」
「そっす・・・ちゃんと、考えなきゃ」
「律儀だねぇ、適当でいいよぉ」
「そういうわけには」
「んー・・・」
ベッドに寝そべったまま、オリヴァーは表情だけを動かす。
本当に体が動かないのだろう、動くのは表情だけだ
隣に椅子を添えてノアは座る。
意味がないと知りつつ、むしろ不要な事であるし余計なことだとも分かりながら、傷の断面をさらしておくことが出来ずに包帯を巻きつけていった。
「海・・・」
「散布っすか」
「海だけは、やめて欲しいんだよねぇ」
「・・・、そっすか」
「そ。それ以外だったら適当でいいよ」
「・・・、考えておくっすね。
どこか君の気に入ってくれるところ」
馬鹿だね、と音にならずとも
その表情が語る言葉をノアは知っていた。
例えばもし、オリヴァーとノアが違う出会い方をすることが出来ていれば、今のような関係になることはなかったのだろうか。
例えばもし、己も彼も前世の記憶がなかったのだとしたら。
例えばもし、彼が親友を失っていなかったのだとしたら。
例えばもし、彼が死ぬことの出来る体質だったのなら。
例えばもし、ノアが彼に傷を残すことが出来なかったのだとしたら。
考えたところで栓のない、ただの可能性の話。
例えばと繰り返したところで現実は違う。
今更 2人の関係を変えることなど出来はしない。
「オリヴァーくん・・・、例えば」
「ん~?」
「やっぱ、何でもないっす・・・。
また明日、頑張ろうね」
「ははっ、そーだねぇ
明日は成功するといいねぇ」
「そっすね」
間違っているなど、思ってはいけない。
死を望むオリヴァーを止めることなど出来はしない。
死を望むオリヴァーに生を語ることなど出来はしない。
翌日も繰り返す。
脳髄を刺す痛みに、悲鳴があがる。
痛みがない傷を受け入れない彼の身体は、麻酔を行えば傷を受け入れない。
故に、どんな時でも彼には痛みを与えなければいけない。
まるで生きることが罪だといわんばかりに、オリヴァーは死を前に数えきれない痛みを背負う。
死に至る痛みを、何度も何度もその身に刻まれる。
それでも彼の命は、つながれる。
翌日も繰り返す。
血に塗れた両手に染み付いた匂いに吐き気がした。
翌日も繰り返す。
訪れるリアムに謝罪をして、そうしてまた項垂れる。
翌日も繰り返す。
耳を裂く悲鳴には、いつまでたっても慣れはしない。
もう指先も動かせないオリヴァーは、表情だけで感情を物語る。
色のない表情で見上げる天井。彼の生に、もはや色はない。
「・・・、海・・・、なんでいやなんすか・・・?」
「・・・・・・、海は、還る場所なんだってぇ」
「・・・、うん」
「死んで、還って、戻って、また現世に還る。
ああ、本当に下らないよぇ、・・・下らないよ。
そのまま海の藻屑にしてくれりゃいいのにさ」
「・・・・・・。
そ、っすねぇ・・・。海は、・・・命を生む場所っすから」
「だからそんな場所には、かえりたくないよねぇ」
オリヴァーもノアも、二度生まれた。
前世に生きた自分たちと、今に生きる自分たち。
物ごころついたときには記憶と寄り添い、それが過去の記憶だとただ分かった。
今とは違う大地で過ごしていたという記憶、過去生きた自分。それを前世と語る。
前世の記憶を持ったままもう一度受けた生は、オリヴァーにとってどのような価値があったのだろうか。
生まれたくないと吐き捨てるオリヴァーは、与えられた生を否定しているように思えた。
「・・・嫌、だったんすか・・・?」
「・・・・・・。だって、馬鹿じゃん・・・。
もっかい生まれるとか、いらないよ」
「そ、っすか」
オリヴァーはこれまで何度問いかけても、心の内を言葉にすることはなかった。
終わりが近いことが、彼に言葉を発させるのだろうか。
いよいよ近づく最後を感じながら、ぽつり、ぽつりと 2 人は会話を続ける。
「もう一度の人生で、・・・、出会えた、んすよ?」
「・・・・・・、あいつの望まない・・・ことをして
復讐で人生終わらせて、それでもう1回?
・・・あそこで生きて、あそこで死んだ自分は何だって。
君は思わなかったわけ?」
言葉を紡ぐことが出来ず、ノアは生唾を飲み込む。
前世の自分の死後に起こったことを、ノアは知らない。
過去生きた時間において、ノアは国栖と敵対し、そこで命を落としている。
リアムやオリヴァーよりも先に、その時代で死んだ。ノアの記憶はそこで終わる。
そして、自分の死にオリヴァーが間接的に関わったことは察している。
国栖との因縁、そこに間接的に絡み合うオリヴァーの存在。
そして、リアムの存在。
リアムとオリヴァーは、ノアの死後どのように生きていたのだろうか。生や転生した事実を恨み言として語り、生まれ変わりたくなどなかったのだと繰り返し、呪われた生を受けるオリヴァーは、過去どのように生き、どのように死んだのだろうか。
「ははっ・・・、君は、馬鹿だからなぁ・・・。
僕は生まれ変わりのこんな人生、いらなかったよ。
・・・、そして・・・もう二度と、もう二度と目覚めなんていらない。
僕は・・・終わりたいんだ」
ノアだから分かる、その言葉。共感という意味で理解出来るのは、同じ時代を生き記憶を持つ自分だけのはずだ。
記憶があり、そしてだからこそ人生を繰り返していることを知っている。
運命という袋小路が自身を締め付けるように存在していることから、逃げることが出来ないという事実をありありと理解してしまっている。
記憶を持ってもう一度生まれた事実を自身が身をもって知っているからこそ、死が本当に終わりなのかと疑いを持つ。
本当の意味での終わりを望むがゆえに、その事実を疑わなければならない。
「・・・、僕が、証明して見せるっすよ」
「はぁ?」
「君が本当に死んだって、君はもう生まれ変わらないって
君が生まれ変わっていないことを探して、どこにもいないってことを証明し続けけるから」
「・・・、せんぱーい、それ、知ってるぅ?」
「うん」
「ないことを証明するには、あるという可能性全部をつぶしていかなきゃいけない
それは不可能なことだ。
それはね、悪魔の証明っていうんだよぉ、・・・。ノアくん」
「それでも、証明して見せる。
君は死んでいい。
君はもう終わっていいんすよ。
だから安心して」
「っ、ははっ、はははっ」
震わせる力は身体にはなく、オリヴァーはただ喉だけを震わせる。
真剣なまなざしで交錯する赤と紫を眺めながら、瞳を滲ませた。
「死ねないね」
「うん」
「証明し続けるために、生きるんだ」
「そっすね」
「もしまた会ったら、ちゃんと殺してくれる?」
「もしもはないっすから。
その約束は出来ないっすね」
「っ、はは、ほぉんと」
「うん。
・・・今日はもう少し、やろうか」
「んー」
オリヴァーの上にまたがって、ノアは両手を首に添えた。
ノアは何度も首を絞めつけて、オリヴァーの息を奪った
死はなく何度も繰り返される行為ではあるが、恐らく無駄なことではない。
首を絞め、息を奪えばオリヴァーは意識を失う。
意識を失っている時間が日に日に少しずつ、少しずつ伸びてきていた。
鼓動が止まる瞬間を確認し、目覚めるまでの時間を計っていた。
両手に力を入れる。
当初よりも随分とやせ細り、元から華奢に分類されるであろう身体は、さらにか細いものになっていた。
海は淀む。
滲む波間に、深き色を差し込んだ。
「・・・ねぇ、ノアくん・・・」
「どうしたんすか・・・」
「たぶんねぇ、ばいばいかなーって」
「・・・、それは」
「喜んでいいよぉ。多分、ね」
「・・・、うん」
両手に力を籠めていく。
締め上げられて、はくはくと呼吸を零すオリヴァー。
そして、揺らぐ波間から、
ぽろりと、涙がこぼれた。
「・・・っ」
どれだけの苦痛に喘いでも、彼は今まで涙など流しはしなかった。
流す心が枯れてしまっているのだと、言葉にしないままに何となく考えていた。
どれだけの痛みを前にしても、結局彼は笑っていた。
その彼の瞳から、雫がはらりはらりと零れ落ちる。
本当に終わりなのかもしれない、と。
喜ぶべきはずなのに、心が苛まれる。
いつかと願いながら、心のどこかで否定をしていた結末。
向かいたかった場所、向かうべき目指した場所、それなのに目の当たりにして目をふさぎたくなる。
それでも視線を交差させ、世界の色を混ぜ合わせる。
彼の絶望に染まった人生を、その両目に焼き付ける。
自分だけは絶対に彼の生きざまを忘れないように、と。
そうして彼の願いを、証明し続けて見せると。
そう心に誓う。
「・・・、お疲れ様、オリヴァーくん」
「っ、はっ・・・ははっ・・・
ぅ 、あ ・・・!」
笑い声を零しながら、しかし、呼吸を奪われる彼は目を見開く。
見開かれた瞳からははらはらと涙が零れ落ちていた。
彼の口元が呼吸にあえぎながら、しかし、ゆっくりと動く。
音にならない声で、彼は言葉を紡ぐ。
「 」
最後の言葉を心に刻んで。
瞳を見開いたまま、ノアはオリヴァーを見つめていた。
やせ細ったオリヴァーの身体から力が失われる。
時計に目をやりカルテに現在時間を書き込んでから、秒針を見つめた。
ぼやける視界に眉間を抑える。
身を落ち着けるためにと実験台から距離を取り、壁に背を預けて項垂れる。
部屋に響く秒針の音に耳を澄ませながら、秒針の音をかき消す己の声を叱咤する。
「っ・・・き、みは・・・っ」
喉が震えた。
身体が震えた。
手に残る感触はいつまでたっても慣れるものではない。
そして、慣れる日など来ないで欲しいとずっと願っていた。
「き、みは・・・っ、最後まで」
オリヴァーが何を思って生きてきたのか、語られぬそれをノアが知ることはない。
全ては想像の世界。
それでも彼が、死を望んでいたことは分かっていた。
それでも彼が、もう生きていたくないと口にしたことは事実だった。
悪魔の証明というのだとしても、
その証明が不可能なのだとしても、それでも可能性が一つもないという事実を探し続ける。
「君は最後まで・・・っ、君・・・だったっすね・・・」
少し垣間見えた彼の心は、淀んだ海の中に消えていった。
短針が1周、また1周と動く。
オリヴァーの瞳が開かれることは、もうなかった。
彼の望みを聞くことは出来ただろうか
彼の望みを変えることは出来ただろうか
もしも彼を新たな光が照らすことが出来たのだとしたら
彼は前を向いて生きることが出来たのだろうか
ざくり、ざくりと木々を踏み分ける。
廃棄された場所に少しばかり残る果樹と、鬱蒼と生い茂る木々。
「ちゃんとあるもんすねぇ・・・」
荼毘を手にして踏み入った土地、木々によっておおわれる空を見上げながらノアは周囲を見渡す。
半信半疑でありながら、実っている果実に少しばかり胸をなでおろした。
「馬鹿だって、君は言うかもしれないんすけど
海以外で思いつかなかったから、えぇっと、許して欲しいんすよね」
前世を知っていて、高校時代を知っていて、彼のことを調べて。
そうして生い立ちは知っているものの、実のところオリヴァーについて知っていることは少ないのかもしれない。
彼が何を好み、彼が本当に何を望んでいたのか、問いかけたこともなかった。
答えないだろう、答えるわけがないと、言葉を紡ぐことをあきらめていた。
「オレンジは好きなんだと、思うんすけどねぇ・・・。
違ったらごめんね。
これしか、知らなくて」
もし、と言葉にすることは出来ても。
そのもしもは、ありえなかった。
そしてそのもしもの事実を、彼と会話することも出来なかった。
オリヴァーに語り掛けていれば訪れた結末を、変えることは出来たのだろうか。
「・・・。
それでも・・・、後悔なんて出来るわけがない
・・・・・・、証明し続けるっすよ、オリヴァーくん」
たとえそれが不可能だと呼ばれるのだとしても。悪魔の証明と呼ぶのだとしても。
可能性の一つもないことを、示し続ける。
荼毘を風に溶かしながら、ノアは遠い空を眺めた。
記憶だけが語る、過去を共に生きていたという事実。
前世の空は、どんな色をしていただろうか。
とぼとぼとした足取りで、緩やかに家へと足を向ける。
青い空に輝く太陽の光を受けて、金が揺らめく。
目の下に深く刻まれた隈に湧き上がる罪悪感、それでも彼___リアムは笑って見せた。
「ノアくん、久しぶりに会えたな」
「・・・、ただ、いま」
「ああ、おかえり」
家へと向かったはずなのに、今まで彼を拒み続けていたはずなのに、それでを足を向けてしまったリアムの家。
丁度家を出た彼とはちあったのか。
それとも自分が、思った以上に彼の家の前で立ち止まり、動くことが出来なかったのか。
時計を見ることをあの日以来忘れてしまい、そのどちらであるかは分からない。
「もういいのか」
「・・・、うん、一つは終わった、かな」
そうしてもう一つは始まった。
終わりのない証明をし続ける事実を飲み込んで、ノアはリアムに笑みを向ける。
伝えるべき言葉は分からない。
それでも、望んでしまう。
リアムのそばにいることを、望んでしまう。
「・・・食事にしようか」
「リアムくん、ちゃんと食べてたっすか・・・?」
「今君に一番言われたくないセリフだな」
うぅと言葉を漏らすと同時に、零れだす謝罪を飲み込んだ。
心配だけをかけて、ノアは結局リアムに何も伝えられない。
見上げた空には、海とは違う青が広がっていた。
最後の瞬間に零れ落ちた、彼のにじませた涙はまるで空からこぼれる雨のようだった。
雲がかった空模様に、彼は一体何を見ていたのだろう。
いつもどこかけだるげで、
いつもどこか、悲壮を抱いていた彼は、
本当は何を望んでいたのだろうか。
問いかける言葉もなく、
そうして、答えを得ることは二度と出来ない。
二度とないと、ノア自身が証明し続けなければならない。
たとえ悪魔の証明と呼ばれるのだとしても。
誰が彼を殺したの
それは僕だと手を挙げる
誰が彼を救ったの
誰もいないのだと首を振る
そこは、真っ黒の部屋だった。
黒と称する以外に色のない
黒の部屋だった。
暗闇の中に、足音がカツリ、カツリと響く。
黒しかない部屋の暗闇は、暗澹が広がるばかりで何の印しも持たない。
だが、足音は淀みなく真っ黒の部屋の中央へと辿りついた。
足音が止まると同時に、部屋の中央へとスポットライトの光が降り注ぐ。
半月の口元と歪められた視線。
スポットライトを浴びた白衣の男は、同じくライトを浴びる黒いイスに腰を降ろした。
「さて、俺と君。
退屈な物語の感想を語ろうじゃないか」
腰を降ろしてから手を組み、前に乗り出すようにして体勢を整えると、男は語りだす。
黒の部屋で、暗闇の空間で、降り注ぐスポットライトの光。
影が落ちた表情で、男は嗤う。
さてそもそも、この物語は誰が紡いだ物語だったのだろうか。
物語において主人公と呼べる人物は誰だったのか。
君はどう考えている?
何も考えていない。
そう。
ならば君は、ただ戯言の上辺を、上澄みを掬ったのだろうね。
君らしい楽しみ方じゃないか。
ひとまず拍手だ。
さて、俺から君に1つ投げかけをしてあげよう。
傷が本当に治ると、そんな身体があっていいと、君は本当に受け入れられる?
フィクションである、物語である、さて、この話は本当にフィクションを綴るという目的で書き記されたものだったのだろうか。
物語はフィクションであるべきかリアリティを描くべきなのか。
それは筆者の好みであり、其の話をフィクションであるととるかリアリティを求めるかは、結局のところ受け取り側の自由でしかない。
さて、君はどちらで在りたい。
フィクションであると考えるのであれば、確かに彼は死ぬことのできない身体であり、傷が癒えてしまうという体質だったのだろう。
これがもし、リアリティを追求した話であるならば。
彼の体質は作中において、一体何を示すものだったのか?
本来治っていない、思考とたとえ話、もしくは何かの比喩表現。
ここで疑問を投げかけよう。
複数人で、彼の傷が治ったことを確認はしていただろうか。
彼が怪我を認識していたものは複数人確かにいた。
では、彼の傷が癒えたことを確認した複数人はいただろうか。
物語において、一体どれだけの時間が経過していたのだろうか。
傷が癒えた時間、それを入院だと記すことによって印象も変わってしまうかもしれない。
ではその観点で物事を視認したというのならば、その目線で彼の犯したことを客観的に見つめてみよう。
監禁
暴行
殺人
死体損壊
遺棄
身元の偽証も行われているかもしれないね?
隠蔽工作、犯罪が明るみに出ない為にはまず犯罪を認識されないところから始まる。
死体の出ない、誰も彼の死を認識することが出来なければ、完全犯罪が成立するというわけだ。
罪を犯しながら罰せられることもなく、罪を罪とすら認識出来ていない可能性すらある。
さて、もう一度問おう。
この物語は誰が紡いだ物語であったのか。
誰が、何を、思い
誰が、何を、考え
誰が、何を、成した物語であったのか
物事は視点によって答えが変わる。
君は君なりの答えを持つといいだろう。
最後に物語に汚点を残せたことは、喜びに他ならない。
さて
君は何を成した?
元ネタはTRPGのCoC探索者の設定
TPRGどこいった
人様の探索者をお借りして好き勝手した結果でございます
改めて感謝を
Thanks for れんじゃい