英雄
気付けば深海のような静けさの中にいた。一筋の光さえ届かない暗黒空間、だがさっきとは違う。えも言われぬ心地良さに身を委ね、当てもなくふわふわと漂っていた。そして何より目を固く瞑り、明確な意図を以ってその空間に留まっているようにも思えた。
「オレは……転生したのか……?」
非情な現実に立ち向かう覚悟を決めたとは言え、あと一歩が踏み出せない。そこに見える景色は希望か、絶望か――パンドラの箱に手を掛けているような心持ちでじれったく足踏みする。開いてしまえば最後、引き返すことは出来ない。そして相変わらず進退を決めかねたまま、その場に滞留していると、
――ブーン、ブーン……――
ハッと目を覚ます。起き上がるや否や、にわかに胸の痛みを感じ、思わずうずくまる。それは何かに貫かれたかの如く奇天烈な感覚だったが、心当たりはない。恐らく寝返りを打った時にぶつけたのだろう――散らかった部屋をぼんやりと眺めつつ、何となく頷ける理由を見つけては納得した。やがて枕元の携帯電話が鳴り止まないのに気付く。
(まさか……)
目覚ましではなかった。電話、しかもバイト先からの着信だった。一先ずそれを取ることなく、サッと置き時計を見て察する。
(……遅刻だ)
オレは跳ね起き、大慌てで支度すると、鍵も掛けずに部屋を飛び出した。なぜこんなに焦っているのか、自分でも不思議だった。遅刻は初めてでもないし、口先で詰られることにも慣れていた。他のバイトに迷惑を掛けているという意識も薄い。だた今日だけは違った。とてつもなく恐ろしい大男に怒られるような気がしてならなかった。本能的に身の危険を感じていた。とにかく急がなくては、オレは一路、バイト先のコンビニを目指した。
「高橋くん、また遅刻か! 君は社会人としての――」
ガミガミと説教する店長をまじまじと眺める。どうしたことか、昨日も見たはずの顔が無性に懐かしく思えた。そして本来なら聞き流すであろう内容のない説教も、さながら釈迦の説法のように有り難く聞こえて仕方ない。オレは相槌を打ちつつ、その話に耳を傾けた。一方の店長はそんなオレの様子に違和感を覚えたらしく、説教を終えると首を傾げがらその場を離れた。
「いらっしゃいませ~こんにちは~!」
威勢の良い掛け声が店内に響き渡る。オレは柄にもなく張り切っていた。理由は分からないが、そう自然に振る舞えていた。身にまとう新鮮な空気感、そして昨日とは打って変わった勤務態度に店長を含めた他の同僚も驚きを隠せないでいた。
「店長、どうしたんですかね? 高橋さん、あんなに頑張っちゃって」
「さあ、オレにも分からん。朝からずっとあの調子だ」
周りから注がれる奇異の眼差しを心地良く浴びながら一生懸命に働いた。すると見る見るうちに時は過ぎ、気付いた頃には夕方だった。今日のシフトが間もなく終わる。こんなに頑張ったのはいつぶりだろうか――外から差し込む夕日の鮮やかさに一日を労われつつ、ある種の感慨に耽る。そして最後にオレはレジに立ち、帰宅ラッシュで殺到する来客を捌いていた。
「次の方、どうぞ~!」
それは事務的だった。何気なく順番待ちの列に呼び掛ける。すると先頭の客が進み出て、目の前にカゴを置く。オレは特段相手を確認することなく、その中身に手を掛けたところ、
「……あのっ!」
その瞬間、手が止まった。見上げた先にはオレの想い人、密かに好意を寄せていた例の彼女がいた。
「なっ、なっ、なっ、何でしょうか……?」
突然のことに狼狽え、どもり気味に答えてしまう。瞬き、次いで動悸も激しくなる。自分が自分でないような常ならざる状態に置かれつつ、オレは必死で彼女の思惑を推し量った。これから何を言われるのか、悪い予感しかしない。
「昨日は……どうも……ありがとうございましたっ!」
拍子抜けだった。そして昨日のことを逡巡する。だが一向に何も思い出せない。まるで黒塗り教科書のように、かざしても透かしてもその一端すら窺えない。しかし感謝の言葉から推察するに、どうも悪いことではないらしい。それだけでもホッと一安心、胸を撫で下ろす。
「いや、大したことじゃないよ……気にしないで」
一先ず話を合わせてから、大急ぎでレジを済ませた。彼女はまだ何か言いたげな様子であったが、それはどうしても阻止したかった。これ以上の会話は思考回路に深刻な危険を及ぼす。現に彼女と言葉を交わしただけでもうオーバーヒート寸前だった。やがて全てを済ませると彼女は立ち去った。その去り際、彼女の背中を見送りながら、掴めなかった前髪にひどく後悔する。折角声を掛けてくれたのに……オレは立ち回りの拙さに絶望すら感じた。すぐさま開催された脳内反省会にて、内なる自分に懺悔する。そして万が一、再びチャンスに巡り合うことがあれば、その時はきっと上手くやる、やってみせる――そう心に誓い、仕事を終えた。
俯き加減にコンビニを後にする。さっきまで強く差し込んでいた西日は下りかかった夜の帳に遮られ、その勢いを失おうとしていた。沈み往く夕日と忍び寄る闇夜、これらの混在は今の心情を暗示するかのようで思わず薄ら笑いを浮かべる。失意の帰路――あの声を再び耳にするまではそうなるはずだった。
「あのっ!」
突然背後から呼び止められ、全身を糸で釣られたような感覚に陥る。聞き覚えのある声、というかさっきも耳にした声に動揺を禁じ得ない。
(まさか……)
その声の方を振り向くと、やはりそうだった。女神の前髪に再び見える。居た堪れなくもなった。逃げ出したくもなった。しかし弱気に屈さず、何とかその場に留まる。それはなぜか、彼女だけではなく、何か大切なものを投げ出すようでならなかったのだ。
「な、何でしょうか……?」
「昨日は本当に助かりました……良かったら……その……お礼をさせて下さいっ!」
「いや、そんな……」
ここで退いたらいけない、彼女の厚意に甘んじるべきだ、と内なる自分に諭される。
「今晩……予定ってありますか……?」
「いいや、ないけれども……」
きっと上手くやる――そう自分に誓っただろう。勇気を振り絞るようにグッと拳を握りしめる。
「これからご飯とかって……ダメですかね……?」
「ダ、ダメじゃないですよ! 全然……って言うか、喜んで!」
やっと言えた。一歩踏み出せた。今ここに偉大なる前進を成し遂げたのだ。やがてオレたちは並んで歩き始める。隣にいるのは想い人、夢にまで見た彼女との会話に心を弾ます。そしていつか見た黄昏に契る、オレはこの世界で彼女の英雄になることを――。




