一つ目の望み
《前回までのあらすじ》
現実に不満、生き辛さを感じていた主人公・高橋勇翔の前に謎の女(?)が現れ、三つだけ望みを叶えると言い出した。勇翔は唐突に現れたその女に驚いて、思わず家を飛び出してしまう。
どれくらい走っただろうか――息も絶え絶えで、思わず手を膝につく。横を電車が通り過ぎる。風が冷たい。不意に吹き抜けたその風はオレを現実に引き戻す。
「なんだったんだよ、あいつ……」
後ろを見ても誰もいない。振り切ったのか、とにかくホッとした。
「おい、それでどうするんだ?」
ギョッとした。さっきの女の声がする。また向き直ると、そこには件の女が立っていた。
「な、何なんだよ、お前は! 人のことつけ回して……! 何が目的だっ!」
「物分かりが悪いヤツだな、お前は。何でもいいんだよ、お金持ちになりたいとか、美人と付き合いたいとか――」
「それこそ、『異世界』とやらに転生したい、でもな」
「とにかくお前の望みを三つ、聞いてやる。悪い話ではないはずだ」
右手で三本指を立てながら、その女は言う。「異世界」――そう聞くと急に胸が熱くなるような気がした。
三十路手前の高齢フリーター、週五のバイトで糊口を凌ぐ報われない現実、単調でつまらない毎日から抜け出して、無双できる世界に行きたい、オレも主人公になりたい、そう思って日々を生きてきた自分にとって、その甘言はすこぶる魅力的だった。
「分かった……。じゃあ、オレを――」
「きゃぁぁぁぁぁぁ!」
突然、金切り声が耳をつんざく。
「……なんだ?」
只事ではない。それは確かだ。急いで悲鳴のした方へ向かうと、路地裏で男三人組に囲まれている女性を見止めた。何かを迫られているようで、和気藹々といった感じは全くない。
(まずいぞ……)
事態は切迫している。早く助けを呼ばなければ、女性が危ない。そしてふとその女性の顔を見ると、
(あれは――)
(オレの勤務しているコンビニの常連さんじゃないか……!)
彼女はオレのことなんて知らないかもしれない。だが、オレは知っている。知っているどころか、好意に近い感情すら抱いていた。愚直な表現をするならば、オレは彼女のことが好きだ。でも立場上、なかなか声を掛けられずにいた。店員と客、彼女との関係はそれ以上でも、それ以下でもなかった。その彼女がいま、目の前で襲われている。
「どうするんだ?」
件の女は問う。
「……」
目の前には喧嘩慣れしていそうなヤンキーが三人、周りに人はなし。彼女を助けられるのは自分だけの様相らしい。足がガタガタ震える。武者震いか、いやそんな格好の良いものではない。ただただ、ビビッているだけだ。オレの名前は高橋勇翔、勇ましく翔ぶ、と書いて、勇翔だ。しかし見ての通り、勇敢でもなければ、翔ぶような活躍をしているわけではない。完全なる名前負け、現実は非情だ。
(でもここで引き下がっていいのか……?)
自分に問いかける。乾いた雑巾を絞るかのように、良心を絞り、勇気の滴を渇望する。
「力を貸して……くれないか?」
オレは件の女を見て言う。
「一つ目の望み……聞いてやる」
「あいつら三人、まとめて倒せる力が欲しい……今だけでいいんだ、頼む!」
藁にも縋る思いだった。どうせ叶いっこない、ダメ元でその女に頭を下げる。
「……分かった」
そう言って女はオレの額に手をかざす。身体に特段の変化があったわけではない。ただ額に熱いモノを感じる、それだけだ。
「お前の望み、叶えてやったぞ! さあ、行くがいい!」
女は高笑いに笑う。
(ええい! こうなったらヤケだ!)
「おい! お前ら、何してんだ!」
語気を強めて言ったつもりが、あまりの緊張で声が裏返ってしまった。ヤンキー達は一瞬ポカンとした様子だったが、一同にゲラゲラと笑い始めた。
「おいおいおい、どうしたおっさん! こっちは楽しくやってんだ。邪魔すんなよ、なあ?」
その内の一人が近づいてくる。心臓は今にも飛び出しそうな勢いで高鳴っている。モタモタしている間にも、一歩、また一歩と詰め寄って来る。そして拳を振り上げた。
(もうダメだ……! やられる……!)
そう思い、力を込めて身構える。
(……えっ?)
拳が遅い、遅すぎる。まるでスローモーションみたいに見えるではないか!
(これなら交わせる……!)
ひらりとその拳をかわして見せると、ガラ空きになった腹部めがけて、渾身の一撃をお見舞いした。
「……ぐぅ」
人生で初めてヒトを殴った。どうやったかは分からない。ただ男が目の前でうずくまっている。バタバタとまな板の上の魚みたいに動いてはいるが、立ち上がる気配はない。
「お前、よくも……!」
残りの二人も襲い掛かってきた。だが結果は同じだ。文字通りの瞬殺、秒殺でオレ自身も驚く。三人を片付けると、彼女の方に向かう。
「だ、大丈夫……?」
「あの、ありがとう……ございます」
涙ぐむ目の前の女性を目の当たりにして、ひどく動揺する。ここで黙って抱きしめるなり、帰り道を送ってあげるなり出来れば良いのだが、それは出来なかった。と言うか、そこまで頭が回らなかった。喧嘩は強くなっても、結局オレはオレのままだった。
「き、気を付けて帰るんだよ……!」
そう言い残して、逃げるようにその場を去った。
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「やるじゃないか、ボンクラ! 少しは見直したぞ!」
「ありが……ってなんだよ、そのボンクラって!」
「オレは勇翔って言うんだ!」
先ほどの出来事からもう十分以上経つのに、まだ胸の鼓動が収まらない。それに殴った方の拳もズキズキと痛み出した。
「でもホントに喧嘩が強くなるなんて、思ってもみなかったぞ!」
「だって相手の拳が、こう、スローに見えたのさ!」
「一層のこと、格闘家にでも転向しようかな!」
ゆっくり拳を振り下ろしながら、饒舌に話す。ここまで朗らかに話すのはいつぶりだろうか……。
「それはやめときな」
その場に水を差すように冷静な口調で女は言う。
「えっ? どうして?」
「自分の言ったことをよく思い返してみろ」
――あいつら三人、まとめて倒せる力が欲しい……「今だけ」でいいんだ、頼む!――
――「今だけ」でいいんだ、頼む!――
――「今だけ」――
「おい、ちょっと待て!それはない!言葉のあやみたいなもんだろ……」
「ダメだ、自分の発言には責任を持て。お前も大の大人だろ?」
チラッとこっちを見やると、女は歩みを早めた。
「おい、ちょっと待てって!」
オレはその背中を追うようにして、来た道をずんずん戻って行った。
次話で転生します。




