第2話 3,4
3.
「ふふ。ウルトラマンとゼットンだ」
ただしちゃんは主翼に描かれた絵を満足げに眺めた。
シルバーと赤のウルトラマンがスペシウム光線を出す構えをし、
暗黒の色をしたゼットンが闇に不気味に光る体を向けて対峙する構図だった。
追いつめられた正義の味方の悲壮な姿を描いた図が
迫真のドラマとして子供の心を掴んでいた。
「エイトマンだってカッコいいよ」
とおるちゃんはカラーテレビなのに白黒しか映らないアニメをいつも熱心に見ていた。
足が新幹線のように速くてしょぼくれた悪を次々と懲らしめていく真面目なヒーローだった。
日本人の鏡だな。
左官屋のおじさんは日に焼けた顔を子供たちに向けて満足気に言った。
悪の親玉だってとっちめられたらちゃんと改心するのだった。
「まーくんは本物の飛行機だね」
ただしちゃんは一人だけ変わった図柄を買ったまーくんの顔を
下から覗きこむようにして尋ねた。
「それ何ていう飛行機?」
とおるちゃんが反対側から目をまんまるくして不思議そうだった。
「メッサ―シュミット。ドイツの飛行機」
政雄は鼻の長いスタイルのこの飛行機が好きだった。
「ドイツ?」
「遠い国だね」
ますます目を丸くするとおるちゃんに兄のただしちゃんが
通りの車を眺めながら答えてやった。
「遠いってどのくらい?」
とおるちゃんは夏の雲を眺めた。
「うーんとね。汽車に乗って次の朝に着く位かな」
政雄は去年九州のおばあちゃんに会いに行ったことを思い出した。
「じゃあ。やっぱり遠いや」
「うん」
二人の両親は共に京都の生まれだったので関西を出たことがなかった。
歩道は雨の滑り止めとして十字に目切りがしてあるのだが、
その十字が時折悪戯気に歪んでいく。
細くなったり太くなったりして政雄はその度にゆらりゆらりと
人形のような足が交差しそうになるのだった。
夏の生気は街角をすり抜けて行くたびに
片栗粉を加えたようにだんまりとして重くなり、
街は透明なアクリル板を何枚も嵌めたように一瞬一瞬が閉じ込められるのだった。
街路樹の小さなけやきが伸びやかなシルエットを歩道に投影させている時、
空がにわかに天上からすぐ隣の民家の屋根の傍まで降りてきて、
政雄たちは人々の歩く姿も忘れ、
通りゆく電車のガタガタと揺れる音も届かなくなり、
あれ程忙しかった車もぴたりと止まってしまった。
空が青く広く飲み込むように政雄たちを包み、
壁があるようでない不思議な空間に政雄たちが染まっていくと、
体の腕や脚は政雄の体から離れ、
空の広がりが政雄たちの広がりとなり、
どこまでも境のない鷹揚さを心地よく感じるのだった。
「空が青いね」
「そうだね」
「地面も遠く感じるよ」
大橋は古い石橋だった。欄干は風化して擦り切れていた。
過去を忘れて通りゆく人影が橋を古ぼかしく色を消してゆき、
未来へ走りゆく車が肉体的な疲労をもたらし、
ただかたくなに鉄にこだわる電車だけが大橋と共鳴してがたがたと揺れ、
またひとつ博物館のような中に閉ざされたものとして押し込められていくのだった。
政雄は大橋の風景を眺めた。
通りの一部として橋は連続しているはずなのに政雄にはそうはみえなかった。
橋は通りを越えまっすぐに青い山々につながっていた。
山は裾に広く厚ぼったくて
思春期を迎えた少女のように複雑なものを抱えつつ
変貌としようとしていた。
緑の境界は下から上へと、零から有へと一つ一つが交錯している世界なのだ。
生命の力強さが空漠たるインクの一滴も満たない存在へと対峙している。
掴みどころのない世界が山のベクトルさえ吸い上げようとしている。
「ねえ。山がきれいだね。ただしちゃん」
「うん。山が唸っているよ。」
「山が歌っている。そうだね。まーくん」
「あーあ。あーあ。て言ってるよ。とおるちゃん」
「ぼくどこかで聞いたことあるな。たぶんお母さんのお腹の中だよ」
「うっとりしちゃうな。なんかにこにこするね。とおるちゃん」
「だからぼくはとおるがいつまでも笑っているから、狭いお腹の中でとおるを蹴ったんだよ」
「そしたらね。おかあさんがね。いつもすぐね、ぼくをお腹の上からさすってくれたんだよ」
「だからとおるはいくつになっても甘えん坊なんだよ」
政雄は山がゆっくり歌を歌いながらこちらへ近づいてくるのを感じた。
山は上に向かって伸びていくのではなく横へ横へと広がるものだった。
緑の火はめらめらと政雄の心に映って燃えている。
政雄はすぐ傍にある欄干の柱を触った。
白いソフトクリームのような格好はつるつるとして肌触りがよくひんやりと冷たかった。
* * *
大橋の下には当然のように川が流れている。
条理である。
橋が前後なら川は左右である。
二つの世界は交差するものの決して混じりあうことはない。
一瞬同じ空間を共有してもすぐに別れてしまうのだった。
だから政雄は時々橋の上から川を一心に眺めた。
涙を流しそうになりながらいつまでも川を眺めた。
広川は今涼しげに流れている。
小石をたくさん拾っては無数のこぶを作り、
水の芝生はトンボや小魚の遊び場だった。
さやさやと草が問い掛ければ川は冷風を提供し
草花はお礼のお辞儀をして太陽の容赦のない光線を遮っている。
「うわあ。たくさん人がいるよ」
とおるちゃんは豊かな川の流れに興奮していた。
「気持よさそうだな。泳ぎたいな」
短パン姿のただしちゃんは柔らかそうな、
そっと指を押し付けてもすうと吸収してしまいそうな脚を
惜しげもなく晒してぴょんぴょん跳ねた。
「小魚いっぱいいるね」
政雄は水草の陰に群れている姿をみつけて声を上げた。
「行こう」
ただしちゃんが掛け声を掛けるとみんな一斉に草むらの階段を駈けていった。
4.
川は豊かに流れる。水量がいつも一定で同じように流れる。
どんなに雨が降らなくても広川程の大きな川は決して涸れることはない。
だから政雄はその生命力の豊かさに惹かれるのだった。
そして毎日水がなければ政雄は生きていけない。
政雄がそっと手を入れればその冷たさに仁王様のような強さを感じる。
政雄の手をかき分けて流れていく姿に
母親が好む絹のハンカチのような光沢としなやかさを感じる。
形があって形がないもの。
それは川であり心だった。
だから豊かな川の姿は政雄の心をとらえて離さなかった。
川はいつまで見ていても飽きないのだった。
反対に河原は川のなれの果ての姿だった。
川がいつまでも流れていくためにはいつまでも古いものにしがみついてはいけない。
河原の小石たちは捨てられて白々としていた。
小石たちの一つ一つが地獄に送られた餓鬼どもの顔に見えなくもない。
目は白眼を剝き口を半開きにして長い舌を出している。
花を付けることを忘れた草が生ぬるい風にさよさよと揺れている。
大橋の下は子供たちの遊び場だった。
大人たちの世界の喧騒は遠く
依然として市電の石畳みを刻む音や車のエンジン音が聞こえてくるだけで
誰も「地上の天国」に関心を払う者はいなかった。
「まーくん、風が吹いているよ」
ただしちゃんの前髪がさらりと広いおでこを撫でた。
ただしちゃんはにこりとして風の来る方向を眺めた。
川の向こう岸は信号が赤に変わって車が前から順に並んでいく。
市バスもトラックもタクシーも。
精密な秒単位で計算された製造工場で突然機械が止まったように、車が止まって行く。
歩いている人たちも立ち止まらざるをえない。
行き先を忘れ仕事を忘れ育児を忘れた人たちが
はっと何かを思い出したかのように一斉に河原の方を見ている。
政雄は遠くから並んでいる人たちの顔が見えた。
ぶうん。ぶうん。
政雄たちの飛行機が河原を舞っていた。
空気を捉えた飛行機は思いのほか自由に長く空を飛んでいた。
買った時は十円でも今は政雄たちの心を乗せて大空を滑空していた。
それは政雄には足下に太平洋を捉えサイドにエベレストを拝むということと同じだった。
そして政雄たちにも大人たちにも共通だったのがどこまでも広がる無限の空を我が物にしているという優越感だった。
「まーくんの戦闘機はよく飛ぶね」
とおるちゃんが羨ましそうに見上げていた。
やっぱりエイトマンは地上を走るのが得意だった。
空へ飛び出してはすぐに地上に引き返してきた。
しかもこのエイトマンは忍者ハットリ君の血も流れているようだった。
草むらに姿を隠してはとおるちゃんを悩ませた。
「ちぇ。まーくんの方がよく飛ぶなあ」
ただしちゃんは本当に悔しそうだった。
ただしちゃんは風を計算して上手に投げた。
いぶし銀のウルトラマンのコスチュームがきらりきらりと旋回して優美だった。
ウルトラマンがゼットンを相手に空中戦を挑んでおり、
そのドラマは緊迫した展開をしていた。
しかしいつも最後はウルトラマンは力尽きて地上に落下してしまうのだった。
やはりウルトラマンは地球では3分以上持たなかった。
地上に墜落した飛行機はゼットンの黄色いシンボルが不気味な光線を放っていた。
実際政雄の飛行機は、
きらきらとダイヤモンドが刻々とそのマイクロ級の分身を周辺に送り続けるように
光彩を放っていた。
それは戦闘機と言うよりは銀色の燕のように
上空を滑空してはひらりと翻しまたスピードに乗って飛んでいた。
山から吹き下ろす風が川に乗って運ばれその風が次から次へと翼を押し上げていく。
政雄の飛行機は決して地上に降りて来ないのだった。
まるで地上に降りたらその命を絶たれてしまうがごとく
生きている限りは飛び続けると誓いを立てているかのようだった。
上空を捉えていれば石橋を渡る電車も向こう岸で停滞を余儀なくされているバスも周辺を歩く通行人もその支配に入るのだった。
政雄は得意満面だった。
みんなが政雄が飛行機を飛ばす様子を眺めた。
政雄は上流から風が来るのを狙って斜めに投げた。
飛行機は子供たちの希望だった。
わあっという歓声がやがて沈黙へと変わる。
瞳がきらきらと輝きじいっと飛行機の行方を見つめるのだった。
子供たちの心を乗せた飛行機は羨望の眼差しに支えられていつまでも飛び続けるのだった。
やがて時間は止まる。
突然河原の石を削る川の営みは止まり、
生活を支えるために瞬間の輝きを遠くに置き去った人々の暗い眼差しは消え、
ただ山は大きく裾野を広げ
どこまでも全ての不安と怖れを拭い去るかのように青く深くなっていくのだった。
そして空は溜息と嘆きで厚く滞留する熱を吸い取るように澄んで高く
穂高の頂きにいるかのようにすべてのものを押し上げて同化するのだった。
それは何かも飲み込むように別次元の時空へと突入する。
記憶という世界へと。
政雄たちは飛行機を飛ばし続けた。
小さな白い靴が小石が転がる様に上がったり下がったりする。
幼子たちはメリーゴーラウンドに揺れるように駆けて行く。
小さな黒髪はくるくると飛び跳ね、
子供たちの穢れを知らない白い肌は柔い光を放つ。
突如風はざわめく。
政雄たちを無視して。
夏の日差しが容赦なく鋼のように突き刺さる。
土手の上では樹々の上に覆いかぶさり黒い縁取りをした緑の葉が群れている。
光が集まってフラッシュライトのように輝いている。
真青な天から光が点となって次々と樹々に集まっていく。
まるで最後はブラックホールに吸い込まれるように
光の雫は水あめのように伸びていく。
光を十分に蓄えた樹々は間もなく激しく鳴き出した。
じいいい。じじじ。
樹々は狂う。
じいい。
音は瞬く間に土手を下り政雄達の元へ届いた。
川は激しく震動し流れは勢いを増したかのようだった。
「あっ」
突然ただしちゃんが小さく叫んだ。
ただしちゃんは飛んで行った飛行機を追いかけて川の中へ入って行った。
ただしちゃんは着陸しようとした飛行機をもう少しで捕まえるところでバランスを崩し深みへと落ちて行った。
「ただし!」
兄の異変にすぐに気がついた弟は叫んだ。
近くに寄ろうとも水が怖くて近づけない。
恐怖に顔を強張らせるしかなかった。
政雄も駆け寄ったが二人して見ているしかできなかった。
ただしちゃんは手足をばたばたさせて浮いたり沈んだりしていた。
白い腕が何かを掴もうと必死にもがいていた。
小さなさざ波がただしちゃんのまわりをぐるぐるととりまいている。
その間にも流れに呑まれてただしちゃんは悪魔の黒い腕に抱かれるように政雄達からどんどん遠のいていた。
政雄達が見えない手綱で必死で掴もうとしたことも限界に達した時ただしちゃんの姿は見えなくなった。
ああ、と政雄が悲鳴を上げようとした時だった。
ザブン、と水が跳ねあがり、黒いバネのような体が川に飛び込んだのが見えたのだった。
やがてその少年は泣きじゃくるただしちゃんを腕に抱えて引き上げてきた。
ただしちゃんは無事だった。
恐怖におびえて大きな声でいつまでも泣いていた。