玖話
ラーメン屋というものは不思議である。いや、ラーメン屋に限らず、和食屋でも洋食屋でもカレー屋でも、はたまた焼き肉屋でも良いのだがこの場合はラーメン屋にしておこう。例えば、店に入るまでは学校の課題を憂鬱に思ったり、部活の先輩にどう愛想を振舞えばいいか。どうすれば誰かを隠れ蓑にして自分が傷つかない側でいられるかを考えていたりする。社会人になれば仕事のミスに後ろ髪をひかれたり職場間の人間関係を煩わしくなってため息が2つ3つと出てくるものである。
そんな時、ふとラーメン屋に入る。すると、そこは自分自身を別世界へ案内するかのように迎え入れてくれる。店内に溢れる香りが、家庭では感じられないカウンター席の少し狭い感じも、座敷のゆったりした感じも。五感を刺激する感覚は、普段の生活では味わえないワクワクを与えてくれるものだ。
「えっと……私は塩ラーメンお願いします」
「俺は味噌チャーシュー麺。……え、大盛り良いんですか? じゃあ大盛りでお願いします」
「……志那そば」
「アッシは炒飯と餃子2人前、後志那そばチャーシュー。トッピングに煮卵とメンマとネギお願いしますっす」
桟、晃、残、真田の順にそれぞれ注文をする。あれから後始末を真田の部下たちに任せ3人は本当に調書を30分で終わらせた。真田にそれを預けると、残は桟に連絡をしてから彼女を迎えに行った。もう8時になろうということで、彼女は夕飯の準備をし始めるところであったが久しぶりに皆と食事が出来ると喜び、4人は合流している。真田が案内したのは高級そうな中華料理店ではなく、街中から少し外れたところにあるらーめんという暖簾の出ている店だった。厨房の見えるカウンター席に座ると好きなものを選んでくださいと言われ、3人はそれぞれに好きなものを頼む。
「……てか真田さん、良くそんな食いますね」
「そうっすか? これくらいアッシにとっちゃ普通っすけどねー。食べられる時食べておかないと力でないですし。それこそ残サンも晃サンももっと一杯食わないと。部活終わりの学生サンならこれくらいは平気で食えるんですよ?」
真田は半年以上前の週刊誌をペラペラとめくりながら言う。うわ、この事件懐かしいっすなー。確かこの女優さん怪我して今は休業中っすよねー。等と言っている。
「真田さん、お兄ちゃんたちも仕事だったんですか?」
「ええ。残サンも晃サンも優秀ですからね。すぐに仕事やっちゃいましたよ。アッシが来た時にはもう後始末だけって感じだったっす」
「そうなんですね」
桟はほっとした様子で言う。桟としては残が怪我をしていないか。それだけが心配なのだ。残はバイト代を生活費と称して桟に殆ど渡しているが正直彼女は物欲が今どきの女の子とは比べ物にならないほどないし、自分の意見や思いなどをまるで言わない。つまり最低限のお金で後は何も必要としていないのだ。その様子は彼女の友人達曰く、彼女が何を考えているのか時々全然わからなくなる。と言われるほどだ。
「桟ちゃんサンはお家でご飯作っていたんすか?」
「学校の宿題やっていました。お兄ちゃんから電話貰うあたりにそろそろご飯作ろうと思っていたところです」
「そうなんすか! 危ないところでしたねー。アッシは料理をしても、大体の確率で鍋を真っ黒こげにしちゃいますからねー。おかげでお弁当でも作ろうものなら、黒い卵焼きに黒いウインナー。黒い目玉焼きに黒いお新香に黒いごはんになっちゃいますよー」
「いや、真田さん。前半はともかく後半なんでもう一つ卵料理入っているんですか? しかも黒いお新香に黒いごはんって、なんでそっちも炒めてんですか」
「いや、炒めたらおいしいかと……」
「それは炒めているんじゃなくて、食材を痛めているだけですよ」
晃が苦笑いを浮かべながら突っ込む。どこまで冗談なんだか。そんなことを話している3人をしり目に残は退屈そうな目をしながら頬杖をついていた。その目は厨房の中でせわしなく働いている白髪が目立つ壮年を迎えたであろう店主と20代半ばと思われる茶髪でタオルをバンダナのように頭に巻いた青年の手元へと向かっている。その手は、残達より先にいる客たちが頼んだのであろうレバニラ炒めを大きな中華鍋で作っていた。鍋は大きく振るわれ、野菜や肉が鍋の中で踊りまわっているようだ。ダンスで言えばこれがタンゴの曲なのかワルツの曲なのか。少なくとも盆踊りでないことだけはわかる。右手に持った大きなお玉杓子に味付けのための砂糖や醤油を起用に掬い入れ、全体に回し入れていく。
「……」
残の視線に気づいたのか。店主はチラリと残を見た。目線があってしまったからか、残は途端に気まずく感じ視線を外す。一方の店主は視線を再び中華鍋のレバニラに戻すとカンカンという音を立てながらお玉でレバニラを皿に盛りつけていく。
「お兄ちゃんどうしたの?」
「……いや、何でもない」
と、残の桟の間に店主の妻と思われるおばちゃんがやってくる。
「お待たせいたしました。こちら塩ラーメンです」
「あ、私です」
「後味噌チャーシュー麺と。あ、後そこの目つきの悪いお兄ちゃん」
「……なんすか」
目つきの悪い兄ちゃんですぐに反応出来てしまうのは本人としても嫌だったが、このメンバーでは明らかにその条件に合うのは残しかいない。返事をした残の前に、正規のサイズよりも小さい皿に乗ったレバニラ炒めが出てくる。
「……俺、頼んでないんすけど」
「あら、そうなの? 間違えちゃったかしらね? まあ、うちのが出してきたし。良いから良いから食べちゃって」
ヒラヒラと手を振りながらおばちゃんは戻っていく。厨房の中で鍋を振る店主は残をチラリと見ると、コクリと頷く。何故か残にはその動作が、良いから黙って食え。そんなふうに聞こえた。
「……真田さん。飯、追加で注文して良いっすか?」
「勿論良いっすよー。すいません、白ご飯お願いしますっす」
「じゃあ、真田さん。お先に頂きます」
「同じく、いっただきまーす」
「……頂きます」
真田を除く3人はそれぞれ食事を始める。晃は味噌ラーメン独特の太麺をチャーシューでくるみながら啜り、桟は一口一口をレンゲでミニラーメンにして食べる。ニラレバで白飯を食べ始めた残のもとにもすぐに志那そばが来て白飯、ニラレバ、志那そばのローテーションが口の中を満たしていく。
「美味しそうっすねー……良いなー……」
物欲しそうに隣の残を見る。残はチラリと真田の方を確認すると、すぐにニラレバを掻っ込む。
「あー! 残サン鬼畜―!!」
「……あんなに頼むからでしょうが……」
餃子2人前に炒飯。その上トッピングをいくつもした志那そば。これだけのものを頼んでおいてどの口が言うものか。ふと、桟の様子はどうかと見てみると晃に塩ラーメンも美味しいですよと言ってスープをレンゲで差し出している。晃は晃でドギマギしておりこのまま飲んでいいものかそれとも自分のレンゲで飲むべきかということを必死に考えているのが見て取れる。
「……」
再び残は食事を始める。今日吐いた分を全て取り戻すかのように。足りないものを埋めるように目の前の食事を喰らった。
それがどれだけ何をしても決して埋まらないものであったとしても。そしてそれがわかっても尚、残は喰らった。時間が彼等を許す限り。