あれから10年経ちました
月が綺麗な夜でした。覚えています、雨上がりのアスファルトに広がる水たまり。そこに映った丸い青月。
中学三年生だった私は、あと一ヶ月ほどで高校受験を控えていて。
せっかくエスカレーター式のお嬢様学校に入ったんだから、わざわざ勉強なんかしなくても形式だけの試験さえ受ければ自動的に受かるのよ。
というお母さんの呆れた声を押し切って、受験専門の大手塾に通う毎日。
本当は勉強なんかしたくないのですが、塾に行けば会えるから。
公式を詰め込まなきゃいけない私の頭は、あの時は、あの人の声で、顔で、仕草でいっぱいで。
低い声で数学の問題を解く手順を教えてくれる時、たまに私の席まで来てくれて、そっと解答用紙を覗き込む先生。
タバコの香りが鼻腔をくすぐって、私に匂いがつけばいいのに、そうしたら家に帰っても先生と一緒にいるみたいなのに。って思っていました。
「今日も番号、渡せなかったなぁ……」
つぶやいて、夜空を見上げると、それはそれは綺麗な満月。感傷に浸る間もなく、私のお腹がぐうぅ、と鳴って、慌てて周りを見渡します。
良かった、誰もいません。
塾の帰りはいつもお腹が空いています。恋ってお腹が空くものなのでしょうか。
いつもなら早く家に帰ろうと家路を急ぐ私ですが、その日はなんだか気持ちも落ちていて、雨上がり独特のしけた空気がより一層気分を暗くさせていて、なんだか普段と違うことをして憂さ晴らしをしたい気分をでした。
だから、なんとなく、水たまりに映る月を蹴ってみたのです。
バシャンという水音に、制服に飛び散る水飛沫。
当然の結果に顔をしかめてスカートの裾を払い、顔をふとあげると。
「綺麗な月だね、お嬢さん」
すぐ目前に腕組みをして立つ人影。
月光を背に浴びて、暗がりでうきあがるその人は、とても綺麗な……綺麗で、気持ち悪い男性でした。
「10年に一度だけ、異界から花嫁を連れてくることが出来るんだ。異界に降りて、一番最初に会う子にしようと思っていたら、君がいた」
わけのわからないことをいう唇は女の私よりも何だかなまめかしくて、ぎらりと光るルビーのように赤い目でじっと見つめられていると、背中にじわじわと汗が出てくるのを感じました。
すらりと伸びた長身から異様な禍々しさを放ちながら、男は言いました。
「ずっと見ていたんだよ、君のこと」
とっさにくるりと回れ右をして逃げようとしました。でもそれは、彼を面白がらせるだけだったのです。
背後から、いきなり強い力で腕を引かれ、悲鳴をあげようと開けた口も塞がれて。
「さあ、さよならを言って」
男は私が蹴散らした水たまりに私を難なく引きずっていきました。不思議なことに、男が水たまりに入っても、何の水音も立たないのです。
「君の世界にね」
足元に青い月をたたえてそう言う男の口元が、笑みの形に吊り上るのを、私は遠のく意識の片隅で眺めていましたーー。
そして、私は水たまりから、落ちていったのでした。
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嫌な夢を見た。さらに寝起きは最悪だ。朝からけたたましい花火の音、そして火薬の匂いで目が覚めたのだから。
祝砲と謳った花火は昨晩から続く乱痴気騒ぎのせいで、今や酔っ払いが一気に酒をかっ喰らう時の威勢付けでしかないらしい。花火の弾ける音とともに、酔いの回った笑い声がそこかしこに響いている。
「あのロリコン野郎……!!」
窓から外を見下ろすと、忌々しい美形の似顔絵が描かれた旗があちらこちらにはためいていて、吐き気を催す。
「人のこと異世界に連れてきておいて、10年経ったら鞍替えたぁいい度胸してやがる。おまけにポンポンポンポン子作りしやがって、、、」
【祝!第三王子ご誕生】とでかでかと青空に大きく書かれた魔法文字は時々光を放って存在を主張し、これまた低血圧の私の頭をいい具合に痛めてくれるのだ。
こめかみを抑えながら呻いて、枕元にある鈴を鳴らした。
鈴といっても私はその音を聞いたことがない。だって振っても音なんてならないのだから。かわりに虹色の光が鈴のまわりで火花のようにきらめく。
不思議な世界。
嘆息する間もなく、すぐにドアが開いて、ためらいのない足音がこちらにやってきた。
「ショウコ様、お呼びですか?」
天蓋付きベッドの手前で跪く気配。薄い天蓋越しに、ここ10年で慣れ親しんだいつもの銀髪を見て少し心が和んだ。
彼の名はレシューアレア。私の護衛という名の、、、目付役だ。多分。長ったらしいので私はレシューと呼んでいる。
「レシュ、水下さい。あと、朝ごはんいらない」
「承りました」
低くて静かな声は、幼い頃の初恋の人を思わせる。
ま、初恋の人といえどももうあれから10年経つらしいから、もうとっくに結婚してるでしょうね。こっちの世界とあっちの世界、時間軸が同じなら。
「あのロリコン野郎にさらわれてなきゃ、今頃私だって結婚して……」
思わず呟いたら、レシューの水色の目が光った。
「さっさと貞操捧げてたらよかったんじゃないですか?あなたがいつまでも勿体振るからカイル様も次にいったのでしょう」
レシュは、顔も整っているし、私が不本意ながら暮らすこの宮殿でも女性たちから大変人気があるのだが……毒舌なのが、玉に瑕だ。そして、その短所を多くの女性たちの前では隠している腹黒さも。
「あーのーねえ!さらわれて連れて行かれた挙句、王子様と恋に落ちてキャッキャウフフ、、、ってどこのビッチの話よ!」
「現王妃様の陰口は慎みますよう」
「王妃様ったって16才の小娘でしょうが。それもおそらく日本人。カイルがいくら老けるのが遅い人種だからって、、、10代連れてくる?ないわー、まじキモい。ロリコン野郎!」
「あなたも、連れられてきた当初は健気でいたわしくて、庇護欲と嗜虐心をそそられる可愛らしい少女でしたのに………まあ私は今のあなたの方が好きですが」
つらつらと毒舌を並べる彼の言葉の後半は、立て続けに鳴り響く外の祝砲にかき消されて聞こえない。
チッ、となぜか舌打ちをするレシューに首を傾げつつ、私はウーンと伸びをした。
さあ。
今日もまた、異界での1日が始まる。
続編もあったり。