二枚舌のウロボロス
潮の香りが、鼻をくすぐった。
遥か後方から、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
みんな、きっと久しぶりに来た海辺で、遊んでいるんだろう。
叶うなら混ざりたい所だったけれど、今日の僕のファッションは海で遊ぶのには適してない。それに、それよりも心惹かれる場所があった。
顔を上げる。すると、夏と同じように二十段近い階段の上にその建物はあった。
僕らが出会い、そして一週間を共に過ごした施設だ。
少し古いけれど海が近くにあり、自然に触れられるためか近隣の小中学校から訪れる人も多い。
今日もその例外ではないらしく、玄関先には歓迎! ○○学校と書かれた看板が立っていた。
その看板をスルーして敷居をまたごうとして、一瞬躊躇するように足を止める。
夏は何度も越えた敷居だ。あの時はここに住んでいるのと殆ど変わらない状況だったから、入り口で躊躇する事なんて無かった。
けれど、今は違う。
僕らはこの場から、あの時卒業したんだ。
ここは既に僕らの場所じゃない。
そんな想いが、不思議と頭の中に生まれていた。
ここに入っていいんだろうか、そんなことを考えていたらいつまで経っても中に入る事なんて出来やしない。
えいや、っと内心で声を上げながら、僕は玄関ホールで靴を脱いで、いつかと同じように自分の部屋番号が書かれた靴箱に靴を入れようとした。
でも、そこには見知らぬ人の名前が書かれた靴が入っている。
……やっぱり終わったんだな。
そんなことを考えながら、僕は靴を端っこの方に置く。
正面を向けば、記憶そのままの状態ででかい階段があった。ここから二回に昇って、その先にあるもう一つの小さな階段をもう一回昇ればかつて僕が寝泊まりしていた部屋だ。
懐かしさを噛み締めながら、階段を昇っていく。すると、上の方からピアノの音が聞こえてきた。
昇り切ってから、音の聞こえる方へと目をやる。
人だかりに埋もれてよく見えないけれど、その中心のピアノに座っている人物は予想が付く。合宿三日目に行われたタレントショーで、見事な演奏を聴かせてくれた彼女だろう。
耳に届いてくる音から、当時のことが思い出されてきた。
ピアノから大分こちら側にある室内ベンチに腰掛けて、人だかりの方へ視線を向ける。
楽しそうに笑う合宿メンバーの姿と、時々聞こえてくるピアノの音。
見ているだけでなんだか楽しくなってきてしまって、微かに笑みを浮かべながら目を閉じた。
思えば、生まれてから最も濃密な一週間だった。
一日目は、英語合宿と聞いていたせいでひどく緊張していた。英語ぺらぺらな大学生と、自分と同じように緊張している高校生に挟まれて、より不安が募っていたように思う。
二日目は、グループで一日の感想を言っている最中に一人が泣き出してしまって、それ以外のことは吹き飛んでしまった。英語喋るのが苦手だっていって泣いている女の子に、パニクりながらも何とか気楽にしてやれないか、なんて無い知恵絞って、開口一番”take it easy”なんて言ってしまったのは、今からしても赤面ものの記憶だ。
三日目は、タレントショーがあった。僕は「どうせ僕には出来ない」なんて言って、参加することを考えもしないまま観客として他のみんなのショーを見て、ひどく後悔したことを覚えている。周りから「無理だ」と言われても、「やってみなきゃわかんねえだろ」と挑戦するようになったのは、この後悔があったからだと思う。
四日目は、大学生でなく高校生も自分の好きな分野についての先生になって、セッションをした。僕より一つ年下の子が、特殊相対性理論について語るのを聞いて、天才がこの世に実在することを改めて実感した。
五日目は、夜の浜辺でグループのみんなと話をした。互いの顔が見えるか見えないかというくらいの暗闇と遠くから聞こえてくる潮騒が心をほぐしてくれて、普段は口に出さないような本音まで言うことが出来た気がする。否応なく終わりが訪れることを自覚したのも、この日だ。
六日目は、肝試しをしたりキャンプファイアーをした。最後の夜というのもあっていつもの時間に寝るものは殆どおらず、それぞれが心ゆくまで語り合っていた。
七日目は、別れの日だった。最後まで泣かないつもりでいたのに、終わってしまったことを理解した途端涙が零れるのを抑えられなくなってしまった。あんなに泣いたのは、本当に久しぶりだった。
あれから半年も経ったのに、色褪せないものだ。
そんなことを考えていると、隣に誰かが座ってくる。
「何だ、お前か」
「目つぶってどうしたよ。疲れたか?」
「誰かさんがアホ言って、バスの中で騒ぎまくったせいでな。もうちょい抑えろっての」
「え? これが普通だけど」
アホか、と言い捨ててから、ピアノの方へと目をやる。いつの間にか、高校生も大学生も大半が集まっていた。
視線を巡らせれば、懐かしい顔ばかりだ。とは言え、全員が元のままって訳じゃない。特に高一は成長しているのか、記憶よりも目線が高くなっている者も多い。
「何で集まってんの?」
「アレですよ。説明、聞いてるでしょ?」
「アレ? ……ああ」
納得した時、ピアノが聞き知ったメロディーを奏で出す。
それは、この合宿の六日目に歌った曲だ。
私の傍にいて、私を支えていて。そんな想いを宿した、歌。
その曲を聴いて、不意に泣きそうになってしまう。
僕にとって、この歌は別れの歌だったから。合宿の終わりに歌った曲であり、大学生達がそれぞれの場所へ帰っていくのを見送る時も、これを歌った。
だから、この歌を歌うのはあまり好きじゃない。
何とか泣くのを堪えて、最後まで歌いきる。
ピアノの近くで、高校生側の代表がサプライズで作ったアルバムを大学生に渡している。
それを横目で見ながら、時計をチラリと見た。
十六時四十五分。帰り始めなきゃいけないのは十六時五十分だったはず。だから、この再集合はもうすぐ終わりだ。
「夢は、もう終わりか……」
ふと、そんなことを呟く。
それが聞こえたのか、後ろの高一メンバー達が「そんな寂しいこと言わないでくださいよ……」と言ってくる。
僕は、少し慌ててしまった。
そんな雰囲気にするつもりじゃなかったんだ。何となく思ったことを言ってしまっただけで。
相変わらず、間が悪い。
そう自分を責めながら、どうにか空気を戻そうと口を開く。
「夢が終わったら、また新しい夢が始まるんだよ」
誰かが、そんなことを言った。
一瞬、僕は本気で驚きで何も考えられなくなっていた。
いや、小説とかゲームの中では良く聞くフレーズだ。ありふれていると言っても良いかもしれない。
なのに、そんな発想が今ここで出てくるなんて思いもしなかったから。
「夢の終わりは、新しい夢の始まりって事か……確かにそうかもな」
言いながら、発言の主へニヤリと笑いかける。
確かにその通りだ。
始まりがあれば、終わりがある。
けれど、終わりがあれば、いつか始まりがあるのも事実だ。
そんな当たり前の事にも、気づけなかった。
「やっぱ、この合宿に来て良かったわ」
本心をそのまま口に出す。
それは、他の人にとっても同じだったのかそれに同意する声がいくつか上がった。
きっと、これからも僕は幾つもの始まりを迎え、幾つもの終わりを経験するだろう。
この合宿だけがそうじゃない。日々経験していることで言えば、一日の始まりと終わりもそうだし、どんなに続いてほしいと願っても高校や大学を卒業する日が来る。
始まりはいつか終わりを迎え。
終わりはいつか新たな始まりへと至る。
それはきっと悲しいけれど、また新しい楽しみもあるように思えて。
「そういやさ、明日もみんなで集まるって話あるけど……来ますよね?」
ほら、楽しそうな話が転がってきた。
再びニヤリと笑って、僕は聞いてきた子に言い返す。
「もちろん。楽しみにしてるさ」