中編:ロア
まだ夜明けも遠い、暗い時間だ。けれど彼は早々に起きて勉強をしていた。
ふと目を上げたら、窓の外に人影が見えた。一瞬お化けかと思って固まった彼だったが、目がそらせなかったのが幸いして、影の正体を見極めることができた。
「え~と……」
新学期のクラス編成で一緒になった顔だったのだ。気になっていた少女なので、名前はすぐに思い出せた。自分の名と似ているせいもあって覚えていた。
「リオ?」
彼の名はロアだ。
こんな夜中に? と不審に思うと、確かめずにはいられない。角を曲がって大通りに向かって消えた彼女の行き先が海らしいとは、勘で分かった。熱帯夜だ。涼みたくもなる。
それともリオの姿をしたティーヴァかも? などと考えてみたり。
熱帯夜に出没して、徘徊する人の心を抜きとっていくという、お化けの逸話だ。親が子供を寝かしつける際に利用するネタなので、彼はそんなものいるわけないだろと鼻で笑っているのだが。
早めに寝て早朝に起きて勉強するのは、毎日のスタイルである。そうでもしないと中等部の勉強には、そのうちついて行けなくなる予感があったからだ。気軽な子供のままじゃいられない。親が役所なんかに務めてるから、プレッシャーもある。
思えば、ロアも息苦しさを感じていたのかも知れない。ペンライトを掴んで自室の窓から抜け出し、屋根をつたって道に飛び降りる一連の動作には、背徳感があるものの爽快感も含まれていたのだ。
「やあ」
大通りに急いでみたら、やっぱり少女が立っていた。
やけに驚いた顔で「ティーヴァ……!?」と名指しされたのは、ロアこそ驚いたのだが、反応が面白かったので黙っておくことにした。平然と「そうだよ」と応えて、彼女の固まり具合を観察する。
ロアは不思議な気分に捕らわれた。学校での彼女は、すましていて我関せずといった態度である。女子達と群れることもなく、休み時間には淡々と参考書を読んでいる。去年の夏に両親が亡くなったからだと担任が説明したものだったけど、その説明は彼女を助けるどころか追い詰めるものでしかないんじゃないか、と子供心ながらに感じたものだった。
だからだろう。リオの存在が目の端に映るようになった。でも彼女の目には、俺なんてカケラも映ってないんだろう。とは頭では諦めていたので、こうして真実を実感させられても何とも思わな……いや。うん。ちょっとショックだったけどね。
ティーヴァと叫ばれた瞬間、ロアはコイツをからかってやろう、と決めた。
どうやらペンライトの存在には気付かれていない。素早く隠すと、ロアは手を差し出してみた。
「心を貰いに来たよ」
案の定、彼女は手を出してこない。怯えているのだ。学校では怖いものなんてない風に装っているのに、あんたたちガキよねと言わんばかりの目つきなのに、ティーヴァを信じているのだ。
「大丈夫、怖くないから」
「でも、あなたって心を」
駄目だ、こらえきれない。よくポーカーフェイスだよなと感心されるロアだが、とうとう笑ってしまった。お化けを信じる中学生が、まだいるなんて。
じゃあ、ご要望にお応えして演じてさしあげようではないか。などと内心で幕開けを想像しつつ、ロアは言葉を探す。
「オイラは恐怖の心が欲しいわけじゃない。楽しくて幸せな心が欲しいんだ」
お前にはない心だろ?
「だって、どうせなら、そういう心を貰う方がいいじゃないか」
実際、差し出されたって抜きとることなんか出来ないからね。と、内心に笑みを潜ませて、ロアは我ながら上手く言ったなと安堵した。
自分がティーヴァじゃないとバレないうちに綺麗に別れたら、あとは今日の教室を楽しみにするだけである。登校した彼女はティーヴァに会ったと騒ぐだろうか。いや、しなさそうだ。でも俺の顔を見たら、びっくりするに違いない。ここにティーヴァがいるなんてと騒ぐだろうか。怒るだろうか。泣きだすだろうか。
……というロアの予想は、見事に裏切られた。
「ねえ」
何を決意したのか、リオの目が輝き始めたのだ。ふっと嫌な予感が背筋を走っていった。
「心をあげるから、つきあってよ」
どういう結論に至ったのだか、言うが早いか彼女が突然、走りだしたのだ。サンダルを脱いで。大通りを、がーっと。
マジか、この女!?
けれど、すぐにロアも走りだす。心をあげると言って走り出した彼女が次に何をしでかすのだかが、気になったからだ。面白そうだ、と純粋に思った。ふさがれた箱みたいだった彼女が、蓋を開けたら何が飛び出すか分からない、びっくり箱だとは想像していなかったのだ。
走っているうちに、ロアにも分かった気がした。
彼女は、遊ぶつもりだ。
自分が『楽しさ』と『幸せ』の詰まった心が欲しいのだと言ったから、リオは要望に応えんとしているのだ。律儀な娘である。そういえば真面目な生徒だよな、こいつって……などと学校での様子を思い出し、今とのギャップを見比べて、ロアは肩を竦めた。
じゃあ、とことん楽しんで、お前をいっぱい笑わせてやる! だなんて思う自分も相当イカレてるけどね。
「おぉうりゃっ!」
足に力を込めて、下り坂を駆け降りる。階段を一段飛ばしに、飛ぶみたいに落ちていく。相手は裸足だし女の子だ、ちょっと捕まえて怖がらせるのも面白いだろう。
……なんて思ったら、とうとう終点まで追いつけなかったのだ。
くっそう! と最後の階段を2段飛ばしに降りる。勢いが付きすぎて、足を踏み外しそうになる。
「どいてどいて~!!」
振り返って自分を見ているリオが、目を丸くしている。まだ7段ぐらいはあったのに、とうとうロアは全部を一度に飛び降りた。
「だあああぁぁああっ!」
ぶつかるかと思われたが、すいと避けやがった彼女が憎い。いや、怪我などしなくて良かったのだが。これでも運動神経はそれなりにあると自負している。でなきゃ追い越そうなんて思わなかった。着地だって転びはしなかった。
ビターンと響く足の裏が、ちょっとものすごく痛いだけだ。
脳天に響くほどのしびれに、しばらく足の震えが治まるのを待っていたら、リオが弾けるように笑うではないか。
「あ、あはははは、だ、大丈夫!?」
この野郎と思いながらも、ティーヴァっぽさを忘れてはいけない。
「大丈夫なもんか! ものすごく痛いぞ! せっかく追い抜いてやろうと思ったのに、リオは足が速いぞ!」
「追い抜こうなんて考えるからよ」
あ、しまった、名前を呼んじゃった。と内心で舌を出したが、どうやら気付かれていない。もしくはお化けだから名前を知っているのかも、と思っているのかも知れない。
喜色満面で海に走っていく彼女の背中を見ていたら、この機会を楽しまなきゃ損だなと思える。
実際、坂を駆け降りるだけだったのに、まるで空を飛んだに等しい高揚が自分を包んでいる。
躊躇している彼女を今度こそ追い抜いて、ばばばと服を脱いで海に飛び込む。
「あっ」
「ひゃっほーい!」
走って汗まみれになった身体に、冷たい海水が気持ち良い。いつも、きちんと足から水をかけて行って、ゆっくり浸かってから泳ぎだすのですよと注意されている。まるで規則みたいに刷り込まれている教えを無視する背徳感も、悪くない。
とはいえ、いきなりワンピースを脱ぎだした彼女には、度肝を抜かれた。ミスターポーカーフェイスのあだ名を駆使してやり過ごしたが、あまりにビックリして心臓が飛び出たかと思えた。
「この野郎っ」
照れ隠しに波飛沫をぶっかけて、頭からびしょ濡れにしてやる。これはビキニだ、下着じゃない……と自分に言い聞かせて、夜の力か海の力か、普段の自分じゃないみたいに振るまう。
ビキニだとしても相当刺激的である。クラスメイトが皆スクール水着を着けている年代でビキニ少女と遊ぶだなんていう体験は、自分が大人になれたようにも錯覚できる。
誰も起きていない夜の海で少女とたわむれる自分だなんて情景、一生に一度じゃないか? きっと家に帰ったら母さんが起きてて、勉強してたはずの息子が消えたことに驚いてて、俺は外出禁止令を食らうのだろう。警察沙汰にならないうちに帰らないと、魔法が呪いに変わる。空が明るくなってきている。
「そろそろ」
けど、リオも同時に切り出してくれたことには、安堵よりも寂しさが勝った。
現金なものだ。自分は帰らないとと焦ってたくせに、彼女には、もっとずっと一緒にいて欲しいと思うなんて。
ロアは複雑な表情を能面の裏に隠したまま、大通りの分岐点で告白を始めた彼女の唇を、ずっと見ていた。
「これだけ遊んで、私いっぱい笑ったわよ。楽しかった。砂の上を歩くのも気持ち良くて……お父さんと散歩した時のこと思い出して幸せだったわ。お母さんが笑ってくれてる顔を思い出して、幸せな気持ちを思い出したわ」
微笑みに陰りが見えるのは、まだ薄暗いからではないだろう。どこまでも律儀な女の子である。まだロアのことをティーヴァだと信じているのだ。
ロアは、よっぽど俺はお化けじゃないよと叫ぼうかとしたが、言ってはいけないとも悟っていた。彼女の明るさは、自分が人間じゃないから引き出せたものなのだ。だから学校では表現できない想いを彼女は、全部吐き出すことができたのだ。
「だから、あげる。今の私の心なら、ティーヴァにも合うんじゃないかな。おかげで私も最期にいい気持ちになれたし」
告解を聞きながら、ロアは彼女の申し出を回避する方法に頭をフル回転させる。正直に打ち明ければいい、という簡単な話ではない。嘘はいけませんと学校では教えられるけど、でも真実がいいとは決まっていない。
二度と会えない両親を想って、一年もふさぎこんでいたような感受性の高い少女には、さぞ生きにくい世の中だろう。
「ううん、いらない」
なんて言えば君は納得するだろうか。お化けにあげるための『楽しい心』を作ってあげようとまでする、優しい女の子だって。
ロアは「……え?」と毒気を抜かれた顔をしている彼女の頭を撫でたくて抱きしめたくて、困ってしまった。下着の彼女に触ってみたかった気持ちとは、全然違う。
「リオの楽しさは伝わってきたけど、その『幸せ』は今の幸せじゃなくて、過去のものだろ」
両親と過ごした幸せを思い出して、幸せになったリオ。そうじゃない。これからのリオも、きっとずっと幸せでいられるはずなのだ。
「それに、俺は男だから、きっと女の子の心じゃ合わないと思うんだ。リオが『今の幸せ』をゲットできたら、やっぱり抜きたくなるかも知れないけどな」
と、付け足した、この言い訳は少し無理があっただろうか。ロアは早口で、もうひとつ付け加える。
「また会ってみないと、何とも言えないや」
こういう夜が、また来ればいいと願いながら。
「ちょ、ちょっと待ってよ。ティーヴァが女の心だったらいらない、なんて話は聞いたことがないよ」
うん俺も聞いたことがない。
「昔話なんて、あやふやだからなぁ。でも、まぁ俺もあやふやな存在だし?」
真夏の夜の夢、幻だ。いもしないティーヴァになんて、もう二度と会えないものさ。けど「じゃあ」と言いよどむ彼女は、あっけらかんと言う。
「また会おうよ。明日」
明日って。
「これまた残念なことに、俺はいつ出没するか分からない」
次に会ったら、責められるか嫌われるか。どちらにしろ、いい反応は想像できない。いっそ教室にいる俺の存在に気付かないでくれればいいが……と思うも、そうは行かないだろう。
「もう会えないなら仕方がないけど、また会うかも知れないってことで、許してあげるよ」
「許すって……お前、お化けに対して何て言いようだ」
リオとの会話は面白い。あけすけで可愛い。よく笑う子だったんだなと目を細める。
「あんたがお化けに見えないからでしょ」
そりゃあ見えないだろうね、なんてね。
「じゃあ、またね」
と言ってくれる明るさが、このまま消えなければいいけれど、と願った。
少年サイドからの話でまとめてみました。ボーイミーツガールはいいですね(笑)。(7/19 タイトル修正、本文を2つに分けました)