豪雨の夜
1
――雨。
この日は、まれにみる豪雨であった。
ティレンドは、美術館の正門の前に立っていた。
今宵はやけに暗い。理由は単純、街灯がないからだ。郊外に位置するこの地域には、街灯が設置されていない。
ティレンドは、ここまで徒歩でやってきた。そのせいか、傘を差してはいたものの、足元はずぶ濡れになっている。レインコートもびっしょりだ。
美術館の大きな時計に視線をやると、もう二十時を過ぎていた。
いつもならば、十九時で閉館となるのだが、今日は違う。
そうだ。あの予告状――。今日が、まさにその日なのである。
木製の大きなドアを開けて中に入る。
自分の存在に気付いた顔見知りの警官達が、驚いた様子で顔を見合わせた。
ティレンドは、傘立てに傘を刺してから、
「どうも、ご苦労様です」
と、いつものように、そのまま通路の奥へと進んで行こうとするが、
「あの、ちょっといいですか?」
警官の内の一人が、遠慮がちに話しかけてきた。
「あの、たしか、ティレンドさんはこの件から降りて、休暇を取っていたはずじゃ……?」
「ああ、休暇ね……。俺もそのつもりだったんだけど、直前で署長に止められてね……。運が悪いよ、まったく……」
残念だといわんばかりに、肩をすくめてみせる。
「とまぁ、そういうわけで、今日はよろしく」
「なるほど、そうだったのですか。それは失礼致しました……」
「いやいや、お気になさらず。ふぅむ、ミュラーさんには伝えていたはずなんだけど……。まぁ、急にだったから仕方ないか」
ティレンドの代わりとなっていたミュラーに連絡をしたのは、今朝のことだ。
「それでは、これで――」
そう告げると、ティレンドは通路の奥へと進んでいった。
美術館のホールから右手の通路を進み、角を左に曲がって少し歩いたところに、『太陽の絵』がある。
その『太陽の絵』を前に、警備員が左右に二人と、通路に三人。それから、黒いスーツの男が二人――
しんくたんくと、ティレンドの代わりでやってきた、刑事のミュラーだ。
同じ黒のスーツでも、白いカッターシャツに青いネクタイと、清楚に着こなしているしんくたんくと、白のストライプが入っているスーツに、青色のカッターシャツ、赤と紺色の派手なネクタイを身に着けているミュラーでは、同じ黒のスーツでも対象的な印象を受ける。
落ち着いた印象のしんくたんくと、荒っぽい印象のミュラー、といった感じだ。
こちらに気づいたミュラーが、手を軽く上げて近づいてくる。
「どうも、今日はよろしくお願いします」
ティレンドは軽く会釈をする。
ミュラーが、ティレンドの肩を叩く。
「しかし、君も運が悪いな。急に連絡をよこしてくるとはね」
「ええ、あの署長にも困ったものですよ……。あれから一度断ってですね。やっとこさ休暇の約束を取りつけたと思っていたのに、「やはり君にも協力願いたい」なんて、急にいい出すもんだから……。おかげさまで、計画していた旅行が台無し。おまけにキャンセル料まで取られるとは……」
ミュラーが、大きな笑い声をたてる。
「確かに! あの署長ならありうることだ。運が悪かったと思って、潔くあきらめるんだな」
彼はまたティレンドの肩を叩く。
「こうなりゃ、この怒りを怪盗シャオメイとやらにぶつけてやりますよ」
「はははっ! それは頼もしい」
ミュラーは、隣に立つしんくたんくにいう。
「彼は優秀な刑事でね。その彼がやる気になっているんです。なので安心してください。今日こそ奴を捕まえてやりますよ!」
「は、はぁ……。よろしくお願いします……」
やはり心配なのだろう。しんくたんくは顔色が良くない。眠れなかったのだろう。
「大丈夫、必ず捕まえて見せますよ」
ティレンドは、しんくたんくに頷いて見せた。
2
予告状の時刻、二十三時が近付いていた。
これまで、気になる動きは特にない。
ティレンドはあたりの様子に注意を払いつつ、たばこに火を点けようとする。
だが、その手を警備員に止められた。咥えたたばこをそのまま箱に戻し、左のポケットに収める。
「おや、たばこ……かえました?」
ミュラーが言った。
「あぁ……いや、欲しいのが売ってなかっただけですよ」
彼は、しんくたんくを気遣ってか、何度か励ましの言葉をかけていた。
そのしんくたんくといえば、同じところを何度も行ったり来たり、落ち着きがない。
警備員は、出入口に二人、中央通路に二人、部屋の四隅に二人ずつ配置されており、問題の『太陽の絵』の前には、左右に二人と、――それから、ティレンドとミュラー、しんくたんくの三人。
警備は厳重だ。これだけの人数がいれば、容易に手を出しできまい。
「そろそろですか」
ティレンドが口を開いた、
「さて、これからどうやって絵を盗むつもりですかね、ミュラーさん」
唐突に、質問を投げかける。
ミュラーは、両手を広げて答えた。
「さぁて。警備は厳重だ。怪盗らしく停電でも起こして、どさくさに紛れに――、という手もあるだろうが、地下の配電盤には警備員二人を配置し、その対策も万全だ」
「なら、問題はないですね。……であれば、なおさらどうやって盗むつもりなのか? ……気になりますね」
「ははっ、どうかな。もしや、正面から堂々と盗みにくるとか?」
ミュラーが冗談っぽく笑ってみせる。
ティレンドはというと、何か引っかかるような、複雑な表情をしていた。
「正面から堂々とね……。それは、確かに笑える」
しかし、その表情は真面目そのものだ。
ティレンドは、そこであることに気が付き、はっ、と息を漏らした。
「いや……、待ってください……っ! 正面から堂々と……? 相手は、変装が得意なんでしょう? それなら、警備員になりすませば……!」
ミュラーは眉間にしわを寄せた。
「なるほど。確かにいわれてみれば……!」
「相手は変装のプロだと聞いています。だとすると、いくら顔見知りの人間でも、別人だと気付く可能性は低いんじゃ……?」
「そ、そうか……っ!」
予告の時間が迫っていた。もう、時間がない。
焦りと緊張を覚えながらも、ティレンドは考えた。
ミュラーも何か考えはじめ、しんくたんくは心配そうにずっとこちらを見つめている。
しばらくの沈黙。
「しんくたんくさん、配電盤があるのはどこです?」
切り出したのはティレンドだ。
「えっ? 配電盤なら、中央ホールから地下に通じている階段がありますので、そこを降りたらすぐですが……」
「なるほど、わかりました!」
そういって、ティレンドは足早に歩き出す。
「おいおい、どこに行くんだ? もう時間が迫っているんだぞ!」
ミュラーの声がホールに響く。
「ええ、だからです! この状況からして、やはり停電を起こすのが狙いのはず!」
「だから配電盤には警備員が――」
ミュラーはそこまで声にして、はっとする。
「そうです! 配電盤の警備員、二人のどちらかが怪盗シャオメイある可能性が高い! あるいは、片方がシャオメイで、残る一人も共犯者である可能性もある!」
敵がまだ“単独犯”であると決め付けるには早い。
シャオメイなど、女性の名を名乗っているが、男である可能性もあるのだ。
なんでも疑って掛かるのが、刑事のやり方だ。
予告状や名前などの先入観で決め付けては、敵の思う壺だ。
「そうか! では、私も行こう!」
「待ってください!」
ティレンドがミュラーを制止した。
「ここは俺が行きます。まだ仮定であって決まったわけじゃない。これも奴の作戦かもしれない。ですから、ミュラーさんはここをお願いします!」
「そ、そうか、なるほど、確かに! では、任せた。気を付けて!」
ティレンドは駆け出した!
二十三時まで、残り僅か二分となっていた――
3
ティレンドは走っていた。
まだ雨で乾いていないズボンに風が当たる。――冷たくて気持ちが悪い。
しかし、いまはそんな事を気にする余裕などない。
通路を駆け抜けホールから地下へ、急いで階段を下る。
(時間がない、急がなければ……っ!)
やはり、地下は警備が手薄になっていた。
中央ホールから階段を下りて、まだ誰ともすれ違っていない。
照明の灯りを頼りに、薄暗い地下通路を進んでゆく。
通路を右に曲がると、警備員が二人立っていた。
壁を走るパイプと、メーターの付いた機械が目に入る。――どうやら、ここが配電盤のようだ。
(間に合った……)
警備員は二人とも無事であった。だが、油断はできない。この二人のどちらかが、あるいは両方が敵であるかもしれないのだ。
すぐさま腕時計に目をやり、時刻を確認する。
(二十三時……)
自分の推理は間違いだったのか。あるいはこれから何か起こるのか……。
まだ彼らが動きを見せる気配はない。
(どうやら、問題ないみたいだ)
そう思い、気を抜いた瞬間だった。
カンカンと、乾いた金属音がしたかと思うと、次の瞬間、視界が真っ白になる。
その強烈な光の正体は、――閃光弾だ!
「ぐ……っ!」
鈍い打撃音がしたかと思うと、警備員が苦悶の声を漏らして、次々に倒れる。
それから、大きな破壊音がした。――配電盤の壊れた音だ。
ティレンドの推理は、半分、正しかった。
しかし、変装ではなく閃光弾など、強引な手段を使ってくるとは――
すでに地下室は闇に包まれている。配電盤が壊されたため、照明が落ちたのだ。
これでは何も見えない。視界など無いに等しい。
だが、ティレンドはお構いなしに駆け出した。
(道は……ここに来たときに覚えている。――早く戻らないと!)
何度も転びそうになったが、なんとか中央ホールまで辿り着くことができた。
配電盤がやられたおかげで、ここもすでに闇に包まれていた。
警備員の叫ぶ声が飛びかっている。全員が同時に叫んでいるので、聞き取れることなどできない。
――おそらく、突然の停電でひどく混乱しているに違いない。
――早く絵画のところに戻らなければ!
暗闇の中で、警備員にぶつかりながらも、通路を駆けていく。
館の外も真っ暗だ。窓からの明かりも、今日は期待できない。
(これじゃ、絶好のチャンスじゃないか!)
この事態にティレンドは、頬を吊り上げた。
「ミュラーさん! いますか!」
『太陽の絵』の正面であろう場所に辿り着いた途端、ティレンドは叫んだ。
もちろん、視界など無い。
突然の停電で、現場は混乱していた。
「ティレンド君か! ここだ!」
左手の方から声がした。間違いなく、ミュラーの声だ。
「絵は無事ですか!」
「わからん! こう暗くては何も見えない!」
「絵は! 絵は無事なんですか!」
しんくたんくの叫び声がした。彼はかなり興奮しているようだ。
ティレンドは『太陽の絵』であるだろう絵画に駆け寄る。
「すまない、確認させてくれ!」
警備員を押し退け、絵画に触れた。
すでに、そこに絵画は存在しなかった――
「くそっ! やられたっ! まだ遠くには行っていないはずです! 俺はこのまま外へ! ミュラーさんは変装している人間や、館内に誰か隠れていないか確認してください!」
そう告げるやいなや、ティレンドは駆け出した。
「なんてことだ! わかった! 誰か、明かりを! 懐中電灯は――」
ミュラーの叫ぶ声も、もうすでに聞き取ることはできない。
急いで玄関まで戻ったティレンドは、左手でドア開け、美術館から飛び出した。
外は、あいかわらずの豪雨だ。
街灯もないこの暗闇の中で、特定の人物を見つけ出すのは非常に難しい。
もちろん、外に警備員は配置されていない。ご丁寧にパトカーが駐車場に停めてあるだけだ。それすらも、いまは動く気配など全くない。
ティレンドは降りしきる豪雨にためらうことなく、駆け出した。
この暗さならば、誰とも会わずに逃げることは容易い。
――この道を進んで行けば、やがて街に辿りつく。
――人ごみに紛れ、身を隠せば……、もう手遅れだ!
ティレンドは自分の直感を信じ、走り続けた。