喫茶『レッド・ティー』
1
カランカランと、ベルの音が店内に響く。
「いらっしゃいませ」
紳士服に蝶ネクタイをした細身の男が、コップを拭いている。
「マスター。コーヒぃー……」
少し気だるい物言いで、客の女性がいった。
年齢は20代後半だろうか――もっとも、年齢は不明だが――そのわりに若々しい服装をしている。
「かしこまりました」
言葉こそ丁寧だが、あきれた様子で、喫茶『レッド・ティー』のマスター、シャドーが答える。
この店は、どちらかというと、狭い方だ。
カウンター席がほとんどで、テーブル席が2つだけ。すべてが木目調で整えられた内装が、暖かい空間を演出している。椅子の座り心地は、お世辞にも良いとはいえないが、そこが雰囲気を重視しているマスターらしくもある。
女性は、マスターと向かい会うように、カウンターに座った。
店内にはこの二人以外に誰もいない。
「シエルさん、今日は何か用事でも?」
マスター自慢のブルーマウンテンが、フライパンで炒られてゆく。その香ばしい香りが、店内を占領していった。ちなみに、その香りの素晴らしさといったらもう、この豆と出会わなければ喫茶店など経営するつもりはなかったと、マスターの口癖になるほどに素晴らしいものだ。
「ああ……。ちょっとKitzとね」
彼女は、どうでもいいといった風に片肘をつき、携帯を操作している。
「仕事ですか。ま、もっとも仕事以外の用事で来ることないですもんね」
――たまにはコーヒーでも飲みに来い。彼は、そういいたげに呟く。
「ん? なんかいった?」
シエルは携帯に夢中だったせいか、彼の話を聞いていないようだった。
「いえ、お気になさらず」
このシエルという女性――よく喫茶店に来るのだが、いつもコーヒーを口にせず出て行く。
こだわりのコーヒーなだけあって、シャドーの手つきもどこか不機嫌だ。しかし、シエルはそんなこと気にもせず携帯を見つめている。
しばしの沈黙。
ジュウ……
と、沸騰したお湯がフィルターに注がれる。その香りはコーヒー好きの人間にとってはたまらないものだろう。
そして、その香りに誘われたかのように、ドアベルが鳴り響いた。
「いらっしゃいませ」
シャドーは、シエルのときとは違い、今度は少し明るい顔で出迎える。すぐに態度に出るのもシャドーの特徴だ。
「いやー、春ですね。暖かくなってきました」
客の男は、もう春だというのに、ベージュのトレンチコートを着用し、暑そうにしながらも脱ぐ様子は見せない。
「Kitz――。やっときたわね。まったく、いつまで待たせる気?」
そういっておきながら、シエルがきてから若干5分程度しかたっていない。
「少し立てこんでたので……」
彼女の冗談なのか本気なのかわからない態度に、Kitzは戸惑いを隠せないようだ。
シエルは不機嫌そうに、ふぅんと鼻を鳴らしてKitzを睨む。
彼は、ますます苦笑いになった。
「――それで、ご注文は?」
助け船を出すように、シャドーが割って入る。
「ああ、ではコーヒーを。――とびきり美味しいやつをね」
「かしこまりました」
彼ら二人のやりとりに、シエルは飽きれてそっぽを向く。
それを見た二人が、満足そうに頷きあった。今はシャドーの手つきも、ご機嫌だ。
「それで……。仕事のことで話があるんでしょ?」
「ええ、いい情報が手に入ったんですよ」
Kitzはそう答えると、シエルの隣に一つ席を空けて座った。
2
Kitzは得意気に人差し指を立てて、話しはじめる。
「一ヶ月ほど前に、窃盗団が捕まったというニュースは知っていますか?」
「知ってるわよ。――それがどうかした?」
「ええ、はい。今日のネタってのはそれなんです」
Kitzは意味ありげに微笑む。
「では、詳しく説明していきますね」
Kitzは続ける。
その内容は、一ヶ月ほど前、少し話題になったニュースのことだ。
宝石を専門にした窃盗団が、自らのアジトで捕まったと報道があった。
若いギャング連中が中心だったのだが、そのわりにやり方が功名だったため、それまで捕らえることができなかったのだ。
ちなみに、美術館の絵画や彫刻も被害の内に入っていたが、これらは特に価値のある物ではなかった。
彼らは、芸術に関して全くのど素人だったのである。
ただ一つ問題があるとすれば、窃盗団が捕まったあとのことだ。
警察が彼らのアジトを隅々まで調べたのだが、その懸命な捜索もむなしく、未だ宝石は見つかっておらず、部屋の奥から出てきたのは、さほど価値のない数枚の絵画と、彫刻だけだった。
窃盗団のリーダーであろう男は、未だ警察の尋問にも口を割ろうとしない。
よって、現在も消えた宝石の行方はわからないままなのだ。
「どうぞ……」
ふと、シャドーがティーカップをシエルの前に差し出す。
真っ白なカップに注がれたコーヒー。シンプルではあるが、その存在感は圧倒的だ。
シャドーの人生をかけて作った最高傑作。――それはまさに、コーヒーという名の芸術だ。
だが、シエルは、それには目もくれずに、
「まだ見つかっていない宝石……ね……」
と、話に夢中になっていた。
「被害にあった宝石の価値を考えると……、何十億、――いや、何百億ものお宝が、まだどこかに眠っている。ということになりますね」
「そう……魅力的な話ね。でも、私は宝探しなんて専門外よ。そんな面倒なのは御免だわ」
シエルは右手をシッシッ、と振った。いかにも興味なさげだ。
「まぁまぁ。誰も宝探しをしてくれなんていってるわけじゃないですよ」
「ふぅん。じゃあ続きがあるんでしょ? 話してよ」
Kitzは微笑むと、
「ここから先は、情報料をいただかないことには……」
と、下手に出た。
「ちょっ! 情報料? まだ払うには早すぎるっての!」
「そういわれましても、こちらも商売なので……ねぇ?」
「むう……。それで……、情報は確かなんでしょーね……?」
「もちろん! 絶対損はさせませんよ」
Kitzは胸を張って答えた。
その様子に、シエルはしばし沈黙する。
「わかったわ。でも、もしくだらない情報だった時は……わかってるわよね?」
微笑む彼女の歪んだ口元から、狂気を感じる。
Kitzは、苦笑いで返すほかない。
シエルはサイフを取り出すと、その中から紙幣を十枚ほど乱暴に抜き出し、Kitzに差し出した。
「とりあえずこれだけ、あいにく手持ちが無いのよ」
「どうも、残りは後日ということで」
「あいよ。あとはMeno姉さんから受け取って」
シエルがバッグにサイフを戻したところで、シャドーがティーカップをKitzに差し出す。
「どうぞ、とびきり美味しいコーヒーですよ」
「ああ、どうも」
Kitzはティーカップを手に取り、コーヒーの香りを嗅ぐ。すると、たまらくなったのか、すぐさまコーヒーを口に運んだ。口から鼻まで広がる香り。その中に感じられる苦味と少量の甘み。――それら全ての情報が頭の中を同時に突き抜け、駆け巡る。
思わず目を閉じ、ほぅっと息をついてしまった。
「やっぱり、マスターのコーヒーはいつ飲んでも最高ですね」
「いえいえ」
ティーカップをを置くと、Kitzはシエルに向き直り、話を戻す。
「実はですね……。その例の窃盗団の一人が、うまく逃げたらしくてね。そいつがいうには、窃盗団のリーダーはなにやら細工をするのが得意らしく、それまでの犯行も、技術的な面ではリーダー任せだったそうです。……で、もちろん宝石のありかはそのリーダーの男だけが知っているのですが……、警察に捕まる直前のことです。そのリーダーの男が、盗んだ絵画を熱心に観察していたって話なんです」
「あっそ。芸術にでも目覚めたんでない?」
Kitzは、にやりと唇を歪ませる。
「芸術に目覚めたというのも、一つの可能性ですが……。その可能性は極めて低いでしょう」
「あら、そ。それじゃ……なんなのさ」
シエルは、マイペースで語り続けるKitzに、苛立ちを感じはじめていた。
それを察したのか、Kitzは結論を急ぐように話を進める。
「問題は二つです。――まず一つ。窃盗団のリーダーは細工が得意だったということ。――そしてもう一つ。警察が押収した絵画は、全て、もとあった美術館に戻されたのですが、……その内、一つだけ額が違う物に入れ替わっていたそうです。これって、何か臭いませんか?」
「そうね。その違う額になっていた絵画。それに宝石のありかのヒントがあるとか?」
「ええ! その通り! その絵画を盗めば、大金持ちですよ!」
Kitzが、両手を広げて大げさなポーズをしてみせる。
「……はぁ」
シエルはそれを見て、バカバカしいといわんばかりに深い溜め息をついた。
「あのね~。そんな当てにならないような話で私が動くとでも思ってるの?」
「ふむ……。美味しい情報だと思うんですがねぇ……」
正直聞いて損をした。聞けば魅力的な話だが、確かな証拠も無しに仕事をするのはどうにも気に入らない。危険な仕事なだけにリスクは避けたいのだ。
「Kitz……そんなくだらない情報に金を払わした報いは受けてもらうわよ……」
くだらない話しに長いこと付き合わされたことに怒りを覚えたシエルは、語気を強めてKitzを威圧する。
「ちょ、ちょっと待ってください! この話には続きがあるんです。実は、今回の件についてはこちらから報酬を出す形になるんです!」
「え? 報酬? ――あんたが?」
シエルは、その意外な答えに戸惑いを隠せなかった。
Kitzは情報屋。情報を提供して金を得る。
シエルは情報屋の情報を元に盗む。それが彼女の報酬となるのだ。
つまり、"情報屋が現物を受け取り報酬を出す”など、普通ありえないのである。
「実は、その例の知り合いの情報屋なんですが。そいつから逃げた窃盗団の話しと、もう一つ。絵画を盗んでくれと依頼されましてね。元々はその情報屋が依頼された件なのですが、――そのような仕事を頼める人間がどうにもいないらしくてね。そこで、シエルさんと知り合いである私のところへ話を持ちかけてきたわけです。あの有名な『怪盗シャオメイ』なら! ってね。もちろん、報酬はそれなりの額を用意するとか!」
Kitzは焦っていたせいか、かなり早口で、まくし立てるように一気に話した。
「報酬……ね。――それで、依頼主っていうのは?」
「おっと! それはいえません。というより、本当いうと私もよく知りませんから。……あまり深く追求しないのも、この業界のルールですからね。それが自分の身を守るための術でもありますから」
「そうね……、そうだったわね」
謎の依頼主に、それなりの報酬……。どう考えても怪しい話だ。普通なら絶対に手を出すことはないだろう。
Kitzは自分を落ち着かせるように、一呼吸おいた。
「この依頼を受けるか受けないかは、シエルさん次第ですよ。私も、このような危険な依頼には、あまり関わりたくないですしね」
そう言って、Kitzはコーヒーを啜る。
再び、店内に静寂が訪れた。
シエルは、ぼんやりとコーヒーに視線を落とす。
どう考えても危険な仕事であった。しかしその危険性が彼女の心をを揺さぶるのだ。
謎の依頼主。消えた宝石。額の入れ替わった絵画の謎。とにかく謎だらけだ。リスクが大きすぎる。
しかし、スリルを追及するシエルにとっては、それ故に、興味を惹かれざるおえないのも確かだ。
この仕事を始めた時のスリルは最高だった――。
一歩間違えばどうなるか……。呼吸をすることすら苦痛に感じるほどの、とてつもない緊張感。それと同時に、自分が生きていると実感できるそれは、まさにシエルの人生ににとって、最高の瞬間でもあったともいえる。
だが。
最近では、あの感覚を感じることなどなくなっていた。
仕事に慣れることによって、感覚が鈍くなっていったのである。
その彼女が、このような“面白い話”にワクワクしないはずがない。
「そうね、わかったわ。その依頼、受けることにするわ」
シエルは、不敵な笑みを浮かべる。
「ある意味これは私に対する挑戦状ね。いい度胸じゃない。受けて立つわよ」
そう、これは挑戦状だ。シエルにはそう思えた。
実際、絵画を手に入れて宝石のありかがわかったとしようじゃないか。それならば、怪盗と呼ばれる人間が、自分の物にしないわけがない。
なのになぜ、わざわざ怪盗に頼むのか……?
だとすれば、何か裏があるとしか思えないのである。
Kitzはカップを口に運ぶ手を止め、横目でちらとシエル見やる。
「さすがは怪盗シャオメイ。そうこなくては……」
薄っすらと微笑み、そしてまたカップを口に運ぶ。
シエルはこれから起こるであろう出来事に胸を躍らせながら、カップへと手を伸ばした。
――と、その時だ。
携帯電話の着信音が鳴り響く。
「あ、電話だ。ちょっといい?」
シエルは、カバンの中から鮮やかなオレンジ色の携帯を取り出し、電話に出た。
「もしもし」
〈あ、もしもし。私だお〉
おどけた挨拶をする女性の声。
「あ~。Meno姉さんか。何か用?」
〈Kitzからもう話は聞いた? そのことでちょっと話したいことがあるの〉
Menoとシエルは先輩と後輩の仲だ。シエルがこの世界に入ったのも、Menoと出会ったのがきっかけである。彼女はもう既に引退しており、現在はシエルが引き継いでいるのだ。
補足だが、仕事に関する情報は、情報屋から仕入れる事がほとんどである。(自分で収集することもあるが、ごく稀である)シャドーの喫茶店は、くつろぎの場であると同時に、シエルにとっての情報交換の場所でもあるのだ。当然、一般客が来店することもあるのだが……
シエルは電話を切って、スッと立ち上がる。
「ちょっと、用ができた」
「Menoですか? もう引退したんだから、農民でもしていればいいのに……」
Kitzはシエルのその様子から、電話の相手を把握したらしい。彼は鼻で笑う。
シエルはそれに返事もしないで、急ぎ足に店を出て行った。
まるで嵐が過ぎ去ったかのように、店内はしんと静まり返る。
あとに残ったのは、シャドーとKitzと――それから、冷めたコーヒー。
シャドーは溜め息混じりに入口の扉を眺めていた。
シエルがコーヒーを口にしないのはいつものことだ。
それを見かねたKitzが、彼女の置いていったコーヒーを手に取り、口に運ぶ。
「……冷えてますね」