転段 港町ドーバー
エディは嬉しさを体いっぱいに表すように伸びをしてから、目の前に広がる海原、そして黒い城を指差した。最早カモメの鳴き声も空耳などではなくなり、涼しく心地の良い潮風がこちらに向かって吹き込んでいる。
「ほらヘレン、見て!」
ヘレンはエディの隣に並んで、指差された方角に目を向ける。城塞が小高い丘に立っていると思えば、街中と思しき景色の中には数えきれない数の柱が立っている。目を細めてよくよく見ると、どれも布を巻いたようなものが吊り下げられていた。船のマストだったのだ。それを見て、ようやくヘレンは顔をほころばせた。
「じゃあ、やっと着いたんだね」
「ああ。あそこがドーバー海峡だ。そこを渡ればいよいよフランスに入れるんだよ」
二人は競うかのように、港町まで続くどこまでもまっすぐな道のりをかけていった。
ドーバー海峡――フランスからはカレー海峡――は、昔からしばしばイングランドとフランスの戦場となっている。それ故、ドーバーは市街地を取り巻く城壁、丘には城塞というように堅牢な設備が目立つ。しかし、同時に双方を繋ぐ連絡路でもあるのだ。その為ドーバーの街は物流が盛んで豊かであり、日中は新鮮な魚の品定めをする人々でにぎわっていた。
そんなドーバーの街に入った二人は、ひとまずフランス行きの船を探そうと決め、まっすぐ港へと向かっていた。昼飯時を前にしているからか、食材を買いに来ている人が目立つ。絶対的な人口が少ないようで、ロンドンのように人をよけながら進まなければならない、というほどではないが。
「いくらぐらいで乗れるの?」
ヘレンに尋ねられ、エディは日記の内容を思い出す。父はフランスも旅したことがあるらしい。慣れない言葉に苦労しながらもフランスの人々と交流を結び、今の自分達のように各地を渡り歩いたらしい。今まで知らなかった父の側面が、彼の手記には表れていた。
「父さんの日記には大体一人十五シリングもあれば十分だって書いてあったよ」
「じゃあ、一応大丈夫なのね。良かった」
安堵したような口ぶりだが、ヘレンの目はどこかいぶかしげな色を帯びたままで遠くの船を見つめていた。エディはヘレンの肩を軽く叩く。
「どうしたんだい?」
「え? うん、ちょっとね……」
適当に返事をしながら、ヘレンは周囲の船を一つ一つ見つめる。考えていたより一回りや二回りも大きな船が多い。加えて、その側面には砲門が二列取りつけられているものばかりで物騒な雰囲気が漂っており、客船という様子は感じられない。市街地のにぎやかさとは裏腹の物々しさに、二人は一抹の不安を抱いた。ヘレンはエディに話しかける。
「軍船ばかりだね……」
「何かあるのかなぁ」
それだけ呟くと、エディは一番近くにあった一軒の魚屋に向かう。掻き入れ時にも関わらず、その品揃えは貧相なのが目に付いて仕方がない。周囲を見てみると、どの魚屋も似たり寄ったりで、食材を買いに来た人々は魚屋には寄ろうという気配さえ見せない。エディは、ぼんやりと座って港を見つめている店主に話しかけた。
「店主さん、どうしてこんなに軍船が集まっているんです?」
店主は操り人形のようなぎこちなさでエディの方を見ると、面倒そうに立ち上がって港を指差した。
「近々、フランスのラ・ロシェルだとか何とかでドンパチすんだとよ。困ったもんだ。そのせいで漁に出られなくて魚が上がって来ねえんだよ。肉屋や八百屋が羨ましいねぇ」
店主の視線を辿って行くと、向かいの肉屋に辿り着いた。人々はあれこれ話しながら肉の新鮮さを確かめている。少し離れた八百屋を見ると、そこも同じようだった。同情してしまうほどやつれている店主の顔から目を離し、二人は顔を見合わせた。
「戦争だって」
そう言うヘレンの表情はやはり不安の色が色濃く現れている。いつもは何かあっても『大丈夫』と言い、実際に問題にぶつかっても、知り合ってからの二週間と少しは何とかなってきたわけだが、今回ばかりはエディの表情も陰った。戦争は個人の力ではどうにもならない。
「まずいね。さっさと船を見つけよう。でないとここから出られなくなるに違いないよ」
「じゃあ」ヘレンは港を指差す。「とりあえず港まで行こうよ。この通りからだと港が全部見えないし」
「そうだね」
二人はかけ足で港を目指した。港へ近づくごとに停泊している軍船の大きさが非常に目立ってくる。これを見せられつつ海の上に屋敷を建てたんだと言い張られたら、エディは思わず信じてしまっただろう。そんな中、家くらいの大きさの船が一つ見つかった。側面に砲門も見当たらない。今港にある唯一の客船だった。ヘレンは息を軽く切らせながらエディに話しかける。
「あったね、客船」
「ああ。出航はいつだろう……?」
その時、風に乗ってエディの顔に向かい紙切れが飛んで来た。かわしきれずにエディは正面からぶつかってしまう。彼は面倒そうに掴み取り、周囲に落とした人がいないかを探す。だが、めぼしい人物はいない。ふと上を見ると、政務官の家の窓が開け放たれており、もう一度地面を見回してみると、エディがぶつかったもの以外にも数枚の紙が落ちていた。
「うーん。やっぱりダメか」
わざわざ届けるのも面倒だと思ったエディは、一瞬周りを見渡し、諦めた。その辺に捨てて知らんぷりというのはどうにも体裁が悪い。エディはその紙切れをこっそり貰い受ける事にした。何かを書き留めるくらいの役には立つだろう。それをポケットに押し込むと、そのままエディは数ヤード前方で自分の事を待っているヘレンの後を追いかけた。
「よく聞こえません! もっと大きな声で喋って頂けませんか!」
狭い木造建築である船着場の中は、船乗りたちのがなり声がよく響く。それに負けないよう乗船の受付に来た客が大声で話していて余計に騒々しく、声変わりにさしかかってか細くなっている少年の声など、船着場の整理員には全く聞き取れなかった。同じ言葉をすでに三回聞いたエディは、埒があかないと決めつけ整理員の男の耳元まで身を乗り出す。
「僕達もフランス行きの客船に乗りたいんですけど!」
ようやく理解出来た様子の受付は、乗船料を口にする。
「お一人四十五シリングとなっております!」
今度はエディ達が思わず聞き返す事になった。エディの父が遺した日記の値段の三倍だ。いくら物価の上下があるとはいえ、たったの十数年で三倍は有り得ない。
「四十五シリングですって!? 何かの冗談でしょう?」
そもそも一般人が一日間働いて得られる収入が往々にして六ペンスといったところなのだ。確かに旅行は道楽者の趣味かも知れないが、それでもまる六ヶ月働いてようやく得られるお金を全て継ぎ込まなければ対岸にさえ渡れないというのは少し考え難かった。
二人は顔を見合わせる。財布、およびヘレンの瓶詰め貯金は八十七シリングしかない。諦めるしかなかった。肩を落とすと、船乗りや乗客たちの脇をすり抜けながら船着場を後にした。圧迫感から解放されても、余計に気落ちするばかりだった。
「こんな所で足止めなんだね……」ヘレンがため息混じりに呟く。
「三シリングくらいなら稼げないかなぁ」エディはそう呟いたが、直ぐに首を振る。「いや。ここで全財産を使ったらこの先やっていけないよね」
「うん……」
二人揃って溜め息をつきかけた時、背後に黒いフードに外套の青年が現れた。その中には、貴族出身を思わせる丁寧な刺繍が施された上着にズボンを着ている。彼はそのまま二人の間近まで近寄ると、いきなり肩を叩く。案の定、二人は飛び上がってしまう。エディは振り返って男の顔を睨みつけ、ヘレンはまたエディの背後に隠れた。青年は困ったような表情を浮かべると、素手を持ち上げ敵意がないことを主張しながら優しげな声で話しかけた。
「お金が無いのかい?」
エディは睨みつけたまま、警戒を解こうとしない。母に、正体の知れない人間と話すのは気をつけろと言われていたからだ。顔も隠しているような男は、間違いなく『正体の知れない』人間に属するだろう。
「誰だ!」
「ううん。そこまで強く言われると、仕方ないな」
青年はフードを取った。その顔は若く、エディ達ともそうそう変わらない年齢にも見える。夜闇のように真っ黒な髪は軽く波打っている。鷲鼻で、気性が強そうにも見えた。
「あなたは何処から来たんですか? 名前は?」
「私か? 私の名前はシャルルだ。シャルル・ド・バツ=カステルモール。まあ、ダルタニアン伯爵と普段は名乗っているけどもね。フランスから今しがたやってきたところだよ。ところで、君達は船賃に困っているようじゃないか」
妙に馴れ馴れしいダルタニアンの雰囲気に飲まれ、二人は無意識のうちに頷いてしまう。すると、ダルタニアンはふっと微笑み、懐から財布を取り出した。そして、中から金貨をちらつかせる。
「ここにはピストール金貨が五枚ある。船賃は十分払えるし、十シリングのお釣りが来る」
喉から手が出るほど欲しい気持ちを抑えながら、エディは平静を装い尋ねる。
「どうして僕達に見せるんですか?」
「それはだねぇ……こんな、船着場の前で話し続けるのもなんだから、街の方に行こう」
ダルタニアンに促され、エディ達は街へ向けて歩き出す。そのまま、ダルタニアンはゆっくりとヘレンが身につけている赤いリボンを指差した。ヘレンは思わず首を傾げ、静かにリボンを外す。戸惑って口が聞けずにいるヘレンに代わり、エディはダルタニアンに尋ねる。
「ヘレンのリボンが、どうかしました?」
「ああ。それを俺に譲ってくれないか?」
ダルタニアンの言葉に、エディは思わず間抜けた声を漏らしてしまった。男がリボンを、それも、いかにも女物であることを主張する金糸の刺繍が入った物を、どうして欲しがるのだろうか。
「へえ。結構な趣味ですねえ」
「どういう意味だ」ダルタニアンの表情が歪む。
「だって、それを男がどう付けたって似合いませんよ。特に男っぽい外見のあなたには」
顔をしかめたダルタニアンは、二、三歩かけ出しエディ達に正面きって向かい合った。エディ達はその形相を見て肩をすくめる。
「おい、私が身に付けるわけ無いだろう。少し考えたら分かることじゃないのか」
ダルタニアンはそう言うが、苦いは知れども酸いも甘いもエディは知らない。エディは目を瞬かせるだけで、一向に理解しようとしない。それを見かねたヘレンは、そっと近寄って耳打ちした。そこまでされれば、エディも何がなにやら分かってくる。にやにやと粘っこい笑みを浮かべると、わざと息を大きく吸い込んだ。
「そうか。なるほど。好きな人にあげるんですか!」
「お、おい! ばか! そういう事は大声で言うもんじゃない!」
ダルタニアンが慌て戸惑っているうちにエディはヘレンからリボンを受け取り、満面の笑みで彼に向かって突き出した。
「どうぞ。でも、その金貨は下さいよ」
エディの変わり身の早さに、ダルタニアンはきょとんとしたままそのリボンを受け取った。
「いいのか?」
「はい」エディは頷く。遠慮がちに、ヘレンも隣で頷いた。
「ならいい。ほら、五ピストールだ。で、ついでに余った十シリング分として、フランスに着いたときに頼みたいことがあるんだが、それも頼まれてくれるか?」
二人は顔を見合わせると、まあいいかと頷き合って再びダルタニアンに向かい合う。
「ええ。僕達に出来ることなら大丈夫ですよ」
「大丈夫だ。手紙を私の上司に渡してほしいだけ――」
その時、ダルタニアンの背後で彼の言葉をかき消すほどの甲高い悲鳴が聞こえてきた。反射的に振り返ると、目の前で一人の男が矢を受けて倒れていた。




