エピローグ
結局、神には会えませんでした。けれど、僕はこの旅が失敗だったとか、そんなことは決して思ってないです。この旅で、ヘレンは昔よりもずっとずっと明るくなったし、僕も……すっかり押し込めていた記憶とようやく向きあうことができました。それは、この旅の中で出会うことのできたたくさんの人のお陰だと思うんです。そして……何て言うんでしょうか。この世界で生きるのに、大切な事をたくさん学べた気がします。かけがえのない記憶と思い出、絆。僕とヘレンはそれを胸に刻んで、これからも一緒に生きていくつもりです。
――二年後――
ヒマラヤの山の中、ドマはみんなが待っている村を目指して歩いていた。間違っても足を挫かないよう、杖をつきつつ慎重に。前のように、助けが来てくれるとは限らないのだ。
「ああ、ここか。ここであいつらに会えたんだよな」
ふと、ドマは自分が今エディとヘレン、そしてロードと出逢った谷にいることを実感した。劇的に生還を果たしたエディとヘレン。しかし、そこにロードの姿はなかった。遠いところに行ってしまったという二人の顔は寂しそうではあったが、悲しみに溢れているわけではなかった。自分達には想像もつかないような出来事が、洞窟の中で起きたのだろう。取り留めもないことを考えながら、二人の旅人を見送ったことは、今でも覚えている。やれやれと息をつき、ドマは空を見上げた。
「元気にしてんのか。旅人よぉ」
ラーマは家の前に座り込み、あれこれと考え事をしながら空を見つめていた。雲が流れていく様子を見つめていると、知らず知らずのうちに気持ちが落ち着いてくるのだ。それに、飽きがくることもない。座禅をすることもあったが、それよりも、ラーマはぼんやりと雲を眺めて黙想することのほうが多くなりつつあった。そんなラーマの肩を、そっとサティヤが叩く。
「ラーマ。タージャが頼みごとですって。ぼーっとしてないで下さい」
「ぼーっとはしてないんだけど……まあいいや」
妻の言う通り、赤ん坊を抱えたタージャがやってくるところだった。一週間前に子供が生まれたのだ。真面目で優しい妹が苦しんでいるのを見るのは苦しかったが、生まれた瞬間はタージャの夫も含め、家族全員で喜んだことが、昨日の事のように思い出される。そんなことを考えていると、タージャはいきなりラーマの隣に座り込み、赤ん坊を見せつけてきた。
「ねえ兄さん、この子に名前をつけて」
「なんだよ。自分でつければいいじゃないか」
「いいでしょ。兄さんは今じゃお爺さんにも劣らない知恵者って言われてるんでしょ。そんな人に名前をつけてもらったら、この子もきっと賢くなると思うの」
子供を産んで、すっかり大人の顔になってしまったタージャの目を見つめる。仕方なく頷くと、ラーマは無意識のうちにクジャクの首飾りを手に取り、じっと見つめていた。
「うーん。じゃあ、こんな名前はどうかなあ……」
「サラスヴァティ様!」
村人達が畑仕事に精を出す様子を、じっと眺めていたサラスヴァティ。“あの一件”以来、村人達はサラスヴァティに無茶を言い出すようなことはなくなったが、やはり彼女はこの村の『神』なのである。村人達を見守るのは、神の務めの一つだった。そんなサラスヴァティのもとに、一人の男が参上したのだ。
「どうしたのですか? いきなり慌てたようになって……」
「あの、私の息子が……ひどい熱を出してしまったもので……サラスヴァティ様、どうかお力添えを!」
サラスヴァティは迷うこと無く頷いた。今までは、神の子だと言われ続けていたが、その務めを果たすことに、どこか自信を持てなかったような気がする。しかし、今はもう違う。たとえ自分が神の子ではなかったとしても、自分はお飾りなどではないと、言える自信があった。それはやはり、あの旅人のお陰なのだろう。サラスヴァティは微笑むと、ゆっくりと立ち上がった。
「ええ。私に任せて下さい」
熱を下げるくらいなら、エディ達が残した本のおかげで朝飯前だ。薬草の調合法を反芻しながら、サラスヴァティは村人の後をついて歩き出した。
「次! イーサが行け!」
「はい!」
イーサは威勢よく応え、一歩、二歩、三歩と的の前に進みでた。もうすぐイーサは実戦に赴く予定となっていた。これからが本当に勝負だ。その活躍次第で、自分が望む夢が叶えられるかどうかが決まってくるのだ。イーサは日々の訓練に対し、さらに真摯に打ち込んでいた。
火薬を詰め、弾を込める。銃を構えたイーサは、ゆっくりと的に狙いを定めた。そして、日頃願掛けのように口にし続けている言葉を、今日もまた口にした。
「俺が将来、将軍になれるんなら、この弾はど真ん中に当たる!」
言い終えるやいなや、イーサは勢い良く引き金を引く。そして、彼が言った通り、その弾は真っ直ぐに的の中心を貫き、的を遠くへと吹き飛ばした。それを見た途端に、周囲の仲間が驚きの声を上げる。
「おお!」
「……将来を有望されているだけはあるんだな……」
人々が感嘆の目に、イーサはタオルで汗を拭い、満面の笑みで応えた。
「いやあ、涼しそうですねえ。その布のお陰ですか?」
「ええ。使いますか?」
草もまばらな荒地の中、ハディンは隣の人に手に持っていた布を指差された。エディ達から受け取った空色の布。この布が涼しいお陰で、じりじりと照りつける太陽の熱も容易く受け流してしまえた。ハディンは持ち前の優しさで、その布を隣の男に手渡した。男は早速その布で頬や手を撫で始める。
「ああ。気持ちいいなあ。これなら、砂漠のど真ん中でも歩けそうだ」
「冗談じゃありませんよ。行き倒れちゃいますって」
一度行き倒れを経験したハディンの言うことには、妙な説得感があった。一人に一頭ラクダがしっかりと用意されているのも、ハディンが旅に細心の注意を払ったからだった。男は布を返しながら、愛想よく笑う。
「そうですね。やっぱり経験者は違いますねえ。これからも、その調子で頼みましたよ!」
メッカまではもう少し。ハディンは頷き微笑んだ。
「ええ。任せて下さい」
「あら……そちらも大変なんですねえ……」
港の中で、シンドバートは悩ましげに微笑んでみせた。ダルニアスも困ったような笑顔を浮かべている。だがしかし、彼らの同情の眼差しが注がれているメールは晴れやかな顔をしていた。いつものように帽子をいじりながら、柔和に微笑む。
「そんなことはありません。四年越しの約束でしたから。私は夫や、娘の婚約者と一緒にあの子の無事を祈るだけですよ。まあ、ファリアから喧嘩も教わっているし、そんじょそこいらのチンピラに絡まれたって大丈夫でしょう。船もいっちばん早いやつを船長さんがくれましたし。私が安全な航路を教えてあげたから、きっとイングランドまでは問題なしですね」
屈託もなく笑ってみせるメール。今からもうすでに楽しみだった。シレーヌが再び二人と巡り会えた時、一体どんな表情をするのだろう。そして、それからその三人でどんな冒険を繰り広げるのだろう。一年から二年の間に帰ってくるという約束だったが、それまでがもどかしくて仕方がない。くすくす一人で笑っているメールに不審な眼差しを向けて、ダルニアスは鼻を掻いた。
「そうは言うけどよ、心配じゃないのか? シレーヌは年頃だし、おまけに去年の祭りで街一番の美人に大半の支持を集めて選ばれたんだぞ? そんなシレーヌが放っておかれるとは思えないんだけどな……まあ、他人の俺が心配するのはおかしな話だけどよ」
メールはぐっと目を怒らせてみせた。ダルニアスが戸惑って仰け反った瞬間に、メールは鋭く叫ぶ。
「そんな時はこう!」
メールの裏拳が二十余年ぶりにダルニアスの腹に命中し、均衡を崩した彼は海に落ちてしまった。そこを見逃さないのがファリアだった。
「姐さん! ちょっと何やってんですか!」
駆け寄った彼女は慌てて近くの縄をダルニアスに投げてやった。それを掴みながら、ダルニアスはメールに向かって叫んだ。
「そうだ! お前、後でひどいからな! 桶持って立たせるぞ!」
昔の血気盛んな性格をほんの少しだけ露にしたメールは、やはり屈託なく笑ってみせた。
「あーあ。なっつかしいなあそのお仕置き。いつ以来かしら」
「いつ見ても、楽しい方々ですねぇ……」
『三十路に入って衰えた』とよく口にするメールだったが、その美貌だけは色褪せる様子がない。まるで少女のように元気な笑い声を上げて、眩しく笑って頷いた。
「えへ。気に入っていただけたようで何よりです!」
「レイリー。今度はいつ帰ってくるの?」
レイリーにその眩しい笑顔を向けて、フィーナは彼に尋ねた。テーブルを挟んで向かい合う彼の表情は、確かに精悍なものになっていた。以前の文官じみた、少し頼りないような表情も好きだったが、今の頼りがいのある表情はもっと好きだった。紅茶をすすりながら、レイリーは空を見上げる。
「そうだなあ。五ヶ月くらい後になっちゃうのかなあ……」
「ならよかった。その頃なら丁度お腹の赤ちゃんも生まれる頃だし、赤ちゃんをレイリーに見せてあげられるかも」
レイリーはそっと立ち上がると、フィーナのそばに膝まずき、彼女の下腹部をさすった。晴れて妻となった彼女のお腹には、自分の子どもが少しずつ育っているのだ。レイリーはフィーナの笑顔を見上げ、申し訳なさそうに肩を竦めた。
「ごめんな。大事な時期なのに、なかなか隣にいてやれなくて」
「ううん。気にしないで。私はレイリーが無事だったら、それだけで十分だから」
フィーナの笑顔は、見ているだけで元気づけられる気がした。レイリーもくすりと笑い、頷いた。
「ああ。大丈夫」
「ロランもローラも、外で遊んできたらいいのに。別にお母さんは一人で大丈夫だから」
ルセアは眉を下げてそういったものの、ロラン達は全く聞く耳を持たなかった。以前よりもさらに元気の良くなった声を張り上げ、盛んに手を上げ、飛び跳ねた。
「私洗濯物手伝う!」
「僕だって掃除を手伝う!」
「うーん……」
ルセアは頬を人差し指で掻く。手伝うといっても、この年では助かるどころかむしろ仕事が増えてしまう時もある。だからといって、すげなく断るわけにも行かず、ルセアは毎日この時が一番困っていた。そして、毎日チェレンに助けられるのだ。
「ロラン、ローラ。私と遊ばないか。昨日面白い場所を見つけたんだ」
元々魔力のある葉を食べて育ったチェレンは、人並みに頭が回ったのだ。伝心の魔法も相まって、彼はロランとローラ、そして近所の子供達の良い遊び相手になっていた。そして、彼は好奇心をくすぐるのも上手い。あっさりと誘われ、ロラン達はぱっと顔を輝かせた。
「行く!」「うん!」
ぱっと駆け出した二人の背中を見つめながら、ルセアはやれやれと肩を下ろした。そこへ、一部始終を見守っていたクロードが歩み寄ってくる。
「二人とも、元気で、とてもいい子に育っているようでよかった……」
「ちょっと元気すぎますかねぇ……」
「いいではありませんか。この年頃は、やはりあれくらいがちょうどいいですよ」
「そうですね」
クロードとルセアは、扉を強く開け放とうとしてる二人の姿をじっと見つめていた。
「トーニーオー!」
二人が教会の扉を開け放った瞬間、野太いヤジが飛んできた。目を白黒させながら、トニオとリラはその方向を見つめる。敗北した哀れな男達が、一様に悔しそうな顔でトニオの顔を睨んでいた。アランはハンカチを握りしめたまま、トニオの顔を指差した。
「何だよ! 何なんだよ! どうしてリラちゃんは、こんな普通も普通の男を選んだんだよ! 俺のほうがかっこいいだろ!」
純白のドレスに身を包み、清楚な魅力を一杯に引き出したリラは、曖昧な顔で首を傾げてしまった。
「アランさん。確かに顔はかっこいいかもしれませんけど、中身はトニオさんの方がずっとかっこいいです。だから私はトニオさんを選んだんですよ?」
「くっそお! 悔しくなんか、悔しくなんかないんだからなあ!」
アラン達は捨て台詞を残すと、皆それぞれに泣き出しながら教会から逃げるように走りだしてしまった。トニオはその情けな姿を苦笑いで見送る。
「あらら。やっぱり嫌われちゃったか」
「一ヶ月もすれば、けろっと元通りになってますよ。きっと私のことだって諦めてくれます」
「そうかなあ……」
なにはともあれ、これでようやく街一番の絵描きと街一番の美人との結婚式は佳境を迎えられそうだ。この機を見逃さなかったリラの親友たちは、一斉に囃し立て始める。
「リラちゃん! キス!」
今まで冷静だったリラが、いきなり赤面してしまった。隣のトニオも同じである。しかし、群衆はそんな様子など一向に構わず、一斉に二人を囃していた。そこから逃げるというわけにはいかず、ついに二人は操り人形のようにぎこちない動きで、お互いの顔を見つめ合った。それから、ゆっくりとお互いの肩に手を置く。こわばった笑顔で、トニオはリラに笑いかけた。
「なんだろう……いつもしてるけど、こういう場じゃ緊張するね」
「何言ってるんですか。そんな事言われたら、本当に緊張しちゃいます……」
それでも、気のいい二人は人々の期待を裏切れなかった。目を閉じ、ゆっくり、ゆっくりと二人はその唇を近づけていった。
「ねえ、お姉ちゃんは!」
カーフェイの家の中、顔をずいと近づけ、カールは父に迫った。先刻羽ペンを買いに行かせており、今この場にはいない。カーフェイは愛想よく笑うと、ゆっくりカールの体を持ち上げた。
「ねえ、お父さんとは遊ばないのかい?」
「やだ! お姉ちゃんと約束したんだあ!」
父の腕の中でも、カールは大声でだだをこねた。父は手に負えず、ただただ引きつった笑みをもらすだけだ。だが、そんなところに折よくルーシェが帰ってきた。カーフェイは顔を輝かせ、カールを何とか下に降ろした。
「助かったよルーシェ! ルーシェと遊ぶってばかりで、カールはさっきからわがままばかり……」
すっかり姉らしい顔立ちとなったルーシェは、父と弟を交互に見回し、やれやれとため息をついてみせた。
「しょうがないのね。お父さんを困らせちゃだめじゃない」
「ごめんなさい……」
カールがしぶしぶ頭を下げた時、下からルーシーの声が飛んできた。
「ねえルーシェ、ちょっと手伝って!」
「うん! 今行く!」
ルーシェは元気よく答え、きびすを返すと足取り軽く階段を降りていってしまった。カーフェイは神にも見放されたかのような表情をして、その後を追いかけようとする。
「え! ちょっと待ってよ! カールはどうなる――」
「お姉ちゃぁん……ひどいよお……」
案の定、ついにカールは泣き出してしまった。もはやどうして良いかもわからず、カーフェイはため息をつくことしか出来なかった。
大海原を突き進む小さい船の中、シレーヌは束の間の暇を寝っ転がって過ごしていた。トルコ石のネックレスを持ち上げ、太陽の光を浴びせてみる。白く輝くその宝石を見つめながら、シレーヌは目を閉じて親友のことに思いを馳せていた。長かったが、ついに二人と再会できるのだ。もう、楽しみで楽しみで仕方がなかった。唯一の気がかりは父だったが、シグルズが面倒を見てくれるから、一応は問題ないだろう。だから、この際不必要に心配するようなことはせず、思い切りこの先のことに思いを馳せることにしていた。
体を起こせば、潮風が体に当たって心地が良い。これからの楽しい旅を、既にその風は予感させてくれていた。母から貰ったお古の帽子をかぶり直し、シレーヌは大きく伸びをした。それからすとんと肩を落とし、シレーヌはイングランドがあるであろう方向に視点を合わせた。
「ようし! 待っててね、二人とも!」
バッキンガム公邸の中、ダルタニアンは思わずため息をついてしまった。彼の人柄自体はそこまで嫌いではないものの、やたらと叫ぶので話しているうちに、否、話す前から疲れてしまうのだ。伝文をひらひらとさせながら、ダルタニアンは兵士の後についてバッキンガム公の仕事場に足を踏み入れた。
「ダルタニアン伯! 今回は一体どのような用事だね」
早速名前を叫ばれ、ダルタニアンは肩を竦めた。この雰囲気についていけない三銃士は、この面倒な会見を全て自分に押し付けてくるのだ。まあ、そうされるだけに然るべき恩を受けているのだから、仕方が無いといえば仕方が無いのだが。
伝文に目を落としたダルタニアンは、なるべく目の前の彼を刺激しないよう抑え気味の声で伝える。
「来月、パリで舞踏会があります。もしよろしければ、あなたも招待したい……アンヌ王妃からです」
バッキンガムの眉が動いた。いきなり肩を震わせたかと思うと、彼は全力でダルタニアンのことを指差した。
「素晴らしい!」
「は、はあ……」
もはや、ダルタニアンは笑うより他になかった。
「じゃあ、そろそろ行くんだね」
「ええ。でも、ちゃんと帰ってきますから、心配はしないでくださいね」
旅装を整え、エディはロバートに会釈を返す。帰ってきたエディ達は、二年の間ずっとロバート夫妻の世話になっていたのだ。ヘレンが細々と洋裁の仕事をしたり、エディがちょくちょく絵を描いて売ってみたり、生活費はどうにか捻出できるのだが、どうしても家に住めるようなお金は作れなかった。それに、ここまで大きくなって孤児院の世話になるのもおかしい。だから、二人にとって再会したロバートの申し出はとてもありがたかった。
「ほらダイアナ。お姉ちゃんに元気でね、って」
「うん。元気でね、お姉ちゃん!」
五歳になったダイアナは、アンナと共にヘレンを見送ろうと玄関まで出てきていた。やんちゃする盛りで、普段はとてもひとところに落ち着いているような子ではないのだが、この日ばかりは大人しく母に従っていた。その母も、ヘレンに向かって小さく手を振った。
「ヘレン。ちゃんと自分の身には気をつけなさいよ。ちゃんと結婚式を挙げる準備をしておくから、無事に帰ってくるの。いい?」
「う、嬉しいんですけど、ちょっと恥ずかしいです……」
ヘレンはアンナのてらわない笑顔を見て頬を赤らめた。確かに、旧い友人からは、ついに『いつ結婚するのか』などと頻繁に尋ねられるようになってしまっていた。だからといって、いつまで経ってもその話題に慣れることは出来なかったのだ。横で聞いていたエディも、口を尖らせてしまっている。
「じゃ、じゃあ、お願いします……」
どちらからともなく、エディとヘレンは笑い出してしまった。旅の前に結婚式の話などをしたおかしさなのか、それとも、しっかりと幸せを手に入れた充足感からきたものか。ともかく、二人はロバート一家も交えて、とにかく笑い続けた。
そして、ついに旅立ちの時は来た。エディ達はヒマラヤで貰った外套を整え、ロバート達に向かって頭を下げた。
「じゃあ、行ってきます!」
「頑張って!」
二人はゆっくりと町の外へ向かって歩き出した。その途中、男とすれ違いそうになる。ヘレンは気がついた。大工の格好をしたその男が、ヘレンをいじめていた四人の一人であることを。ヘレンは足を止め、にっこりと会釈した。
「おはよう。頑張ってね!」
男は目を丸くし、一歩退いて他の人にぶつかってしまった。ヘレンが消えてからというもの、彼女をその時どれだけ苦しめて来たか、男はずっと悔いていた。それが、二年前にひょっこり帰ってきて、彼女は美人になって、ついでに昔よりも格段に元気になっていた。どんな経緯があったかはわからなかったが、その事が余計に声をかけづらくさせていたのだ。ため息をつくと、男は再び歩き出した。
「調子くるう。やめろよ」
つっけんどんな台詞を残した男だったが、その雰囲気が少しだけ柔らかくなったような気がヘレンにはした。それに満足したヘレンはエディの肩を押した。
「さ、行こうよ!」
エディは頷き、二人並んで一歩一歩と歩き始めた。五年前の旅とは違う。二人に暗い影は一切ない。あるのは、遠い街にいる親友と繰り広げられるであろう、楽しい旅の展望だけだった。エディは拳を強く握りしめ、空に向かって突き出した。
「よし。待っててよ、シレーヌ!」