結段 求めたもの
常に人を食ったような立ち居振る舞いを見せたコウモリだったが、きちんと約束は果たしてくれた。程々にエディ達の事を気にしながら扇の部屋を飛び回り、部屋を六つ越えた先にある一つの小部屋まで案内したのだ。丸い部屋に通されたエディは、コウモリに向かってそっと微笑む。
「ありがとう。これでようやく旅を終えられるよ」
天井に止まっていたコウモリだったが、エディのてらわない感謝の言葉を聞くといきなり落ちかけてしまった。何とか体勢を立て直したそれは、甲高い声を上げながら飛び回る。
「よせやい。ありがとうなんて、生まれてこの方数えるくらいしか言われたことないのにさ。さっさと行ってこいよ。そしてびびればいいや!」
それだけ言うと、部屋の先にあった扉に一度止まって何かを施し、それからどこだか嬉しそうな乾いた笑い声を上げてどこかへと飛んでいってしまった。ヘレンはエディに寄り添い、コウモリが消えた先を見てくすくすと笑った。吸血鬼のイメージが何かと付きまとってくるコウモリだが、子供じみた言動も伴い、実物はなかなかどうして可愛くも見えていた。
「素直じゃないね、あのコウモリ。やっぱり子供なのかな?」
「まあ、きちんとここまで連れてきてくれたんだから、感謝しないとね」
二人の掛け合いを微笑ましく見守っていたロードだったが、自分の胸に急な違和感を覚えた。まるで強く圧迫されているかのような、そんな違和感だった。考えてみると、やはりあの激流において無理をしすぎたに違いない。そのせいで、自分の命を繋いでいる魔力を消耗してしまったのだろう。ロードは深く息を吸い込むと、エディ達にそっと話しかけた。
「時間がない。これが最後だというなら、勿体つけずに行こう」
ヘレンはロードの目を見た。柔らかい眼差しの奥に潜んだ、わずかな苦しみが透けてみえる。ヘレンにも、もうロードの先が長くない事がわかってしまった。途端に寂しさがふりかかってくるが、ヘレンはそれを振り払い、エディの袖を引いた。
「ロードの言う通りだよね。行かなきゃ。これで最後なんだもの」
エディは、ヘレンから伝わる寂しさでロードとの別れを実感した。いくら認めまいとしても、この別れだけは拒めない。ならば全てを受け入れて、最良の別れにしよう。これが、先晩三人で決めた約束だった。エディは胸がやや熱くなるのを感じながら、二人の表情を交互に見回した。
「じゃあ、行こう!」
頃合い良く次の部屋への扉がひとりでに開いた。三人は再度頷き合うと、最後の道を並んで歩き出した。視線の先には、昼間のように明るい光が煌々と輝いていた。
部屋に注意など払えなかった。岩肌がやたらと白く光っていたり、広かったり、祭壇のように階段などが削り込まれた岩があったりしたかもしれない。しかし、そんな印象はたった一つの存在が吹き飛ばしてしまったのだ。
「客人か。珍しいこともあるものだな」
部屋に染み入るような深い声。エディ達は呆然とし、荘厳な黄金色に目を奪われてしまった。それは鎌首をもたげ、身を起こして翼を屈伸させる。竜だった。威風堂々としたその風格は、エディ達が恐怖だとか、そういったものを感じる前に全て吹き飛ばしてしまった。壁そのものが薄く光って、明るくなった部屋の中でその竜は金色の体の絢爛な姿を余すところ無く晒していた。鱗の一つ一つがその頑健な体の線に沿って輝き、竜が持つ雰囲気に箔をつけていた。
エディ達が一言も発さないので、竜は軽く唸りながら一足歩み寄ってきた。
「お前達はなぜこんなところにやってきた。あのへんちくりんがここに通したということは、それなりの覚悟を持ってきたのだろう? そう固くなるな。私はお前たちを取って食おうとは思わん。そもそも出来ん」
エディは緊張のあまり喉を鳴らす。恐怖は無かった。しかし、それは覚える余裕が無いというだけのことで、エディは今想像を絶する圧力に押しつぶされそうになっていた。浅く息をしながら、エディは圧力に何とか立ち向かう。背筋を伸ばして、いつもの通り、否、いつも以上に自分が持ち続けてきた旅の意味を噛みしめた。エディは顔をぐっと持ち上げ、竜の強い眼差しと視線をぶつけ合う。
「あなたは、神様ですか?」
金色の竜は目を見開いた。首を引き、竜はエディ達から遠ざかる。そのまま顔を高い天井に向けて、喉を震わすように唸った。
「お前たちはどう思うのだ。私を神だと信じるか」
エディは俯いた。確かに、金色の外見から神性を感じないと言えば嘘になる。以前にも竜には会ったが、最初の恐怖を取っ払った結果、あれは優しく気のいいおじいさんといった雰囲気となった。百歩譲っても、『品性がある』という言葉が付くくらいだ。それと比べれば、やはり目の前の竜には神秘的なものを感じざるを得なかった。ヘレンを見ても、ロードを見ても、同じような事を考えているようだった。
「信じられるような気はします。でも、やはりあなたの口から答えを聞いてみたいとも思っています」
エディが絞り出せた答えは、これだけだった。翼を一度羽ばたかせると、竜は言葉を選ぶようにしながら、自身で深く自分という存在を見つめているようにしながら、ゆっくりとエディ達に向かって語りかけてきた。
「ならば結論から言おう。人間が単に私を神と呼んだに過ぎん。ここで二百年前に会った奴も私を何だかわからん名前で呼んだし、それ以前に私が暮らしていたところでも皆私を『神竜』と呼んだ。だが、私自身にしてみれば、私は神という大それた存在では全くない。この差はどうして生まれるのだ? 私自身でも考えたが……そうだ。お前と同じだ。お前からも答えを聞かせて欲しい」
エディは竜に哲学者の眼差しを向けられ、少々うろたえた。竜は既に何百年生きているかわからない。対して自分はたったの十六年ほどしか生きていないのだ。まともにものを考えられるようになってからは、十年も生きていない。そんな自分が見出した答えを竜に伝えて、一体彼の思考に何を及ぼすことが出来るだろう。そう考えると、エディは自分の思いを伝えることに尻込みしてしまったのだ。エディは隣で同じく竜をじっと見つめていたヘレンの姿を見つめる。彼女はエディの視線に気が付き、静かに振り向く。ヘレンも困ったような笑みを浮かべていた。だが、彼女はそっとエディの肩に手を載せた。
「大丈夫。私達が見てきたもの、考えたもの、ありのままを伝えれば、それだけでいいんだと思う」
エディは彼女の笑みを見てはっとなった。背中からも肩に載せられる手がある。振り向くと、ロードが腕組みをして優しく微笑んでいた。
「ヘレンの言う通りだ。私も含め、君たちは、普通に生きていては到底得られないような何かを得たのではないか? 迷うことはあるまい。君が信じたもの、それを真っ直ぐ伝えればいいだけのことだろう」
エディは交互にヘレンとロードの顔を見つめた。二人とも、見ていて力付けられる、真っ直ぐな目だった。エディは頷く。竜に向き直ったエディは、深く深く息を吸い込んだ。
「人間は、何も信じないでは、何にも頼らないでは生きていけない存在だからだと思います」
「ふむ?」
竜は瞬きし、その真剣な眼差しをエディ一点に集中させた。その鋭い視線に、エディは一瞬尻込みしそうになったが、もう後には引けない。毅然とエディは目を合わせ続けた。
「僕は一度、そんな大切な存在を失いました。奪われました。何も信じられなくて、頼れなくて、縋ったのが、きっと本だと思います。知識は何があっても自分を裏切りませんから」
エディは脳裏に、浴びるように読んでいた頃の記憶を甦らせた。叔父に突きつけられた恐怖も、両親を失った悲しみも、本を一冊読む毎に薄れた。本を一冊読み終える度に増えていく揺るがない知識は、自分が一回り大きくなったと思わせてくれた。しかし、これからはそうも本を読み漁ることはないだろう。
「でも、今は違います。知識よりも確かで、優しくて、温かい人が隣にいてくれます。一緒に支えあって、人として大きくなっていけるような、大切な存在を見つけられたんです。……だから、僕はこれからも強く生きていけると思います。たとえ神がいなくても。この隣にいる女の子と一緒に支えあって、真っ直ぐ生きていきます」
竜は一度深くまぶたを閉じ、それから再び持ち上げた。鱗を煌めかせながら、竜はゆっくりと顔をエディ達に近づける。交互にエディとヘレンの顔を見つめた。その真っ直ぐな視線からは、今までエディ達が見聞きし、記憶に刻んできたものが透けて見える気がした。竜はゆっくりと元の姿勢に返ると、その歯を剥き出しにした。
「なるほど。お前たちは、旅の間に何よりも深い絆で結ばれたようだな。世界を跨いだ旅が、どれだけお前たちを強くしたのか、手に取るように分かる。確かにお前たちのようならば、神はいらないと言えるのだろうな。だがしかし、私はまだ気になる。よもや全ての人間が、そのように神など頼らずともとは言えまい? どうだ?」
エディは軽く唸りながらうつむいた。この世に神を信じない人間と信じる人間、その数を秤に掛ける必要など無い。竜の言う通り、この世には神を信じる人間の方が多い。イスラムのように、神の存在に忠誠を誓い、自らを縛っている人もいる。宗教が根本から揺らぐヨーロッパでさえ、神は相も変わらず信じられている。それはやはり、目の前の存在に帰結するのだろう。
「それが、あなたが神だと呼ばれた理由だと思います」
「なんと?」
エディは顔を上げた。
「寄らば大樹の陰、どうせ頼るのなら大きな存在がいいに決まっています。だから人は『神』を作った。人がいくら束になってかかろうが、絶対に成し得ない所業。そんなことを、食指を操るだけで行えるような絶対の存在。無限の大きさを持った存在に寄りかかることで、人は無条件で安心感を得られるのでしょう。平和は長続きしません。作物が取れないことだってままあります。幾度となく訪れてくる不安を打ち払うために、人は『神という存在』に縋るのだと思います」
気づけば、まるで吟遊詩人のように、自分でも驚くほど言葉がすらすらと口をついて飛び出していた。竜も何度か頷き、どこか感心したような素振りを見せる。しかし、竜はそれでももう一歩踏み込んできた。
「人が神にすがろうとする理由、何となく得心が行った気がする。ならば現実に神はいると思うか? それとも、お前の言う通り、人が『作った』だけの存在だと思うか?」
竜の金色の瞳をエディは見つめる。悠久の時が刻まれたその瞳を見つめながら深呼吸して、エディは最後の言葉を紡ぎきる。旅立つ前に聞いたこの言葉。今思えば、この言葉が旅の始めであり、旅の終わりとなる言葉だったのだ。
「いる方がいいと思います。いないよりも」
「どういう意味だ」
「神の存在を信じてさえいれば、人は強くあることが出来ます。だから僕は思うようになったんです。信じる限り、神はいるんじゃないかなあ、って。だから、いると思うほうがいいと思うんです。いないと思うよりも」
竜は目を閉じた。小さく唸りながら、一言一言、ゆっくりと口にしていく。
「つまり、神はそれぞれの心の中にいる。そう言いたいのか」
「ええ。そういう事になります」
竜は息をゆっくりと吐き出した。安堵が入り込んだ、とてもゆったりとした雰囲気だった。
「そうか。お前は中々に人間が出来たようだな。……ふむ。お前たちにならば……」
竜は天を向き、細く、高らか、そして清らかな声を発した。笛の音のようにも聞こえた。その音は、ゆっくりと部屋に共鳴していく。部屋全体に竜の笛が響き渡った時、竜はいきなり体を光らせはじめた。その様子は、かつてのロードと一致していた。ロードは呆然とし、うわ言のように口にする。
「まさか。あなたも……」
竜は目を落とし、ロードに視線を合わせた。凝視すると、彼の体から魔力がうっすら発散されている様子が見て取れた。心得た竜は、目を細め、微笑んだような顔をした。
「なるほど。“お前も”か。それに、そう長くはあるまい。ならば少々予定を変更だな……」
エディ達が言葉を失っているうちに、竜は瞬く間に光を強めていった。輪郭さえもおぼろげとなっていくなかで、ただ竜の言葉が響く。
「かつて私が竜として確かな存在だった頃、世界の存亡すらも危うくなる争乱が起きた。私も仇敵と肉を切られて骨を断つ戦いをして、その果てに私は仇敵を封印したのだが、もろとも私はこの洞窟の、このように奥まった場所に封じられてしまった。それ以来何百年もの間、私は有り余る魔力で形作った肉体を保って、私を竜として看取ってくれる者を待っていたのだ……あのへんちくりんども、話し相手としては面白いが、死ぬ時までばかにされそうで敵わんからな」
軽い調子になった竜は、確かに歯を見せて笑ったように見えた。その笑顔が持つ不思議な魅力につられ、エディ達も思わず微笑んでしまった。
「そうですね……確かにそんな気がします」
竜はエディ達にもう一歩だけ歩み寄ると、静かに顔をエディ達の方に近づけた。
「さて。私から願いがある。私は少々故ある存在でな、どうしても死ぬ時に魔力、そして魂の残骸を残してしまう。これが良からぬ者の手に渡れば、悪用されるとも限らん。だから、私が死んだ後、君たちにはその残骸を肌身離さず持って、墓場まで持って行って欲しいのだ。……理解できただろうか」
既に理解の範疇を軽く乗り越えてしまっていたが、ここで頷かなければこの竜も安らかに逝くことはできないだろう。三人で顔を合わせ、ゆっくりと頷いた。
「はい」
竜は満足そうな目をして、ゆっくりとエディ達から一歩ずつ離れ始めた。光が天へと登り始め、竜の姿はみるみるうちに薄れていく。
「ならばよかった。……最後に、お前のような者と話すことが出来てよかった。名は何というのだ」
竜に尋ねられ、エディは一歩進み出る。
「エドワード・サーベイヤーです」
「エドワード。いい名だ。大切にするんだぞ……」
竜はひときわ強い光に包まれた。エディ達はその眩しさに耐え切れず、思わず目を瞑る。その光はまぶたさえ貫き、エディ達の視界を白くする。堪えかねたエディは、思わず腕で目を塞いでしまった。
一分ほどもしただろうか。ヘレンに肩を叩かれ、ようやくエディは目を開いた。ヘレンはエディの目を見て僅かに微笑み、竜が立っていたと思しき場所を指差す。
「ねえ。あそこに何か光ってない?」
ヘレンが指差したところには、確かにきらきらと瞬く何かが転がっている。頷き合った三人はその正体を確かめに走り、そして小さな石を二つ拾い上げた。それは、エディの手の中でダイヤモンドのように透き通り、その中から白い光を溢れさせていた。
「こんな小さな石に、あの竜の魔力が全部込められてるの?」
ヘレンが軽く振りながら、いかにも不思議そうな表情で首を傾げる。エディはそんな不思議なことも確かに気にかかったが、それよりも、二つに分けてくれた竜の計らいが嬉しかった。
「俺とヘレン、二人で一つずつ持つようにしてくれたのか。お揃い、って感じで何だか嬉しいな」
「ちゃんと失くさないようにしなくちゃね」
「そうだね」
ヘレンの張り切った笑顔につられ、エディも満面に笑みを浮かべた。そんな様子を見て、ついにロードは満足した。初めて出会った時と、今の彼らは全く変わった。強くなった。親代わりを名乗るつもりもないが、親の代わりに成長を見届けたくらいの気概はあった。そして、その感情が、ロードの魂を解き放ち始める。
「エディ。ヘレン」
二人は振り向き、そしてその笑顔を潜ませてしまった。ロードの体は先ほどの竜のように輝き始め、今再び消え去ろうとしていた。寂しい感情を全面に押し出したヘレンが、石を握りしめて頷いた。
「そうだよね。……お別れなんだよね」
「ああ。その通りだ」
ロードは安らかな気持ちだった。もう見ていなくても、エディ達がこの先も幸せに生きて行くだろうことは、容易に考えついた。そうとなれば、もう後顧の憂いはない。死を受け入れたロードは、もはや苦しいと思わなくなっていた。
「ねえロード。あの世ってあるのかな」
消え行くロードの姿を見つめながら、エディも伏し目がちにして尋ねる。ロードは腕を組んで唸った。しかし、今まさに死のうとしている自分でさえ、この先どうなるかは全く予想がつかなかった。となると、やはりあの答えを言ってやる他にあるまい。そう決めつけて、ロードは口を開いた。
「お前が、いると思えば神はいると、そう言ったのだろう? なら、あの世を信じることくらい朝飯前じゃないか」
エディは目を見開き、それからくすくすと笑い出した。最後の最後まで、ロードは自分が思い至らなかったところに気づいてくれる。確かに彼の言う通りだ。
「そうだね。じゃあ、俺はロードがあの世で安らかに過ごせることを祈ってるよ。だから……『さよなら』、かな。俺達だって、悪いことさえしなかったら、いつかそっちに行けるかもしれないし」
「そうだな。あの世に行けたら、君たちを待ってのんびりと過ごしていることにしよう」
二人の笑顔を交互に見合わせて、それからヘレンはそっと微笑んだ。
「さよなら。ロード」
「ああ。さよならだ。君たちの笑顔は昔よりずっと立派になったな。二人でも、ずっと幸せに生きて行ける……間違いない。私はそう信じている」
ロードは薄れゆく拳を持ち上げ、二人の方へゆっくりと差し出した。エディは力強く頷き、拳をぐっと突き合わせた。
「さよなら。今まで僕達を助けてくれて、本当にありがとう」
「エディ。私の方こそ、こんなにも楽しい余生が過ごせてよかった。……ありがとう」
ロードは目を閉じる。霧が晴れてしまうように、ロードの体は薄れ、そしてゆっくりと消えていく。エディ達は、じんわりと胸の奥に熱が広がっていくさまを感じながら、じっとそれを見つめていた。拳を突き合わせている感触も、次第に無くなっていく。最後に目を開いたロードは、確かに微笑んだように見えた。しかし、その微笑みに応じる間もなく、彼は静かに消えてしまった。
後に、ラーマがくれた、そしてリシャールの手によってロードの命を繋ぐ器とされた、あの木彫りの馬だけが残る。何の変哲もなく、その木彫りは地面に落ちてしまった。それを黙って拾い上げると、エディはゆっくりと握りしめた。ヘレンと共に天を見つめながら、エディはひとりでに口を開いていた。
「ロード。」