叙段 勇気と真心
ロードの考えは正しく、『仮初』となった体は水の中でさえ息苦しいとは感じなかった。しかし、凄まじい激流はその身をばらばらにするような勢いでロードを押し流していく。おまけにやたらと曲がりくねっているから、事ある毎に岩肌に体をぶつけてしまう。エディ達を連れてこなくてよかったと安堵しながら、ロードは体を丸めて岩肌の衝撃に耐えた。
全身に襲う鈍い痛みと共に、ロードは昔を思い出していた。重騎兵という言葉は既に無く、ロードが同僚と共に駆りだされたのは、カノン砲を戦場へと引きずっていく仕事だった。飼い主が立派な人物であったから、ロードも自身の仕事には誇りを持っていた。やはり火薬の匂いは嫌いだったし、カノン砲を引きずる仕事も楽ではなかった。休む暇もなく、体を壊してしまう同僚も多かった。それでもロードは自分を信頼してくれる主に報いるため、必死に働いた。
だが、十年働き続けた体は消耗してしまった。年も取り、筋肉が痩せ衰えた肉体ではカノン砲を引きずることなど到底出来なくなってしまったのだ。使い物にならなくなったロードは、生まれ育った厩舎へと帰ることとなる。育ての主は自分のことを温かく労ってくれた。ロードは火薬の匂いも、全身の筋肉を襲う痛みもない平和な厩舎で束の間の安息を得たのだ。
その安息の日々が当たり前となり始めた頃、ついに運命の日が訪れた。現れたのは一人の元気そうな少年。そしてもう一人、気の弱そうな少女。彼らは物珍しそうな目で自分達の姿を見つめ、そして自分を見つけた。その時は、こうして未知の土地まで導かれることになろうとは思いもよらなかった。
ロードは思い出していた。エディやヘレンと共に初めて訪れた街、介抱されながら登った山、不思議な森、再び嗅いだ火薬の臭い。船に揺られたこと、荒野を行ったこと、初めて二人と話せたこと。
……こんなにたくさんの経験が出来て、かつ人間になれた馬など私の他にはあるまい。こんな体験も、エディやヘレンと出逢えたからこそ出来たことだ。私は、最後の恩返しをせねば!
心の中で叫び、ロードは思わず手を前に突き出していた。その突き出した手が、何か固い物を掴む。はっとしたロードは、それを頼りに、激流に振り回される身を引き寄せた。
「こ、ここは?」
ロードは外気に体が触れるのを感じた。彼が掴んだのは、小さな部屋にある岸辺だったのだ。一瞬元の部屋に戻ってしまったかと思ったが、部屋の中心にある台座を見て、自分は無事に試練を乗り越えた事を知った。ずぶ濡れになった体を岸に乗り上げ、ロードは肩で息をしながら独り言を呟いた。
「そうか、何とか耐えきれたか……」
呼吸を整えながら身を起こし、ロードは台座まで痛む体を引きずりながら歩いていった。その目は、真っ直ぐに三角柱型をした緑の石を捉えていた。
その頃のエディ達はというと、ひとまず中央の部屋に戻って、とにかくロードの心配をしていた。
「ロード、戻ってきて……」
ヘレンは祈るように手を組み、頭を垂れてひざまずいていた。エディも落ち着く事が出来ず、腕組みをしたまま円形の部屋をぐるぐると周回していた。彼も心配で仕方がなかったのだ。
「ロード。大丈夫だよな」
エディがそう呟いた瞬間、足元の床が跳ね上がる。彼は弾き飛ばされて倒れてしまった。ため息混じりに立ち上がり、そしてエディは目を喜びに輝かせた。その床を跳ね上げたのは、他ならぬロードだったのだ。ヘレンも飛び上がると、ロードの方へと一目散に駆けつけた。
「ロード! 無事だったんだね!」
駆けた勢いそのままに、ヘレンはロードに飛びつく。ロードは手に持っていた石を取り落としそうになりながらも、何とかヘレンを抱きとめた。彼女はまるで子猫のような声を上げてロードにすりついてきた。
「よかったあ。心配してたんだ……」
ロードは子供に甘えられているような気分になり、ふと温かい気分になれた。優しく微笑んだ彼は、そっとヘレンの頭を撫でてやる。
「そうか。心配してくれて、ありがとうな」
エディはそっと微笑み、ヘレンが離れたところを見計らって拳を突き出した。ロードは得意げな笑みで拳を突き出し、エディとそっと突き合わせた。
「ありがとう。ロード」
「恩を返しただけだ」
ついにエディ達は二つの勇気を示し、三つ目の部屋へと足を踏み入れた。途端にエディ達は目を見開き、唖然として空いた口が塞がらなくなってしまった。
「いくら何でも、部屋が多すぎない?」
エディがそう叫んだのも無理はなかった。目の前に広がる扇状の部屋。その弧に当たる部分には、なんと八つもの穴が開いていたのだ。ヘレンは口をぽかんと開けたまま、呆れて上ずった声を上げてしまった。
「もしかして、これ全部入って、何かしろってことなの?」
「いやいや……そうではあるまい。あるまいな?」
ほとんど取り乱したことのないロードでさえ、口元を引きつらせて目の前を見つめていた。こめかみを指で叩いて部屋を見渡していたエディは、ついに意を決して一番左の部屋へと向かう。手を頭の後ろで組んで歩くさまは、いかにもお気楽そうな態度だ。
「もう諦めて、左からしらみ潰しに行こうよ。なるようになるさ」
「そうだね。そうしなきゃダメか……」
ヘレンもエディの後を追う。もうすぐ旅も終わりを迎えると期待していただけに、肩透かしに気落ちしてしまっていた。ため息混じりに、次に待っているものをあれこれと想像しながら左の部屋に足を踏み入れた。
「嘘だ。嘘だと誰か言ってくれ」
そう一人呟きながら、エディは立ち尽くしてしまっていた。ヘレンはうっかりエディの背中にぶつかってしまう。そしてさらにロードがヘレンの背中にぶつかってしまった。その目の前に広がっていた光景は、エディ達をとことん気落ちさせるには十分過ぎるほどだった。そこにあったのは、先ほどと一寸たりと変わらない光景だった。しばし言葉を失っていた三人だが、やがて首を振り振りヘレンが叫ぶ。
「行こう! もう一度左に行ってみよう! それで何か分かるんじゃない?」
彼女自身、ほとほとうんざりした口調だったが、他に解決方法が見つかるわけでもない。三人は諦め、ヘレンの言った通り一番左の部屋に向かって駆け出した。勢い良く部屋に飛び込み、そして、雷にでも打たれた顔で立ち尽くしてしまった。
「ああ。どうしたらいいというんだ」
ロードは神の前に絶望を訴えるような物悲しい声色で呟いた。エディとヘレンは引きつった顔を見合わせ、それからぎこちない動きでまたしても鎮座する八つの部屋を見つめた。エディはある予感がした。これ以上踏み込んだところで無駄だという予感がしたのだ。エディはのしかかる重みを振り払うように肩を上げ下ろしすると、息をついてヘレンとロードに持ちかけた。
「ねえ、一旦戻ってみよう。そして、他の部屋に入ってみよう。多分、この先進んでも無駄な気がする」
それを聞いたヘレンは、どこか嬉しそうでもある苦笑いをしてみせた。
「エディも同じ事考えてたんだね。じゃあ、そうしてみよっか」
ゆっくり、そして深々と頷き合うと、三人は元来た道を引き返すことにした。それが、さらに三人を混乱させる引き金となってしまった。部屋に入った途端、ヘレンは気の抜けた一言を呟く。
「え。どうして?」
確かに二つほど部屋を進んでいたはずだった。しかし全く不可思議な事に、エディ達は、あの石碑の部屋に戻ってきてしまっていたのだ。ヘレンはロードと顔を見合わせ、大きく首を傾げてしまった。エディは再びこめかみを指で叩きながら、再び部屋の周回を始めた。ただ黙って考えていると、どうしようもなく頭がこんがらがってしまいそうだったのだ。
「進んだはずなのに、戻ってみたらこの部屋まで飛んできた? それとも、進んでるように見えて、実は全く進んでいなかった、とか?」
「どういう、こと?」
エディが思いつきで口にした言葉を、そっとヘレンがつついてみた。エディはヘレンに尋ねられ、単なる思いつきを出来る限り突き詰めてみようとした。そのうちに、一つの考えが頭に浮かんでくる。
「もしかして、あの中に正解の部屋が一つだけあって、それ以外は入ってきた場所に戻ってきちゃうのかな?」
ヘレンと一緒に腕組みをしていたロードは、エディの言葉に嘆息を洩らした。そう言われてみると、もうそうだとしか考えられなかった。
「なるほど。それは確かにありそうな話だな」
「確率は八分の一かぁ……早いうちに見つかるといいけど」
ヘレンは不安そうな声を上げる。エディは彼女の言葉にしっかりと頷いたが、励ますように笑ってもみせる。
「まあ、やってみるだけやってみないと。ね?」
笑うエディの明るい眼差しを見たヘレンは、やれやれと首を振り、仕方なしに微笑んだ。エディの言うとおりだ。いくら頭を捻ったところでどうにかなるような問題でもなさそうだ。エディの言う通り、しらみ潰しにするほかないのだろう。ヘレンは覚悟を決めた。
「うん。出来ることからこつこつやらなきゃね」
「そうそう。出来ることから、ね」
先ほどの部屋に足を進めながら、エディは自分に深く言い聞かせるよう、ヘレンの言葉を反芻した。
「さて、戻ってきたわけだけど、今度は一番右から入ってみる?」
エディは部屋の真ん中まで歩きながら、入り口でその他の穴を見渡しているヘレン達に尋ねた。特に案もない二人は頷き、エディの後をついて静かに歩き始める。その時だ。
「またまたバカがやってきた。へへっ」
エディ達は一番右の入口の前で立ち止まり、慌てて部屋を見回す。確かに声が聞こえた。それもかなり子供じみた声だ。しかし、こんなところに少年がいようはずもない。三人が首を捻りながら顔を見合わせたところに、再び声が飛んできた。
「バカだなあ。正面から解こうとしたって、この部屋の謎は解けないのにさあ」
「そこか!」
エディはようやく声の出所に気がついた。ランプを振り上げ、天井の隅に光を向ける。そこにあったのは黒い影。その影は悲鳴を上げて飛び上がった。エディが追う光の中を、その影は必死に飛び回る。それは一匹のコウモリだった。
「ま、眩しい! 何するんだよ! 眩しいからその光をこっちに向けんな!」
声の出所は分かったから、エディはひとまずランプをロードに手渡し、光を遠ざけさせた。それから、天井に止まっているコウモリの方へゆっくりと歩み寄っていく。彼が口走った一言が気になっていたのだ。声をやや控えめにして、ゆっくりと尋ねた。
「なあ、正面から行っても解けない、って、一体どういうことだよ?」
コウモリは再びけらけら笑う。道化師の滑稽な動きを見て、少々小馬鹿にしながら腹を抱えている。そんな笑い声だった。
「ふうん。おいらはこれでも一族郎党この洞窟の番を命じられてるからね、教えてやるのもおいらの務めなんだよね。でも、やっぱりただ冷やかしに来るだけの馬鹿じゃ、この先には連れてけないんだよねえ。けけっ」
「じゃあ、どうすればいいのさ? お前に何か見せるのかい?」
エディが眉を持ち上げながら尋ねると、コウモリは再び飛び立って部屋をくるくる旋回し始めた。
「ふうん。多少は頭回るんだねえ。そうさ。おいらはお前たちの試験官。お前たちがこの先に行ってもいいやつかどうか調べるんだ。まあ、おいらと話せたって時点で、かなり高評価だけどねえ。もう一押し、お前たちがどれだけこの先に行きたいか、それを示してみろよ」
エディは振り向き、後ろで自分を見つめていたヘレンやロードと目を合わせる。三人はすぐに頷きあった。ここまで来て、今さらこんなコウモリ如きに却下されてしまうほど、そんな軽い気持ちで旅をしてきたのではない。堂々と、自分達が持ってきた信念を明かすことにした。エディはコウモリにしかと目を合わせ、はっきりと言い切る。
「俺達は神を求めてここまで旅してきたんだ。三年かけて、色々な人に出会って、そしていろんなことを学んできたんだ。そしたら、この洞窟の前に住んでいる人が、この洞窟には神がいるっていうじゃないか。だから俺達は、この三年間の旅を締めくくるために、この洞窟の奥まで行って、本当に神がいるのか確めたい。それだけさ」
コウモリは飛んできた。やたらと体を上下させながら周囲を飛び回り、再びけらけらと笑い出した。だが、そこには何かを見下したような響きが薄れていた。
「へえ。面白いやつだね。今までこの洞窟にやってきた奴は、自分の力を試したいだとか、そんな感じだったって聞いてたのに。神を見つけたいって言ったの、お前たちが初めてじゃないかなあ。まあいいや。じゃあ、一つだけ質問。もしこの先に神がいなかったら、お前たちはどうするんだ?」
興味ある素振りのコウモリを目で追いかけ、間もなくヘレンが答えた。
「変わらないよ。神様がいなくたって、私達は絶望なんかしない。神様がいなくたって、私達の旅は無駄なんかじゃなかったから。だけど、この旅は成就させたいの。それが、今まで私達を変えてくれた人との約束だから」
コウモリは見た。三人の、決意がこもった真っ直ぐな瞳を。いくら見つめても、その決意が揺らいで見えることはついに無かった。それはもう一度だけ、けらけら笑う。
「なるほどね。まあ、面白いからいいや。向こうまで連れていってあげるよ。合言葉は、『兄さん一番死なない』。さあ、遅れないで来いよ!」
唐突なコウモリの振る舞いに、エディ達はとにかく戸惑ってしまった。しかし、彼がこの洞窟の最奥部まで連れていってくれることには、どうやら間違いないらしい。ヘレンも、彼が相当自分達を馬鹿にしていたことに気づいていたが、悪意は感じられなかったのだ。慌ててコウモリの後を追いかけながら、エディはヘレン達にも聞こえる声で、そっと、そして確かな声で呟いた。
「ついに着くんだ……俺達の旅の終着点に」