起段 ヒマラヤ山脈
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ロードの命
リシャールとの劇的な別れの後、エディ達は村に戻り、人々の感謝を背負いながら村を後にした。人々の傷も、村の傷も容易には回復されないかもしれない。しかし、村人達は復興へと向けて今一度力強い一歩を歩み出したのだ。盗賊共はカトマンズの兵卒に引き渡された。最早その復興に水をさす者はいないだろう。エディ達も、人々の力強さに活気づけられ、いよいよ旅の最後を飾る意志を固めたのだった。
その一週間後の事。カトマンズを過ぎて、峻厳な渓谷の山道の中をエディ達は一歩一歩確実に歩いていた。カトマンズより東に見える最高峰。デオドゥンガへと着実に向かっていたのだ。
「このように厳しい山道を登るとなると、やはり形だけでも人間になれた意義は大きいな」
道に突き出した大きな岩を何とか乗り越えた後、ロードが水を一口含みながら呟いた。確かにその岩は丸がちな形をしており、人でさえその岩に打ち込まれた縄梯子を伝わなければ登れないのだ。避けようにも、生憎片や壁、片や谷底と、この山はとにかく楽を許さなかった。エディは岩だらけで舗装もなっていない道を見渡しながら頷いた。
「確かに、こんなところを馬は歩けないね」
ヘレンは強風で乱れた髪をくしけずりながらふもとの方角を見つめる。森は遥か下だ。周囲は荒涼として、小さな草がまばらに生えているだけだった。その様子を見つめ、エディはふと微笑む。
「ヘレン。高いところは怖くなくなった?」
ヘレンは目を丸くした。そしてドーバーでの一件のことを指しているのだと気がついた。思えば、あの時はたった三ヤードの高さに怯えていたのだ。それが、今ではその何十倍もの高さに立っていても平然としている自分がいた。懐かしそうな目をすると、ヘレンはエディに微笑みを返した。
「あの時は飛び降りなきゃいけなかったから。今はもう、眺めてる分にはどんな高さでも平気だと思うよ」
「そっか。そうでもなきゃ、山なんか登れないしね」
「そうそう」
ヘレンとエディはくすくすと笑いあう。その姿を見ていたロードは、親代わりにしんみりとした。初めて出逢った時は一回り小さくて、自分の大きな体に跨るのさえ精一杯だった二人。今ほどエディ達の間も近づいておらず、まだどこか他人のような雰囲気を残していた。それが今ではお互いを預け合えるような関係にまで成長したのだ。彼らの両親が二人の今を見たら、何と言うのだろうか。どんな言葉を投げかけるのだろうかとロードは昔より遙かに回るようになった頭で考えながら、口を開いた。
「二人とも、随分強くなったんだな」
「ああ」「うん!」
振り向いた二人は、満面の笑みをロードに向けた。その笑顔は、今まで見てきたどんな笑顔よりも眩しい気がした。
「ああ。その笑顔だ。もう二人でも十分やっていけるな」
その言葉を聞くと、エディ達は改めてロードとの別れを実感せずにはいられない。胸に広がる寂しい気持ちを感じながらエディは小さく何度も頷いた。
「そうだね。もうロードには心配掛けないよ」
「そうか……大人になったものだな。一年近く前はずっとヘレンに迷惑をかけていたくせに」
エディは気まずそうに肩をすくめ、ヘレンの方に申し訳なさそうな目を向ける。今でもヘレンには負い目を感じていた。そんな自分に失望しないで付き合ってくれ、恋い慕ってくれている。ヘレンという存在は、エディにとっては比べようもないほど大きいものとなっていた。今なら、カーフェイがルーシーを『アヴェ・マリア』と呼んだその時の気持ちもわかる。彼女の微笑みに合わせ、エディも晴れやかな表情を浮かべて空を見つめた。
「忘れてないよ。だから、今まで苦労かけちゃった分、俺はヘレンを幸せにするつもりさ」
平然と言ってのけたエディの顔をまともに見ていられなくなり、ヘレンは耳まで真っ赤にして顔を背けてしまった。ロードまでも頬を染めてしまい俯いた。
「そんな事簡単に言わないでよぉ……照れちゃうからぁ」
だが、ヘレンは嬉しかった。三年前は、自分にもこうした幸せが訪れてくれるとは思えなかった。とても思うことが出来なかった。顔を背けてしまったのは、赤くなったのを隠すためでもあったが、だらしなくにやけてしまう表情を隠すためでもあった。ヘレンは両頬をつねって普段通りの表情を取り戻すと、エディの方に向き直った。
「ありがとね。行こう! ロードのためにも、こんなところで油を売ってる時間なんかないんだから」
「そうだね。あと少しだから頑張ろうか」
エディ達はそう言って拳を突き合わせ、ロードにも拳を向けた。ロードは目を丸くし、自分の両拳を見つめた。
「ほら、ロードも」
エディに言われるがまま、ロードは両の拳を突き出した。そこにエディとヘレンがそれぞれ拳を突き合わせた。鉄の小手(元はロードの蹄鉄)がはめられているお陰で、エディとヘレンは少し拳が痛くなってしまった。しかし、そんなことはおくびにも出さずにエディ達は笑う。自分達の絆の固さを感じていたのだ。
「さあ、行こう!」
エディ達はそれぞれの旅嚢を背負い直し、険しい山道を景気よく歩き出した。先ほどまでは少し疲れていたのだが、話しているうちにそんなものは吹っ飛んでしまった。岩を削っただけの武骨な階段を登り、左へと折れて谷間を行く道に差し掛かった。落ちることは無いから、風が吹く度に少々背筋が冷えてしまうようなこともない。エディ達は少々大胆な足取りに変わり、さらに力強く山道を登り始めた。
その時だ。エディ達はその歩を三人揃ってぴたりと止めてしまった。その目の前には、座り込む一人の男。エディ達のものよりも二回りは大きな、木枠で補強された旅嚢を脇に置き、壮年に足を突っ込んだ白髪混じりの男はその筋肉質な体を持て余すように脱力して座り込んでいた。その右足には包帯が巻かれていた。道を塞ぐように座っているから無下に扱うことも出来ない。エディ達は顔を見合わせると、そっとその男のもとへ近寄った。
「あの……一体そこで何を?」
エディは道を塞いでいる男の元に膝まずき、小さく首を傾げる。横目でエディの心配そうにした表情を窺った男は、口をへの字に曲げ、顔をしかめながら首を振った。
「む? すまねえ。ちょいと俺は足を捻ってしまってなぁ。何もなしに歩く分にはまだいいんだが、この荷物があるから、ちょっとここを動けないんだ。……けど、参ったもんだ。こんなことになったら、みんなが今か今かと待っている物資を届けられねえんだよ」
「物資? それは一体どんなものです」
「穀類さ。俺達は高山で暮らしているから、ヤギしか飼えないんだよ。大して草も生えねえし、たくさん飼うわけにもいかねえ。だから、うちの村はふもとのすぐ近くにある村と交流してんだ。俺らは幸い手先が器用な奴らが多かったから、他に売るための服飾品を作ってやる代わりに、穀類と交換するんだよ」
エディは思わず嘆息を洩らす。素直によく出来た仕組みだと思った。小さいが、これも立派な貿易に違いない。そんなことを思いながら、エディはロードの肩を叩いた。
「ん? どうした」
「このまま放っておくのは少し気が引けるからさ、何とかしてその村まで運びたいんだよ。ロード、ロードが背負ってくれてる荷物は俺が持つから、代わりにこの人の荷物を持ってあげてよ」
エディの耳打ちを聞き、ロードは一も二もなく頷いた。すぐにそばにしゃがみ込むと、ロードはエディが今しがた言った言葉を噛み砕いて伝える。やはりその申し出は嬉しかったらしく、男は険しかった顔を綻ばせた。
「おお、本当か? 助かるよ。どこの馬の骨だ、なんて思っちまってたが、悪かったな」
「そ、そんなことを……」
ヘレンが肩を落として目を細めると、男はぐるりと三人を見回しながら大声で言う。
「だってよお、見たこと無いぜ、お前みたいに真っ白な肌の人間なんてな」
「ああ、そういえばそうだな」
男の旅嚢を背負いながらロードは自分の肌を見つめる。やはり感覚として、着ている服は毛皮、鉄の小手や鉄靴は蹄鉄という意識が抜けないため、自分の肌を直に見つめるという感覚は不思議だった。それでも、エディやヘレンを毎日見て見慣れているから、ロードとしては目の前の男の、赤茶けた肌の方が物珍しかった。
「私からすれば、あなたのように赤っぽい肌を持った方の方が珍しいのですがね」
「ははは! そうかそうか。お前の周りには肌が白い奴らばっかりなのか……世の中不思議なもんだなあ。住む世界で人の肌の色まで変わっちまうのか」
エディは男に肩を貸しながら、笑顔で頷いた。正しく彼の言う通りであった。今この男と口がきけているのも、全て魔法という不思議な力のお陰だ。さらにドラゴンなどという、伝説だとばかり思っていた存在とも出会ったし、そのドラゴンが住まうのは今まで想像もつかなかったほど大きな、背中に木まで生やすような大亀だった。そして何より不思議なのはロードだ。瀕死の重傷を負ったところを、彼は近い死を運命づけられた存在となり果てても、人間の形をとって蘇り、そして再び自分達の元に駆けつけてくれたのだ。『神』という、誰もが当たり前のように捉えながらも、しかし謎そのものとでもいうべきその存在を追い続け、エディは一生分の不思議に出会ったような気がしていた。
「そうです。僕達はこんな年で、そんな世の中の不思議を見てこられたんですから、とっても幸せ者ですよ」
エディは男の足の様子を確かめながら、彼の住んでいる村を目指して力強く歩き出した。