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我が神を求め  作者: 影絵企鵝
二章 門出のイングランド
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承段 アダムとイヴ

 エディ達は、日暮れ時になると宿を探し始める。あまり遅くなると不躾(ぶしつけ)だし、泊めてくれる人も少なくなっていく。しかし、普段は一日ぐらいならと泊めてくれる家族が一組や二組現れてくれるものだ。とはいえ、それは全て周囲に家があるとしての話である。ロンドンを出立して五日目、カンタベリーを過ぎドーバーまで目前という段になって、ついに野宿をする羽目になってしまった。



 月明かりの夜、ヘレンは毛布に包まって、小さな焚き火を見つめていた。春先で暖かくなってきているとはいえ、やはり夜は寒いし、何より森の中は暗い。小さな音は森に飲み込まれ、代わりに聞こえるのは風になびく木々のざわめきだけだ。エディは先刻『食料を探してくる』と言って出かけ、まだ戻ってこない。ヘレンは毛布をきつく握りしめる。早く戻ってきて欲しかった。凶暴な動物が現れるかも知れない。もしかしたら、犯罪者がここにやってくるかも知れない。寂しさのあまり、ヘレンはそんな事ばかりしか考えられなかった。


「エディ……」


 旅の仲間の名を呼ぶと、急に草の根が掻き分けられてヘレンは飛び上がってしまった。肩を震わせながら振り向くと、いかにも不思議そうな表情をしているエディが、棒立ちになってこちらを見下ろしていた。


「どうしたんだい? そんな風に引きつった顔して」


 エディの顔を見て安心したヘレンは、溜め息をついて再び火と向かいあった。


「驚いちゃっただけ」


 そう呟くヘレンの隣にエディは腰を下ろした。そのままヘレンに向かって野イチゴを手渡す。ランプの明かりを頼りに、集められるだけ集めてきたのだ。


「食べない? さっき一つ食べてみたけど、美味しいよ」


 この前も同じような事を言ったが、その時の反応はあまりにつれないものだった。エディはそれを思い出して気落ちしたが、所詮その時はその時だと思い直してヘレンの反応を待つことにした。


「本当だ。甘くて、美味しい」


 一つ口にするなり、ヘレンは引きつっていた表情を和らげた。エディは心の中で安堵の溜め息を洩らす。のもつかの間、急にヘレンが涙ぐみ始めたためにエディは慌ててしまう。生まれてこの方、エディは少女と二人きりで一夜を明かすことなどなかった。


「ど、どうしたんだい?」


 ヘレンは涙を拭いたかと思うと、そのままエディの胸元にすがった。


「ごめんね。とても怖くなってた時に、いきなり優しくされたから……」


 慌てるという感情を通り越し、エディは逆に鼓動が収まってしまった。冷めた頭の中で、ヘレンが頼ることの出来る人間は自分だけだということに気が付き始める。そっと手を持ち上げると、エディは彼女の髪をゆっくりと撫でた。ヘレンは静かに肩を震わせ始めた。すすり泣く声が聞こえてくる。


「ヘレン。俺がいるから……」


 今の寂しさが、親のいない寂しさを思い出させたのかもしれない。頼れる存在にならないと。寂しさも掻き消せるくらい、頼りがいのある存在に……


 吹けば消えてしまいそうになってしまった火を見つめ、エディは小さく心に誓った。



 翌朝、二人はまたドーバーに向けて一歩一歩と前に進んでいた。ドーバーまでは後九マイル(一マイル…一・六キロメートル)まで迫っており、強行軍で突き進めば昼前にはドーバーに辿り着くだろう。


「イチゴ、イチゴ、どうして赤い。かわいと言われて照れてるからよ……」


 昨日食べきれずに余った野イチゴを口に放り込みながら、エディは大声上げて呑気に歌う。春という言葉がよく似合う、うららかな日差しを全身に受けて気持ちが良くなったのだ。その数歩後ろで、ヘレンが穏やかな表情で尋ねる。


「なぁに? その歌」

「たった今思いついたんだよ。とにかく今日はいい天気だなあ」

「そうね」


 ヘレンの和らいだ表情を見て、エディはさらに嬉しくなった。彼女には穏やかな表情が似合うとつくづく思う。森からはぐれて伸びている二本の木に、スズメが数えきれないほど並んで止まっている。見ていると心が安らいでくる光景だ。だらけきった声を上げながら背伸びして、エディは地平線の果てに見えるドーバー城を見つめながら歩き続ける。さらに向こうには海がある。そして、さらに行けばフランスや神聖ローマ帝国がある。さらに行けば、いつかきっと『デオドゥンガ』に着くだろう。本当は走り出したいような気分だったエディだが、ヘレンの事を思って我慢した。勝手に走って置いては行けない。


「あれ。誰だろう」


 ヘレンが急に隣に並び、道の向こうを指差し尋ねる。今まで空やら地平やら、ずっと遠くの景色を見つめていたエディは、向こうからやってくる人にようやく気がついた。しかし、百ヤードほども離れていては“人であること”しかわからない。顔を見合わせると、ひとまずは気にせず進むことにした。背が高い。女性だ。金の長髪だ。目鼻立ちが整った美人だ。エディ達は、素知らぬ顔でその脇をすり抜けようとしたが、いきなり呼び止められてしまった。


「ねえ、坊や」

「は、はい?」


 人見知りであるヘレンがそそくさと背後に回ったのを感じながら、エディは当たり障りの無い笑顔で女性と向かい合う。女性も似たような表情を浮かべ、エディに再び尋ねた。


「ねえ。私、ロンドンに来るのが久しぶりだから分からなくなってしまったのだけど、この分かれ道をどちらに行けばいいのかしら?」


 エディは女性の表情を窺った。絵に書いたような美人で、たとえ女性から見たとしても美人に思うに違いない。見つめられて頬が火照るのを感じつつ、エディは日記を開いて答えようとする。しかし、それを引き止める手があった。空いていた左手の平を指で撫でられ、エディは思わず震え上がってしまう。鼻息荒く振り返り、エディはヘレンに声をひそめて詰め寄る。


「何なのさ! いきなり手のひらなんか撫でないでよ!」

「いいから。話を延ばして」


 ヘレンの声は努めて冷静だったが、エディは彼女の目が恐怖に見開かれていることを見逃さなかった。それも尋常なものではなく、それこそ、人殺しでも見たかのような目だ。それだけでも、『美貌』という魔法を解くには十分だった。エディは女性と向き合う。ヘレンの恐怖は根拠がないものだ。しかし、目の前の女性が信頼するに足る人間だという根拠もない。どちらにも根拠がないならと、エディはヘレンの恐怖をとった。


口の中で唇をなめ、エディは何事もないかのように世間話を始める。


「あなたは一体どちらから?」

「フランスからよ」


 エディは左手の平に意識を集中する。ヘレンは背後に隠れ、こっそりとエディに自分が抱いた疑念を伝える。


――この人は――


「フランスですか。フランスといえばパリですよね。やっぱりいいところですか?」エディは尋ねる。

「ええ。国王のお膝元だから活気もあるし。芸術的な建築物がたくさんあるわよ」


――誰かに――


「いいですねえ。」エディは平静を装い、にこやかな笑顔を浮かべる。「僕達、これからフランスに行こうと思ってるんですよ。やっぱり行ってみたいなあ」

「へえ。まだ若いのに。大変ですこと」


――殺意を持っている――


 エディは左手で了解の合図をヘレンに送ると、エディは地図を女性に見せ、今まで自分たちが来た道を指差しながら、人当たりよく説明を始めた。


「それなら、まずこの道を行ってカンタベリーに入ってください。それからダンコーク、ストーン、シッチングボーン、ロチェスターにグリニッジという道をたどるのが一番だと思います」

「そう。ありがとうねえ、坊や」

「あ、待ってください。頼みたいことがあるんです」


 立ち去ろうとした女性を、エディは慌てて引き止める。素早くエディは算段を付けた。殺意を持っているということを誰かに伝えなければならない。エディはすぐにこの女性自身に手紙を託すことを思いついた。面識のあるバッキンガム公に渡させよう。もしかしたら、部下の兵士が内容を改めて、そこで気づいてくれるかも知れない。と、上手くいきそうに感じたエディだが、一番の問題は文面にあった。女性が中身を覗く可能性、杞憂である可能性を考えれば直接的な表現は避けるしかない。筆記用具を探して鞄の中を探りつつ考えていると、女性はいらいらしたような声を上げた。


「早くしてちょうだい。私は急いでいるのよ」

「はい、はい。もう少し待ってくださいよ」


 エディは筆記用具を取り出すと、静かに手紙をしたため始める。だが、どう書いたらよいかわからず、宛名だけで鉛筆が止まってしまう。女性の機嫌を窺いに顔を上げると、案の定目に怒りが透いて見えた。そして、エディは急に思いついた。託された旅人が勝手に読んでもわからず、読むべきロンドン人が読んで初めて分かる文を。


――目を離してはいけません。あなたは渡してくれた人を『アダムとイヴ』でないことを願っています。――


 これでも一か八かがコインの表裏に変わったくらいの事かもしれない。しかし、エディにはこれが限界だった。書いた文面を丁寧に折り畳んでその場でこしらえた簡素な封筒に入れると、エディはそれを女性に差し出した。


「これをバッキンガム公に直接届けてください。『公が素晴らしいと思う少年から』言付けですって言えば、あの人ならきっと通してくれるでしょう」

「そう。わかったわ」


 その時のエディは気が抜けており、女性が口元に怪しい笑みを浮かべたことにまるで気がつかなかった。二人を尻目に立ち去りながら、女性――シャルロットは呟く。


「口実を作ってくれてありがとう。坊や」



 怪しい背中を見送り、エディはヘレンに向き直る。彼女は顔面蒼白のまま、宙をきつく抱いて震えており、今もなお何かに怯えているかの様子だ。エディはそのそばに寄ると、優しくその肩を叩いた。


「僕達にできるのはこれくらいしか無いよ。行かなくちゃ。ドーバーから大陸に乗り出すんだ」


 ヘレンは今も心の中の不安が打ち消せずにいたが、エディの言う通り、自分達にこれ以上出来ることもない。エディの手を借りて立ち上がると、力なく微笑みながら頷いた。


「そうね。行かなくちゃだめだよね」


 エディは力強く頷き返すと、周囲に響くほど大きな音で手を一度鳴らす。


「よし、そうとなったら行くよ。本当は昼までにドーバーに着く予定なんだからさ」

「ええ」


 二人はドーバーに向かう街道を軽く駆け出す。その耳には、心なしかカモメの鳴き声が聞こえてきていた。


 エディ達が知ることは無かったものの、この一週間後にバッキンガム公暗殺未遂の事件が起きる。バッキンガム公に直接渡したい手紙があると言ってきた女が公邸の門前に現れたのだが、その手紙の内容を改めた番兵が手紙の意味に気が付いて、何とか未遂に食い止めたのだった。エディ達が知れば、どれほど大喜びしたことだろう。


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