破段 信仰か信頼か
リシャールはにこりと笑い、手持ち無沙汰に握りしめていた杖を置いて居住まいを正した。
「あなたは何故ここにいますか?」
エディは目を閉じ、自分達が歩いてきた道筋に改めて思いを馳せた。ヨーロッパからここまで、よく命を繋いでこられたものだ。今まで命の危機に見舞われたことが無かったから実感できなかったが、今ではこれがどれだけ奇跡的なことなのかよくわかる。どうせ隠し事などしたところで仕方が無いと思い、エディは正直に目的を話すことにした。
「僕達は、今まで神様を探して旅をしてきたんです」
「神様、ですか……」
リシャールは空を見上げた。昔はこの青空が、ひどくまとわりついて来るように見えた。自分の心や体を重苦しく縛り付けるような気がしていた。『神様』という存在は、リシャールにとっても重みあるものだった。
「ひとまずの目的地はどこですか?」
エディは背を反らし、目の前にそびえる峻厳な面立ちを見つめた。
「このヒマラヤの最高峰、デオドゥンガです」
「デオドゥンガ。なるほど、よくわかりますよ。神様は高いところだとか、華やいだところに暮らしたがるものだというのは、共通した考えですからね。……万年雪のデオドゥンガが、華やいだところかどうかには見解の相違がありますが」
同じく山を見上げるリシャールの呑気な物言いに、エディは思わず顔をほころばせてしまった。今になってみれば、昔の自分は随分と頼りないものを頼りにしていたらしい。既に答えを手繰り寄せ始めていたエディには、昔の自分が、やはり子供じみていて、どこか小さい存在に思えていた。エディの昔を懐かしむ表情を見つめ、リシャールは静かに口を開く。
「あと少しですね。どうです、神様はいると思いますか?」
「……それは実際に会えるまでわからないと思うようになりました。でも、これはきっと間違いないんだろうな、と思える答えには辿りつけたような気がしてます」
リシャールは興味深そうに眉を持ち上げる。左手で顎をさすりながら、エディの瞳を覗き込んだ。
「ふむ。それは一体どんな答えですか?」
エディはお椀の中の水に自分の顔を映してみる。昔は、無力な自分すらも恨めしく思えていた。だが、今なら自分のことを信じていると、力強く言えるだろう。
「人は何かを信じて強くなれる生き物なのかなあ、ってことです」
エディがお椀に目を凝らしながら呟いた言葉に、リシャールは笑顔になった。彼を憂鬱で晴れることのない日々から解き放ってくれた言葉と似ていたからだった。まだまだ少年の面影を残している青年が、どこか頼もしく見えるようになった。
「その心は?」
「……今まで会ってきた人々が、そうだったからです。家族を信じている人々がいれば、親友を信じている人もいる。世界の美しさや、人の心の美しさを信じている人もいました。そして、信じた人を守るために立ち上がった人もいました」
エディは顔を上げ、盗賊がこもっていた洞窟があったであろう場所を目で窺う。そして、エディが信じた絆を否定した男のことを思い出す。だがしかし、彼も一方でまた、純粋に一つのことを信じていたのだ。
「そして、自分の力だけをただ純粋に信じた人もいました。やっぱり、人は強くあろうとする時、何かを信じないではいられないんですよ」
「なるほどなるほど……」
リシャールは相変わらず笑みを浮かべ、エディが見つけ出した答えに耳を傾けていた。
「そして、その先に立っているのが、きっと神様なんです」
旅の中、今まで出会ってきた人々。神様を信じていないと明言したのは、アトスと、ラーヴァナだけだった。その他は、強弱在り方はそれぞれでも、神を信じていると言ったり、目の前で神に祈りを捧げたりもしていた。最低の境遇に身を落とし、懸命に神に縋る人々にも会った。宗教革命から、神の威厳がこの時代になって薄れ始めたとはいえ、まだまだ神はこの世にいる人々の精神、リシャールが言う所の『仮初の世界』にまだ君臨しているのだ。
「何かを信じるなら、それは絶対に強い方がいいに決まってます。自分より頼りないものになんか頼りませんし。だから神はいるんです。人や動物には成し得ない、絶対的な力を持って。疑いなく信じることの出来る、絶対的な存在として。信頼感を得ていないと、人間不安で仕方がないですからね」
エディの言うことはもっともに聞こえた。リシャールも何かを信じようと決め、そして孤立した気持ちをようやく振り払えたからだ。その事は自分の心に収めておいて、リシャールはさらに少し踏み込んでみることにした。
「では、聞き方を変えましょう。エドワードさん、あなたは神を信じますか?」
エディは息をついた。空を見つめて、今まで見聞きし、思ってきたこと全てに思いを巡らせる。そうすると、自ずと口から答えが出てきた。
「ええ。今なら信じられる気がします。……まあでも、それよりもずっと、ずっと信じられる存在がすぐそばに居てくれるんですけどね」
リシャールは微笑んだ。一瞬目を閉じたかと思うと、彼はそっと開けた道の方角を指差した。
「その言葉は、当人に仰ってあげたほうがよろしいんじゃないですか」
エディは慌ててリシャールが指さす方角を凝視する。そこには、二人の影があった。一つは大きく逞しく、もう一つは細くしなやか。その肩には鷹が止まっている。エディはその二人の姿を確かめて、そしておもむろに立ち上がった。頬元が震え、胸の奥底から温かいものが広がってきて、エディの目頭を熱くした。二人もエディの姿を認めたようで、彼女らはこちらに向かって走りだしてきた。エディも一歩一歩、この世の地面を踏みしめながら駆け出した。
「ヘレン!」
「エド!」
エディが叫ぶと、こだまの代わりに自分の声が飛んできた。三年近くにわたり自分を支え続けてくれたその声色を耳にして、エディはもう涙を堪えることは出来なかった。鼻をすすりながら、エディは飛びついて来たヘレンを掻き抱く。その感触はしなやかで、柔らかくて、そして優しかった。肩を両手を置いたまま、エディはヘレンの顔が見られるようにそっと離れる。
「ヘレン……心配かけたよね、ごめん……」
「そうだよ! 目の前で落ちちゃった時なんか……私も死ぬかと思っちゃったよお」
エディの胸を叩き、顔をくしゃくしゃにして大粒の涙を溢れさせているその顔を見て、エディもさらに涙が溢れてきた。しゃくりあげながら、エディは何とか言葉を繋ぐ。
「ごめん。本当にごめん。許してよ」
「……じゃあ約束して。もうあそこまでの無茶はしないって」
ヘレンの赤く充血し、つり上がった目を見れば、ヘレンにどれだけ心配をかけたかよく分かった。エディは顔を歪めながら、ゆっくりと頷いた。
「ああ。約束する。だから、もうそんな目をしないでくれ……」
「うん。うん!」
ヘレンはエディに飛びついた。すっかり大人になった彼は、ヘレンに守ってくれる人がいる安心、そして居場所があることの充足を与えてくれた。エディも、自分を強くしてくれた彼女を、絶対に自分では泣かせるまいと固く誓った。
「ありがとう、ヘレン……」
「私も……ありがとう」
ロードは二人の様子を眺めながら、そっと一人の人物に向かって歩き出した。微笑を持って若い男女の再会を見つめていた優男。その男は、その身なりからもどこか高貴な雰囲気を湛えていた。彼が自分の方を向いたのを見計らって、ロードはそっと頭を下げた。
「ありがとうございます。あなたがエディをお助けになってくださったんですね」
「ああ。いえ……助かったのは彼自身の運命だと思いますよ。あなたは彼らの保護者ですか?」
ロードは温かい目で二人が今もなお固く抱きしめあっているのを見つめ、それから小さく首を振った。
「いえ。私は彼らと共にいる旅人というだけです」
「そうですか。それにして……も?」
にこやかに何か口にしようと思っていたであろうリシャールだったが、彼は急に口をつぐみ、訝しがった。あまりの態度の変化に戸惑い、顔をしかめたロードは首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「どうかしたも何も……あなたの体が光りだしているので……」
ロードは思わず絶句し、手を自分の視界まで持ち上げ、そして目を見開いた。