序段 謎だらけ
エディは気がついた。頭が重い。散々打ち付けたあちこちが痛む。遠く流れて行ってしまった意識を手繰り寄せているうちに、エディは一番大変なことを思い出した。そもそも自分は切り立った崖から落ちたのだ。せっかく掴んだラーヴァナの手も離してしまい、急に血の気が抜けてしまった自分は気絶してしまったのだった。
身を起こしてみると、赤茶けた谷に囲われた中、エディは焚き火の横にいた。隣には、一人の青年がこちらを微笑みながら見つめていた。薄紫色の外套に身を包んだその青年は、慈悲に満ち溢れた優しい瞳をしており、その目を見るだけで何故だか安心できた。彼は左手で旅嚢の中を探りながら、エディに向かって呼びかける。
「よかった。お目覚めですか」
神妙な顔で青年の目を見つめ、エディはおもむろに髪をなでる。崖から落ちて死んだのに間違いはない。死ぬ前はきっちりと包帯を巻いていたのだから。しかし、あの世というのはさすがに不思議であった。天国にしても、地獄にしても殺風景である。そして狭い。おそらく、ここからさらにどこかへと向かうのだろう。ならば、目の前にいるのは差し詰めあの世からのお迎え、ということなのだろう。あの世があるのなら、神もいるに違いない。取り留めもなくそんなことを考えながら、エディは青年に尋ねた。
「あの……僕は天国に行けるんですか?」
「はい?」
いかにもエディの言葉を測りかねたというように、青年は首を傾げてみせた。どうしたことか。エディは目を瞬かせながら、尋ね方を変えてみた。
「僕、死んだんですよね?」
左手で串に差したパンを火にくべながら、青年は戸惑った顔で首を振る。パンの焼け具合を確かめながら、青年は胸に手を当ててみせた。
「何を言っているんですか。自分の胸に手を当ててご覧なさい。私はあなたの怪我も治して差し上げたのに……」
言われるがままに、エディは自分の胸に手を当ててみる。すると、確かに自分の心臓が脈打つのが分かった。自分は九死に一生を得て生きていたのだ。エディはとにかく戸惑い、あちこちを触って感触を確かめはじめた。腕、膝、這いつくばって地面、その上にまばらに生えている草を。そして自分の為に焼いてくれたというパンを素手で受け取る。その熱さに、エディは思わずパンをお手玉してしまった。
「あつっ! 熱い! ……お、俺、生きてる? 本当に生きて……」
喜びだとか、安堵だとか、ゆっくりと歩いてくる感情を押しのけて、たくさんの疑問がエディの中に押しかけてきた。思わずパンを握りしめてしまいながら、エディは青年に尋ねた。
「ど、どうして? 俺……あんな高いところから落ちたのに」
「私が崖下の道を歩いていたら、横に伸びてる木に引っかかってましたよ。どうしてそんなことになっているのかわからなかったんですけど、そういうことだったんですか」
エディは溜め息をついた。ようやく生きているという実感が湧いてきた。ヘレンとこれからも生きていけるという実感が湧いてきた。ただ、やはりこの世の不可思議を一度に味わってしまった実感が幅を利かせ、実感が肝心の感情に伝わらない。エディが呆けてしまった表情を浮かべているのが気になって、青年は表情を曇らせた。
「あの……もう少し、嬉しいだとか、そういったことは」
「いや、嬉しいんです。嬉しいんですけど、それ以上に不思議な事ばかり過ぎて……まあ、とりあえずヘレンが心配してるでしょうから、早く探さないと」
エディは立ち上がると、パンを口に押し込めて歩き出そうとする。同じく立ち上がった青年は慌ててそれを引き止めた。
「あ、あ。ちょっと待って下さい。ここから動かないほうがいいですよ。向こうだって探していますよ。下手に動くより、ここで待っていた方がいいです」
「で、でも……」
青年は曰くありげに微笑むと、胸元から左手で笛を取り出し、高らかに吹き鳴らした。遠くから、こだまのように同じような声が飛んできた。鷹だ。空を滑るように飛び、そのまま青年の左腕に止まった。彼はちょっとその頭を撫でてやると、その鷹に向かって話しかけた。
「お願いがあります。私達がここにいることを、何とか近くの人に伝えて頂けませんか?」
鷹は鋭く鳴くと、再び力強く羽ばたいていった。エディは呆気に取られてその様子を見つめる。『伝心』の魔法をかけてもらい、一年半あまりも経ってようやくロードと話せるようになったエディ達だったが、それを青年は何の造作もなくやってのけてしまったのだ。エディは首を小さく振りながら尋ねる。
「話せるんですか?」
「ええ。『伝心』の魔法を使っていますからね」
「え? あの、あなたは……」
青年は柔らかく微笑んでみせた。旅嚢のそばに置いてあった長い杖を左手で持ち出し、目の前に差し出してみせた。
「私はリシャール・カミーユ。しがない魔法使いです。ここに来て、少し衰えましたが。とりあえず落ち着きましょう。そして、お目当ての人がお越しになるまで、私とゆっくり話しませんか」
引き込まれるような魅力を感じ、エディは頷かずにいられなかった。リシャールが座るに合わせ、エディもそっと腰を落ち着ける。言われなくとも、話したいことは山ほどあった。そんなエディの目の前で、お椀と、そして海のように深い青色のサファイアを取り出し、ぶつぶつと何事か呟きながらお椀の底に打ち付けた。エディは目を疑った。空っぽだったはずのお椀の中に、なみなみと水が満たされたのだ。さらに積み重なる疑問に、エディは再び言葉を失ってしまう。
「どうぞ。とりあえず水でもお飲みなさいな」
「あ、いや。え、ええ?」
何とか捻り出せた言葉はこれだけだった。さも当たり前の顔をして、リシャールは首を傾げてみせる。
「どうしました? 澄んでいて、とても美味しいですよ」
「そ、それは一体……」
エディは震える手で得体の知れない青い石を指差した。リシャールは青い石と向かい合い、それをエディの方に差し出した。
「これですか? 『水の魔法石』です。とにかく深い青色を持ったサファイアをある一定の魔法陣の上に置き、仰々しく複雑な呪文を唱えることで、その石が水を魔力として取り込むようになるんです。旅先で貰ったのですが、便利ですよ。まず水筒が要らなくなりますし、魔力が切れたらまた水を吸わせればいいわけですから」
「そ、そんな奇想天外なことがこの世に存在するんですか? って、存在するのか。目の前にあるんだし……あ。じゃあ、もしかして……」
エディはラーヴァナが持っていた赤い石を思い出した。ラーヴァナが放り出したことでどこかへと無くなってしまったが、もしかすると、もしかするのかもしれない。エディは意を決して尋ねてみた。
「じゃあ、『炎の魔法石』もあるんですか?」
「ええ。ありますよ。それはとにかく深い紅色のルビーを同じようにしてつくると、炎を吸い込むようになるんです。そして、願いを込めることで、大小形様々に炎が飛び出すんです。……現物を持っていたんですが、残念ながら落っことしてしまったんですよね。まあ、この世界で石を使いこなせる人間なんて、世界中集めても数えるくらいしかいないでしょうし、あまり心配はいらないんですが」
エディは自分の不運に気が付き、口を尖らせた。
「でも僕、さっきそんな人に会ったんですよね。丁度炎の魔法石も持っていました」
「何ですって?」
リシャールはいたく申し訳なさそうな表情をした。その表情の意味を測りかねたエディだったが、それ以上に気になることがエディにはまだあった。恐る恐る、エディはそれを尋ねてみる。
「……それで、そいつ、端的に言うと悪い奴で、僕に火を付けようとしてきたんです。無我夢中でもう何が何だかわからなかったんですけど、その時どうしてか火が付かなくて……僕にはよくわからないんです。リシャールさん、わかりますか?」
エディの真摯な瞳を見て、リシャールは左手で顎をさすりながら唸った。起きた事象を説明するのは難しい。この世界は科学が進み始め、神の領分とされてきた事象、自然の摂理が次々と数字の羅列で表されるようになりつつあるらしい。しかし、魔法はそれを軽々乗り越えてしまう。神の力だと信じる人もいれば、悪魔の力だと信じる人もいる。その匙加減が難しかったのだ。しかし、ここでお茶を濁すのは目の前の青年に対する冒涜だと結局は考え、話すことに決めた。
「魔法はいくら研究がなされても答えが見えてきません。ですが、私が様々なところを旅し、思案を巡らせて辿りついた一つの可能性をとりあえずお教えしましょう」
リシャールはそう言いながら、焚き火を左手で少しずつ動かし始めた。
「例えば、目の前にある火は現実です。そして、この火に触れれば熱いと思うでしょう? 現実の世界から、精神、いうなれば仮初の世界に訴えかけてくるんです。そして、魔法はその逆……まず熱いという思いから先に立ち、そして幻覚だった炎が現実となって飛び出してくるんです。まあ、物は意識がありませんから、魔法は現実に直結するのだと思いますが。おそらく、あなたは『熱い』という思いを跳ね飛ばしてしまうほどに夢中になっていたのでしょう。だから、幻覚となって炎は立ち現れましたが、現実へと移り変わる前に消滅した。そういう事なのだと思います」
エディは何度も頷きながら聞いていたが、あまりにも現実から遊離したその話は、一片たりと理解できなかった。上目遣いをし、唇を一度噛んで首を小刻みに振った。
「だめです。わかりません」
別に怒るようなこともせず、無理からぬ事とリシャールは小さく微笑んだ。そして、ゆっくりと左手を自分の胸に当てる。
「結局、魔法は心の力です。心の弱いものが無理に使えば振り回されるし、弱々しい。心の強いものが使えば、その力を正しく使うことが出来る。魔法という神の力と見紛うほどの超全的な力に、毅然と立ち向かえる。そういうものなんですよ」
「へえ……僕にはやっぱりよくわかりません」
「わからなくても、生きていけますからね」
申し訳なさそうな顔のエディに、リシャールはそっと笑ってみせた。それに釣られ、エディも笑ってしまう。不思議な気分が抜け始め、エディの中に、そっとヘレンへの想いが滑り込んだ。エディは目を閉じる。一刻も早くヘレンに会いたくなった。抱きしめて、彼女と共に生きていることを感じたくなった。しみいるような表情をしているエディに、そっとリシャールが話しかけた。
「じゃあ、今度は私から尋ねてもいいですか?」
彼の謙虚で優しい作りの顔立ちを見据え、エディは頷いた。
「ええ、もちろんです」