鋪段 真誠、信頼、親愛
ヘレンが小川で遊んでいた。水の冷たさに顔をほころばせ、子供のようにはしゃぎながら水を蹴って飛ばしたり、見つけた魚を追いかけたりしている。エディはロードと共に木陰に座り込み、そっとその幸せな光景を眺めていた。ふと立ち止まった彼女。こちらに振り向くと、満面に笑みを浮かべてエディ達のところに駆け寄ってきた。
「ねえ、エディもおいでよ。冷たくて、本当に気持ちいいよ!」
「え? ……俺はいいよ。眺めてる方が今日はいいかな」
ヘレンはエディの腕を引いたが、エディ自身はあまり動く気になれず首を振る。今日は温かい木陰の中でのんびりと過ごしていたかった。ヘレンは口を尖らせると、下着姿のまま隣へ腰を落ち着けた。
「なんだあ。じゃあもう私もやめる」
「なんだい? 俺と一緒に遊びたかったの?」
「別にそういうわけじゃなかったんだけど、一人で遊び続けてると、何だか飽きちゃって」
そう言ったヘレンは、再びにこやかな表情に戻った。エディは思わずその表情に目を奪われてしまう。『可愛い』という印象が先行していた丸がちな輪郭は、素直に『美しい』という印象を抱かせるほっそりとした輪郭に変わっていた。猫のように丸くて人懐っこい瞳、そして少し小さな鼻が、大人らしくなった中にも少女らしさを残している。その顔から現れる表情は、笑顔一つ取ってもエディには数え切れないように思えた。
エディはふと、彼女と暮らす未来について考えた。きっと、しばらくは絵の練習をする傍らヘレンと一緒に働いて、シレーヌとの旅に思いを馳せているのだろう。“あの時”は霞みがかかって見えなかった将来。だが今は、かけがえのない存在と歩むささやかな、そして幸せな未来が見えていた。エディはふと顔をほころばせ、ブーツも靴下も脱ぎ捨てた。
「なんだ。それなら早く言ってくれればよかったのに」
ズボンを捲くっているエディを見て、ヘレンはさらに顔を輝かせた。
「やったあ! 早く来てね!」
ヘレンは立ち上がると、一足先に小川の方へ駆け出していった。元気で、優しくて、真面目な、自分の事を愛してくれる存在。彼女が隣にいると思うだけで、自分という存在が救われる気がしていた。彼女のためなら、どんな勇気も奮える気がしていた――
「行かなきゃ……」
突如として襲いかかってきた絶望に打ちのめされ、うずくまっていたエディ。しかし、彼は拳を握りしめて立ち上がる。今ここで絶望して終わりでは、今まで自分を信じてくれたヘレンに対する裏切りだ。すっかり血が足りていないことなど忘れ、エディは一歩をしかと踏みしめながら、先ほどすがった村人に歩み寄った。
「僕の荷物を知りませんか? あの中に短剣があるんです」
「た、短剣? お前、いったい何を……」
この中年男は、ころころと変わる青年の雰囲気に戸惑い通しだった。必死な形相をしていたかと思えば、次の瞬間には泣き咽び、ついには猛獣のような雰囲気を携えて戻ってきた。虎のような瞳を輝かせ、青年はさらに迫る。
「僕の荷物はどこです。まさか、それさえ無くしたとは言わないでしょうね」
すっかりその視線に気圧された男は、震える指でエディが寝かされていた家を指差した。
「あ、あの家だ……気づかなかったのか? それに、短剣なんか、一体何に使うつもり――」
「決まってるだろ! 盗賊どもからヘレンを取り戻すんだ!」
血がはやったエディは、思わず気の毒な中年男の襟を捻り上げて叫ぶ。その勢いに震え上がりながら、中年男は両手を挙げた。
「ま、待て! 盗賊を倒す? 馬鹿なことは言うもんじゃない」
「馬鹿なこと? 人として当然だろ。ふざけた事言わないでくれよ!」
頭に血が上ったエディを押さえることなど、気弱な男にはもう出来なかった。エディは男を突き放すと、肩を怒らせて自分が寝かされていた小屋へと戻ろうと踵を返す。すると、その目の前には十人ほどの男達が自分を取り囲んでこちらを見つめていた。暗い表情をしている、背の高低はあっても一様にげっそりとやつれている男達を、エディは虎のような目付きで見回した。
「何のつもりだよ」
「悪いことは言わない。あんな、人殺しや盗みを生業にしているような男達とやり合ったって、勝ち目なんかねえ。自分の命を大事にしろ」
エディの見舞いにやってきていた男が、手で押しとどめるような仕草をしながら小さく一歩を踏み出してくる。エディは歯を食いしばりながら首を振った。
「自分の命を大事に? 大事にするから行くんだよ」
「わけがわかんねえぞ。殺されに行くことのどこが、命を大事にすることなんだ」
人数を増してきた村人達を前にしたエディは反論しようと口を開きかけ、はたとあることに気がついた。この村を駆けまわって、今まで見てきた女性に、深くシワが刻まれていない事があっただろうか。事実、男達の後ろから顔をのぞかせている女性も、腰を曲げ、杖をついている。老婆ばかりだ。いや、老婆しかいない。エディは目を見開いたまま、一本調子で呟いた。
「どうして若い女の人がいないんだよ。まさか……」
村の男達はうつむいたまま、何も言おうとしない。エディが苛立ちを抑え切れないようになった時、ようやく老婆が口を開いた。
「最近、この村の北にある山の中に、盗賊が住み着くようになってな。そしてこの村を襲ってきたんだ。我々に歯向かう力なんか無かったから、まず食糧を持って行かれて、次には財産、二週間前、ついにはうちの村の女達も、売り飛ばしたり、慰みものにするためみんな攫っていっちまった。子供を産める女はいなくなっちまって、もうこの村は滅びるしかない……カトマンズの街に移ろうか、ずっと考えて――」
「ふざけるな!」
エディが吼えた。眉間に深い皺を刻み、歯をむき出し獅子のような形相に変わり果て、両拳を握りしめながらエディは一歩踏み込んだ。
「本気で言ってるのか? 正気で言ってるのか! どうして助けようとしないんだよ! お前も、お前もお前も! 女の人と幸せに暮す約束をしたんじゃないのか!」
エディは目の前に立ち並んでいる壮年の男三人を指さしながら吼え猛る。事実そうである男達は、何も言い返すことが出来ずただただ縮こまるだけだった。さらに怒りを燃え上がらせながら、さらに一歩を踏み出した。
「戦えよ。盗賊のなすがままでいいとは思ってないんだろ! 腹が立たないのか。怒りはないのか!」
「……戦ったって、あっさり殺されてお終いだ。命あっての物種だぞ。お前だって……」
エディは人々から目を離さないまま首をゆっくりと一回横に振った。
「言っただろ。俺は命を大事にするって……俺にとってヘレンは、命みたいなものなんだよ。この世で一番大切な存在なんだ。彼女がいなかったら……そばに居てくれたのが彼女じゃなかったら、今頃俺はどうにかなってたよ。だから行くんだ。ヘレンを取り戻さないと、自分が自分じゃなくなるんだ! だから行く。死んだって!」
言い返す気力などあるはずもない村人たちは、ただただうつむくことしか出来なかった。やがて、誰とも知れない声がぽつりと発せられた。
「正気じゃないよ……」
「正気だよ。少なくともあんたたちよりは。どいてくれ」
己の中にずっと飼い慣らしてきた獣を放したエディは、無気力な村人たちを掻き分けながら堂々と立ち去った。その姿に迷いはなく、彼が身にまとっている外套は、風にあおられ美しくはためく。その姿は、戦いに赴く勇者のようにも見えた。
その姿を見送ると、すっかりエディの視線に射竦められてしまっていた村人たちは、口をつぐんだままで気まずそうにお互いの姿を眺めていた。
閉じ込められてから、一体どれだけ時間が経っただろう。日の明かりが届かない暗室に閉じ込められたヘレンがそれを知る手段は、外の日の出と日の入りと共に運ばれてくるという食事だけだった。渡される度に投げ掛けられるいやらしい視線が気に食わなかったが、食事から(情欲はありありと伝わってきたが)悪意は伝わって来なかったから、ありがたく頂いておくことにしていた。
ふと目を閉じれば、どこからか欲望の犠牲となった断末魔が聞こえてくる。精神がすっかり研ぎ澄まされてしまったらしいヘレンには、その生き地獄の苦しみが胸を刺すように伝わってきた。同情することも憚られる苦しみの大きさにただただ胸を痛めながら、ヘレンはずっとあることを考えていた。
……私、魔女なんだ。
その時は起きた出来事に戸惑うばかりだったが、冷静になってくるにつれて、もはやそうとしか思えなかった。神を信奉していなければ悪魔も信奉していない。そのどちらからも力を与えられるとは思えなかったから、その事実がとにかく不思議で仕方がなかった。
だが、それが真実なら今まで自分の身に起きてきた出来事にも説明がついてしまう。かの女の悪意を感じ取ったことも、エディが数々ついた嘘を当たり前のように見抜けてしまったことも(もちろん、彼が分かりやすいこともあったが)、エディの忌まわしい記憶を垣間見たことも、全て自分が魔女なら造作もないことに思えてしまうのだ。牢屋の格子にもたれかかりながら、うつむき小さく微笑んだ。
……エド、とんだ女の子を好きになっちゃったみたいだね。
だが、今さら魔女が忌むべき存在だなどとエディが思いやしないだろう。きっと、ありのままの自分をありのままに愛してくれるに違いない。そう思っているうちに、ゆっくりと希望が湧いてくる気がした。ヘレンは顔を上げる。目の前の人々は、身を固く縮こまらせ、せっかく与えられた食べ物さえまともに手を付けようとしない。こんなことでは助かる前に飢え死にしてしまう。ヘレンはゆっくり格子のそばから離れると、村から連れてこられたという少女たちに歩み寄った。
「ねえ、食べないの?」
「……私達を女らしく保つために食べさせるんでしょ? ……いらないよ」
膝をさらに強く抱え込んだ彼女たちを見て、ヘレンは溜め息をついた。皿に乗った平べったいパン(ナン)を拾い上げると、そっと微笑みかける。
「だめよ。食べなかったら。人間どんな境遇に落とされたって、食べないと生きていけないもの」
「だって。自分をさらったような奴からごはんを与えられてるんだよ? ……悔しくないの?」
ヘレンは口を尖らせ、溜め息をついた。
「そりゃあ、私だって悔しい。でも、こんなところで飢えるのはもっといや。……しっかり食べないと、助かるものも助からないよ?」
「助かるわけない。助けてくれるわけない。あんな怖い奴がごろごろしてるのに……」
すっかり怯えきった少女たちの目を見つめ、ヘレンは小さく頷いた。確かに、襲われ負傷してしまったエディが助かったどうかはわからない。でも、もしエディが死んでしまったとしたなら、きっと自分は分かるだろう。今は希望を感じていられる。ここでエディの助けを信じられた。彼の身は危ないかも知れない。だが、拒んでも彼は来るに違いない。だから、ヘレンはエディの助けをじっと待って、受け入れるのだ。そうでなければ、エディの苦労は報われない。
「助けてくれるよ」
その時、やけに近くが騒がしくなった。怒号に混じり、微かに『外から乗り込もうとしている奴が居る』などの声が聞こえてくる。安堵したヘレンは、にっこりと笑ってみせた。
「信じていればね」
荒々しい岩が目立つ裸ん坊の山の中腹。ラーヴァナ達盗賊一団の居は、そこにぽっかりと開いた洞窟に堂々と構えられていた。村の住人が言った通り、探すのに苦労などしなかった。エディは頭に巻かれた包帯の具合を確認すると、そのまま見張りが二人眠たそうにしているだけの入り口へと向かって駆け出した。
いくら眠たいとは言え、さすがに正面堂々と現れた青年に気がつかないわけもなく、二人の見張りは入り口を塞ごうとのろのろ動き出した。
「待てよ。これ以上はお前みたいな奴が来るところじゃない――」
返事代わりに、全速力でエディは飛び回し蹴りを見舞った。顎を打たれた痩せぎすの男は、そのまま岩肌に叩きつけられる。右も左も打ってしまった男は、その衝撃のせいで立ち上がれない。エディは素早く周りに目を走らせる。二人いたはずの見張りが、一人消えていた。逃げ出したのだろうと見当をつけていたら、なんと十人ほどを伴って現れた。皆一様に粗野で雑多な姿格好をしており、『掃き溜め』という言葉がよく似合う、汚らしい男達だった。めいめいに棍棒やら蛮刀やらを持って、にやにやにたにた卑しく笑っている。
「おいお前。昨日ぶっ倒された奴じゃないのか? 何だ? 可愛い可愛い女の子が恋しくて、『会いたいよお』、って、言いに来たのか?」
面白くもない冗談に、男達は揃って馬鹿笑いしている。だが、その下品な笑顔はすぐに消えた。エディが短剣を抜いたからだ。
「何の真似だてめえ?」
「何の真似でもない。俺の大切な存在を取り戻しに来たんだ!」
エディが朗々と吼えると、男達は再び笑みを取り戻した。
「ふん。お前一人で何が出来るんだよ!」
そう言いながら、エディを一度打ち倒した筋骨隆々の男が駆け出してきた。エディはそれに合わせて短剣を逆手に持って身構える。だがしかし、その間に割って入る白い影があった。その影は男が持っていた棍棒をいとも簡単に弾き飛ばし、逆にその鳩尾へ鋭い一撃を叩き込んだ。男は苦しく呻いてうずくまる。周囲が唖然と固まる中、白い外套をはためかせ、白い装いに身を包み、白い小手にブーツの出で立ちをした白髪の騎士がすっくとその背筋を伸ばした。
「一人ではない。私が付いている!」
「あ……あなたは?」
エディは呆然とし、一瞬怒りも忘れて尋ねてしまった。その声に応じ、そっとその騎士は振り返る。精悍な大人の雰囲気を保ちながら、どことなく可愛げもあるその顔立ち。エディには間違いなく見覚えがある気がした。
「『あなた』はよせ。私は君の友なのだから」
エディは首を振った。諸手を上げ、今手に持っている武器を投げ出してしまいたいほど嬉しく、心強かった。しかし信じられない。エディは舌がもつれるのを感じながら何とか尋ねる。
「まさか……ロード……?」
白騎士は再び盗賊どもの方に向き直り、しかと頷いた。