承段 離れ離れ
ヘレンは目を覚ました。その目の前ににたにたと笑う太った男の姿があり、思わず悲鳴を上げてしまう。
「いやぁっ!」
悲鳴と共に、ヘレンはすぐ異変に気が付いた。手足がそれぞれ荒縄で壁に縛り付けられ、大の字にされたままで動けない。男達の視線が体を舐める。汚している。逃れたくて必死にもがくヘレンだったが、ささくれだった縄目が手首足首に突き刺さるだけ、浮かぶ涙が男達の嗜虐心をくすぐるだけだった。
「私をどうしたいの!」
半狂乱に陥りそうな自分を叱咤し、必死に叫ぶヘレン。ただ一人高い位置の椅子に座り、ヘレンを見下ろしていた男は、彼女の泣き顔に満足そうな笑みを浮かべた。その大きな口を見たヘレンは、一瞬で獣を想起する。この男こそ、この盗賊を取り仕切る首領、ラーヴァナであった。
「簡単なこと。今からお前が処女かどうか確かめるんだ」
意味を聞き返すほど無知ではなかった。聖母マリアは、処女――夫との契りを経ぬままに、イエスを身ごもったのだから。ヘレンの心の警鐘は、今再び割れんばかりに叩き鳴らされる。意味はこうして知っていても、調べ方などヘレンには知る由もなかった。
「ど、どうするつもりなの!」
「わからないか、わからないふりか……まあいい。簡単だ。お前のズボンの下を調べる。それだけだ」
ラーヴァナの言った言葉は信じられなかった。今まで純潔に、貞節に、晴れて想い人となったエディにすら見せなかった自分だけの秘密を、こんな、穴蔵に暮らしているような男達が乱暴に明かそうとしているのだ。ヘレンはいよいよ恐怖で頭が狂いそうになった。
「やめて! 私は誰とも交わったことなんかない!」
恥じらいも何もかなぐり捨てて叫んだ言葉を、ラーヴァナはいとも簡単に撥ね付けた。
「嘘なら誰でもつけるぞ。男と一緒に馬に乗っていたんだろう? その男にどうせ何度か抱かれていたんだろう?」
「そんなことない! エドと私の間にそんな関係ない! どうしてそんなことするの……」
鼻をすすり始めたヘレンを見て、ラーヴァナはまとわりつくような笑みを浮かべて立ち上がる。ゆっくりと階段を下り始め、ラーヴァナは低く押し殺した声で話す。
「処女には価値がある。手あかがついた服より、新品まっさらな服の方に価値があるようにな……お偉方は新しい“もの”の方がお好きなんだよ」
恐怖に意識が硬直しかけていたヘレンだったが、今の言葉が、彼女の中に燻っていた何かを蘇らせた。ヘレンの心の奥から、そっと支えてくれる手があった。ずっと自分を支えてくれた手だ。今まさに崩れ落ちそうなところを励ましてくれる声があった。自分が自分だと認めてくれる、あの優しい声。ヘレンは奮い立つ。この男達に屈するのは、今まで自分を支えてくれたエディに対する裏切りだ。
「恥を知りなさい! 女の子をこうして辱しめて、そのうえ物扱い? ふざけるのも大概にしなさい、この『けだもの』!」
ラーヴァナは足を止めた。まさに獣そのものの瞳でヘレンを射る。しかし、心が燃え上がったヘレンはその視線と真っ向から向かい合う。洞窟を照らす炎を鋭い光に変え、ヘレンはラーヴァナにぶつけていた。ラーヴァナは顔をしかめ、大きく舌打ちをする。
「生意気な女だ。ちょっとは情けをかけてやろうと思っていたが……少し自分の立場ってやつを思い知らせてやる。おい。その女の服を全部破り捨てろ。……白い女はどこまで白いか、少し興味があるからなあ」
ヘレンは目を見開いた。男たちは下卑た歓声を上げ、ヘレンのそばにいる太った男は、拳を鳴らしながら豚のように下品な笑いを上げる。ヘレンはきっと睨みつけた。ヘレンはもう恐れない。自分の中にいるエディが、ずっと自分を励まし続けているのだ。両親の死に打ちのめされ、絶望していた自分の手を取ってくれたエディ。泣き虫な自分に一度たりと眉をひそめることなく、ただ励ますように微笑んでくれたエディ。今再び絶望の淵に追いやられ、彼女は気付いた。彼と紡いできた記憶が、今まさに深い絶望の淵を埋めてくれた事を。そこにいなくても、エディは自分を助けてくれたのだ。ヘレンは希望の上に足を踏ん張り、洞窟いっぱいに叫んだ。
「やってみなさい! いくら私の体を汚そうと、私の心は汚されない。エドが私の中にいる限り!」
ヘレンが叫びきった瞬間、太った男の手をはね除け、拳大の大きさをした光の玉が彼女の胸の前に現れた。この世のものとは信じられない光景に、ヘレン自身も、ラーヴァナさえも目を丸くした。その光は急に揺れ動いたかと思うと、五つの小さな玉となって、ヘレンを取り囲んでいた五人の賊達の中に飛び込んだ。そのあまりの勢いに押され、男達は弾き飛ばされ地に叩きつけられる。
「な、何があったの?」
肩で荒く息をしながら、ヘレンは目を瞬かせて周囲を見回した。倒れ伏した男達を見つめているうちに、ゆっくりと彼らは起き上がった。見た目には何事も無かったかのようだったが、いきなり彼らはヘレンを戸惑わせる言葉を発した。
「いい体だったなあ? どこかに売り渡すなんてもったいねえ。俺達が飼ってやりたいぜ……」
物扱いの次は家畜扱いを始める彼らに再び怒りが沸き上がってきたが、そんな彼女に、一つの疑問が水をぶっかけ冷ましてしまった。ヘレンは思い切り顔をしかめ、首を深く傾けた。
「いい、体?」
「ひひっ。処女じゃなかったら好きに出来たのによ……」
豚のような男がまたも卑しい笑い声を上げた。頭を押さえながらラーヴァナが立ち上がり、今居る部屋の出口の方を指差した。
「さっさと牢に閉じ込めておけ! この女は値打ちもんだ。もしかしたら、むちゃくちゃな大金が手に入るかもな……」
「おお!」
呆けたとしか思えないやり取りをヘレンが不審がっているうちに、男達はさっさとヘレンの縄を解き、そのまま後ろ手にして歩かせ始めた。自分が何を為したのかも、これからどうなるのかもわからず、ヘレンはひとまず今が助かった安堵だけを噛みしめていた。
エディは飛び起きた。途端に目の前が歪み、再び仰向けに倒れこんでしまった。喘ぐように息をしながら周囲を窺うと、簡素な土の壁、土の床、かやぶき屋根。柱とそれに掛けられた服しかない簡素な部屋の中で、エディは一人でむしろの上に寝かされていた。おぼろげながらも、自分が殴られたことを思い出した。頭に手をやると、包帯がきっちりと巻かれている。ヘレンがいないが、彼女は別の場所で寝かされているのだろう。そんな事を回らない頭でぼんやりと考えていた時、部屋の入り口にかかっていたすだれを押しのけ、一人の男が現れた。頬が痩せ、いかにも頼りない外見である。
「お、起きたか」
男はそのままエディのそばに寄り、様子を窺いその首を傾げた。エディは未だぼんやりとする頭を何とか働かせて何とか起き上がり、しみるような頭の痛みをこらえながら男に尋ねた。
「俺はどうしてこんなところに?」
「た、倒れていたんだ……道の上に。つい三時間くらい前、ここに血だらけの馬がやってきたんだ。最近盗賊がこのあたりをうろついているから、きっとそれに巻き込まれたんだろうと思って、手当てしようとしたんだ。鞍も外して、荷物も外して……そしたらいきなり走りだして。追いかけてみたら、お前が倒れていたんだ」
それを聞いただけで、エディは目頭が熱くなってくる思いだった。ロードは自分の身を顧みずに自分を救ってくれたのだ。なんと友情に忠実な友なのだろう。すぐに会ってお礼を言わなければ。体にのしかかる倦怠感など吹き飛び、エディは勢い良く立ち上がった。
「僕の馬に会わせて下さい。今どこにいるんですか?」
旅人のささやかな願いなど、すぐに叶えられると思っていた。そんなエディが上げた希望の声とは裏腹に、村人の顔色はいつまでも曇ったままだ。エディは一抹の不安を覚え、笑顔を強張らせながら恐る恐る尋ねた。
「あの、僕の馬は一体どうしてしまったんでしょう?」
村人はうつむきがちだった顔をゆっくりと持ち上げ、何か言おうと口を開きかけた。
しかし、エディは気がついてしまった。その目が語っていたのだ。ロードがいなくなってしまったことを。心の震え、声の震えを抑えられず、エディはつっかかりつっかかりで尋ねた。
「ま、まさか。ロードは、ロードは死んでしまった……?」
村人は慌てて首を振った。が、途中で動きが止まってしまう。あれでは同じだと、思い至ったのだ。
「死んではいない……けども……お前を知らせてくれた後は、森の方へと歩いていってしまった……」
村人の消え入りそうな声に、エディは目を見開いた。
「何で! どうして引き留めてくれなかったんですか! 手当てしないとロードだって死んじゃうじゃないか!」
「仕方ないだろ! 俺達はお前を助けるのに必死だったんだ!」
村人に怒りをぶちまけても、エディの中に晴れるものは何一つ無かった。唇を悲しみに震わせ、エディはいきなり家を飛び出した。
「ヘレン! どこ? どこにいるんだよ!」
血の足りていない体を必死に動かし、エディはぼろ屋がまばらに建っている村を駆け回って叫んだ。ヘレンと掛け合って、いなくなってしまったロードを探そうと思った。だが、いくら喚いても、喉を絞っても、無くてはならない声が返ってこない。血が巡ると共に、エディの中を小さな絶望が駆け巡り始めた。身を縮こまらせ、不信の目で自分を見つめている小柄な中年男を見つける。ふらつきながら近づいたエディはその肩を強く掴んだ。
「ヘレンは? 僕と一緒に旅していた女の子は!」
「お……女の子? お前、ひ、一人だったじゃないか……」
エディは硬直した。揺らいでほしい、しかし揺らぐことのない一つの答えがエディに突きつけられる。唇を震わせ、鼻をすすり、目の前が真っ暗になったエディは、そのままおぼつかない足取りで彷徨う。頭の中で、ヘレンがひとでなしの悪鬼羅刹に無理やり連れ去られていく光景が巡っていく。エディの心を絶望に突き落とすには十分すぎるほどだった。村の真ん中までやってきたエディは、躓いてがっくりと膝をついてしまった。込み上げてくる感情が、エディの口をついて飛び出してくる。
「あああああ!」
天に向けて絶望の悲鳴を上げたエディは、そのままくずおれてしまった。
ロードは森の中を歩いていた。目の前は霞み、足から何から力がすっかり抜け落ち、森の中では歩くだけで精一杯だった。だがしかし、騎士の下僕として鍛え上げられたその精神が、ロードのことを休ませなかった。囚われの主人を救うため、ロードは僅かに残っている記憶を頼りに山へ向かっていたのだ。ロードは覚えていた。初めて出会った日のことを。まだまだ幼く、自分の大きさを見て目を丸くしていた彼らの姿が懐かしい。今では背も伸びて、すっかり顔立ちは大人になってしまった。彼らと会話が出来るようになってからというもの、すっかり自分が馬であることさえも忘れてしまいそうになっていた。二人の事を思い浮かべるだけで、ロードは力が湧いてくるような気がした。
しかし、そんなロードにも限界が訪れてしまった。頭に浮かべる回想さえも歪み、ロードはゆっくりと膝をついてしまった。倒れてみて、青く薄く光る小さな泉があることに気がついた。何だか喉が乾いてきたロードは、最後の乾きを癒そうと、一口、二口、三口とその水を口に含み、喉を鳴らす。心臓の動きが弱まるのが感じられてきた。呼吸も深くしなければできないようになってきた。ただただ体が重い。血が体の中に溜まっている。そんな彼の願いは一つ、ただただ、再びエディやヘレンと再会し、せめて彼らの旅を見届けることだった。心を駆り立てるようなこの願いが、ただただその身を熱く焦がしていた。
「エディ……ヘレン……」
天に向かってか細く嘶くと、ロードは震えるその身を横たえた。