起段 急転直下
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木彫りの馬(new!)
「それにしても……良く出来てるよなあ」
エディはラーマから貰った木彫りの馬を見つめて呟いた。旅立つ前日、ラーマはロードの所へと赴き、『少しエディの真似をしてみる』と言って一日かけて彫り上げた代物なのだが、結婚前は事ある毎に妻へと贈り物をして喜ばれていたと豪語するだけはあり、ロードの歴戦で培った力強さと、騎士のように洗練された雰囲気の調和を見事に再現していた。日常に悟りの手がかりを見出だしたラーマの表情は、変わらず晴れやかだった。
「ほんとにそっくり。ねえ、私にも良く見せてよ」
ヘレンがねだるのに合わせ、エディは木彫りの馬をヘレンに渡してやった。ヘレンは落とさないよう慎重に右手で受けとると、顔の近くまで持っていってまじまじと見つめ始めた。たてがみや尻尾の毛並みにも手が入るなど、一目でわかるほど芸が細かい。そんな彼女の様子を背中で感じ、浮かべている表情を想像しながら、エディはロードにも尋ねてみた。
「ロード、君も自分にそっくりだと思わないかい?」
ロードはエディに見せられた木彫りの馬を思い出す。力強いその姿は、かつての同僚を思い出させてくれたのだが、どうにも自分の姿の記憶というものがない。
「よくわからないな。私は馬だから、人間と違って自分の容姿にあんまり気を配った事がない。きれいな川に自分の顔を映すようなことはしないんだよ、ヘレン」
ヘレンに話を振ったのは、川辺に来る度ヘレンがそうしてきたからである。
「ふうん。でも、ロードはそういう顔をしてるんだよ」
ロードはヘレンが突き出した木彫りを見つめる。そのうちに、ヒマラヤの山をゆっくりと登り始めてから抱き始めた思いが少しずつ頭に立ち現れ始める。
「そうか……私はあくまで馬なんだな」
ロードの寂しそうな吐息を聞いて、エディは首を傾げた。
「ん? どうしたんだい? いきなりそんな事言って」
二人がさらに首を傾げると、ロードは再び溜め息をついた。
「たまに、私は人間になった夢をみるんだ」
「え……」
エディは言葉に詰まった。ロードの声色には、手の届かない物を見つめ続けるような、そんな虚しい感情が見え隠れしていた。彼の願いを汲み取りながら、ヘレンはそっと尋ねた。
「ロード、それって、人間になりたい、ってこと?」
「私にもよくわからない。でも、おそらくそういうことなんだろう。今はまだ道もあるし、なんとか登れる。だが、本格的な山登りになったら、この馬体など単なる足手まといだ。……これはこれで、君たちの荷物を運んでやれるんだが。それでも、悔しいんだ。このままでは、君たちの旅を最後まで見届けてやれない。とても心苦しいんだ」
ロードの切なさを帯びた呟きに、エディはため息を洩らした。
「そうか。そんな事、考えてもみなかったな。というか、忘れてたよ……ほんと、どうしたらいいんだろうね」
ヘレンはエディの腰に手を回したまま、周囲の低い草原を見つめる。今は平凡な盆地を行く自分達。しかし、ロードの言う通り、舗装されていない道を登るには無理があるだろう。エディの言う通り、自分達は、その事をうっかり考えていなかった。会話ができるようになってからというもの、『仲間』という気持ちが先行して、ただの『馬』としてロードを見ないようになってしまったからに違いない。だが、今からくよくよしたところでどうにもならないような気もヘレンはしてきた。
「まあ、これからゆっくり考えてみようよ。今から悩んだところで何にもならないし」
「そうか。確かにな」
話したロードは少し気分が晴れたようで、首を持ち上げながら嘶いてみせた。ロードがいつにもまして力強く歩き出す姿を見つめながら、エディは空を見上げた。
「この空が、オックスフォードとも繋がってるんだって、中々実感湧かないよね」
エディに合わせて空を見上げ、ヘレンも小さく頷いた。
「あの頃は、めそめそしてばかりだったっけ。ロバートさん、アンナさん、ダイアナちゃん。元気かな」
「今はもう二歳になるのかなあ。立って歩き出したり、話しだすようになったりする頃だね」
「うんうん。帰ったら会いに行こっか」
ヘレンの提案に頷くと、エディはゆっくりと旅の軌跡を思い出していた。今まで、色々様々な人に支えられてきた日々だったが、その記憶の中でも、強く光を放っている人々がいた。ダルタニアンであったり、三銃士であったり、カーフェイ一家であったり。彼らと出会えたことが、こうして今の自分を形作っているに違いない。どの人も親切なだけではない。そばにいるだけで、どことなく安心できるような心強さを持っている人が多かった。そんな事をヘレンに話すと、彼女はしっかりと相槌を打ってくれた。
「うん。あの心強さって、どこから来てたんだろ」
ヘレンの呟きに、エディはレイリーの事を思い出した。最初は頼りない雰囲気だった彼だが、肉親や恋人のためなら死後の罰も甘んじて受けると覚悟を決めた瞬間見違えるようになった。彼の足取りには、一切の迷いが無くなっていたのを今も覚えていた。その背中を脳裏に浮かべながら、エディは呟く。
「あの人達には、迷いが無かったからなのかなぁ」
「迷いがないから……確かにそんな気がするね」
今こうして、元気に生き、ささやかに恋もし、旅する意思を保ってこられたのは、今まで出会ってきた人々の真っ直ぐさに支えられてきたからに違いない。ヘレンは真っ直ぐヒマラヤの山を見つめる。白雪を冠に戴いた山々は、黙して鎮座していた。
「神様、いるのかな」
エディもヒマラヤを見つめた。長いこと、その台詞を聞いてこなかった気がする。ヨーロッパにいた頃は、神様がいるいないをずっと気にしてきたのに、それが今ではどうしたことか、神様の存在の有無について、段々と二人は気にしなくなっていた。
「神様か。なんだか最近、いなくてもいいのかな、なんて思ったりもするんだよね」
「どうして?」
ヘレンは首を傾げずに尋ねた。確かに最近、エディは『世界をもっと知るために』という旅の言い訳をずっと使い続けてきた。嘘に目ざといヘレンだが、その言葉が、何故だか最近嘘と思えなくなってしまうようになっていた。エディは言い訳をしているのではなくて、いつしかその言葉を本心で使うようになっていたのだ。ヘレンは、答えを聞かずとも、エディが何故旅の意義をひっくり返しかねない言葉を発したのかを半ば理解していた。
「だってさ、生きてるじゃないか。今こうして。神を真っ直ぐに信じてるわけでもないけど、いない! って否定しているわけでもなくて。それでももうすぐ三年、僕達は支えあって生きてきたんじゃないか。考えようによっては、神様が見ていてくれたから、なんて考えることもできるし、そうじゃなくて、自分達がずっと頑張ってきたからだ、って考えることもできるし。……何て言うのかな、今までずっと旅してきた事を整理してきて、最近、神様はいてもいなくてもいい存在だなって思えてきたんだ」
「いても、いなくても、いい存在?」
呑気に語るエディに、ヘレンが合いの手を入れる。深々と頷くと、エディはその理由を言おうと口を開きかける。だが、その言葉はロードの嘶きに遮られた。
「何かがこっちに向かってくる。馬車か?」
「どっちだい?」
エディはあくまで呑気な調子だったが、ヘレンは背後で目を見開いた。背筋が凍りつく感覚。今までとは比べものにならない、残酷な感覚だ。唇をわななかせ、ヘレンはエディの肩を叩いた。
「感じる……怖いよ。絶対にあの馬車、まともじゃない」
ヘレンの心に響く警鐘は、今や割れんばかりだった。ヘレンの恐怖を肌で感じたエディは素早く風景に目を走らせ、目の前に小さな集落を見つめた。ロードの両腹を蹴り、その集落を指差した。
「行けロード! ここにいたら危ない!」
「あ、ああ!」
高く嘶き、ロードは全力で走り始める。しかし、馬車はそれをさらに上回る速度で迫っていた。二頭の馬が必死に足を動かして、ロードの隣まで迫ろうとしていた。ヘレンは馬車に目を向け、そして戦慄した。一人の男が幌なしの、まるで荷車のような馬車から身を乗り出し、弓をこちらに向かってつがえていたからだ。
「まずいよ! こっちに弓が――」
ヘレンが言い切る前に、矢が真っ直ぐに放たれ、足元に突き刺さった。安堵するも束の間、ほとんど横一直線上になり、ヘレンは馬車に乗っている、ぼろをまとって泥だらけに垢だらけという不潔な男たちの姿を間近に見た。にたにたと卑しい笑いを浮かべて、二本目の矢でこちらを真っ直ぐ狙っていた。
ヘレンは恐怖に息を呑む。その瞬間に、放たれた矢はロードの脇腹を捉えていた。ロードは苦痛に呻き、その足を緩めてしまう。その間に馬を止めた賊達は素早く荷車から飛び降り、振り向いたエディの足を掴みロードから引きずり下ろした。したたか肩を打ち付け、激しい痛みをこらえながら立ち上がる。
「お前ら――」
鈍い音が周囲に響き渡った。男が持っていた棍棒がエディの頭に叩きつけられ、意識が一瞬で奪われる。エディはゆっくりと、賊の前に倒れこんでしまった。血が流れだし、地面を赤く染めていく。状況を現実と認めることができず、ヘレンとロードが石像のように硬直しているうちに、身長も腹回りも一番大きい男がヘレンの腕を掴み、無理やりロードから引きずり下ろした。その力はあまりに強く、ヘレンに拒むことは出来なかった。平衡を失って落下したところを、望みもしないのに抱きとめられる。そのままヘレンは担ぎ上げられ、エディとロードを取り残したまま荷車に無理やり乗せられた。それを確かめた一人の男が馬にムチを入れると、二頭の馬は悲鳴にも似た嘶きをあげて駆け出した。
「な、何をするんですか――」
「嬢ちゃん、こっちこそ、あんなところで何してたのか知りたいなあ?」
ヘレンの言葉を遮り、太った男はヘレンの白い頬を撫でた。気味の悪い感触に、ヘレンは息を呑んで震え上がる。蒼白な顔で周りを見回すと、姿格好は違えども、それぞれ乱暴で、不潔で、卑しい四人の賊がヘレンの容姿を隅々まで見渡していた。
「白い人間なんているのか。どこから来たんだよ?」
「けっこうかわいい面じゃねえか。高く売れそうだ」
「ああ。どれどれ……」
ヘレンを羽交い絞めにしている男が、その手をゆっくりと胸へ這わせた。清廉潔白な少女には信じられない行為だった。自分ですら、体を洗う以外に触れたことはなく、初めて覚えるそのおぞましい感触にヘレンは気を失いそうになった。男はいやらしい嘆息を洩らした。
「顔だけじゃなくて体もだ……相当な上玉だぜ」
自分に向けられた情欲の深さを知り、ヘレンは血の気が引き、意識が朦朧としてきた。それでも、彼女の意識を保たせるものがあった。ヘレンは必死にもがき、取り残されたエディと、どこかへと必死に走りだすロードの姿を見つめた。最後に見たエディの血を思い出し、ヘレンは悲鳴を上げる。
「いや! エディはどうなっちゃうの! あのまま放っておいたら死んじゃう!」
「ぴいぴいうるせえ!」
ヘレンの鳩尾に、一人の筋骨隆々の男が鋭く拳を叩き込む。ヘレンは目を見開いて声に出ない叫びを上げる。その重みは、華奢な彼女の意識を奪い去るには十分だった。太った男が羽交い絞めを解くと、彼女は男たちの前にその無防備な体を晒した。くっくと押し込めたような笑い声を上げ、痩せた男が四人を見回した。
「身ぐるみ剥いじまうか? 中も見てみてえ」
既に痩せた男は倒れたヘレンの服に手をかけていたが、目の前にいた髭面の男がゆっくりと首を振った。
「だめだ新入り。下手にその女で遊ぶな。こいつは生娘臭い。そんな奴に手を出したら、頭がお前を焼き殺すぞ」
「丁寧に脱がせりゃばれねえって」
髭の男は目を見開く。充血した目は獣そのもので、気圧された新入りは小さくなった。
「だめだ。頭は鋭い。お前が入ってくるちょっと前、さらってくる途中で生娘を犯した奴がその場で焼き殺されたんだ。……今でも忘れねえ。頭から、胸から、足まで、全部がぼっと燃え出したところを……絶対逆らえねえよ。それからというもの、頭は攫ってくるときには一切の手出しを禁じた。へたに女を男に慣らすな、ってな」
「……わかったよ」
髭の男によって消沈した馬車は、山の方角に向かって走っていった。