結段 ありのままで
鳥が飛んでいく。風の鳴る音が聞こえてくる。長いこと座を組んできたせいで、少し足がしびれてきた。手の据わりも、ひいては世界に対する自分の在り方も正しいのか不安になってくる。一旦不安になると、ラーマは座禅に集中することが出来なくなってしまった。せっかく心を空にできるようになってきた彼だったが、あの二人が現れたせいで、再び振り出しに戻ってしまったようだ。
「くそ……全く集中できない……」
朝から断続的に座禅を続けてきたラーマだが、周囲の事象に気を取られるばかりか、ついには空腹にさえ気を持って行かれるようになってしまった。ため息ひとつで諦めると、おもむろに立ち上がって頂上を下りはじめる。東に二、三分ほど下ったところに、ぽつんと赤い実のなる木が生えているのだ。近辺では見られない木なのだが、成る実は問題なく食べられるので、ラーマは特に気を留めない。ただ、その実を見る毎に思い出してしまうことはあった。
実をもいでそれを見つめた途端、脳裏によぎる妻の顔。今手に持っている赤い実のようにつややかな頬が魅力的だった。実をしばしぼんやりと見つめていたラーマだったが、いきなりはっとなって首を振る。妻に対する思いは、女に対する情欲とも繋がりかねない。打ち消してしまおうと、ラーマは慌てて赤い実をかじる。少々酸っぱく、微かに甘かった。これでは悟りを開くのは遠い先の話になってしまう。ため息をつくと、ラーマはさらに赤い実をかじろうと大口を開けた。
「リンゴですか? 珍しいなあ、ヨーロッパで見て以来ですよ」
そんな時、いきなり背後から呑気な声がした。今の今まで孤独にいたはずのラーマは、驚嘆して飛び上がってしまった。
「うわぁ! な、なんだ!」
よくよく見てみれば、目の前にいたのは昨日現れた少年少女のうち、少年の方だった。何とか弾んだ心臓を鎮めると、ラーマは少年の人当たりよい柔和な笑みを睨み付けた。
「どうしてお前がここにいるんだ? また俺の邪魔をしに来たのか」
少年は肩に背負っていたかばんを手にぶら下げ、両手を揃えてこちらに向かって突き出した。
「邪魔だなんて、そんなそんな。僕はただ、ここからの景色がとってもきれいだったんで、描きに来ただけです。ついでに、僕の名前はエドワード・サーベイヤー、エディと言います」
エディがそう言って笑いかけると、ラーマはしかめっ面で身を乗り出し、エディの表情をじろじろと眺め回した。確かに、目が泳いだり、鼻が膨らんでいたり、そういった嘘をついているような様子はない。
「絵を描きに? なら描いてろよ。俺の邪魔だけはしないでくれ」
「ありがとうございます!」
ラーマがぐったりと手を払うような仕草をすると、エディは早速目を輝かせながら付近を歩き回り始めた。本日何度目かのため息をこぼすと、彼には構わず座禅を組もうと頂上まで歩き出した。しかし、エディは何故だかその後をゆっくりと追う。
「どうしてついてくるんだ」
「高いところのほうが描きやすいからですよ」
全く呑気な調子で話し続けるエディに、ラーマはとにかく辟易した。何を言おうがのれんに腕押し、聞く耳を持ちそうにない。
「勝手にしろ。俺の邪魔だけはするなよ」
「ええ。もちろんです」
にこりと笑ってみせたエディに向かってしかめっ面を見せつけ、ラーマは肩を落として頂上まで歩き出した。いつの間にやら、体に鉛でも入れられたかのように足取りが重くなっていた。それでもやっとこすっとこ山を登ると、ラーマはなんとか腰を落ち着けた。
……さあ、心を無にするんだ。心を空にして、この世を感じるんだ……
自分に深く言い聞かせて座禅を組んだラーマだったが、いつの間にかエディはラーマの目の前近くに座り込んで、一生懸命ヒマラヤ山脈を写し取っているように見えた。その動きがせわしなく、目の前でちらつくので落ち着かない。ラーマは舌打ちすると、一旦座禅を解いて反対側に向き直った。しかし、エディはその動作に合わせるかのように、『こっちがいいかな』などととぼけた事を言いながらラーマの視界の前に現れる。その動作にいらいらが募り、ラーマは思わず睨みつけた。
「やっぱり俺の邪魔をしたいんだろ! 俺もお前のことは放っておくから、お前も俺を放っておけよ!」
「え? 邪魔でしたか?」
すっとぼけるエディは、あくまでも笑顔の仮面を付けっぱなしで、その心中がだんだんと見えなくなってきてしまった。ラーマは心底気味が悪くなり、それ以上責め立てようという気になれなくなってしまった。ため息をつくと、ラーマはエディに向かって手を払う仕草をする。
「さっさと俺の視界からいなくなれ。気が散るんだ」
「そ、そうですか? それは失礼しました」
エディは笑顔で頭を下げると、ラーマの舌打ちも気にせず立ち上がった。紙と鉛筆をぶら下げて、エディはふらふらとどこかへ歩いて行く。確かに視界からはいなくなり、ラーマはようやく眼前の世界にじっくりと目を向けられるようになった。だがしかし、その安寧もすぐに崩れてしまう。ようやく心が落ち着き始めたと思ったときになって、今度はかりかりと鉛筆が走る音が聞こえてきたのだ。周りに虫が飛んでいるようで、全く集中できない。ラーマはかりかりして、思わず立ち上がってエディを探した。
「やっぱり絵を描くのはあっちでやれ! 音がうるさくて集中できないんだよ――」
ふざけてるのか、と言い切るつもりだったラーマだが、隣にいたエディの表情があまりにも真剣で、思わず口をつぐんでしまった。まさにエディは目を皿にして、目の前に広がっている光景に向き合っているのだ、ちょっと覗くと、下書きながら描かれている絵には温かみがあり、村の平穏な雰囲気が色濃く現れていた。ラーマは振り上げた拳を下ろせないようになってしまった。その感情を汲んだかのように、エディは静かに口を開く。
「確かに少し邪魔しようとは思いました。でもそれは、僕に注意を向けて欲しかったからです。じゃないと、まともに話できそうにありませんでしたから」
一旦言葉を切ると、エディは言葉を失っているラーマの方に振り返る。その視線は優しく、柔らかかった。
「僕も、あなたの真似をしてみたんです。まあ、自分なりのやり方に変えてはいるんですけどね」
絵を描くことが、この世の仕組みを理解することに繋がるものか。座禅を組んで、この世に自分を溶けこませるより他に方法などない。そう言いかけたが、エディが目の前の光景に向ける真摯な表情を見ているうちに、そんな言葉は内に沈み込んでいく。
「その心は何だ」
気づけば、そんな事を尋ねていた。エディは村の景色に目を向けたまま頷き、素早く鉛筆を走らせ続ける。
「僕は、あと、尊敬する絵描きさんもやっていると思うんですけど、下絵を描く時には、こうした美しい景色をありのまま受け止めて、ありのままを描くんです。それこそ、心をほとんど空っぽにして、こうして目の前に広がっている世界を皿のように受け入れるつもりで描いてます。そして本描きは、この世界に自分が抱いている気持ちを洗練して、受け入れたものをさらに良いものにしていくつもりで描くんです。そしたら、この世界がどれだけ美しいのか、ここに生きている自分がどれだけ幸せか、何となく分かるんですよね」
ラーマは少々呆気に取られてしまった。目の前の青年は、ただ単に絵を真剣に書いているだけだと思っていた。ところが、この青年は想像したより遥かに深く深く物事を考え、そして絵に打ちこんでいたのだ。
「心を、空っぽに?」
無意識にラーマは呟く。まさに修行の心そのものだ。今までラーマは、釈迦が座禅で悟りを開いたから、座禅をすることで悟りが開けるのだと思っていた。だが、ここにきて、少しずつそれが間違いだったと気がつき始めていた。
ラーマが言葉を失っていると、エディは急に悪戯っぽい表情を浮かべて再び振り向いた。
「まあ、普段はそこまで意識しないんですけどね。こういう『筆舌』に尽くしがたい景色を『描く』ときには、必要かなぁ、なんて思ってみただけで。すみません。何だか適当なこと言っちゃいましたよね」
エディは謝罪の念を若干笑顔に込めて、手持ちぶさたに髪をくしけずった。それをじっと見ていたラーマは、そっと首を振り、エディの右肩を掴んだ。
「そんなことはない。すごいなお前は。俺よりもまだまだ若そうでいて、世界については俺よりも良く知ってるよ。……俺ときたら座禅を組んで悟りを開くもんだとばかり思ってたのにな」
違うのだ。けっして、座禅を組むから悟りが得られるのではない。座禅は、ある種方法に過ぎなかったのだ。大切なのは、目の前の青年が言う通り、目の前に広がっている世界を皿のように受け入れることなのだろう。そんな事もわからなかった自分は、ただただ家族に迷惑をかけていただけだ。ラーマは一人考え、祖父の死を見て自分の死に怯えた自分が少々恥ずかしくなった。
「幸せか。そうだよな。確かにこの世にも幸せはあるんだよな……忘れてたよ。何が死の苦しみが生の苦しみにも繋がる、だ。そんなもの意識しないですむほど、家族のみんなと幸せに生きればいいんだよな。考えもしなかった自分が恥ずかしいよ」
鉛筆を膝の上に置き、エディはそっと笑ってみせた。
「そんな事ないと思いますよ? 僕だって、あなたと似たような時期がありましたし。そこをヘレンに支えられて、今があるんです。……男って、何だか情けないですね。ここ一番! って時なのに、最後には結局大切な人の優しさに支えてもらってる……僕も、きっと僕が尊敬している人もそうだったんです。だから、大切な人がくれた優しさに少しでも恩返ししようと、僕は僕なりにヘレンを幸せにしてあげないとなあ、なんて思ってるんです」
ラーマは、目の前の青年と可愛らしい振る舞いで談笑していた少女の姿を思い出した。そして、その笑顔は自分の妻の笑顔と重なる。彼女は自分にいつでも笑顔を見せてくれていた。相当お腹を痛め、苦痛に喘いでいたお産の後も、彼女は笑顔で自分に生まれたばかりのアンドラを手渡してくれた。エディが言った言葉を他人事とは到底思えず、ラーマは思わず苦笑しながら頷いた。
「そうだよな。はっきり言って、女のほうが男のほうがずっと強いや。だってさ、お腹の中から、あんな小さい股をくぐらせて赤ん坊を産むんだからな。俺だったらその痛みに耐えられないで、死んじまってるかも。……サティヤには、到底敵わない気がしてきた」
「いつかヘレンにも、いや、僕達にもそんな日がくるんだと思います。そんな大一番におたおたしてないで、しっかり支えてあげなくちゃ、ですね」
「ああ。ちゃんと支えてやれよ」
立ち上がった二人は、屈託もなく笑いあった。死への憂いなど忘れ去った、たった今昇っている真昼の太陽のように明るい笑顔だった。一息つくと、エディは首からぶら下げていたクジャクの彫刻をラーマに手渡した。
「これは?」
「旅先でもらったんです。旅の初めにアンナさんっていう人からリボンをもらって、それからずっと、紆余曲折あって、貰ったものが色々と移り変わってきたんですよ。リボンは最終的にブローチになって、ヘレンともう一人の女の子が交わした友情の象徴になってます。そしてこれは、海運のお守りから始まって、神の生まれ変わりとして讃えられていた女の子から貰った品物なんです。……旅で出会った証です。どうか、貰ってくれませんか?」
ラーマには、クジャクの彫刻に彼らの旅の思い出が詰まっているように思えた。優しく微笑むと、ラーマは両手で彫刻を柔らかく包み込んだ。
「ありがとう。大切にするよ。」そこで一旦言葉を切ると、ラーマはゆっくりと村の方角に足を向け始めた。「俺からもなにか受け取ってほしい。今までの旅の記憶が、この彫刻には詰まっているんだろう? ……だから、代わりのものを俺があげるから、それに新しく旅の思い出を込めてほしいんだ」
ぱっと顔を輝かせ、エディは何度も頷いた。
「はい! ありがとうございます!」
村に戻ったラーマは、ともあれ家族に謝った。父親は不満そうだったものの、サティヤやタージャがとりなしたことでなんとか許された。以降は今まで以上に孝行者となり、そして生まれた世界に対して真摯に向き合うようになった。そこで培った智慧はやがて人々に重宝されるようになり、いつの間にか村一番の相談役になっていくのだった。