転段 悟りの岩山
翌朝エディ達は村を出て、ヒマラヤ山脈の前座とも言うべき山を登っていた。苔むした森林の中、厳しさをその体に表した大岩が至るところからその顔を付き出しており、下手なところに足を置くと踏み外して足を挫いてしまいそうだった。普段から大きな馬に乗っているため体は鍛えられているのだが、それでも峻厳な岩山を登るのは苦行だった。
「きついね……こんなところを登って修行するなんて、確かにラーマって人はやる気なのかもしれない」
「何がやる気?」
少し重くなってきた太ももを叩きながら、エディは溜め息をついた。ヘレンは水筒の水をあおって、非難混じりに尋ねる。
彼女は、自分をその立場に置き換えて、自分の妻や子供を置いてこんなところで修行を重ねているなど許せなかった。
「解脱だよ。死んだら天国か地獄か、っていう俺達には少しわからない話なんだけどね。この世で何度も生まれ変わって、死の苦しみ、ひいては生の苦しみに縛られるから、それから一刻も早く抜け出したいって。……俺は、ヘレンと出会えただけで、生きる事が幸せになったけど」
赤面しつつも付け加えたエディの言葉に、ヘレンは頬を染めてうつむき、手をもじもじと動かした。エディがもしそんなことをしたら、自分は一体どうなってしまうかまで考えたが、やはりそんなことは考えずとも良かったようだ。
「エド……私もだよ」
二人は見つめあうと、おずおずと笑いあった。エディは彼らしく、いつものように微笑んだ。
「ありがとう」
エディは上から手を差し伸べると、ヘレンは力強くその手を掴んで岩の段差を乗り越えた。なおも山はその険しい表情を少しも変えないが、エディ達は頂上の側から少々の光が覗き始めている事に気がついていた。足が滑り、節々を痛め付ける急勾配も後もう少しである。
「さあ、何とか乗り越えちゃおうか」
そうヘレンに笑いかけると、エディは率先して足を強く踏み出した。岩の有る無しに関わらず、エディは揚々山を登って行く。その背中に力強さを感じ、ヘレンは改めてエディという存在が自分に与えてくれた変化を実感した。そして、自分などを好きになってくれた彼に確かな感謝を抱き、一歩一歩と歩き始めた。
若い恋人達は、ようやく山の頂上部に足跡を付けた。岩盤が固いらしく、大小様々な岩がひしめき合っている。たった数本の木が、ひどく目立っていた。
「ねぇエド、こっちを見て?」
ヘレンの言われるがままにして、エディは山のふもとの方を見下ろした。そして、目の当たりにした光景に感嘆し、その目を輝かせた。
「わあ! すごい!」
目の前に広がっている緑の盆地。その上に、黄土色の道が蜘蛛の巣状に張り巡らされている。光を返す田んぼがあり、鮮やかな緑の畑がある。小石のような家から、蟻のように小さい人々が畑仕事に精を出したり、子どもは楽しそうに走り回っている。ここから見下ろすと、人々の暮らしが手に取るようにわかる。感動したエディはほっとため息をついた。絵描きの心が強く訴えかけてくるが、エディは泣く泣く目を反らす。
「普段なら描こうとするところだけど、今日はそんな事も言ってられないか」
至極残念そうなエディの声色を耳に、踵を返したヘレンはヒマラヤ山脈を見つめる。この山を北に少し下れば、そのままヒマラヤ山脈に足を踏み入れる事が出来るようだ。今いる頂上よりも緑はあるようだが、それでも伸びる木々はこじんまりとしており、あまり山籠りを続けるには向かない地域のように思える。だが、一応ヘレンは不安を口にしてみた。
「ねえエド、ラーマさんがあっちの山まで登ってたりするかな」
エディは首を傾げた。脳裏に、つい一ヶ月前の出来事が蘇ってくる。人は、自分達の幸せを守るためになら戦いもするのだ。神の存在が人に凄まじい力を与えるということは、もうその身に染みて分かっていた。
「信心の力は強いからね。やりかねないとは思うよ」
ヘレンはため息をついて辺りを見回した。頂上にラーマの姿は無く、岩に響く風鳴り音だけが周囲を騒がせている。そうなったら今日は諦めるしかないが、今はまだ希望を抱いておくことにした。
「まあ、ちゃんとここを探してみない? いなかったらいなかったで、その時考えればいいし。でしょ?」
屈託の無いヘレンの笑顔を見て、エディは静かに微笑みを返した。この笑顔が当たり前になったのがいつか、エディはよく覚えていなかった。
「昔は俺からばっかりそんな事を言ってたんだけど、ヘレンも変わったよね」
エディの懐かしげな声色を聞いて、ヘレンはくすりと笑った。きっかけの張本人は、全く自分がなしたことに気がついていないようだ。
「エドに影響されちゃったのかな」
深みのあるヘレンの瞳を見て、エディは再びどきりとした。彼女が自分の恋人になってくれると知ったエディは、恋人には恋情を向けて然るべきと思えるようになって落ち着けるようになった。が、やはり本能に訴えかけてくる魅力にはどぎまぎしてしまう。
「それは、どういたしまして」
「うん。ありがとう」
二人が他愛もない調子で笑いあっていると、急に南の方角から怒気を含んだ強い声が響いてきた。
「おい! そんなところで何をしているんだ!」
振り向くと、そこに立っていたのは上半身をはだけ、その骨ばった痩身を外気にさらした青年だった。頭は青くなるほど剃り込まれ、その細い双眸には強い光を帯びている。彼こそがラーマであった。会った途端に怒られて、困ったエディは思わず肩を竦めてしまった。
「すみません。別にここを荒らそうだとか、そんなつもりは無いんですが」
「ならどいてほしい。これから瞑想するんだ」
エディとヘレンは言われるがままに頂上を降り、ラーマに譲る素振りを見せた。しかし、彼らはラーマの家族に頼まれた事を果たしにやってきたのだ。それを忘れなかったエディ達は、すれ違おうとしているラーマの行く手を柔らかく塞いだ。当然ラーマは嫌な顔だ。
「何をするんだ? どいてほしいと言っているのに」
エディは愛想良く笑ってみせる。どけるつもりは更々無かった。
「どきませんよ。あなたの家族に交渉を頼まれたんですから」
ラーマはしかめっ面になった。しかめっ面になって、肩を竦めているエディとヘレンの顔を交互に見渡す。口からはため息が洩れてきた。
「他人を遣ってまで俺を連れ戻す気なのか……」
「どうして家族を放って、ここで修行しているんですか。サティヤさん、とても寂しそうにしてたのに」
ヘレンは込み上げてくる義憤を抑えて、とてもやんわりと話しかける。下手に刺激するといけないのは、もう身に染みてわかっていた。ラーマは再び深々とため息をつくと、首を傾げて斜にヘレンの瞳を見つめる。
「家族に頼まれてきたのなら、修行している理由だって聞いているんだろう?」
「ええ、聞いていますよ。慕っていたおじいさんが亡くなって、それから『解脱』したいと言って飛び出したって……僕、その心がよくわからないので、もう一度教えてもらえませんか。あなたの口から」
ラーマは自分の時間を無駄に割かれることが腹立たしいらしく、しきりに体を揺らしていた。しかし、思い直したのか、急に落ち着いてしまうと、ゆっくりとエディ達を押しのけ、頂上へと登りながら口を開いた。
「いいか。この世はまず、輪廻転生、因果応報、業の世界で成り立っているんだ。この世で為した所業、つまり『業』によって死後転生する世界が決まる。これが『因果応報』だ。天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄。全て、この世に迷いや煩悩を持つからこの世から魂が解き放たれること無く、死んでもすぐにさっき言った六つの世界のどこかに振り落とされる。この世にある限り、永遠に死の苦しみに追われるんだ。そして死の苦しみに追われる事が、生の苦しみにも繋がる。死に追われ続け、生に倦み疲れるのさ」
頂上で立ち止まったラーマは、ぽかんとしているエディ達に向き直って、声高に言い放った。
「だから『解脱』するんだ! その苦しみから抜け出すんだよ。この世の仕組みを理解して、仏陀のように『悟り』を開くことで! 苦しみの根本が何であるかを理解した時、この世に俺を縛り付けるものはなくなって、再びこの世で苦しむこともないんだよ! 病に苦しみながらおじいさんが死んだ時、俺は思った。こんなに苦しい死を何度も何度も味わうなんてまっぴらだ。解脱して、一刻も早くこの世の苦しみから逃れたいってな!」
目を剥いたラーマの表情からは、彼が死から逃れる事をどれだけ望んでいるのかよくわかる。シュードラの民のように、彼も幸せを求めているのかも知れない。だが、ヘレンはまだ納得が行かなかった。
「そしたら、残した家族はどうするつもりなんですか? ……確かに、きちんと面倒は見てくれると思います。でも、それじゃあなたは家族としてやるべき事を投げているじゃありませんか」
エディも同じく何度も頷いてみせた。ラーマはうつむき、一時その表情を曇らせたようにも見えた。が、結局ラーマは元の仏頂面に戻ってしまう。腕組みをしながら、地べたに座り込んで着々と座禅を組む準備を始める。
「かのお釈迦様は自分の家族を捨てて出家しているんだ。一国の主の座も捨ててな。権力、金、女は一番煩悩を引き起こす存在なんだよ。それらと交わる時に、欲が絡まない事がないんだ。金と権力は幸いにして持ってなかったからよかったけど、サティヤ達のことは忘れるくらいの気概で行かないと、悟りなんか開けない」
ずっと心を抑えてきたヘレンだったが、とうとう我慢がならなくなってきた。彼女は顔をしかめて口を尖らせる。
「なんだか自分勝手です。自分が輪廻転生から逃れたいからって、大切な家族をほっぽり出してこんなところにこもるなんて。将来一家をまとめていくような立場の人が、そんなでいいと思うんですか?」
ラーマは再び目を見開いた。充血したその瞳は、確かに心底苦しんでいるようだった。
「黙れ! 俺は死ぬのが怖い。一回きりで終わるんならいいさ。でも、それが永遠に続くと思ったら、人生に楽しみなんか見出せないんだよ! どんなに楽しかろうが、どんなに幸せだろうが、最後には苦しんで終わるんだったら台無しだろ!」
エディ達は黙りこんでしまった。ラーマの言うことにも一理はある。エディの親は殺され、ヘレンの親はそれこそ病に倒れた。とても苦しんだのは間違いないだろう。エディ達が言葉を継げない間に、ラーマはその場に座り込み、黙してヒマラヤ山脈を見つめ始めてしまった。中途半端に開けた口を閉じ、二人はそっと目配せした。
「やっぱり無理なのかな……あれじゃ話しかけたって無視されそうだよ……」
エディはヘレンと共にもう一度だけラーマの背中を一瞥し、再び見つめ合った。エディはヘレンの寂しそうな顔を見て頷く。
「今日のところは下がろう。考えなしに何か言っても無駄なだけだ」
二人合わせてため息つくと、肩を落として悄然と山を下り始めた。
「神様を強く信じている人ほど、芯が強くて、折れないよね」
ヘレンはため息混じりに呟いた。褒め言葉に聞こえる響きだが、ひと月前の出来事、そして今の出来事を体験した彼女の口から放たれたこの言葉は、最早皮肉でしかなかった。もちろん、神に従うとしたならば、信仰心が強いのは決して悪いことではない。だが、持て余しそうなほど強い信仰心が何をもたらすかを知った今、ヘレンはその強さが空恐ろしく感じられるようになっていた。
「あの人は神様を信じている、というわけじゃないような気もするんだけど……。まあ、神に縋らないで、自分だけで乗り切ろうってだけで、宗教を強く信じる心が分別を少し弱くするっていうのは変わらないみたいだけどね」
「しょせん部外者の私達には、あの人を連れ戻すのは無理だったのかなぁ」
小石を蹴って転がしながら、ヘレンはため息をついて空を見上げる。白い雲が太陽を覆い隠して、自分達に薄い影を落としていた。同じく空を見つめていたエディだが、彼はすぐに視線を前に戻した。
「いや。少し考えがあるから、明日もまた行くつもりだよ。またあの人とゆっくり話したいんだ」
「でも……」
あまり判然としない調子でしゃべるヘレンを見て、エディはゆっくり首を振った。彼女の正面に先回りすると、エディはヘレンの腕組みを解いて、その腕を掴んだままでヘレンの表情を窺った。
「ヘレンはいいよ。明日は俺一人で行くから」
「え、どうするつもり?」
目を丸くし、不思議そうな顔のヘレンを見ると、エディはちらりと悪戯っぽく笑った。
「まあ、ちょっとね」