承段 大家族の欠けた穴
「済んだのか?」
二人が満面を輝かせて笑い合っていると、突然エディの背後から暗い声がした。二人だけの世界から急に現実へと引き戻され、エディは心臓がひっくり返るほど驚いてしまった。足をもつれさせながら振り返ると、そこにはいかにも寂しそうな目をしたロードが、尻尾を弱々しく振りながら立っていた。
「ロ、ロード……待っててって、言ったじゃないか」
ヘレンの隣まで後ずさったエディは、肩で息をしながらため息をつく。昔なら気にしなかっただろうが、自分の言っていることを理解されている上に、ロードに口まできかれるとなっては困ってしまう。彼の存在を、エディは今まで以上に強く意識するようになっていたのだ。しかし、どうやらその扱い方は不服のようらしい。
「厩舎に入れてもらえるわけでもなく、ただ道に放っておくなんて。私が馬だからって、さすがに扱いが酷いぞ」
「別に君が人間だったとしても、俺はおんなじように扱ったよ。そして君はおんなじように出歯亀しに来るんだと俺は思うよ」
エディは口を突き出し気味にしながら言った。ロードもエディが不機嫌な理由が大体わかったものの、少し引っ掛かって首を振る。
「出歯亀? 何だそれは」
エディは少々うんざりし、軽く自分の額を叩いた。いくら会話が成立するといっても馬は馬。語彙量は少ないようだ。
「人の色恋に首を突っ込むことだよ」
「色恋? ……時期じゃないからよくわからないな」
エディしかいないと思って言った言葉をロードに聞かれていやしまいか。そう思って、ヘレンは赤面して小さくなっていたのだが、どうやらロードは聞いていないように見えた。そこで、これ以上は迫られないよう釘を刺そうとする。
「わからなくていいから、それ以上は口を突っ込まないでよ。ロードが寂しいのはわかったから」
「ああ、“エド”、ヘレン。わかった」
ヘレンは耳まで真っ赤になった。いつのまにやらロードの尻尾は楽しげで、それを見たヘレンは一気に頬を膨らませた。ロードの首筋に、その小さな拳を何度もぶつけながら叫ぶ。
「だめ! ロードがそう呼んじゃいけないの!」
「了解了解。本当にヘレンはエディの事を特別に思っているんだな」
「うるさいうるさい! エディ、もう行こう!」
ロードの茶々に堪えかねて、ついにヘレンはロードにそっぽを向け、頬を赤らめて俯いているエディに訴えた。エディはほんの少し顔を上げ、通りの方角を指差した。
「うん。さっさと宿でも探しに行こうか」
エディとヘレンはもじもじと見つめ合い、小さく微笑みあった。
村とはいえど、平屋で土壁、木壁の建物がそう見せているだけのようで、実際には街と言っても差し支えないほど広く、家も密集していた。東部は人々がほとんど全員出払っており、せっかくの結婚式の邪魔もできないと取り決めあった二人は、かくして西部を訪れていた。
「よかった。こっちは大分落ち着いてきてたみたいだね」
今なお盛況を見せる東部に反して、西部は既に普段通りの暮らしを取り戻しつつあるようだ。街の重心は東部のようで、ここは農村の色が強い。エディ達はどこまでも伸びるあぜ道を、せっせと雑草抜きをしている人々を見つめながら歩く。
「今日はここら辺の人に泊めてもらおうかな」
「うん。……じゃあまず、ロードを泊めてくれる場所を探そっか」
エディの呟きに応じて、ヘレンは腹に一物抱えたような笑みを浮かべる。ロードは小さく鳴いた。
「そんな言い方は勘弁してくれ。そんなに俺を厄介払いしたいのか」
ロードの上ずった声に、迷わず二人は頷いた。ヘレンは相変わらず悪戯っぽい笑みを浮かべ、愉快そうに受け答える。
「今まで私達の旅に付き合ってくれたんだから、厄介とは言わない。でもね、『人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んじまえ』って言葉もあるんだよ」
いい雰囲気を台無しにしたのが相当気に食わないらしい。気が付いたロードは、すっかり弱った声を上げた。
「うむむ……私が馬なんだが。わかった。もうからかったりしないから、これ以上私を困らせるような事を言わないでくれ……」
「ほんとに?」
「ああ」
「ほんとに?」
とうとうロードは答えなくなってしまった。それを無言の了解と捉えたヘレンは、安堵のため息をついて笑いかける。
「そうそう。そんな感じ。私達の関係に口出ししないで。別にロードの前ではベタベタしないから。お願い」
二人のやり取りに苦笑していたエディだが、やがて彼の目は一人の少女に注がれる。浅黒い肌をして、大きくくっきりした目をした少女。水田の水を賄う小川の側にしゃがみこんで、彼女はせっせと大量の洗濯物を洗っていた。これだけならただの孝行娘というだけだが、少女は何故だか浮かない顔をしていた。下がり気味の眉、すぼんだ口元。うつむきがちな姿勢も相まって、少女はとても寂しげな表情だ。
そこにエディは妙な引っ掛かりを覚えた。ロードに速度を緩めてもらいながら、エディは背後のヘレンに話しかける。
「ねぇヘレン。あの子、妙に寂しそうな気がしない?」
エディに言われるまでもなく、ヘレンもその子が寂しげな表情をしている様子に気がついていた。ただ、感情に聡い彼女のこと、エディが抱く不審は彼女の確信だった。
「本当に寂しそう。何かあったのかな」
「ちょっと行ってみようか」
二人はそうしようと頷き、ロードにそっと近づかせた。少女は目の前の洗濯物に集中しているようで、エディ達が近づいても全く反応を示さない。エディ達はロードから飛び降りると、抜き足差し足で少女を挟むようにしゃがみ込む。そっと少女の顔を覗き込むようにして、エディは小さく声をかけた。
「ねえ、手伝うかい?」
「え?」
親切そうな外見をしているとはいえ、見たことも無い肌の色をしている二人を見た少女は戸惑ったらしい。そんな反応は慣れっこなので、エディもにこやかな笑顔を全く崩さない。
「大変じゃない? そんなにたくさんあったら」
「ええ……まあ」
少女が戸惑っているうちに、ヘレンは勝手に洗濯物を取り上げ、慣れた手つきでせっせと洗い始めた。少女は控えめにヘレンの洗濯物に手を差し伸べる。親切を無下には扱えないという思いと、赤の他人に手間を掛けたくないという思いがせめぎ合っていたのだ。
「えっと。あの、そんな事しなくても……」
「いいのいいの。私達にも聞きたいことがあったから」
ヘレンの手際の良さを見ていると、その流れを抑えるのは悪いように思えてきた。少女は伸ばした手を引っ込め、自分は新しい洗濯物を手に取った。そして、それがこれから洗うことは無いかもしれない服であることに気が付いた少女は、微かなため息をつく。二人はそれを聞き逃さなかった。
「やっぱり、何か悩み事でもあるのかい?」
サリーを洗うのに四苦八苦しながら、エディは隣で服を見つめている少女に尋ねた。しかし、少女は曖昧な返事を返したきりで再び口ごもってしまう。エディも彼女が持つ暗い雰囲気に当てられてため息をついてしまうと、今度はヘレンが少女の顔を覗き込む番だった。彼女は寂しそうな目をしているが、悲劇的な表情かといえばそうでもなく、ただ単に寂しいという感情が彼女の中に落ち込んでいるようだ。ヘレンは柔和に微笑みながら尋ねる。
「どこか寂しそうな顔してるね。もしかして、誰か大切な人がどこかへ行っちゃったの?」
少女ははっと顔を上げた。服を胸に押し付けながら、彼女はヘレンの皿のように丸い瞳を食い入るように見つめた。
「ど、どうして分かったんですか?」
「まあ、ちょっとね」
ヘレンは指で小さな隙間を作ってみせた。少女はほっと息をつくと、服を川に浸す。自分達が説得しようとしてもダメだったのだから、きっとダメだろう。けれど、ここまで心に敏感な人物ならば、あの硬く凝り固まった心を解きほぐしてあげられるかもしれない。黙して考えた後、少女は伸るか反るかでヘレンに頼んでみることにした。
「すみません。この仕事が終わったら、私と一緒に来ていただけますか? ……少しお話ししたいこと、そして頼みたいことがあるんです」
少女を挟んで見つめ合ったエディとヘレンは、すぐに頷きあう。エディは重くなったサリーを持ち上げると、少女に向かって微笑んだ。
「いいよ。でも、もしよかったら、僕達を泊めて欲しいな……なんて思うんだけど、大丈夫かな?」
エディ達の快さに驚き、そして嬉しくなった。少女はエディにつられて柔和に微笑む。長い黒髪、そしてほんの少し厚みのある唇が彼女の可愛らしさを引き立てていた。
「はい。私の家は少し狭いんですが、それでも良ければ」
日が少し傾いてきた頃、エディ達は少女――タージャに連れられ彼女の家を訪れていた。土の壁で出来た平屋の家は、決して粗末でもなく狭くもない。家族が一堂に会する空間も有るし、四人は楽々と寝られるような部屋も二つある。しかし狭かったのだ。
「えーと、サンジャヤさん、ラマナさん、サティヤさん……えっと」
「いきなり全て覚えなくても構いませんよ。少しずつ覚えて頂ければ」
「はあ……」
生きた年月をそのしわに刻んだ老婆がエディを諭す。エディは肩を縮こまらせながら、目の前の人々を一人一人と見渡した。タージャが『狭い』と言った理由もわかる。彼女を含めて総勢十二人もここで暮らしているのだ。彼女の紹介によれば、祖母、両親、弟、叔父夫婦、従姉弟二人、義理の姉、そしてその息子だ。口々に名前を名乗られたのだが、十数人の名前を一気に覚えるなど無理だ。とにもかくにも、これほどの大家族に囲まれたことが無かったエディは、ただただ戸惑っていた。
「それにしても大家族なんですね」
視線を右から左へ往復させながら、エディはとにかく感心し通しだった。筋骨隆々で、力強い眉をしたタージャの父が大口を開けて豪快に笑う。
「当たり前だ! 畑仕事は大勢でやればやるほどはかどるからな!」
「そうだ! 今年も頑張ったから、すくすく育って、豊作だ!」
タージャの父とほとんど変わらない容姿、違うところといえば禿げ上がりが無いというところの叔父は、兄と肩を組んで家を震わすような大声で笑い始めた。勢いにすっかり押されっ放しになりながらも、ヘレンは楽しそうにくすくす笑う。
「みなさんお元気なんですね。と言いたいところなんですけど……」
笑っていたが、ヘレンは急にその笑顔をしぼませた。その視線の先にいたのはタージャの義理の姉、タージャの兄、ラーマの妻だった。彼女は笑顔を浮かべているものの、本当に一応、といった雰囲気で、感度の高いヘレンはもとよりエディも彼女の寂しげな雰囲気に気がついていた。それに、そもそも兄がいないのは何故なのか。
「あの、タージャのお兄さんは?」
「……家を出てしまったわ」
エディが尋ねてみると、豊かな髪を後ろでまとめたタージャの母が、うつむきがちに呟いた。単純明快にして、訳のわからない話を聞き、エディもヘレンも面食らってしまった。
「家出? どうしてまた、奥さんや子供を置いて?」
エディが尋ねると、タージャは膝に置いた自分の手を見つめながらとつとつと語りだした。
「つい一ヶ月ほど前の話なのですが……私の祖父が亡くなったんです。お葬式もして、私達もようやく祖父との思い出を整理できるようになったんですが、祖父に懐いていた私の兄はすっかり塞ぎこんでしまって。誰が慰めようとしてもだめで……それでとうとう、『解脱する』と言って、村の奥にある山並みの中にこもってしまったんです」
「解脱?」
耳慣れない単語に、ヘレンは思わず首を傾げた。小さく頷くと、タージャは手いじりを始めながら続ける。
「解脱、というのは、私達を縛っている輪廻の輪から解き放たれることです。輪廻の輪にある限り、私達は生と死の苦しみにさいなまれます。そこからの脱することを目指したのが、『解脱』なんです」
エディ達はそっと視線を交わした。解脱の説明を聞くと、輪廻の意味が分からない。それを尋ねようとヘレンは口を開きかけたのだが、すぐにタージャの父が口を開いてしまった。
「俺の息子ながらなっさけねえ! 嫁や子を置いて出ていくような奴が、解脱なんか出来るか!」
「って言っても、お釈迦様は実際に妻や子を置いて出家なされたんだから、そんな事があるわけないって、兄さんは取り合わないんだよね」
丸い顔の弟が、口を尖らせながら付け足した。その声色を聞く限り、兄には少々うんざりしているようだ。エディとヘレンは苦笑交じりに頷きあった。たまには一肌や二肌脱ぐのも悪くない。
「なるほど……もし良かったら、僕達が説得して、連れ戻してみましょうか?」
エディが家族の方に身を乗り出しながら言ってみると、家族一同は一気にどよめいた。笑顔になるもの、不安そうな顔をするもの、それぞれだった。その中で、祖母は気難しく眉根にしわ寄せ、目を伏せた。
「そう言ってくれるのはありがたいです。ですが、もう我々全員で説得をしても聞き入れなかったような奴です。お手を煩わせてしまうだけになると申し訳ないのですが……」
エディは首を振った。久方振りに、エディは純粋に人助けすることを求めていたのだ。
「いえ。構いませんよ。何だかそのお兄さん、放っておけない気がして」
父と叔父は揃って頭を下げ、上目遣いにエディ達の表情を交互に窺った。
「いいのか? 本当に任せて」
「ええ。少しその宗教について勉強させて下さい。最善は尽くしますから」
エディは頷き、力強く握り拳を突き出してみせた。