起段 ロンドンと盗人
Eventful Item
赤い金糸のリボン エディの父の日記 ヘレンの母の図鑑 古い世界地図
Money
九十シリング
オックスフォードを南に抜けたエディ達は、そのまま東、ドーバーへと続く街道へと向かった。ハイウィカムからロンドンを通って、ギリンガム、そしてドーバーというほぼ一直線の道だ。まだ旅に出て一週間ほどの彼らだったが、既に父母の遺産は大活躍していた。エディの父の日記に記された野宿や釣りの知識、ヘレンの母がまとめた植物図鑑のお陰で無駄に食料を買うようなことをしなくて済み、その上に――小ずるいものだが――快くただで泊めてもらう方法、泊めてもらえそうな人の見分け方まであったお陰で、初めにあった九十五シリングの遺産はほとんど手つかずだった。
そのようなわけで、エディ達はハイウィカムとロンドンの中間辺りに暮らしているサクランボ農家に昨日は世話になっていた。一宿一飯の恩義ということで、今朝は二人でサクランボの収穫を手伝ったのだ。どうやら、今年はとても温暖な天候のようで、本来は六月中旬に収穫するはずが一カ月も早まってしまったらしい。
「ありがとうねえ。このサクランボ、持って行っていいよ。親戚を探しているんでしょう? 若いのに大変だねぇ」
旅立つ準備を整え軒先に立ったエディ達に、農家のおばさんはそう言いながら小脇に抱えられる程度のかごにいっぱい詰められたサクランボを手渡した。エディの顔は満面の笑みだが、内心はほんの少し複雑だった。親切なおばさんに嘘をついているのだから。だが、『神を探しています』と言って驚かれ、いちいちその理由を説明するのも面倒だと考えたエディは、本当に正直でいるべきもしくはいたいと感じた時以外は適当に嘘を言ってごまかす事にしたのだ。生真面目なヘレンはあまりそれに好意的ではなかったのだが。
「ええ。ありがとうございます。うわ、とても重い! 身が締まってる証拠ですね!」
「そうでしょう、そうでしょう。褒めてもらえて、うれしいわ」
エディはサクランボを一つ摘み上げて見つめる。太陽の光を一身に受け、丸い小さなその実は眩しく光っていた。
「じゃあ、行ってきます」
「ええ。また会えたら嬉しいわ」
エディ達はおばさんと握手をすると、おぼろげに見えるイングランドにおける権威の中枢でありイングランドという国の象徴、ロンドンの街に向けて歩き出した。目下三マイル、一時間も歩けば十分辿りつける距離だ。エディ達は一度振り向く。おばさんはまだ戸口に立って、エディ達に向かって手を振っていた。エディ達は手を振り返すと、ロンドンを真っ直ぐに見据え、一心に向かい始める。そんな時、ヘレンは首を傾げながら、小さな声で呟く。
「やっぱり、嘘をつくなんてよくないよ」
エディは溜め息をついた。ヘレンの言い分ももっともだし、この先も嘘ばかりつき続けるのは心が痛む。だが、ロバートは理解のある人だから良かったものの、一口に言えば神への冒涜や挑戦となる旅の理由を簡単に明かし、果たしてどんな事を言われるかわかったものではない。今の優しいおばさんも、真剣に神を信じていた。
「ヘレン、嘘も方便だよ。ほら、サクランボ食べてみない? 甘くておいしいよ」
エディは自分でもサクランボを一つ口に含みながら、ヘレンに二、三個取って手渡した。眉間にしわを寄せ、口を尖らせていかにも不機嫌そうな様子だが、それを渋々受け取って一個ずつ食べ始めた。
「おいしい」
少しも美味しそうに見えない表情でサクランボを食べているヘレンを窺いながら、エディはまだまだ心を開いてもらえるには時間がかかりそうだと一人黙して考えていた。
この時代のロンドンは、現在のように赤レンガが目立つ風情ある都市ではない。木造の家屋に狭い路地と、言ってしまえば雑然としていた。それでも、ブリテン島において最大の都市であることには変わりない。人も多ければ物も多い。初めて訪れた大都市に、エディ達は目を奪われるばかりだった。
「すっごい街だなぁ」
ロンドンは人々がひしめき合って動いていた。ただでさえオックスフォードの一回りや二回りは大きい街なのに、道を行き交う人々で道路は混雑していた。エディにとって興味深いものがありすぎて、彼は街に入った途端動けなくなってしまう。一方のヘレンは目の前にいる数えきれない人を見ただけで息苦しくなっていた。
「皆人を避けながら動いてる。人が多いのに道が狭いから不便なのかな? 見てるだけで疲れそう」
「そうだね。あと三ヤードくらいでも道が広かったら違うんだろうけど……でも、せっかくだから色々観光しようよ。お店とか、なんだか珍しいものがあるかもしれないじゃないか」
隣のヘレンはうつむいたまま、あまり乗り気ではない様子だ。エディはヘレンの正面に立って、彼女の顔を覗き込む。ヘレンはうつむいたまま小さな口を開く。
「でも。お金とか、無駄遣い出来ないし……」
溜め息をつくと、エディはヘレンの肩を叩いた。
「根詰めて旅していたら目的地まで持たないんじゃない? のんびり行こうよ」
「確かに……」
「言ったね? じゃあ行こう!」
「え? ちょ、ちょっと、待ってよぉ」
彼女が頷きかけたのを見て取るや、エディはいきなりヘレンの手を引いて人混みの中に割って入った。ヘレンが戸惑ったような表情を浮かべているのも構わず、エディは声を弾ませながらずんずん進んで行く。どこに店があるかもわからなかったが、どうせ歩いていれば見つかるだろうと気にも留めなかった。余りに自由な振る舞いにヘレンは辟易してしまったが、彼は常に自信を持って行動しているせいか妙な安心感があった。そうでなければ、そもそもこの旅には付いて来ていない。仕方ないと諦めると、ヘレンはエディに引っ張られるがままにしている事にした。人混みを割り、交差点を左に曲がり、次の三叉路は右、とエディは考えなしに歩き回っていく。だが、案外辿りつくものだ。
「すごいなぁ」
エディは通りを夢中で見回す。八百屋や肉屋はもちろん、本などの雑貨屋もあれば宝石商までいる。数えきれない店の立ち並びに、エディは目を丸くした。
「ほら、すごいよ。どこに行く?」
「とりあえず、いろいろ見てみたい、かな」
「そっか」
エディはようやくヘレンの手を離すと、店の立ち並びを歩いて眺め始めた。店の人々の威勢のよい客引きの声につられ、八百屋の前で立ち止まって品揃えに目を通す。さすがに大都市とはいえ、オックスフォードと大差はない。食べ物屋を見ても新鮮味がないと思ってしまったエディは、本や装飾品など、雑貨屋を見ようと歩き出した。ヘレンは黙ったままその後ろを付いて歩く。彼女は店を見るというよりは、それを取り巻く人間を見ていた。本屋ではどちらにしようかと二つの本を両手に取って迷っている人を見かけたし、肉屋は耳慣れない言葉遣いで話している人が店長をしていた。
「安いぜ! 今ァ、この新鮮なリブロース肉一ポンドが、なァんと一シリングだ! さあ買った買った!」
「いいねェおっさん、買うよ!」
とても同じ英語とは思えないやり取りに戸惑いが隠し切れず、ヘレンはエディの肩を叩いて尋ねた。
「ねえねえ、あの人達英語を話しているの? 意味はわかるんだけど、とても私たちが話してる言葉と同じに思えないの」
それを聞いたエディは、肉屋の前まで近づいていき、やり取りに耳を澄ませながら旅嚢を地面に降ろし、中から父の日記を取り出した。イングランドを旅したことのある父なら、この言葉について何か書いているかもしれない。適当にページをめくっていくと、すぐに見つかった。
六月七日
今日、久しぶりにロンドンに来た。アリスもエディも行きたそうにしていたけど、大して面白味も無いし、来てすぐ帰るんだからかえって来ない方が良かったかもしれないなぁ。それにしても、やっぱりコックニーは厄介だった。発音が違うし、早口だし、何より変な言い回しが多い。『アダムとイヴ』が『信じる』っていう意味だなんて、パッと言われても分からない。やっぱりコックニーが一番聞き取るのがきついな。
「へぇ。『コックニー』って言うのか。それにしてもヘレン。ここで話している言葉が英語じゃないわけないよ」
「そっか。そうよね」
背後からエディの父の日記を覗き込んでいたヘレンは、照れ隠しに頬を薄く赤らめながらわずかに微笑む。エディも笑い返すと、再び旅嚢を背負って歩き出そうとしたが、その瞬間、エディは誰かに突き倒されてしまった。したたか石畳に肩を打ち付け、激しい痛みを堪えながら身を起こすと、誰かが人混みを掻き分けながら通りの彼方へと走って行くところだった。異様に慌てており、エディのように突き飛ばされる人がたくさんいた。エディはそのように人の迷惑を考えない人間が嫌いだった。そして、さらにエディの神経を逆撫でする言葉が聞こえてきた。
「泥棒だ! あいつ、俺の品物をごっそり持って逃げ出した!」
いよいよ腹が立ったエディは、旅嚢をヘレンに押し付け走りだした。背後からヘレンの声が微かに飛んできた気がしたが、エディは気にも留めなかった。痛そうに尻や肩をさすっている人々の脇をすり抜け、エディは虎か何かのようにただ一人の標的に狙いを定めて駆け続ける。なるほど確かに、男は脇に白い――おそらくは綿製の――袋を抱えていた。エディは一層足を速める。エディの若い脚力が、重い盗品を抱えて人を突き飛ばしながら走っている男に負けるはずはなかった。みるみるうちにその間は狭まっていく。
「待てぇ!」
エディが吠え、ようやく追われていることに気がついたようだ。男は振り向くと、袋の中身を掴んで地面にばらまいた。ルビーやサファイア、ダイヤモンドまである。エディは慌てて足を止めてしまった。踏んで傷をつけても弁償できない。苦渋の表情を浮かべ、爪先立ちで高価な撒き菱をかわしながら叫んだ。
「誰か、その泥棒を捕まえて!」
その叫びは今いる通りと交わっている大通りを行く列に伝わったらしい。銃を担いだ赤服の男達に道を塞がれ、泥棒は観念するしかなかった。地面にへたりこんでしまったのを見て、エディは安心して歩みを緩める。同時に、背後から聞こえてくるヘレンの声に気がついた。
「置いて行かないでよ!」
「ああ。ごめんよ」
「ごめんじゃない!」
声を荒げ、肩で息をしながらヘレンはエディに詰め寄ろうとした。しかし、物が砕ける不吉な音が足元で響き、彼女ははたと立ち止まる。エディははっとなった。ヘレンが立ち止まったのは、ちょうど宝石がばらまかれていたところだったからだ。
「ちょっと、足元……」
「あ……」
ヘレンが恐る恐る右足を持ち上げると、粉々になったルビーが地面に転がっていた。エディは顔面蒼白になってルビーの欠片を摘まみ上げる。
「嘘だろ?」
「何が嘘なのだね?」
頭上で声がして、エディは頭を持ち上げてその威厳たっぷりな声の主を確かめる。そして、さっと姿勢を正した。そこに立っていたのは、赤く、色とりどりの刺繍が入ったマントを着て口ひげを蓄えた、いかにも気品あふれる紳士だったからだ。
「い、いえ……別に」
「そうかな? いや、それにしても君は素晴らしい。素晴らしいよ!」
「は、はあ」
奇妙なほど抑揚の強い話し方をする紳士に肩を掴まれ、エディは戸惑ってしまう。そんな感情のままで大通りの方向を伺うと、泥棒は赤服の兵隊達に紐で手首を縛られているところだった。紳士は大声で続ける。
「うん、素晴らしい! 君はこのロンドンの治安維持に協力したのだよ。まったくもって素晴らしい!」
エディはこの会話のうちに何度『素晴らしい』と言うのか数えたくなってしまった。
「その素晴らしい活躍をたたえて、少しお礼をしなければな。……む。どうしたのだね。そこのお嬢さん」
ヘレンは緊張し、身を縮こまらせていた。だが、紳士はヘレンが右手で何かを握りしめたことに気がついたのだ。ゆっくり歩み寄ると、彼女の右手を取って開かせた。もちろん、そこには砕けたルビーの欠片が握られていた。
「おやおや。これは……」
「店の売り物を、踏んで壊しちゃったんです」
エディが肩を小さくすくめながら答えた。紳士はルビーを取って眺め、急に手を叩く。
「そうか、ならば私がこの品物を弁償して差し上げるとしよう」
「いいんですか? えーと……」
紳士の名前がわからずエディが窮していると、紳士の背後からやってきた兵士が不機嫌そうな顔で呟いた。
「何だ少年。バッキンガム公も知らんのか」
「こ、公爵様ですって?」
エディは飛び上がらんばかりに驚いた。公爵といえば、このイングランドの政治を司っている、エディ達からするとどこまでも遠い存在だ。エディは慌ててその場にひざまずく。
「申し訳ありません!」
「あぁ。顔を上げたまえ。そこまでかしこまる必要はない」
紳士は静かに笑い、手を差し出していた。エディは立ち上がり、その手を握る。紳士は強くその手を揺すぶった。エディは愛想のよい笑顔を浮かべながら紳士の顔を見つめる。
「その素晴らしい活動精神を忘れないでくれたまえ!」
「は、はい……」
二人はロンドンを後にした。まだ日は高く昇っていたし、少しでも先に進んでおこうと決めたのだ。
「それにしても、変な人だったなあ」
サクランボを再び摘みつつエディは呟いた。国の政治を司るくらいなのだから、公爵はもっと知的で寡黙な人物、もしくは権力を蓄えたような体型でふんぞり返っている人物を連想していた。しかし、先程のバッキンガム公はどちらにも当てはまらない、不思議な人物だった。
「うん。もっと偉そうな人かと思ってたら、今まで会ったこともないよ。あんな人」
「ああいうのが大人物って言うのかなあ」
エディの呟きに、ヘレンは思い切り首を傾げてしまった。『素晴らしい、素晴らしい』と大声を出しながら政治をしている様子が目に浮かび、なんだか滑稽に思えた。
「ちょっと違うと思うよ」