叙段 シュードラの神を
「イタッ!」
「ごめん! お願いだから、我慢して」
ヘレンに頬の傷に触れられたエディが呻きを上げる。彼の右頬は腫れ上がり、引き締まった彼の輪郭を崩していた。苦しそうな表情に心を痛めながら、ヘレンは腫れに効くという薬草をすりつぶして塗り続ける。
「ごめんね。エディに言われたとおり、もう少し冷静になってたらよかったのに……」
「もう過ぎたことだって。別に命に関わるような怪我はないし、それだけでもよかったじゃないか」
エディは隠れている茂みの外を窺う。村からそう離れた場所ではないので少し心配だったが、どうやら追っ手を放つような力は無いようだ。日の傾いたこの時になっても、誰かがこちらにやってくることは無かった。
「終わったよ」
「うん。ありがとね」
痛みを伴う感触が消え、エディはほっとため息をついた。火口箱を取り出し、目の前に積み上げたたき木に火をつける。周りに落ちている枝をかき集めれば十分だったということが、また日照りの深刻さを物語っていた。あっという間に燃え上がった炎を見つめながら、ヘレンは膝を抱えて小さくなる。
「あの子……大丈夫なのかな」
人々に罵られ、足蹴にされてもなおヘレンはサラスヴァティの事が心配だった。既に限界を迎えていた彼女の姿は、今も二人の脳裏に焼き付いて離れない。新たなたき木を火にくべながら、エディはゆっくりと首を振った。
「一日ならなんとかなるかもしれない。風邪を引いて食欲が出なくて、ほとんど食べられなくたって一日くらい生きてるんだから。でも、きっと雨乞いっていうくらいだから、雨が降るまで断食は続くよ。それで、何の看病もされないで、栄養さえも取らないで何日も過ごす事になったら間違いなくこじらせるよ。……病院もないし、そうなったらもう手遅れになる」
「そんな……それなのに、あの人達はそれをわかってないの?」
はっと顔を上げ、身を乗り出すようにしながらヘレンはエディの顔を見つめる。彼の顔もどんよりと曇っており、薬草の緑色のせいで余計に顔色が悪く見えた。
「見ればわかるでしょ。わかろうともしてないよ。自分達が救われることばかりを考えて、あの女の子が苦しんでいるのは見ないふり。今までの救いのない人生が、余計にそうさせてるのかもしれない」
「でも、ここであの子が死んじゃったら、あの人達は一生報われないままじゃない。やっぱり、あの子を何とかして助けないと……」
膝をすりながら詰め寄ってきたヘレンの肩を、エディはそっと掴んだ。じっとヘレンの目を見据え、小さくかぶりを振った。
「また襲われるのがオチだよ。ロードに乗っていれば何とかなるかもしれないけど、まさに遠目の幸運より目先の解決を望んでいる人々だから、絶対に俺達の説得なんか聞きやしないよ」
「でも! それじゃ、あの人達のためにもならないじゃない!」
「わかってる。俺だってヘレンと同じだ。あの子を助けたいとは思ってるよ。でも、俺はヘレンが傷つくところなんか見たくないんだ……」
そう言いながら、エディはヘレンの足蹴にされていた肩を優しくさする。唇を噛み締め、彼女は自分の不甲斐なさを呪う。涙が伝い始めた顔をエディから背け、弱々しい声でヘレンは呟いた。
「ごめん。また取り乱しそうになっちゃった……」
祈るように組んだ手を、力を込めて自分の心臓に押し付ける。そんなヘレンの姿が儚く見えて、たまらずエディは彼女の肩を抱く。
「気に病まなくてもいいよ。とりあえず、一刻も早く雨が降るのを祈ろう。何だか歯がゆいし、苦しいけどそれしかないよ」
「うん……」
ヘレンはエディの胸にすがり、静かにすすり泣きを始めた。赤の他人の病に心を痛め、涙することが出来る彼女の心は、何よりも透き通っているとエディは感じた。同時に、そんな状況から解放してやれない自分の情けなさも身に沁みて感じ、胸が締め付けられるように苦しくなった。そのために、自然と彼女を抱く腕にも力がかかっていた。
「エディ。ヘレン。苦しそうだな」
押し殺したような声が聞こえ、二人は飛び上がってしまった。追っ手ではない。彼らは自分達の名前を知らないのだ。二人は、薄々感じていた疑問が晴れて、確信へと変わっていくのを感じていた。抱き合うのを止めると、二人はそっとロードを窺った。
「ロード?」
ヘレンが首を傾げると、彼は鼻を鳴らして答えた。
「何だ」
「や、やっぱりしゃべってる! 何で?」
ロードは地面を引っ掻き、細かく抑揚を付けて嘶いた。それに被さるかのように、エディ達の頭の中に母国の言葉が響いた。ロードが鳴き終えてもなお続く。
「君達の言葉が、私に伝わるからだ。私も伝えられると思って、話しかけてみたことがある」
エディ達は気分が少し和らぎ、心強さを感じると共に、何故に急に話せるようになったのかが不思議で仕方がなかった。首を傾げながらヘレンはエディと、新しい話し相手を交互に見つめながら尋ねる。
「どうして話せてるのかな?」
「これは憶測だけど、多分クロードさんがかけてくれた伝心の魔法の効果なんじゃないかな」
人差し指を立て、ひどく怪訝な顔をしながらエディは呟く。とりあえず言ってみた、という雰囲気がばればれだ。ロードは低く鳴く。
「なら、何故初めから話せない」
エディの立てた指は、拳に戻ってしまった。口を尖らせているエディに苦笑しつつ、ヘレンは大きく頷いた。
「いや。私もそうだと思う。何て言うのかな……裁縫だって、練習すれば上手くなるんだから、魔法もおんなじなんだよ。たっくさんの言葉に触れてきたから、ロードの言葉もわかるようになったとか」
ロードは小さく首を縦に振り、またも鼻を鳴らした。
「なるほど、そんな考えはできるな」
「だよね! うん。やっぱりそうなんだよ……きっと」
そうは言ってみたものの、やはり確証を持つには至らない。尻すぼまりになったヘレンの口調を聞いて、エディは苦笑いしてしまった。
「まあ、なんだっていいじゃない。俺達はロードと話せる。ここが重要で、頼もしい事実だよ。ね?」
ロードは軽く頷いた。その答えに満足げなエディは、そっと立ち上がってロードの首筋を撫でた。
「これからも苦労かけるけど、よろしくね」
「ああ。了解した」
エディとヘレンはにっこりと笑顔になり、それに合わせるように、ロードは尻尾をゆったり振ってみせる。彼なりの、笑顔の代わりだった。
一しきり笑いあった二人と一頭は、誰からともなく笑みを控えて空を見上げた。
「さあ、俺達も雨を信じよう。あの女の子が助かることを」
「……うん。そうだね」
無意識のうちに、二人は両手を組んで、ただただ風の疾さを願っていた。それに応じたかのように、一筋の風が二人の頬を撫でる。その後を引き継ぎ、乾いた静寂が辺りを包み込んでいった。
しかしならなかった。旅の中で、初めて超常的な存在に祈った二人の心も虚しく、エディ達は黙して空を見上げながら朝を迎えていた。
「雲は出てきたのに……何で降らないの? このままじゃあの子は……」
エディは手を上げ、ヘレンの言葉を遮った。
「その先は言わないでよ。言っちゃダメだ。……俺達には何も出来ない。何も出来ないんだ」
「エディ。君は、また臆病になったか」
エディの呟きを聞いていたロードは鼻を鳴らす。その非難めいた響きを聞いて、エディは思わず顔をしかめた。
「別に臆病なんかじゃ……」
「私には君が君自身に言い聞かせているようにしか見えない」
言い返す言葉も無く、エディはロードから目を反らした。まさしくその通りだ。再び自分達が傷つけられる事が恐ろしく、エディは自分の心に嘘をつこうとしていたのだ。その弱さを思いもよらない存在に指摘され、エディは再び情けない気分になった。
「言わないであげて。……自分達が助かろうとして、一人の子どもを犠牲にするなんて、許されることじゃない。でも、私たちにはどうしたらその女の子を救えるかわからない……」
ヘレンはうつむき口ごもる。だが、それを見てもロードは不機嫌そうな仕草を止めず、蹄で地面を掘り返し始め、甲高く嘶いた。
「エディ。今まで、君が出来る出来ないで勘定をしたことがあったとは思えない。君はやるかやらないかで勘定をしてきたからこそ、ここまで来れたんだ。今さらそれを曲げるのか」
彼の感情が透ける瞳を見つめ、エディははっとなった。はっとなって、ほんの少し悔しくなった。鼻を鳴らすと、エディは照れ隠しにその鼻を擦った。
「まさか、ロードにそれを言われる日が来るなんてね。君を譲り受けた日には考えもつかなかったから、何だか悔しいな」
エディは迷いが晴れた気がした。確かにロードの言う通りだ。今ここで自分を曲げれば、旅は全う出来まい。昨日捧げた祈りを、エディはほんの少し後悔した。
「ヘレン。絶対的な力を信じて頼ろうとしたのは反省しよう。僕達は神が存在するかを求めているんだ。神を信じて求めているんじゃない」
目を丸くしてロードの説教を聞いていたヘレンは、エディの言葉にその目をしばたたかせた。
「どういう意味?」
エディはヘレンの澄んだ瞳を真っ直ぐ見据えて、湧き上がってくる熱意のままにきっぱりと言い切る。
「俺はこれからあの子を助けに行く。危険なんか知らない。自分の気持ちに嘘を付くのはやっぱり無理があったよ」
ヘレンはエディが口を開いた瞬間、目を伏せ彼の決意に満ちた眼差しを避けてしまった。
「だめ。あの時、あの人達は私達を殺しにかかってたんだよ? 行ったって、危ない目に遭うだけだよ……」
エディは首を縦にも横にも振らず、ただ真っ直ぐにヘレンの潤んだ瞳を見つめる。
「ヘレン。俺はあの子を助けたいんだ。知っちゃったから。あの子が大変だってことを。ここで見捨てて逃げたら、絶対に後悔する。だから、俺は逃げない。俺はロードと行って、あの子を助けてくる」
今もなお痛む肩に手を当てて、ヘレンはうつむいた。黙り込んだヘレンは、物言わぬ彫像になってしまう。エディは彼女の肩をさすり、そっとその思い詰めたような顔を窺う。
「ヘレン。何度お願いしたかわからないけど、俺のわがまま、どうか聞いてくれないかな」
目だけを動かし、ヘレンはエディの目を見つめた。いくら見つめても、彼の瞳に宿った意志は揺るがない。ヘレンは地面を睨み付けると、その拳を固く握りしめた。
「私も行く。エディのそばから離れないって決めたもの。今さらそれを曲げたら、私だって後悔するから」
エディの決意を聞いて、ヘレンにも火が灯った。小さいが、絶対に揺らぐことの無い火だ。きっと顔を上げた彼女の、強く真っ直ぐな瞳を見たエディは、そっと彼女を抱きしめた。
「ありがとう。ヘレン」
ヘレンもエディの背に手を伸ばし、二人はそうしてお互いの心強さを確かめあう。旅の一大決戦を前にし、二人の鼓動は弾みきっていた。その脈動が交わり重なり、二人は心が一つになっていくような感覚を覚えていた。
しばしの間そうしていた二人だったが、ロードの嘶きによって遮られてしまう。
「いつまでそうしてる。行くなら行こう」
抱擁は解いたエディだが、ロードの提言にも首を振った。ランプをロードの肩から下ろし、エディは油の残量を確認する。
「いや。まだ行かないよ。やるといっても最善は尽くさないと。もしかしたらあの人達はあの場に張り付いてるかもしれない。夜更けを狙おう。夜更けを狙って、直接サラスヴァティに接触するんだ」
「なるほど。了解した」
「じゃあ、一旦仮眠を取ろう? 私達も全快で挑もうよ」
ヘレンの言葉にエディは頷いた。
「ああ。それがいいね」
雲が大分空に主張を始めた夜。エディ達は森の中を進んで滝の洞穴を目指す最中に、小さな泉を見つけた。普段なら地下から水がしみ出してくるのだろうが、今に至ってはほんの手のひら一杯しか残っていなかった。
黙ってそれを見つめていたエディは、そっとそれをすくいとる。
「待っててよ。今、助けてあげるから」
水に向かってそう呟くと、エディはその水で役目を終えた頬の薬草を洗い去った。