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我が神を求め  作者: 影絵企鵝
十四章 我が神を求め
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鋪段 白の裏は黒

 雲は遠くに見える。しかし、今日もまた結局雨は降らなかった。村を覆う青空には一点の曇りもない。じきに太陽はその光を余すことなく村に注ぐことになるだろう。旅人様が雨を呼び込んでくれると信じていた人々はひどく落胆した。その落胆は、このままでは村が滅びるという彼らの危惧を頂点まで押し上げる。サラスヴァティが暮らしている、この村で唯一である丸太組みの家。人々は必死の形相で押しかけていた。


「サラスヴァティ様! サラスヴァティ様!」


 戸口に立ったサラスヴァティは、唇を噛んで人々の姿を見下ろしていた。膝立ちになって手を合わせている人、地面にこすりつけそうなほどに頭を下げている人。泣き出しそうな顔で自分を見上げている人。言われなくても、彼らが自分に求めていることはわかった。軋む体に鞭打って胸を張り、枯れた喉を振り絞って、サラスヴァティはなんとか威厳を保った声を発する。


「一体どうなさったのですか。まだ日も昇りきらないうちに皆さん集まって」


 深呼吸を繰り返しているサラスヴァティの前に、長老が一歩一歩と進み出た。杖を手放すと、彼はそのまま骨ばった膝をからからに乾いた地面につき、静かに頭を下げた。


「サラスヴァティ様。旅人様がいらっしゃったことによって、雲が東の空に現れました。しかし、その雲が我が村にやって来る頃には、畑は乾ききって、作物はだめになってしまいます。どうか! 我々にお力添えを!」


 長老の言葉に合わせ、人々は一斉に身を伏せた。


「お願いします!」

「どうか!」

「サラスヴァティ様……」


 人々の感情の重さに、サラスヴァティは頭痛がひどくなってくるのを感じた。体も鉛が入ったように重い。本当は家の中でずっと倒れていたかったが、彼らを守るために生まれてきたのだから、そのようなことは出来なかった。父親はおらず、生まれると同時に母親を失った自分。そんな自分は『サラスヴァティ』と呼ばれ、村の人々にずっと支えられてきた。自分もまた、彼らを支えなければならないのだ。サラスヴァティは使命感を強めた。ともすれば前傾してくる体に彼女は再び活を入れ、背筋をぴんと伸ばす。


「わかりました。主にお願い申し上げて、雨を降らせて頂きます」

「おお! サラスヴァティ様!」


 人々の顔が一斉に輝いた。その目には一点の陰りもない。彼女は実感した。自分がこの村にとってかけがえのない存在であること、人々の希望の象徴であることを。救わなければならない。自分を大切にしてくれた村人達を。サラスヴァティは自分の苦しみも忘れ、希望の眼差しを一身に受け続けていた。



 その頃、エディとヘレンは長老の家の井戸端で旅の支度を整えていた。エディはそっと井戸の中を見つめる。長いこと雨が降らなかったせいで、井戸から湧き出る地下水さえも徐々に枯らしているらしい。エディは深々と溜め息をついた。


「何だか、悪いことしちゃったかも」

「うん。……私達、悪い時に来ちゃったみたいね」


 ヘレンは眉にしわを寄せ、深刻な顔で呟く。彼女の言う通りだった。自分達が来なければ、わざわざ大盤振る舞いすることもなかっただろう。結局自分達は食べきれなくて、三分の一は土に埋め立てられてしまった。もし自分達が来なければ、村の人々たちの口に入っていたかもしれない。そう思うといたたまれなかった。


「結局雨も降らなかったし。それでも『旅人様の幸運は後から来るに違いない』だなんて言って。真っ直ぐ過ぎて、何だか気の毒に思えてきちゃったな……」


 エディが頭を掻きながら、不自然なまでに人々が集まっている方を見る。日の昇る方角に建っている木の家が、サラスヴァティの家らしい。その前に人々が集まっているということは、またサラスヴァティに何かをお願いしているのかもしれない。そう見当付けていると、急に人だかりの中からサラスヴァティの小柄な姿が現れ、どこかを目指して歩き出した。エディ達がその様子を見つめているうちに、サラスヴァティの後を、長老や、その他大勢の人々がついて歩き出している。一人の着飾った少女の後を、さもしい格好をした大人達が付き従う様は、異様という他にない。


「どうしたのかな?」


 ヘレンは髪飾りを被り、後ろ髪を髪飾りの外に出しながら目を凝らす。無表情でぞろぞろと歩いて行くその姿は、やはり奇妙だった。それを腕組みしながら見つめていたエディは、そっと歩き出し、ヘレンに手招きしながら人々の背後へと動き出した。その後を追うものの、ヘレンは小首を傾げる。


「どうしたの? エディ」

「何だか気になるんだ。後を付けてみないかい?」


 二つ返事でヘレンは頷いた。彼女自身、サラスヴァティについて気になることがあった。彼女の声だ。まばらに建つ家の影に隠れ、二人で行列の様子を見守りながらヘレンは尋ねる。


「ねえエディ。あの子の声、何だか変じゃない?」


 エディはサラスヴァティの足取りを見つめていた。足を擦らせるようにして歩いているその姿は、どこか重苦しい。ヘレンに言われるがまま、彼女の声を思い出してみると、たった一つしか理由が思い浮かばなかった。エディはサラスヴァティの姿に目を据えながら呟いた。


「風邪引いてる。大分ひどいかもしれない」

「そんな。それなのに、あの子は一体どこに行くつもりなの?」


 ヘレンの口調がにわかに非難めいた色を帯びる。ヘレンのしかめっ面を横目にして、エディは肩を竦めた。


「俺に聞かないでよ。今それを探っているところじゃないか。……ヘレン、病気の人が心配なのはわかるけど、もう少し冷静になった方がいい時もあるよ」

「う、うん……」


 エディに諭され、ヘレンは少し口調が弱くなった。そんなやり取りが行われているうちに、サラスヴァティは村長の家とは反対側の、北に続く道を取って、その向こうにある森の中へと足を踏み込んでしまった。後を慎重に追いかけながら、ヘレンはエディに囁いた。


「森の中に何があるのかな……」

「うーん……多神教の神様には神殿がつきものだから、そういった何かがあるのかもしれない。とにかく、あの人達を見失わないようにしないと」


 二人はしっかりと頷き合い、人々が姿を消した森に向かってひた走った。



 村人を追いかけて十分、茂みの中に隠れた二人は、とある洞穴を見つめていた。村の人々が手を加えたのだろうか、その入口には両開きの扉が備え付けられており、中から閂が通せるようにもなっていた。側には、村を流れている川の元であろう滝があった。今はほとんど水も流れておらず、改めて水不足の深刻さを二人は感じた。


「あの人達、何するつもりなんだろ」


 エディはじっと動かず、村人達の動静を見守っていた。彼らは洞穴を取り囲むように正座して、サラスヴァティが洞穴と向かい合う姿を見つめていた。風一つ吹かない静けさが辺りを包み、エディ達も膝立ちの姿勢で息を潜めていた。人々の視線を一身に集めたサラスヴァティは、手を合わせて洞穴に頭を下げる。人々もそれに合わせて身を伏せた。エディ達は息を詰めてその様子を見守り続ける。

 まるで世界が金縛りにあったかのような沈黙が流れた。サラスヴァティを始め、人々は微動だにしない。草も木も花も、その身を硬直させている。鳥の鳴き声さえも止んでいた。

 一分ほども沈黙の時間が流れた後、サラスヴァティはゆっくりと体を起こし、静かに洞穴へ向かって足を踏み出した。重たい足取りで、一歩、一歩と歩いて行く。その間も、長老を始めとする村人達は顔を上げることなくぴったりと身を伏せていた。エディ達は息を殺してその足取りに注視する。洞穴に入ると、彼女はそっと振り向いた。それに気がついた長老と老婆が立ち上がり、恭しく丁寧な動作で扉を閉める。閂が締まる音が、エディ達が居る茂みにまで聞こえてきた。それと同時に、村人達の大合唱が始まった。


「サラスヴァティ様……サラスヴァティ様! サラスヴァティ様!」


 森に低く響き渡る不協和音は、嫌でもエディ達の不安をかきたてた。眉根にしわを作り、エディは小さな声で呟く。


「まだまだ小さい女の子に、あの人達は一体何を求めて……」


 始めは覗くだけに留めておくつもりだったが、かきたてられた不安はそう簡単に収まらない。二人はもう居ても立ってもいられず、思わず茂みから飛び出していた。相当に意表を突かれたようで、村人達は飛び上がり、そして散り散りに後ずさりをした。尻餅をついてしまった長老だったが、飛び出してきたのが『旅人様』だと知ると、少々安堵したようだ。


「い、一体どうしてそのようなところに?」

「別に、ちょっと散歩をしていたら、この場に立ち会ってしまっただけです」


 前髪を掻き上げながら、虎の眼差しをして人々を見渡した。ヘレンもきっと人々を睨み回し、啖呵(たんか)を切るように片足を踏み出した。


「皆さん、一体あの子に何をさせているのですか」

「わ、我々は、サラスヴァティ様にサラスヴァティ神との対話を求めたのでございます。旅人様、あなた様方は確かに幸運を運んできて下さりました。東の空に雲が湧き上がったのは、ご覧になったでしょう? ですが、時は一刻を争うのです。遅れてやってくる幸運に意味はありません。その幸運がいくら大きなものだとしても、受け取れなければ意味がありません」


 長老のひどく澱んだ態度にエディは首を振った。サラスヴァティが見せた最後の表情は、かなり苦しそうなものだった。眉間にしわが寄り、頬元も引き付いている。肩に力が入って、何とか立っているという雰囲気が遠目にもありありと伝わってきた。そんな姿を知っては、いくら温厚なエディといえども胸に込み上げてくるものがあった。


「要領を得ませんね。つまり何をさせるつもりなのですか。サラスヴァティ『様』に」


 長老は杖を握りしめ、エディの鋭い視線から目を逸らす。長老にとって、目の前に居る彼の視線は首に当てられた名剣そのものだった。怯えながら、長老は独り言のように応えた。


「雨乞いです。世俗の行為……要は食事を絶って、サラスヴァティ神と対話していただくのです。そして、あなた方が運んできた雨雲を、一刻も早く我々のもとにお届けくださるように願い出ていただくのです。最早我々には、それしか打つ手がないのです」


 エディは無意識のうちに、小刻みに首を振る。隣でヘレンは下唇を噛み、蒼白な表情になっていた。目を剥いて、さらに一歩踏み出した彼女は、口元を震わせながら、怒気がありありと込められた口調でまくし立て始める。


「だめよ。だめ。わからないんですか? あの子は風邪を引いてるのに。本当は倒れたっておかしくないくらいひどいのに! 今すぐやめてください! ただでさえひどい風邪なのに、絶食なんてしたら……!」


 ヘレンはすっかり取り乱し、声がひっくり返って最後の言葉が途切れてしまった。顔をしかめ、深刻な色を帯びた瞳でエディは後を引き取る。


「風邪をこじらせて死ぬかもしれません」

「死ぬ? サラスヴァティ様が、死ぬだと?」


 長老の(まと)う空気がいきなり変貌する。怯えきった雰囲気は失せ、杖を持って長老はすっくと立ち上がる。それに突き動かされるように、周囲の人々もすぐさま立ち上がった。今まで彼らにあった、虎に睨まれた子ヤギのような雰囲気は失せ、仔を守ろうとする親山羊のように鋭い眼光をエディ達に向けていた。


「サラスヴァティ様が死ぬものか! 神様から魂を授かったサラスヴァティ様が、死ぬようなことなどない!」

「そうだ!」

「何を言う!」


 彼らの持っていた、エディ達が見ていた狂信的な光が露になり始める。じりじりと人々に間合いを詰められ、エディ達は思わず心細くなってきた。しかし、ヘレンは心に沸き上がってきた恐怖を払い飛ばして叫ぶ。


「あの子は普通の小さな女の子です! あなたたちにはそれがわからないんですか! あの子の体力は間違いなく限界です! 絶食なんかして、栄養を取らなかったら手遅れになってしまいますよ!」


 相槌を打ちかけたエディだったが、ふと冷静になり、ヘレンが判断を誤ってしまった事に気がついてしまった。まだ何か言おうとした彼女の口を、エディは必死に塞ぐ。


「ヘレン! それ以上この人達を刺激しちゃだめだ!」


 ヘレンははっとなったがもう遅い。彼らはいよいよ憤怒の形相になり、ゆっくりとエディ達に詰め寄ってきた。一人の男が、髪を振り乱して訴える。


「お前ら……幸運を運んでくる旅人なんかじゃないな」


 エディとヘレンは自分達へ向けられる感情が一気にひっくり返ってしまったことに気がついた。エディは何とか弁解しようと口を開いたが、それを待たずに女が叫ぶ。


「そうよ! 悪魔だわ。私達を騙すために現れた、悪魔よ!」

「あ、悪魔だなんて……」


 ヘレンの顔は、最早違う理由で蒼白になっていた。血の気を失った彼女は、思わずエディにもたれかかる。長老は杖を振り上げ、エディ達に先端を突きつけた。


「悪魔を倒すぞ! 今もなお我々につきまとう悪魔を倒して、今こそ希望を手にするのだ!」

「な! ちょ、ちょっと!」


 エディが落ち着かせようとするのも聞かず、一人の男がヘレンに向かって拳を振り上げた。エディはとっさに割り込み、その拳を受け止めた。さらにそこへ女の足が伸びてきたが、エディは何とか右足でいなす。しかし、余裕が無くなったエディの鳩尾に、別の男の拳が入った。息が詰まったエディは、その場に膝をつく。


「エディ!」


 ヘレンはそう叫んだのも束の間、彼女の腹にも蹴りが入る。呻きを上げ、ヘレンはその場に崩れ落ちた。それを見ていたエディは、思わず目を血走らせる。


「こ、こいつっ!」


 エディは再び立ち上がると、ヘレンを蹴った男を睨み、肩に鋭い回し蹴りを見舞った。体を鍛え続けてきたエディの一撃は重く、男は地面に叩きつけられた。だが、エディはそれ以上の反撃もままならないうちに両腕を掴まれた。


「やっぱり悪魔だ! 殺してしまえ!」

「くっ……」


 両足までも押さえつけられ、エディは苦渋に顔を歪ませた。その頬へ拳が飛んで来る。避けることも出来ず、エディはしたたか頬を殴られた。ヘレンは腹や腕を足蹴にされながら、エディがあちこちを蹴られ、殴られ続ける光景を霞む視界で見つめていた。その時だ。


「エディ! ヘレン!」


 甲高い嘶きと共に低く響く声がエディ達の耳に届いたかと思うと、白い巨体が身を躍らせ、エディ達を取り囲む群衆に向かって襲いかかった。その突進を見て怖気付かない人間が居るはずもなく、エディ達に私刑を下していた人々は蜘蛛の子を散らすように逃げ惑った。ようやく解放されたエディとヘレンは、痛む体を何とか動かし、自分達を守るように立つロードの背中に跨った。幸い、荷物そのものは尾行する前からロードに積み終えていたから、後顧の憂いはない。息も絶え絶えに、エディはロードの両腹を蹴った。


「ロード、さっさと、逃げよう!」

「了解した!」


 再び鋭く嘶き、低い声を響かせたかと思うと、ロードは一気に体を反転させ、怯えた人々には一瞥もくれず、一目散に森を駆け出した。ヘレンは大粒の涙をこぼし、エディを抱きしめた。


「ごめんね! 私、エディに言われてたのに。結局取り乱しちゃって、エディが、エディが!」

「気にしちゃダメだよ。もう済んだことだから……それに、あれは取り乱すなっていう方が無理さ。生きてるんだし、これから先を考えようよ」

「うん。うん!」


 ヘレンのすすり泣きを聞きながら、エディは唇を噛んで東へ続く道を真っ直ぐ見据えていた。


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