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我が神を求め  作者: 影絵企鵝
十四章 我が神を求め
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承段 幸運の旅人

「ありがたや……ありがたや……」


 エディ達の目の前で、人々は次々と膝を地面に付いて頭を下げ始めた。偉くもなんともない二人は、ただの一人にだってそんな事をされたことがなかった。それなのに、ざっと見渡して二十人ほどの人々にそんな事をされては戸惑うばかりだ。ともかく、高いところから見下ろす姿勢は落ち着かないので二人はロードから飛び降りた。


「あ、ありがたやって……そんな、私達はありがたがられるような存在ではありませんよ?」


 ヘレンは両手を胸の前で振りながら、声を上ずらせる。その目の前で、一人の老婆が体を持ち上げ、そのしわくちゃな顔にさらに深いしわを作る。


「何をおっしゃるのです。旅人様は我々に幸せを運んでくれると、サラスヴァティ様が仰せになられたのに」

「その通りです! その神の馬とも見紛う輝きを持つ馬に跨っておられるではありませんか!」


 白髪混じりの男が興奮に鼻を膨らませながら叫ぶ。ヘレンとエディは振り向き、ロードの姿をてっぺんから足元まで見つめた。話が伝わっているのか、ロードはうつむいて地面を蹴り、小さく嘶いた。


「神の馬、か」


 押し殺した様な声が二人の耳に届いた。しかし、二人の周囲で人々は口々に感謝の言葉を述べながらひれ伏すばかりで、一向にそのような言葉を呟いたと思しき人物がわからない。声の出所を不思議そうな顔で探っていると、いきなり人々は体を持ち上げ、向きを変えて再び平伏を始めた。


「サラスヴァティ様……」


 エディ達もつられて人々がひれ伏す方を見ると、そこにいたのは、周囲のみすぼらしい姿からは遠くかけ離れた、真紅の服の上から金糸の刺繍が入ったサリーを身にまとっている少女だった。頭には、白木に細かい彫刻を施した冠が乗っている。目を大きく見開いた少女は、エディとヘレンの瞳を代わる代わる見つめながら、しゃがれた声で尋ねてきた。


「あなた方が、旅人様ですか?」


 あまりにも単純すぎる質問の意図が見えず、二人は顔を合わせて首を傾げる。しかし、既に神様か何かのように祀り上げられてしまった手前、事実でもあるのだからとりあえず頷いておくことにした。


「ええ。見ての通りです」


 少女――サラスヴァティは再び目を見開いた。その不気味さとはまた違う、霊異とした雰囲気に気圧されてしまい、二人は勝手に頬がひきつるのを感じていた。背も小さく、もうすぐ十六歳になろうという自分達より明らかに年下のはずの彼女であったが、口紅や額の印も相まって、その表情には超然とした雰囲気が存在した。

 サラスヴァティは静かに手を合わせ、目を閉じてお辞儀をする。


「ようこそ我が村へいらっしゃいました。豊穣の神サラスヴァティの御魂を授かり、この村を守るものとして歓迎致します」


 今度はエディが目を見開く番だった。横目でヘレンの方を窺えば、彼女も口をぱくぱくさせて、まともに口がきけないようになっている。口が引きつって笑顔が崩れ、喉も震えてうまく言葉が紡ぎ出せないエディだったが、それでも何とか一つの単語を捻り出した。


「神、さま?」


 その単語を耳にした途端、エディの周りにいた人々が不意に立ち上がった。彼らの視線は突き刺さるようで、エディは背筋が冷えた。


「その通り。あの額を御覧下さい」


 エディの隣にいた、杖をついた老人に言われるがまま、二人はサラスヴァティの額の模様をよくよく見つめてみた。一見したところは曲線が入り交じっているだけの奇妙な痣に見えたが、糸のように目を細めると、『オーム』という字にも読める。エディが小さな声で口にすると、ヘレンの背後に立っていた老婆がいきなり大声を上げた。


「そう。あの額の聖音はまさしく我々をお救いくださる方の証! デーヴァナーガリー文字をお作りになったのは、他ならぬサラスヴァティ様の主なのだ!」


 それに続け、老婆の隣に立っていた、白髪が目立つ壮年の男も拳を強く握りしめて朗々と訴える。


「そう! ヴァイシャやクシャトリヤに虐げられ、人を人とも思わぬ扱いを受け、我々は森の中に逃げ込んだ。そしてひっそりと村を作り、シュードラだけの村を創り上げた。そんな中で生まれたのがサラスヴァティ様! 主の魂を授かったサラスヴァティ様は、苦しみを受け続けた我々をお救いくださる神の子様なのだ!」

「は、はあ……」


 エディとヘレンは戸惑い通しで、どこか狂信的な雰囲気さえ帯びている彼らの姿が余計に恐ろしく感じた。そっと二人はロードに身を寄せ、肩を硬直させながら人々の表情を見回す。そんな二人の心情を敏感に察知したのか、いきなりサラスヴァティが手で高らかな音を鳴らした。固まった人々の姿を一睨みして、彼女はかすれ声を上げる。


「むやみに近づきすぎないようにしてください。せっかくいらっしゃったのに、旅人様方が怯えていらっしゃいますよ」

「も、申し訳ございません……」


 サラスヴァティが一言口にしただけで、人々は素直にエディ達から数歩の間合いを置いた。すまなそうな表情をして、サラスヴァティは静かに頭を下げる。


「すみません。民衆がご迷惑をおかけして」

「いえ。別に迷惑だなんて……」

「そうですか。せっかくいらっしゃった救い主様のお気に触るようなことがあっては、この村が滅びてしまう」


 胸に手を当て、目を閉じ安らかな表情を浮かべているサラスヴァティ。彼女はそんな事を言っているが、むしろエディ達の方が彼女の機嫌を損ねてしまわないよう必死だった。一語一語を選びながら、ヘレンは弱々しい声で尋ねる。


「あ、あの。この村が、滅びてしまう? とは一体どのようなことなのでしょう?」


 深々と頷いたサラスヴァティは、静かに一つの畑を指差した。エディが目の当たりにし、そのひどさに顔をしかめた畑だった。


「この通りです。最近、十日も雨が降っていないのです。村を流れている川も、いつ枯れてもおかしくないでしょう。我々も困窮していたところに、先日私の夢枕に主がいらっしゃって、次に現れる旅人が我々に幸運を呼び込んでくれると言い残されたのです」


 慎ましやかに微笑むサラスヴァティを前にして、エディとヘレンはおずおずと自分達の顔を見つめ合い、お互い自分を指差した。


「私達が、その旅人?」


 ヘレンがぼそぼそと呟き、エディはひどくのろのろした動きでサラスヴァティの表情を窺った。取り巻き共々、サラスヴァティはしずしずとうなずいて見せる。今その身に起きていることが理解できないエディ達は、やはりお互いの表情を窺い合うことしか出来なかった。



 その夜、村で一番広い家の中で、エディ達は外で垣間見た貧しさが嘘のように思える厚遇を受けていた。チャパーティーと呼ばれるパンが主食として出され、水が不足しているというのに、サーグと呼ばれる青菜の煮込み料理も副菜として出され、果てには村に数頭しかいないという山羊を屠り、イーサの家でもご馳走になったケバブにして人々が山のように積み上げるほどだった。エディ達が食べ切れないと訴えても聞く耳を持たなかった。


「あの……本当に食べ切れないので、皆さんも召し上がった方がいいのでは……」


 そろそろ胃袋が苦しくなってきたエディが、すっかり重くなった指を動かし、ケバブの串をやっとこ一つ取りながら、穏やかな眼差しを作って手を差し出す。ヘレンはその華奢な容姿に似合わずエディよりも食べていたが、先ほどから土壁で出来た壁やら、土を掘り下げただけの簡素なかまどやら、人が座るように敷かれた粗末なわら編み物やらを見つめてばかりで、手に持っているチャパーティーが全く減っていないことにエディは気がついていた。だが、二人の厭気(いやけ)には全く気づかず、隣に座っている長老と思しき老人は首を強く振った。


「我々に幸運を運んでくださるあなた方をおもてなしするのは我々の義務です。私達があなた方の食事にお手をつけるなど出来るはずもありません」


 エディは眉をひそめ、髪を手でくしけずった。そんな様子を見た長老はようやくエディ達が倦み疲れている事に気がついたらしく、ひどく怯えた。手や口元をわなわなと震わせながら、エディが二度聞き直すほどにろれつの回らない言葉を発した。


「あ、あの、お、お気に召しませんでしたか」


 仏頂面になったヘレンがエディの脇腹を肘で突いたが、そんな事をされなくてもエディは自分の軽薄さを後悔しっぱなしだった。だが、そこはエドワード・サーベイヤー。伊達に二年以上も旅をしてきたわけではない。必死に知恵を絞って解決策を捻り出す。ヘレンを目配せで促すと、自分は手に取ったケバブを一気に胃袋へと押し込み、愛想のよい笑顔を作ってみせた。


「そんなことないです。とっても、とっても美味しいですよ。……ただ、最近こんなご馳走食べてなかったんで、体に少し合わなかったみたいです。……外の空気を吸わせて下さい。お願いします」

「そ、そうなのですか。私達のことを恨んだり、は?」

「そんな事あるわけ無いじゃないですか! すぐに戻ってきますから。お願いします」


 長老はほっと胸を撫で下ろした様子で、その場にヘたりこんでしまった。


「ど、どうぞ。ご自由にして下さい……」

「ありがとうございます」


 丁寧に頭を下げたエディはすぐに立ち上がり、ヘレンの事を振り返らずに家を出ていった。ヘレンはその背中を見て小さく頷くと、彼女も愛想よく笑って長老の方を向く。


「あの、私も連れが心配なので、少し付き添ってもいいですか?」

「え、ええ。構いませんよ」

「ありがとうございます」


 長老がお辞儀をすると、ヘレンはすぐさまエディの後を追って飛び出した。賓客のいなくなった宴会の場に取り残された人々は、食べ物に手をつけることも出来ず、ただただつばを飲んで黙り込んでいた。



「やっぱり悪い事しちゃったなあ……」


 額に浮き出た冷や汗を拭いつつ、月光に晒された道でエディはため息をついた。食事は確かに絶品であったが、量が多過ぎて、到底食べ切れない。もてなしてくれる気持ちはとても嬉しかったが、すべてを受け入れられる器は持ち合わせていなかった。ヘレンもお腹をさすってため息をつく。


「これ以上は本当にお腹を壊しちゃうかも……はは」


 苦笑交じりにヘレンは呟いているが、体調を崩すというのは冗談になる話ではなかった。重くなった胃袋を感じ、エディは肩を竦めた。


「まあでも、あの人達の好意をなるべく無駄にしたくないし、とりあえず、少しでも腹ごなししようか」

「そうだね」


 二人は静かに連れ立って、村の中を歩き始めた。今日だけで心を揺すぶられるようなことがありすぎて、二人は混乱していた。ようやく二人きりになれたところで、ヘレンはおもむろに口を開いた。


「ねえ。あの子が神様の子だなんて、信じられる?」


 当てもなくぶらぶらと歩きながら、エディはぼんやりと星空を見上げた。馴染みのあるところで言えば、キリストも神の子だと言われていた。一神教であり、信仰の対象である神を通じ、キリストをも神格化するために謳われるようになったのだろう。一方で、多神教のローマ神話やギリシア神話では神の子なんてごまんといる。そもそも神様が人間臭く、最高神のゼウスからして不倫癖があるのだから始末が悪い。

 旅をする傍らにも、神を絶対的な存在として崇めているキリストやイスラムの人々と、神を尊敬する一方で、それこそ人間のように、どこか間の抜けた存在として捉えている古代ローマやギリシアの人々の差にエディは思いを巡らせることがあった。一神教を信奉する人、多神教を信奉する人、それぞれの違いにエディは思いを巡らせることがあった。星座を探しながら、エディは静かに呟く。


「どうだろう。キリスト教のものさしで考えたら、神の子はイエス様ただ一人! と言いそうなところだけど、ヒンドゥーの世界はローマやギリシアみたいに多神教だから、そういうのを信じやすい環境にあるのかもね」


 ヘレンは首を振った。今エディが言ったのは客観的な予測に過ぎない。目ざとく気付いたヘレンは、頬を軽く膨らませる。


「そんな事はいいの。問題はエディがどう思うかってことなんだけど」

「やっぱりごまかせないか。……正直な話をすると、信じ切れないよ。神様がいるとかいないとかじゃなくて、あの子は、単に着飾らされているだけの女の子に見える。ちょっと額に(あざ)があるだけで、苦しみ続けた人々の希望に祀り上げられて……常に背伸びし続けなきゃならないでいる女の子にね」


 エディの淡々とした述懐を聞いて、ヘレンはそっと微笑んだ。


「やっぱりエディもそう思う? 私もそう思うんだ……何て言うのかな、かわいそうな気がする」


 エディは夜空から視線を下ろし、そっとヘレンの横顔を見つめた。月明かりを受け、彼女の肌が青白く神秘的に輝いているのを見ると、今まで旅してきた記憶の断片が甦ってくる。エディの視線に気づき、ヘレンはちらりとこちらを向いて微笑んだ。エディは視線をほんの少し背けると、耳を傾けなければ聞こえないくらいの声で呟いた。


「むしろ、俺はヘレンの方が不思議だよ」

「え? どうして?」


 ヘレンが目を丸くすると、エディは急にくすくすと笑い始めた。


「だって。感情を読み取る特別な力がある気がするんだ。俺が聖書を持っていたくなかったのもばれたし、俺が変になっちゃった時もすぐ分かった。伝える力もすごいじゃないか。あの時の言葉、僕の心にひどく響いたよ。君に抱きしめられて、叱られるだけで、君の言葉の一つ一つが僕の心の奥深くまで染み込んでいく気がして。本当に、ヘレンは不思議な女の子だと思うんだ」


 それを聞いたヘレンは、何やら茶目っ気たっぷりの笑みを浮かべた。


「へえ。どうする? 私も神様の子だったら」


 エディはヘレンの言葉の意味を測りかね、彼は曖昧に微笑んで首を傾げた。


「え?」

「冗談よ。私ね、昔から勘だけはよかったんだ」

「うーん……そんなもんなのかなあ。それにしても……」


 エディは首を傾げ、ヘレンの穏やかな瞳を窺った。彼女もエディと同じ方向に首を傾ける。


「どうしたの?」


 エディはにっこりと笑うと、再び夜空を見上げた。


「昔はそんな冗談言うなんて、考えられなかったなあ。もっと引っ込み思案な女の子だったのかと思ったら、案外活発だし、悪戯っぽいところもある女の子だったんだね」


 ヘレンもエディの笑顔につられて微笑むと、エディと一緒に夜空を見上げた。


「うん。誰に似たんだろうね。エディかなあ」

「え? 俺?」

「そうよ。お母さんやお父さんが亡くなる前だって、今みたいにぽんぽん冗談言えるような女の子じゃなかったもの」


 ヘレンの屈託の無い笑顔を見つめ、エディは口元が緩むのを感じた。


「なんだ。俺に似たらあまり良くないんじゃないかな。女の子はもっとお淑やかな方がいいよ」

「大丈夫。お淑やかにもなれるもの」

「演技するみたいに言わないでよ」


 二人は見つめ合い、くすくすと笑いあった。弾みがついて収まらなくなり、今度はからからと大声上げて笑いあった。疑問は相変わらずであったが、ひとまず気分は少し晴れた。合間よくお腹の調子も戻ってきたから、二人は肩を竦めあい、村長の家に向かって踵を返した。


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