起段 マシュハドの宿屋
Eventful Item
ハディンの手紙
Money
百シリング
「色々なことを教えて頂いて……本当にありがとうございました。それにこの布まで……」
ハディンの家に辿り着き、彼は静かに頭を下げる。その背後で、彼の家族がハディンの恩人とはいかなる人物か、興味津々で眺めていた。青年の方は道を行き交う男性と同じく白い装いをしているが、雨模様の黒い上着を羽織っていた。確かに、そろそろ暑さが落ち着き、風に涼しさを感じる季節となりつつある。だが、何よりも家族の目を引いたのはその肌の白さであった。毛が薄く、ひげも生やしていない。一目見れば彼がイスラムの人間ではないことが想像できる。一方の女性も、確かにムスリマらしい格好をしている。きっちりと青色のヒジャブを被り、髪の毛を隠している。しかし、その肌はやはり白い。青年は笑い、ハディンと握手を交わした。
「いえいえ。それ、涼しいでしょう? 暑い季節、何かと助かると思いますから持っていて損はないはずですよ」
「はい。いつも水に浸したみたいにひんやりしてます」
ハディンはヘレンがヒジャブ代わりに被っていた空色の布を首に巻いていた。この涼しさなら、確かにどんなに暑い日も苦にはならないだろう。エディはにこやかに微笑んだ。
「それならよかったです。……そういえば、渡したいものがあるんですよね」
「はい。これです」
ハディンは懐から手紙を取り出した。受け取ってみると、『ユースフへ』と宛名が書かれていた。その下には住んでいる街の名前もある。
「エディさん、オアシスの道を通って東に向かわれるのですよね?」
「はい。あぁ! つまり、僕たちの通り道にこの人が暮らしている、っていうことですか?」
エディが心得顔で手を打つと、ハディンも微笑みと頷きで応えた。よしと呟き、エディは旅嚢の中に手紙をしまった。入ったことを確認するように、旅嚢を何度も叩く。そして、大きく自分の胸を一回叩いた。
「それなら全く問題ありません。必ず届けますね」
「ありがとうございます。頼みますね」
ハディンが最後とばかりにもう一度深々と頭を下げた。
「任せてください! それじゃあ、行きますね!」
エディはロードの手綱を引き、エディ達は一歩一歩と東へ歩き出す。振り返り、ハディンに向かって二人は大きく手を振った。ハディンもにこやかに振り返す。
「さようなら! 元気でいてくださいね!」
「ええ! そちらこそ!」
エディはハディンにこの上ない恩を感じていた。万事何事も無く、最高の気分かと言われるとそうではない。嵐の後なのだ。黒い雲はまだ少々残っている。しかし、それもアラビアの渇いた風に吹かれ、いつしか消えてしまうだろう。ハディンがその風を呼び込んでくれなければ、エディはヘレンという太陽を再び見ることは叶わなかったに違いない。自分とヘレンを繋ぎとめてくれたハディンのためにも、今まで自分達を支えてくれた人々のためにも、この旅を必ずや成功させよう。エディはそう心を新たにし、東へ続く道を歩き出した。
ハディンと別れてから一ヶ月経った頃、エディ達はマシュハドの街に辿り着いていた。話に聞けば、この街はメッカに次ぐ第二の巡礼地だという。そのお陰か、この地方では今までに見たこともないほど盛況に満ちており、神殿のようにも見える、巨大な石造りの建物がいくつも建っていた。これを聖廟と呼ぶらしく、過去に生きた権力者たちが葬られているらしい。権力者がここに居を求めたのも、この地が神聖視されている証拠であろう。エディ達はそう考えていた。
「私達もマシュハドに来たんだから、マシュティーということでいいのかな?」
白黒の一団が、十数人固まって移動している。きょろきょろ周囲を見回している様子をみると、どう考えてもお上りさんだ。それを見つめながら、ヘレンは手を腰の後ろで組み、冗談交じりにそんな事を言った。ロードを引いて、周囲に合わせながらのんびりと足を運び、エディはからからと笑う。
「だめだって。どこかにお参りくらいはしないといけないでしょ。まあ、僕達はイスラム教徒じゃないんだから、何も知らないくせにそんなところに行くのは失礼かな」
「そっか」
小刻みに頷きながら、ヘレンはさらに違う一団を見つめた。口元を覆っている髭がむさ苦しい四人組で、仏頂面のまま何処かへ向かっている。ヘレンは笑顔の色を、感心したような微笑みに変えた。
「やっぱり、イスラムの人って真面目だよね」
「うん。はるばる遠くからここまでやってくる人もいるわけだしね。自分の中の神様に忠実だよなあ。イスラムの人って」
そんな事を言う間も、決して二人はハディンから託された使命を忘れてはいなかった。しかし、彼らも含めてみんながみんな似たような格好をしているものだから、話しかけてみたら違う街の人でしたということがなきにしもあらず、道行く人には話しかけづらかった。
そんなこんなでぶらぶらしていると、宿屋と思しき看板を掲げた家から、一人の男性が現れた。えらの張った頑丈そうな顔に刻まれたしわが、彼が生きてきた年月を知らしめている。エディは決めた。彼に聞いてみよう。彼が単なる客だったとしても、もうそこは適当にとりなして、今度は宿主に聞いてみようと。男性が次の行動を起こす前に、ヘレンとロードから離れて駆け寄り、エディは話しかけた。
「すみません!」
「ん。どうしました?」
男はこちらに振り向く。包容力のある瞳。エディはそう思った。
「別に大したことはありませんが、あの、ユースフさんという人が、このあたりに暮らしていると――」
「ああ、私ですよ」
「あなたが!」
幸運にエディは顔を輝かせた。ただでさえ広いというのに、人の密度が高いこの街を歩き回るのは骨だと思いかけていたところだ。話しかけた一人目がまさに当人だったのだから、エディの喜びもひとしおだった。一方、理由はわからずとも、自分と出会って嬉しそうにする人がいるのは悪い気がせず、ユースフも笑顔になる。
「ええ。私です。ところで、一体私に何用ですか? 今日の宿なら一応空いていますが」
「あ、じゃあ一応泊めてください。まあ、そこが本題じゃないんですが……」
合間よくヘレンがロードを伴ってやってきた。エディは素早く中を探り、ハディンの手紙を取り出した。
「これです。ハディン、という人があなた宛の手紙を僕に託してくれたんです」
「ハディン……ああ、覚えています。去年巡礼にきた人ですね。やたらと礼儀正しいので、印象に残ってました。そういえば、メッカにも赴く予定だったとか」
一人呟くなり、ユースフは封を切って中を開く。目を通しているうちに、口端に笑みが浮かんでくる。あらあらと、労いとも落胆ともつかない言葉が洩れてくる。
「なるほど、メッカに巡礼するどころか、カスピ海の岸辺で倒れてあなた達に救われたんですか……うっかり屋の彼らしいといえば、彼らしいですねえ」
「でも、僕達はそれ以上にハディンさんに助けられましたよ」
あっけらかんとし、晴れやかなエディの表情。多少おっちょこちょいでも、ハディンが優れた人格者であるには違いなかったから、ユースフは目の前の青年に彼が何をもたらしたのか知りたくなってきた。ユースフはハディンの『東へ向かう旅人』という文字をなぞりながら、エディに尋ねた。
「そうですか……何だか興味深い話になりそうですね。今日はぜひ泊まっていってください。手紙を運んでくださったことと、私の手紙も東へ運んでくださるというのなら、宿代はチャラにしますよ」
「本当ですか!」
エディとヘレンは顔を見合わせ、思わず目を輝かせる。その屈託の無い笑顔に、ユースフは目を細めた。
「我が神は嘘を嫌いますよ」
「ありがとうございます!」
ユースフに伴われ、二人は素朴な宿の中に揃って足を踏み入れた。
のんびりと過ぎ行く夜。食堂の中にある、一つの丸テーブルの上にランプを置いて、エディ達はユースフとの談笑で穏やかな時を過ごしていた。エディの苦しみをハディンが晴らしてくれた話をすると、興味深そうに耳を傾け、ユースフは何度も何度も頷いた。
「そうですか……彼はまさしく、マシュティーにふさわしい心の持ち主だったのですね。あなたの笑顔を見ているとそれがわかります」
エディの目はランプの炎を受けて、静かにきらめいていた。彼は隣にいるヘレンの柔和な微笑みを見て、今の幸福な気持ちを噛みしめる。
「はい。彼が僕の苦しみを明るみに出してくれなかったら、僕は僕でなくなったかもしれません……あの人に出会えてよかったです」
ユースフは組んだ手にあごを乗せながら、エディの瞳を見つめる。
「それを聞くと、私も彼のことを泊めてよかったと心から思えます。一つ言葉を交わした時から、私は彼がムスリムの鑑のような品性の持ち主だと思ったものです。そうですか……よかったよかった」
一旦口を閉じ、ユースフは天井を見上げながら何事か考えこみ始めた。こめかみを指で叩きながら唸っている様子は、何か迷っているようにも見える。ヘレンは首を傾げた。
「どうしました?」
ユースフは一回手を叩いて乾いた音を鳴らす。さらに二人が不思議そうな表情をしたところに、ユースフは立ち上がり、棚の方へと向かいながら尋ねかけた。
「お二人とも、東へと向かわれるのでしたよね」
「ええ、そうです」
「では、私からもお手紙をお願いしてもよろしいですか? 実は、ここからさらに東へと向かった方にも、私が気になっている巡礼者が暮らしているんです。イルヤースという名前なんですが、お願いしても……」
エディはユースフの目を見つめ、大きく頷いた。
「もちろんです!」
明朝、二人は玄関先に立ってユースフに見送られようとしていた。ロードも厩舎でのんびりと一夜を過ごしたらしく、いつにもまして快調な様子だ。ユースフは手紙を差し出し、エディ達は丁寧にそれを受け取った。
「では、よろしくお願いしますね」
「了解です」
颯爽と馬に跨ると、エディはヘレンに手を貸して後ろに乗せる。もう一度エディ達はユースフに会釈をして、ゆっくりとロードを歩かせ、宿屋を後にした。そのままイルヤースという人物に思いを馳せながら歩いていると、道端で何かの束を積んでいる人が目に入ってきた。興味が湧いてきたエディは、ロードを止めて話しかける。
「何ですか? それ」
仕上げに看板を置いた男は頷き、束を一つ持ち上げてみせた。
「紙さ。旅人さん、旅に紙は必要ないか?」
エディは強く頷いた。すぐに自分の腰に下げた巾着袋を漁ると、銀貨一枚を投げ渡す。驚いている男に向かって、エディは笑みを浮かべ、そっと手を差し伸べた。
「その銀貨で、買えるだけください」
絵を描くのに、紙がなくては始まらない。