結段 めざめ
日がようやく頭のてっぺんを見せた東雲の頃、ハディンはすぐに起き出し、一人メッカに向かって礼拝を捧げる。巡礼に向かえない事に対する謝罪を込めながら。そして、旅の準備が整い次第、すぐに発とうと決めた。
一通り終えると、青年が既に目覚めていた事に気が付いた。黙ったままでカスピ海が黄色く色づき始めたのを見つめ続けている。ふと、彼が本来自分と似ていたという話を思い出し、ハディンは思い切って話しかけてみる事に決めた。
「おはようございます。随分目覚めがお早いのですね」
ハディンの微笑みを窺い、エディは感情のこもらない目をしばたかせた。だがしかし、それ以上に感情を表すことはなく、彼は再び下を向いてしまった。口だけが微かに動かされる。
「そちらこそ、礼拝をなさっていたということは、この時間に毎日起きていらっしゃるということですか?」
エディの口振りは、自分に対する関心から逃れようとでもするかのようだった。しかし、ハディンはそれでも食い下がる。こんなところで引き下がれば、せっかく助けてくれた二人への恩返しにならない。
「ええ。まあそうです。……して、あなたはどうなのですか」
エディは重たい動作で頭を持ち上げ、ハディンの瞳を視線で射抜く。感情の無い瞳は、時折人に恐怖や不気味という感情を植え付けるものだが、彼も例外ではなかった。しかし、ハディンはめげない。視線のぶつかり合いが数分続いた末、折れたのはエディだった。
「僕は、眠れなかっただけです。最近そうなんですよ。多分、まともに考えたり、行動したりしていないから、休むほど疲れる事が無くなってしまったんだと思います」
「それは大変……苦しいことですね」
ハディンが同情の眼差しを向けた瞬間、エディは微かに口角を持ち上げ、笑顔のような表情をした。それが笑顔だなどと、ハディンは到底認めたくなかったが。
「苦しくなんかありませんよ。苦しいという感情が、先の一ヶ月で無くなってしまったんです。……昔、夢と共に過去を忘れたのと同様、今度は感情と共に過去を忘れようとしているのかもしれません」
ハディンは眉を寄せた。
「まるで他人事のような言い方をなさるんですね。物語に登場する人物の心境を語っているかのようですよ」
エディは頷いた。エディ自身もわかっていたことだったのだ。
「ええ。たまに、自分はどこか暗いところに閉じこもっていて、今見ている光景は幻なんだと思えてしまうことがあるんです。まるで、自分が自分じゃなくなっていくようで、それでもいいか、なんて思う自分もいて……」
ハディンは強く首を振った。それでは、いくら何でもヘレンが不憫だ。彼女はきっと、再びエディが元の姿に戻ってくれることを願っているに違いない。エディが放った言葉は、まさにヘレンの心を踏みにじったも同然だ。
「だめです。そんな事を言っては。……そうしたら、ヘレンさんは一体どうなってしまうのです?」
エディの顔が一瞬険しくなったように見えた。しかし一瞬は一瞬、すぐに虚ろな仮面をかぶり直してしまった。
「わかっています。僕が僕として存在する意義は、もうヘレンを悲しませる以外にないんです。もし僕が僕を投げ捨てたら、ヘレンはきっと悲しむ。だから僕は僕にしがみついてる。ヘレンの必死に頑張る背中を追っている。……いえ、引きずられていると言った方が正しいですね。もう僕はこの旅が空しくて仕方がないです。今さら引き返すわけにいかないから、ヘレンがやる気だから、行く所まで行こうと……それだけです」
長く話しすぎたとでも言うかのように、エディは深く溜め息をついた。その煮え切らない態度の中に、最早自分の道を真っ直ぐ突き進んでいた頃の彼はいなかった。しかし、ハディンはここで簡単に腹を立てないからこそハディンであり、ヘレンがエディの影をそこに見たのだ。彼は顔をしかめながらも、辛抱強さを発揮する。
「確かに、あなたがあなたでいるうちは、ヘレンさんを絶望させることは無いかもしれません。ですが、一生喜ばせることも出来ませんよ。そんな事でいいのですか? あなたは。本当にいいと思っているんですか?」
エディはわずかに身を震わせた。ここ一ヶ月、ヘレンの笑顔を見ていない。自分を励まそうと微笑んでくれることはあっても、彼女が取り戻したはずの、輝くような笑顔を見ていなかった。エディ自身も、ヘレンを苦しめ続けていることは薄々感じていた。けれども、認めることが怖くて今まで見ないふりをしようとしていたのだ。ヘレンの苦しみを改めて突きつけられ、ついにエディは涙を見せる。
「いいと思ってるわけ、無いじゃないですか……いいと思ってるわけ無いじゃないですか! でも、僕はどうすればいいんですか! 仮にこの旅が万事何事も無く終わって、帰ってこれたとしましょう! そしたらその後、ヘレンとは結局元通りの他人に戻ってしまう! 僕はまた一人になる! 一人で……この先僕はどう生きていけばいいんですか……人は一人で生きていけないというのに! 神様だか何だかわからないけど、僕をこうして一人にするんだ! どうして、どうして! どうしてなんだよ!」
涙に咽んで地に伏せて、エディは蘇ってきた苦しみと悲しみを吐露し続ける。その時、寝ていたはずのヘレンが跳ね起き、エディの右頬を思い切り張り倒した。エディは目を見開き、焼けつくように痛む右頬を押さえながらヘレンの方に振り向いた。一筋の涙を両頬に伝わせながら、ヘレンは口元を震わせていた。
「勝手に一人にならないで! 勝手に一人にしないで! どうして? どうして旅が終わったら他人に戻っちゃうの? 私だって、エディがいなかったら一人ぼっちになるじゃない! 私の周りに、他人しかいなくなっちゃうじゃない! ……そんな悲しい事言わないで。私達、旅が終わってもずっと一緒でいようよ。一人になっちゃった者同士、支えあって生きて行くことはいけないの? エディはそれを望んでないの?」
ヘレンの鋭い剣幕に、エディは思わず心の奥底を引き出されてしまった。鼻をすすりながら、エディはゆっくりと首を振った。
「いたい……一緒にいたいよ」
ハディンが見ているのも気にせず、ヘレンはエディを掻き抱いた。必死に涙をこらえながら、喉をつまらせないよう語りかける。
「じゃあ、一緒にいよ? 私達、これまで助けあって、何とかなってきたでしょ。だから、これからも助け合って、生きていこうよ」
エディは泣いた。とにかく泣いた。自分の中に封じ込めた毒を押し流そうと、とにかく泣いた。身を震わせ、鼻水や涙で顔を汚し、大きくしゃくりあげて泣いた。ヘレンはエディを抱きしめて、その肩を優しく叩いてあげていた。ハディンは自分の肩身が狭くなったのを感じ、ふとカスピ海の方角に目を向ける。日輪が半分湖から姿を表し、湖を黄金の光で満たしていた。さざ波に合わせて光が瞬く様は、まるで天の星くずを湖の上にばらまいたかのようだ。ハディンは思わず興奮して呼びかける。
「エディさん! ヘレンさん! 一旦泣くのはよしてください。……ご覧下さいよ。この景色」
ヘレンとエディは、ひしと抱き合ったその姿勢のままで首を捻り、輝く湖の姿を見つめた。ヘレンは泣くのを忘れ、顔を輝かせてしまった。空を黄色に染め、湖に光を散りばめたその光景を見ていると、なぜだか心が落ち着いて、涙も自然と落ち着いてきてしまった。ただ一言、思わず呟く。
「きれい……」
エディにもたらしたものは更に大きかった。見た瞬間、今までとは違う感情が心の中に溢れ出した。どんな景色を見ても、刹那的な美に一抹の寂しさを覚えていた。しかし、今は違った。今ある感動がすぐに終わってしまうのなら、終わらせなければいい。どう終わらせないか。描けばいい。日輪に照らされ、エディの胸の中に今まで失ってきた情熱がしかと蘇った。
ごめんと言ってヘレンを振りほどくと、涙を思い切り拭いて、自分の旅嚢を漁った。鉛筆を取り出し、さらに奥底を漁る。紙が手に当たったのを感じ、エディはそれを一気に引き抜く。それは紛れもなく、いつか見たドーバー港の地図だった。大きさもそれなりにあったから、何かを書くのに使えるかもしれない。そう思って取っておいたのだ。今思えば、それは、自分の中に燻っていた夢が、『何かを描くときに必要だ』と思って捨てずに置かせたのだろう。両手でしわを伸ばし、エディは目の前の景色と対峙する。
「ハディンさん。何か、硬い板みたいなものを持ってませんか?」
「板はありませんが……礼拝に使うための絨毯なら、草の上で何かするよりは安定するかもしれませんよ」
「ありがとうございます!」
ハディンの絨毯を画板代わりにして、エディは静かに鉛筆を滑らせる。その手は休むことを知らなかった。ヘレンとハディンが脇から覗いている横で、目の前の景色が紙の上に再現されていく。七年も筆を握ったことが無いとは思えないほど、目の前の景色を精巧に映し出していた。その目は明るく希望に満ちあふれていた。ヘレンは思った。創世神話が真実だというならば、世界を創り出している時の神もこんな目をしていたのだろうと。それくらいに、エディは自分が写し取る世界に夢中だった。
出来上がった瞬間、エディは目の前の景気に向かって自分の絵を突き出した。鉛筆だけで再現された白黒の世界は、エディがようやく抱けた真の希望をあらわして、本物の景色に劣らず美しい。エディの持っていた多大な才能を示すには、それだけで十分だった。
「母さん! 父さん! 俺、ヘレンっていう優しい女の子と一緒に生きて行く! また絵も描くよ! ……もう大丈夫だから、心配しないでね!」
ふと息をつき、エディは以前のように、温かみに満ちた笑顔をヘレンに向けた。
「これからもよろしくね。ヘレン」
「うん。よろしく」
エディには、ヘレンの笑顔も、朝日に負けず劣らず輝いて見えた。二人のそんなやり取りを安心した顔で見つめ、ハディンは何度も頷いた。
「よかった。一宿一飯の恩義、果たせたようですね」
エディは何度も首を振る。その目には、感謝の色がはっきりと現れていた。
「そんなそんな! 僕達の方がずっと助けてもらいましたよ。あなたに会えなければ、僕とヘレンの間には一生消えないヒビが生まれていたと思います。ですから、むしろ僕達がお礼をしないとならないくらいですよ」
「そうですか。……じゃあ、一つ頼まれて欲しいことがあります。チャールースまであと少しなので、よろしくお願いしますね」
ハディンが微笑みながらそう言うと、エディもヘレンも同時に頷いた。
「はい! ……あ、そうだ。エディ、お父さんが遺した旅の知識、ハディンさんにも分けてあげたら?」
「あ、いいね。そうしよっか」
素早く立ち上がり、旅嚢をまだ眠たそうにしているロードに結わえつけながら、エディはハディンに向かって笑みを投げかける。
「巡礼、今度は成功させられるように、僕達が助けられてきた旅の知識をハディンさんにも分けたいと思います。……残り十五マイル、どれだけ詰め込めるかわかりませんが、しっかり聞いていてくださいね?」
「はい。ありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ本当にありがとうございます」
ハディンは深々と頭を下げる。それを見たエディも、同じく頭を下げ始めた。それを見たハディンもまた頭を下げ、エディはとうとう膝まずいてしまった。そんな様子を見つめ、ヘレンはくすくす笑いが止められなくなっていた。
ハディンはこの後、再び準備を整え、今度は家族を伴い旅立つ。エディとヘレンから受け継いだ知識を頼りに、ハディンはついにメッカへ巡礼することに成功した。旅の行く先々で、ハディンはその人柄を以て人々に慕われたという。