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我が神を求め  作者: 影絵企鵝
十二章 志得ざれば
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転段 感謝の心と信仰と

 ハディンという不幸な巡礼者を連れ、ヘレンとエディは再び進路を東へと取った。ハディンをロードに乗せ、自分達はすたすたと歩いて行く。一年以上も乗馬を続けてきたお陰で足腰はかなり強くなっており、以前レイリーを伴って旅をした時とは比べものにならないほどの距離を歩けた。三十マイルあったチャールースまでの道のりも、明日の昼頃には到着できそうだ。



「ありがとうございます。助けてもらった上、こんなに美味しい料理まで……」


 ヘレンが作った魚のスープに舌鼓を打ちながら、ハディンはやはり何度も頭を下げる。ここまで料理を褒められたのも久しぶりで、ヘレンも気分が良かった。一口一口ありがたそうに食べるハディンの表情を見つめながら何度も頷いた。


「美味しいですか? 良かった」


 エディの方向を見れば、彼はぼんやりとしたまま、無感動に食事を進めていた。再び『おいしい』と叫んでほしい毎日を一ヶ月近く送ってきたが、やはりまだまだ先かもしれない。ヘレンは気を取り直すことに決め、自分もスープの皿に向かい合い、静かに頭を下げる。


「いただきます」(Get from you.)

「いただきます? ヨーロッパでは食前にそんな挨拶をするのですか?」


 ヨーロッパから来た(酔狂な、とハディンはちらりと思った)ということはすでに聞いていた。だが、ヨーロッパでは食前にこのようなあいさつをするのか。と、不思議そうな顔をしたハディンに、ヘレンは茶目っ気たっぷりな笑みを返して首を振る。


 神の存在を信じて疑わなかった頃は、神から与えられた“ありがたいお食事”に感謝を捧げてから食事を始めていた。しかし、この旅の途中までは人前ではなあなあで済まし、野宿の際には何も言わなかった。しかし、食べられる、生きられるということのありがたみがわかってきて、食事に際して何も言わないというのはやはり体裁が悪い気がしたのが、この挨拶を生み出す切欠だった。


「いいえ。私達くらいでしょうね。……でも、私達はわかったんです。今日はお魚でしたけど、一生懸命生きている命を、私達は毎日奪っているんです」


 陸に引き上げられた魚の、最後の一分一秒まで懸命に呼吸を続けていた姿を思い出しつつヘレンが語りだす。ハディンは料理を食べる手を休め、真剣な顔になった。


「私達はお魚や、植物から命を貰っているんです。そのお陰で今日まで生きてこられたんですから、やっぱり食べ物には感謝しないといけないなあ、って思って」


 ハディンはへえ、と感心したような声を上げ、何度も頷き、ヘレンの顔立ちに一瞬目を走らせ、そして再び彼女の肩辺りに視線を落ち着かせる。


「なるほど……私も二十歳になったばかりですが、あなた達はそれよりも若いのでしょう?」

「ええ。十四と半年くらいです」

「やはりそうですか。にしては、相当哲学なさっているんですねえ。一体どんな旅の目的をお持ちなのですか? 東に向かうということは、巡礼ではないのでしょう?」


 ヘレンは頷き、こちらの肩を見つめているハディンの瞳を、身をよじって窺う。驚いた顔をして、イスラム男子が誰でもそうするように顔を背けた。誰しも変わらないやり取りに、ヘレンは込みあげる可笑しさを抑えこもうと居住まいを正す。しかし喉が震え、結局笑ってしまった。


「な、なぜいきなり笑われるのです?」

「い、いえ。イスラムの男の人って、ヨーロッパの貴婦人みたいなこと、たまにするなあと思って」

「き、貴婦人とは……」


 ハディンは弱り切ってスープの皿を草の上に置き、頭を抱えてしまった。貞淑な女性みたいと言われて困惑している彼の姿を見ると、さらに笑いがこみ上げてしまったが、ヘレンは何とか呑み込む。彼が誠実で心の優しい人物だとわかっていたからこんな物言いが出来たものの、人によっては馬鹿にしているとも取られかねない。これ以上は笑わないように決めたのだ。


「すみません。笑ってしまって……私達の旅の理由でしたよね」

「え、ええ」


 ヘレンはうつむき、軽く組んだ手を見つめる。これまで、本当の理由を明かしたことはなかった。ムスリムは誰もが敬虔(けいけん)で、深く神を信じており、神を探しているといえば誰もが怒り出すに決まっていると思ったからだった。神の存在を疑っているその事実こそが、神に対する不敬そのものだと。しかし、彼なら冷静に受け止めてくれるに違いない。何故だかそんな安心感を覚えたヘレンは、思い切って言ってみることにした。


「実は私達、神様を探して旅をしているんです」

「神様を、探して? ……何故? 神様など、探す必要など無いでしょう? ……まあ、私はヨーロッパの内実を知りませんがね」


 そうは言うハディンだが、その声色に非難の色は見えず、むしろ興味津々といった様子だった。ヘレンはその好奇心を引き出すよう話し続ける。ぼろぼろになり、閉じこもろうとしていた自分の心を土壇場ですくい上げたエディの口上には敵わないだろうが、それでも何とか理解してもらおう。ヘレンは言葉を真剣に選んだ。


「実は私、神を信じる事ができなくなってしまったんです」


 ハディンは目を丸くした。同情の眼差しを向け、彼は手を差し伸べるかのような仕草を見せた。


「そんな……一体何があったのですか。気の毒に。私には聞くことしか出来ませんが、苦しいならば話してください。少しは楽になると思いますが……」


 ハディンの優しい心を実感し、ヘレンは嬉しさを月よりもずっと眩しい笑顔で表現する。


「大丈夫です。今は半々ですよ。そうじゃなかったら……私は今でも内気で、自分の中に閉じこもっているような女の子でした。それをエディに救ってもらったんです」

「ああ。そうでしたか。良かった」


 胸に手を置き安堵するハディンを見つめ、彼がどことなく誰かの面影に似ているような気がしてきた。そんな思いを抱きながら、ヘレンはハディンの言葉に耳を傾ける。


「東ですか……インドはムガル帝国が発展していて、やはりイスラム教ですね」

「えっ! 嘘ですよね?」


 ヘレンは飛び上がらんばかりに驚き、祈るような口調になってしまった。ハディンは目の前の彼女が眉を下げ、いたく悲しそうな表情になってしまった理由をあれでもないこれでもないと探りながら、緩慢な動作で首を振った。


「いいえ。嘘などではありませんよ。でも、こことは違ってかなり寛容なようですから、イスラムのしきたりに従っていない人も多い、という噂も聞きましたが」

「えっ! 本当ですか!」


 今度は顔を輝かせた。よくこうまで表情が鮮やかに変わるものだと感心しながら、ハディンも頷いてみせる。と、ヘレンはいよいよ立ち上がって喜んだ。


「やったぁ! そこまで辿りつけば、ようやく普通の服が着られるんですね!」

「ふ、普通の服? あ。そういえば、ヨーロッパの方にとってそれは普通の装いではありませんよね」


 申し訳なさそうな手つきで、ハディンはそろそろとヘレンの身を覆う黒装束を指差した。ヘレンは答える代わりに旅嚢から着替えを取り出した。昔から今までときおり身に付けている若草色のスカートだ。腰元が締まった輪郭。やはりハディンは見慣れない。


「そうなんですよ。私は、普段上にシャツを着て、スカートを履いているんです」

「スカート、っていうんですか。その服は……それにしても、そんな形の服を着たら、体の線が出てしまいますね」


 ヘレンは首を傾げて唸った。自分自身ではやはり何とも思わないが、イスラムの人々にとっては女性が自分の魅力を人前でひけらかすのは最も慎まれるべき行為なのだろう。昔は(今もたまに)女性にとって窮屈な社会だと思っていたが、今では女性という存在は宝石のように大切に扱われていることに気がついていた。そして、イスラムの人々はむやみに宝石を見せびらかさないのだ。それがわかったから、ハディンの言い分もわかる。


「体の線くらいなら、ヨーロッパではあまり気に留めませんよ。まあ、みんなそんな服を着ているから、という理由くらいしか思いつきませんが……」


 ぼんやりとヨーロッパの服飾を考えていると、“宝石を見せびらかす”事そのものの姿を思い出した。今に返ってみれば、よくも自分はあのような服を着てみたいと思っていたのかもわからない。


「ああ。ドレスは確かに男子の方々にとって刺激が強すぎるかもしれませんね」

「ドレス?」


 ヘレンは肩をすくめると、胸元でVの字を切った。そして、腰に手を当て、締め付けるようにする。


「こんな感じで、胸元が大きく開いていて、コルセットっていう器具で腰も引き締めるんですよ」

「ええっ! 人前でそんなにも肌を露出するなんて、こちらではひどくはしたない事なのに。そんな女性はそしりを受けますよ!」


 口をあんぐりと開けたハディンを見て、ヘレンは小さく微笑んだ。今は、ダイヤモンドなどでごてごて飾られた王冠というよりは、飾り気のない銀の指輪でいたいと思っていた。


「向こうのお偉いさんは、自分が持っている豪奢(ごうしゃ)な宝石を見せびらかすのが大好きなんです。その夫人も、自分が宝石であることを誇りに思っているんですよ」

「……へぇ。世界が違うと価値観も違ってしまうんですね」


 ハディンは何だか感心し、納得してしまった。腕組みをして何度も頷き、再びヘレンに問いかけた。


「女性の扱い方一つ取ってもこれほど違うんですから、神との向き合い方にもかなりの違いがあるのでしょうね」


 興味津々に目を光らせるハディンの口調には、どこか確信めいた色も帯びていた。だがしかし、ヘレンは悩んだ。改めて尋ねられると、これという答えが出てこない。無理もないといえば、無理もなかった。


「よくわかりません。そもそも、ヨーロッパの宗教観自体が根底から揺らいでいるんです」

「何ですって?」


 ハディンはますます興味を示し、微かに近寄ろうとする素振りを見せかけた(が、やはり近寄らない)。ヘレンはほんの少しの陰りを伴った表情を浮かべると、エディの方をちらりと窺った。


「昔から権勢を誇ってきたカトリックが、腐敗したと言われだすようになったんです。聖職への尊敬と権力が結び付き、儀式は金と結び付き……というように。そこで生まれたのがプロテスタンティズムなんです。もちろん、カトリックの否定から生まれたわけですから、全く正反対の存在です。職業召命観によって聖職の特別性を廃して、儀式も複雑精緻なものから簡素になったんです。そのお陰で庶民階級の間に爆発的な広がりを見せて、一方権力階級はカトリックの方が都合いいわけで……本当の所を言うと、自分が信じる向き合い方を探してばかりで、今は神に向き合っている余裕すらなくなっている人が多い気がします」


 目に物悲しい光を湛えながら、ヘレンは静かに微笑む。


「親を亡くしたばかりの頃の、私も含めて」


 ハディンは火を見つめるヘレンの横顔を見つめた。陰影によるものだろうか。六つも年下である彼女の顔が、ひどく大人びて見えた。


「大変なのですね。ヨーロッパは……」


 ヘレンは頷き、夜風が木々をそよがす音に紛れてしまいそうなほど小さな声で呟く。


「昔、イスラムはヨーロッパを脅かす危険な存在だと教えられてきました。ですが、たまに、とても羨ましくなります。現世でのご利益なんか求めないで、誠実に天国に行くことを求めて、真面目に自分の生活を律しているんですから」

「そう思って頂けると、何だか嬉しくなりますね」


 ハディンは照れて頭を掻く。その仕草を見て、ヘレンはようやくハディンがまとう雰囲気に気がついた。


「あ。今の照れ方、何だかエディに似てますね……いいえ。全部似てます。ありがとうの言葉をしっかり言えるところとか」

「私が、彼に?」


 あぐらをかき、とうに食事は終えて、それでもただただ食器を見つめている青年。自分の事を招いてはくれたものの、その目は暗く、とても歓迎されているとは思えなかった。そもそも、彼からは感情が欠片も感じ取れない。喜びも、怒りも、悲しみも、気楽さも、何一つ存在しない。空っぽだ。ハディンは首を傾げる。


「似てます……かねえ?」

「昔のエディはこうじゃなかったんです。優しくて、素直で、誰にでも気に入られてました。でも、それを鼻にかけなくて、とても謙虚だったんです。確かに悲惨な過去のせいで異常を抱えてしまっていたのも事実なんですが、これが本物のエディだとは思えません。やっぱり、本当のエディは、優しくて、素直で、謙虚な人なんですよ。あなたのように」

「なるほど……」


 ハディンはエディの虚ろな眼を一瞥する。これは人ではない。心を無くした、人間という生き物だ。溜め息をつくと、ハディンは残りわずかなスープを見つめる。わずかに映る自分の影をも見つめた。それから、器を持ち上げ一気にすする。空の皿を地面に置き、静かにハディンは頭を下げた。


「ありがとうございました」(Thank you.)


 誠実に礼の言葉を呟いたハディンの横顔を見て、ヘレンはにっこりと笑い、彼女も同じように頭を下げた。


「お魚さん、ありがとうございました」


 エディはそんな二人のやり取りを、一言も発さずに見つめていた。


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