承段 行き倒れ
夜が明けて、黒装束をまとい、空色の布を頭巾にしてヘレンは手綱を取り、ロードの気が赴くままの速さで歩かせていた。朝のカスピ海に目を向ければ、濃霧が水平線を覆い隠し、とても神秘的な光景だった。反対の方に目を向ければ、背の低い草むらが風に揺れている。てっきり中東は砂漠や荒野ばかりと思っていたから、ヘレンには意外な事実として映る。
「てっきり砂漠ばかりだと思ってたけど、そんな事無かったね」
「よく考えてみれば当たり前だよ。人が生きていくには水が必要なんだから」
エディの抑揚のない返事を聞き、ヘレンはしょげてしまった。こういった話題をかけてあげれば、含蓄のあるエディの気晴らしくらいにはなるだろうかと思っていたのが、見事に目論見を崩されてしまった形になってしまった。深く溜め息をついた。エディの気晴らしになるどころか、エディの心中が穏やかでないと分かった自分まで鬱屈になってしまった。
ヘレンはロードの腹を軽く二回蹴る。小さく嘶くと、足の動きをロードは早めた。吹きつける風の音が、二人の間の沈黙をある程度は掻き消してくれる。こうでもしなければ、ヘレンは寂しさを紛らすことが出来なかった。一ヶ月と経たないうちにカスピ海の南端についてしまったのもそのせいだ。
「エディ、私が言うのもなんだけど、もう少し元気出してよ。寂しいよ」
「君の寂しさは痛いほど伝わってくるよ。……でも、僕の中の何かが燃え尽きちゃった気分なんだ。何をしても、何を見ても気分が晴れないんだよ」
背後でうつむいているエディは、聞き取るのも難しいほど判然としない口調で呟く。ヘレンはうなだれた。自分はエディの明るさに当てられ、明るいところを見ようという気になれた。両親との楽しかった日々の記憶で、病に奪われた悲しみを包みこみ、成長の糧に昇華できた。
だが、エディの中に巣食う闇は自分が手に負えるものではない。自分にできるのは、結局見守ってあげることくらいだ。そんな自分が、ヘレンはたまらなく歯痒かった。
「情けないなあ。私……ずっと側にいるのに」
「そんなことはない」
ロードの嘶きと、押し殺したようなような声が被さった。どちらからも慰められたのを感じ、ヘレンはまだまだ自分は情けないと思い知った。再び肺から絞り出すような溜め息をついた後、ヘレンはロードの腹を蹴ってやった。丁度走りたかったと見え、ロードは快調に駆け出した。湖から吹き込む涼しい風を感じながら、ヘレンはしばしの間これからの展望に思案を巡らし始めた。
インドに行けば、もっと未知の世界が待ち受けてるよね。その頃には、エディとその世界に踏み出した喜びを分かち合えたらいいな。
だがしかし、いつまでもそのようにはいかなかった。ロードが急に鋭く鳴いて立ち止まる。そのせいで、ヘレンはつんのめってロードに抱き付いてしまった。そのままで、ヘレンは前方を窺い、そして息を呑んだ。
「大変!」
ヘレンは慌ててロードを降り、そのまま黒装束を振り乱して駆け出す。その目は倒れた男の方に向けられていた。大きな旅嚢を一つ背負って、まるで下敷きになったかのようだ。
「すみません! 大丈夫ですか!」
一回、二回と呼び掛けても返事はなかった。それでもヘレンは根気よく呼び掛け続ける。三、四、五回ときて、ようやく男は弱々しく反応を返した。普段ならば若さが目立つ凛々しい目をしていたのだろうが、今はやつれて目もとも
「す、すみません……どうか、水と食べ物を……」
息も絶え絶え、吹けば飛んでしまいそうな儚さを湛えている男を見つめ、ヘレンは唸った。目の前にいくらでも水はあるように見えて、その塩気のせいで飲めないというのは一番苦しいに違いない。ヘレンは素早く水筒を取り出し、目を丸くした。
「あ! しまった!」
長い事街に立ち寄らなかったせいで、最近水が汲めていないという事実をすっかり忘れていた。お陰で水筒はすっかり軽くなっている。ため息をつくと、ヘレンは空の水筒を握りしめた。
「ああ……どうしよどうしよ」
その時、ロードが立ち尽くしている方角から青い何かが飛んできた。受け取ってみれば、それはいつか竜のブレアがくれた青い鱗だ。見上げると、エディが鱗を投げ放ったままの手をして、こちらを静かに見つめていた。
「使ってみたらどうだい。もしかしたら、余分な塩分も取り払ってくれるかもしれないよ」
「う、うん!」
ヘレンは旅嚢の中を引っ掻き回し、中からビアマグ程度の大きさである小さな鍋を取り出した。普段は旅嚢の中で思い出の空き瓶を守り、時にはヘレンが作る煮込み料理の相棒として活躍していた鍋だ。
空き瓶をとりあえず脇に置いて、ヘレンは鍋に湖の水を汲む。そうしてから、ヘレンは恐る恐る鱗をつまみ、鍋の中に落としてみた。初めは変化があるように見えなかった鉄鍋の中だが、しばらく見つめているうちにいきなり変化を起こし始めた。
「え。すごい……」
水が薄く光ったかと思うと、いきなり白い結晶が鍋の底に張り付いた。状況から考えれば、塩と見て間違いないだろう。かの老竜が言った通り、水を飲めるようにするための役に立った。ヘレンはかき混ぜてしまわないよう慎重に鱗を取り出すと、鍋を男の口元まで持っていく。
「どうぞ……とりあえずお水です。底に塩が溜まっているので、飲み干さないでくださいね」
「は、はい。すみません……」
それだけ言うと、男はそっと鍋の縁に口をつけ、ゆっくりと傾けていった。水を半分ほども飲み干すと、多少は男もまともな状態になったようだ。ほっと息をつくと、男はヘレンに向かって微笑んだ。
「ありがとうございます。助かりました」
時同じくして、男の腹が鳴ってしまった。ヘレンは柔らかい笑みを浮かべ、旅嚢の中から大きな革袋、そして中から羊肉の燻製を取り出した。ナイフで手頃な大きさに切ると、ヘレンはそっと差し出す。
「どうぞ。他にもチーズがありますよ」
「申し訳、ありません。私、なんかのために……」
固い燻製を必死に噛み砕いている男の言葉に、ヘレンは嬉しそうな顔で頷いた。
「大丈夫そうですね」
「ええ、何とか。あなた達は天がお遣わし下さった助け船かもしれません。本当にありがとうございます」
何度も頭を下げる男に、ヘレンは(ヨーロッパにはそんな習慣が無いため)戸惑ってしまった。照れたように鼻頭を掻き、小さく呟く。
「そんな。困った時はお互い様ですよ」
燻製一片をどうにか呑み込むと、そのまま男はヘレンが差し出したチーズに手を伸ばす。二口で食べ終えてしまうと、ようやく男も落ち着いたようだ。男はまたも深々と頭を下げる。
「すみません、助かりました」
「よかった。……ええと?」
二人はお互いがまだ名乗り合っていない事に気が付いた。ヘレンは立て膝の姿勢から、正座に直す。
「私の名前はヘレンと言います。そして、あの白い馬に乗っているのが……」
エディは岸の見えない水平線を睨み付けており、とてもではないが口を利いてもらえる表情には見えない。諦めて男に向き直った。
「エディです」
「なるほど。私の名前はハディンと申します。今回は本当に助かりました。水を前にして、渇きのために死んでいくほど悲しいことはありませんから」
丁度ヘレンが思っていたことと同じで、ヘレンは思わずくすりと笑ってしまった。そして、ふと湧き上がった疑問を尋ねる。
「危ないところでしたね。ところで、どうしてこんなところまで?」
苦笑いを浮かべ、ハディンは頭を掻く。脳裏に浮かぶのは、すっかり軽くなってしまった旅嚢を寝起きに見つけた瞬間だ。カスピ海に頭から突っ込まれたような気分だった。
「いやあ。それが……メッカへ巡礼しようと思っていたのですが、一週間ほど前にお金や食べ物をほとんど盗られてしまって……面目ないです」
ヘレンは笑顔を曇らせた。うつむきがちに、小さな声で尋ねる。
「それは……気の毒でしたね。これからどうしたいと思います?」
どうするつもり、とは聞かれなかったのを不思議に思いながら、ハディンは空を見つめた。メッカまでは遙か遠い。お金も食糧もなしに、この先旅を続けることは不可能だ。かと言って、帰ろうとした故郷チャールースの地までは未だに三十マイル近くも離れている。食糧のためにカスピ海へと潜るわけにはいかないし、その水を飲めば更に渇いてしまう。全く、にっちもさっちもいかない状況になってしまったのである。溜め息混じりに、ハディンは思った通りのことを口にした。
「私は……チャールースの自宅で暖かいベッドに入りたいです。お金もなくなってしまい、どうしようもありませんが……」
ヘレンはエディの方に目を向ける。一瞬眉を持ち上げたかと思うと、大して迷うことなくエディは馬を近づけ呼びかけた。
「一緒に来ませんか? チャールースはどちらの方角で?」
「ええと……ここから東の方角です」
「丁度良かった。僕達も東に向かうところです」
明るさは失っても、人の良さだけは失っていないことにヘレンは安堵する。彼の表情も安らかで、人助けに小さな喜びを感じられているようだ。このまま昔の通りに戻ってくれれば。ヘレンはそう願いつつ、ハディンの驚きと喜びが入り交じった表情を窺った。
「いいんですか?」
「ええ。旅は道連れですよ」
エディは微笑みと共に頷く。ぱっと顔をハディンは喜びのあまり、おぼつかない口調になってしまう。
「あ、ありがとうございます!」
ハディンはいきなりあさっての方角を向き、膝をついて頭を下げる。
「神よ。私めを助けてくださるのですね! こたびは叶いませんでしたが、いつか必ずメッカへ参ります!」
高らかに神への感謝を歌っているハディンの姿を見つめ、エディが僅かに表情を曇らせたのをヘレンは見逃さなかった。