起段 湖のほとり
Eventful Item
空色の布
Money
百十五シリング
釣竿をカスピ海から引き上げる。強い抵抗を示しながら、活きの良いトラウトが茶色の斑模様を躍らせ現れた。エディも手慣れたもので、トラウトの抵抗をものともせずに岸辺に引き上げてしまう。両腕に抱えるほど大きく、本日の夕飯としては十分すぎる釣果だった。ヘレンはトラウトをつつきながらエディに笑顔を向ける。
「大きい魚ね。まるで海にいる魚みたい」
エディは感情のこもらない眼差しでトラウトを見つめた。大物を釣り上げるのも久しぶりで、一瞬気分が弾んだ気がしたが、すぐにしぼんでしまう。力なく芝の上で跳ねるトラウトを見つめながら、小さく呟いた。
「ああ。カスピ海は塩水湖といって、海の水みたいにしょっぱいんだ。だから、海にいるような魚がいるんだよ」
「へえ……あ、ほんとだ」
ヘレンは小指を湖に浸し、そのまま舐めてみた。わずかだが、確かに塩気がある。いつもならエディが隣まで来て何か言ったかもしれない。しかし、今のエディはぼんやりと座ったままだった。ほんの少し寂しそうな顔をしたが、すぐに振り払った。ヘレンは振り向き微笑んで見せる。
「エディは何でも知ってるんだね」
「そりゃあ、本ばかり読んでたからね」
欲しいのはそんな答えじゃない。そう言いたいのをこらえ、ヘレンは旅嚢からナイフを取り出し、静かにトラウトの心臓辺りを狙って突き刺した。一気に血が溢れだし、トラウトは痙攣を始める。ヘレンはその光景から目を逸らさず、ひれの一つさえ動かなくなるまで見つめていた。
ヘレンが魚を調理するときはいつもこうしていた。生きたままではらわたを引き出すことが無残に思えた彼女は、せめて命が消えるまでは生き物としての形を保たせてあげようと考えたのだ。昔は目を背けていたが、今ではしかと見つめていた。それが、これから自分の血肉となる存在に対する敬意だと考えていた。
深く息を吸い込み、てきぱきトラウトをさばき始める。肉がもつ少しばかりの抵抗にももう慣れてしまった。小さな心臓や腸、その中にまた小さな魚が入っていても平気になってしまった。昔は事あるごとに『気持ち悪い』とエディに頼り切りだったが、今ではそんな事も無くなっていた。旅の初めに思いを馳せ、長閑な夜風を聞きながらヘレンはエディに尋ねる。
「ねえエディ。もうすぐ次の街に付くけど、また素通りするの?」
エディの身を激震が襲って以来、ほとんど野宿ばかりしていた。お金を無駄遣いできないというのもあったし、何よりエディが街にあまり入りたがらないようになってしまったのだ。無理もない。人と人との結びつきが強いこの地域は、事あるごとに結束の強さを目の当たりにする。だが、心が寂れてしまったエディはその度に晴れる事のない虚しさを覚え、一層落胆、そして失望してしまうのだ。そんな状態で街に入れという方が酷だ。
エディは唇を噛み、申し訳なさそうな目で首を振った。
「ごめん……出来ればそうして欲しいんだ」
トラウトを火にかけながら、ヘレンは姉のような眼差しを向けて頷いた。たまには家で安心して眠りに就きたいものだが、今はエディの心中を穏やかにするほうが先決だ。火を眺めながら膝を抱え、ヘレンは答える。
「そっか。わかった」
それきり二人は黙りこんでしまった。ぽっかりとあいた空白の中に、火が爆ぜる音が入り込む。静かな空気に落ち着いたのか、立ち寝していたロードが急に伏せた。涼しい夜風が吹き込み、二人の体を包み込む。
「ねえ、ヘレン」
急に呼びかけられ、ヘレンは小首を傾げる。同じく膝小僧を抱え、声の主はトラウトが焼けていく様を見つめていた。
「なあに?」
「ヘレンは今まで、どうして俺に飛びついてきたんだい?」
ヘレンは頬を薄く染めた。今までエディにそんな事を聞かれたことはなかったせいで気恥ずかしく、自分の不安を素直に受け止め続けてくれたエディの存在を改めて感じていた。口を小さく動かし、虫が鳴くように小さく優しい声で呟いた。
「それは……エディがそういう存在なんだって、確かめたかったから」
「え?」
ヘレンは火から目を逸らすと、暗い水面に映る月を見つめた。昔の彼女にとって、エディはちょうどこんな存在であった。
「あのまま私は一人で生きていかなきゃならないと思ってた。孤児院の院長さんは優しかったけど……どうしても私は安心して、自分の中にあった遠慮を無くせなかった。もう少しあそこにいたら違ったかもしれないけど、『愛してくれる存在』というよりは、『面倒を見てくれる存在』だったの」
エディも頷いた。自分も入ったばかりの時、あるいは今も、自分は院長に『他人』という一線を引いていた。面倒を見てくれているのだから、迷惑はかけられない。そういう感覚があった。
「でもね、エディが隣に来てくれたときは違ったの。……年がおんなじだったこともあると思う。親を亡くしたのもおんなじだったことも。とってもエディが身近な存在に思えたの。毎日のように傷つけられる苦しみもエディには素直に打ち明けられたし、エディが私を旅に誘ってくれたときは……この人が運命を変えてくれるかもしれない、離れるわけにいかない。そう思った」
柔和に微笑むと、ヘレンはその表情をエディに向けた。
「だから、甘えちゃったのかな。隣にいてくれるだけじゃ足りなくて、心で感じるだけじゃ足りなくて。エディは私が頼っていい存在なんだって事を肌で感じたかったのかも」
言い終わると、ヘレンは照れてはにかんだ。さらに膝を抱え込んで小さくなり、頬を赤らめながら付け足す。
「やだなぁ。私、何だか変なこと言っちゃったね」
エディは首を振った。彼の目の前では、彼女の瞳が月の光を受け、珠のように輝いていた。そっとうつむいたエディは、ヘレンにおずおずと尋ねる。
「……ヘレン、こっちに来て……」
「え? うん、いいよ」
エディは急にヘレンを手招きする。彼女は頷くと、静かに寄り添った。その動きをひとしきり眺めていたかと思うと、隣に腰を下ろしたヘレンを急に抱き寄せた。
「えっ。あ、ちょっと? 何して――」
「こうさせて。俺も君を感じていたいんだ。君が隣にいてくれることを確かめたいんだ。……お願いだよ」
エディはヘレンの戸惑った声を遮り、涙声で訴える。そんな調子で懇願されては、ヘレンも応えてあげるほかになかった。ヘレンも腕をエディの背中に回し、ゆっくりと抱きしめてあげた。
「エディも……寂しかったんだよね」
聞こえているのかいないのか、エディは黙ってヘレンを抱く力を強めただけだった。