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我が神を求め  作者: 影絵企鵝
十一章 夢の在処は何処
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結段 描けなくなった日

 突然起き出し、いきなり述懐を始めたエディ。その呟きは冷めていた。感情の一切合財を失っていて、まるでどうしようもない大根役者が台詞を棒読みしているかのようだ。もうエディがどうなっても驚かなくなってしまったヘレンだが、それでも心配には違いなかった。起き上がったエディの肩を撫でながら、ヘレンは控え気味の声で尋ねる。


「大丈夫なの? 話さなくたっていいのに」

「いいんだ。話させてくれないか。話したほうが楽になると思う」


 こちらを向いたエディの目は、まるで焦点が定まっていなかった。エディを包む重苦しい雰囲気に阻まれ、ヘレンはそっとエディから手を離してしまった。エディはまた自分の足元を見つめだす。イーサはそんなエディの姿を、細い目で眺めていた。


「僕はその日、オックスフォード大学の屋上で絵を描いていた。まだまだ下手だったけど、その時にしてみれば一番の自信作だった。だから、すぐにお母さんやお父さんに見てもらおうと思って、家まで走ったんだ。けど、その時――」


 ヘレンが膝頭に手を置いたまま、うつむいて後を引き取る。


「暴動が起きてた」


 ひどくぼんやりとした様子でエディは頷いた。目を閉じれば、あの時の喧騒が聞こえてくる。互いを罵り合い、町並みを壊し、殴り合いどころかお互いを殺しかけるような争いが通りのあちこちで繰り広げられている光景を。


「経緯はわからない。でも、僕が通りについた頃、暴動に巻き込まれて、胸を一突きされた母さんはもう死んでた。道の真ん中で、父さんに抱かれながら……僕はもうその時点で混乱して、わけが分からなくなってた。ただ怖くて、母さんが死んだ事実を呑み込めなくて、ただその場で固まってた。でも、事態は更に酷くなっていくんだ。兵士まで現れて、必死にプロテスタントを捕らえようとしていた。でも、怒り心頭のプロテスタントが抑えられるわけがなかったんだ」


 次第に、ヘレンはその事件を思い出し始めていた。珍しく母が真剣な顔をして、『今は危ないから外へ出ちゃだめ』と繰り返していたのを覚えている。そして次の日には、無残に荒らされ、真ん中に大きな血痕が残っている大通りを、心を痛めながら見つめ、母や父と共に片付けを手伝っていた。あの血痕がエディの父や母のものだったと思うと、人生はどこで繋がってくるかわからない。ヘレンはひどく寂れた運命を感じた。エディは無感動、一本調子でとつとつと語り続ける。


「そんな中、無抵抗で、ついでに母さんを殺されて泣いている父さんの存在なんか目もくれなかった。一人を除いてね。その男は、大きな槌をぶら下げて、父さんの背後に迫ったんだ。そして、思い切り振りあげて、父さんの脳天を割った。もう僕は何が何だか分からなくなった。現実が呑み込めなくて、ただただぼーっと立ち尽くしてた……優しい兵士さんが話しかけてくれなかったら、きっと僕まで暴動に巻き込まれて、死んでたかもしれない」


 イーサは腕を固く結び、エディの述懐に耳を傾けていた。時折緩めかけてしまうが、イーサは全く腕の緊張を解こうとはしない。その目は真っ直ぐにエディの淡々と動く口元を捉えていた。


「悲しくて、悲しくて、僕はお葬式の間ずっと泣いてた。どうして父さんがこんな目に遭わなきゃならないのか、どうして母さんがこんな目に遭わなきゃならないのか、どうして僕がこんな目に遭わなきゃならないのか、ずっと神様に向かって聞いてた。でも、神様はそれを嘲笑うかのように残酷な現実を僕に突きつけたんだ」


 ヘレンはスカートをきつく握った。エディを抱きしめていたときに流れ込んできた影ばかりの記憶が、にわかに鮮明な映像となっていく。

 負の遺産として親戚に疎まれ、無理やり孤児院に送られたのは、エディも同じだったのだ。類は友を呼ぶのかと、ヘレンは改めて自分の境遇を思い出し、久方ぶりに涙ぐんでしまう。


 しかし、エディの境遇は、ヘレンの想像を遥かに越えていた。


「父さんが殺された時は、僕自身何が何だかわかってなかった。でも、泣きながら家に帰ってきた時に、僕には全部わかっちゃったんだ」


 わずかに戻ってきた感情が、エディの顔を苦痛に歪ませた。隣では、下火になっていた焚き火が再び強く燃え始める。喉を震わせて、エディは声を絞り出した。


「家には叔父夫婦がいた。今まで数えるほどしか会ったことがなかったけど、それでも僕は気付いた。暖炉の火に木製の槌が火にくべられていたこと、父さんに殴りかかった相手が、目の前の叔父だってことに」

「え……」


 ヘレンは思わず絶句した。絶句して、エディが先ほどうわ言のように繰り返していた言葉の真意を悟った。どうということはない。明るく振舞っていながら、そこに抱えていたのは自分など遠く及ばない強さの闇だった。


「父さんが話してくれたんだけど、俺の家は元々、ひいひいじいちゃんの代に宮廷で雇われた測量士の中で最高の、『サーベイヤー』っていう位についたから、それ以来サーベイヤーを家名として名乗っていたんだ。まあ、その職自体は他の人に譲ることになったけど、それでもある種裕福には違いなかったし、父さんだって政務官直属の測量家として、時々宮廷から直接命令を受けて働くこともあったんだ。……だから、おじいちゃんの遺産はそれなりにあったし、父さんはそれにあんまり手を付けていなかったから……今だから言える。叔父に狙われたんだ」


 眉根にしわを寄せ、エディは火を凝視した。あの時の暖炉は、父の血を燃やして明々と輝いていた。


「好都合だったんだ。暴動が起きて、けが人も出てる。権勢はカトリック派にあった。大義名分ができたんだよ。プロテスタントの暴動は止む気配がない。その中に自分の兄もいた。カトリックを信奉する王家の代わりに、プロテスタントの肉親を断罪して、ついでにこの暴動を治めるための生贄にしたっていうね。事実、その大義名分は通って、叔父は今もおじいちゃんが残した遺産を平穏に食い潰しているはずさ」


 イーサは既に腕を解いていた。腕を宙に置き、呆然とエディの悲しみだけが読み取れる虚ろな表情を見つめている。その目は驚き、そして同情のために揺れていた。


「だからなのかは、もうわからない。ほんの少しの荷物と一緒に孤児院に入れられた僕は、本を貪るように読んだんだ。もちろんキリスト教の本は避けて、他の本は全て読んだ。そして、孤児院にあった本を全て読み終わる頃には、父さんや母さんをどんな風に亡くしたのかも、叔父の悪意も、何もかも忘れてた。残っていたのは宗教に対しての失望感だけだったんだ」


 ヘレンは、エディが先刻子供のようになってしまった言動を思い出す。理不尽な恐怖に怯え、心を硬直させてしまったエディ。あれは、今まで何とか封じ込めてきた記憶に絡め取られ、人格ごと昔に引き戻されてしまったのだろう。同情の念がヘレンの心奥を占めていく中、ヘレンはふとエディが持っていたもう一つの発作を思い出した。精神の危なっかしい均衡を崩してしまわないよう、ヘレンは言葉を一つ一つ選びながら、慎重に声をかける。


「エディ、ひとつ聞いてもいい?」

「……うん。何でも聞いてよ。話しちゃったほうが楽になるって、さっき言ったでしょ」


 ヘレンは小さく口を開き、か細い声で尋ねる。無意識のうちに、シャツの胸元をきつく掴んでいた。


「ねえ。エディは絵を見た時にどうして……お化けが憑いたみたいになったの」


 エディは自分の爪先を見つめたまま、首を二、三度縦に振った。


「僕は多分、記憶を自分の意識から押し退けるためにいくつか大切なものを犠牲にしたんだと思う。……無意識の事だから、僕自身もよくわかっちゃいないんだけど、多分……恐怖っていう危険信号と、将来の展望と、そして『絵描きになりたい』っていう夢だったんだ」


 エディは右の拳を固く握る。あまりにきつく握るせいで血が溢れてきたが、エディは一向に気に止める気配はない。その拳を見つめる彼の語り口は、徐々に早くなっていた。口調から幼さを感じさせるたどたどしさが抜け始め、やにわに饒舌(じょうぜつ)となっていく。


「俺は父さんの、地図を描く仕事に憧れていたわけじゃなかった。父さんが趣味で描いていた、きれいな絵に憧れていたんだ。だから、あの日に僕は絵を描いた。父さんや母さんに見てもらって、ただ褒めて欲しかった。それが……あんな事になって……だから僕は、意識の及ばないところで『絵を描く』という事を封じ込めたんだよ。記憶を取り戻してしまう糸口にならないように……でも、その憧れが簡単に消えるはずなくて、一部が宙ぶらりんになって意識の片隅に残ったに違いないよ」


 エディは血まみれの右手を開き、それを見たヘレンは息を呑んだ。右手を強張らせながら、エディは生乾きになった血を凝視する。一方のイーサは、エディの目に宿った恐ろしい光を見ていられずに目を逸らした。


「だから、絵を見たときにその憧れの残骸が甦ってくるんだ。その絵が芸術的であればあるほどね。だから、トニオさんの絵は俺にとって最高で、最悪だったんだ。今ならわかる。トニオさんの絵に憧れたと同時に、俺は闘争心も抱いていた。俺だって、こんな絵を描けるはずだ。描きたいって……俺だって描きたいのに!」


 感情の糸がふっつりと切れ、語り口はめちゃくちゃになった。再び拳を握りしめたエディは、脇の地面に何度も何度も振り下ろした。地面をきつく睨みつけながら、涙も流している。六年以上もの間放って置かれた感情がエディの心を烈火のように燃え上がらせるも、すでに理性ではそのやり場が存在しないことも分かっていた。エディに浮いた怒りの感情は、そのまま彼の心を掻き乱す。膝立ちの姿勢になったエディは、満ちた月を見上げて吼えた。


「どうして俺から母さんや父さんを奪ったんだよ! 何で奪った奴はのうのうと暮らせるんだよ! 人を殺せば罰を受けるのが当たり前だろ! 清教徒は人じゃないのか! 答えろよ!」


 エディは孤狼のように吠え続ける。しかし、その叫びは虚空に響くばかりで、答えなど返ってくるはずもない。エディは歯を剥き出しにして、右手で掴んだシャツの胸元を血まみれにして、激昂の絶叫を上げた。その姿は、傷だらけの獣そのものだった。


 一通り叫ぶと、エディは息を荒げてうなだれた。怒りを吐き出してしまった後に、悲しみと恨みが残る。肩を震わせ、エディは白い目で月を見据えて呟いた。


「どうして答えてくれないんだよ。そうだよな。答えられるわけがないよな。やっぱり――」


 ヘレンがその口を塞いだ。エディから伝わってくる、自分自身すら感じたことのない痛みを感じて涙を流し、微かに首を振った。


「その先を言っちゃだめ。それじゃあ私とおんなじだよ……」


 ヘレンの涙を見た途端、エディは負の感情で破裂寸前だった心が急に小さくしぼんでいくのを感じた。エディは地面に突っ伏し、嗚咽を漏らす。


「俺に何をしろっていうんだ。俺にどうしろっていうんだよ!」


 すすり泣きを続けるエディを見下ろし、イーサは唇を噛み締めた。エディの苦しみは痛いほどわかる。だが、男として、エディに同情しているわけにはいかなかった。エディの襟を掴むと、無理やりに引き上げる。目鼻立ちの真っ直ぐな美青年の顔は、血や砂や涙でぐちゃぐちゃになっていた。血で汚れた襟元を掴み直すと、自分の胸元までエディを引き寄せた。


「どうしたら良いかは教えてやれねえけどな、何をしちゃいけねえかは教えてやれる」


 エディの怯えた目を睨みつけ、イーサは叫んだ。


「お前がヘレンを連れてきたんだろ! 子どもでもない男がめそめそして、こんなに健気な女を泣かすな! 苦しめるな!」

「イ、イーサ。そこまで言わなくたっていいのに……」


 ヘレンはイーサの方に手を置き、焚き火のように激しい思いをあらわした彼を何とかなだめようとする。しかし、イーサは横目にヘレンを見て、すぐに首を振った。


「だめだ。今ここで言わないと、ヘレンのためにもならないだろ! なぁおい! 知ってるかよ、ヘレンはお前のことが――」


 イーサはいきなり引き剥がされ、ヘレンに平手を見舞われた。その力は強く、バランスを崩したイーサは地面にへたり込む。信じられないという顔で、イーサは目をぱちくりさせていた。


「そんな事言わなくてもいいの。気にしないで。私たちはもう後に引き返せないもの。何とかかんとかやっていくわ」


 何とか身を起こすと、イーサはあぐらをかいて、不満そうに鼻を鳴らした。


「わかったよ。……これ以上は口出ししねえけど、無理だけはすんなよ」

「そんなことは百も承知よ」

「そうか」


 イーサは起きると、遠くの地平線を見つめて立ち尽くしている馬に駆け寄り飛び乗る。最後の最後でヘレンの機嫌を損なってしまった。我ながら女心を分かれない奴だ。そう自嘲しながら、そのままヘレン達のもとに一歩一歩近づいた。


「悪かったな、ヘレン。ちょっと血が上っちまった」

「もういいよ」


 ヘレンの言葉はやはりつれない。諦め、最後の別れを告げようと再び口を開きかけた瞬間、エディが急に何かを投げてきた。イーサは反射的にそれを受け止める。


「なんだこれ。ハムサか?」

「誰だって、人間でいる限りは負の感情から逃れられないんだよ。そのお守りを持っておいたらいい。そしたら……自分以外の悪意からは身を守れるんだってさ」


 膝を抱え、再び足元を見つめているエディは独り言のように答えた。イーサはまたしても鼻を鳴らし、馬の腹を蹴った。


「そんな事は知ってる。お前こそ、自分の悪意から身を守れよ」


 イーサは皮肉を吐き捨て、うなだれているエディを放って馬をさっさと歩かせた。


 イーサはつらかった。エディが苦しんでいるのに、ヘレンも苦しんでいるのに、自分は何一つ大したことをしてやれない。そんな自分が歯がゆく、あの場にいるのは自分までも苦しくなった。本当は旅を応援してやりたかった。面白そうな奴らだった。もっと仲良くなりたかったという未練が、じわりとイーサの胸を焼く。


「頑張れよ……二人とも」


 空に浮かぶ星々を見つめながら、イーサは家へと向けて去っていった。



 イーサはその後、オスマン帝国の一将軍となった。華々しいものではないため有名にはならなかったが、欧州側の将軍レイリーと大規模戦闘を回避する活躍を見せた。また、敵をむやみに傷つけることを良しとしない、人徳にあふれた将軍だと敵味方双方から讃えられるようになっていく。



 見送っていたヘレンは、彫像のように固まっているエディの前に膝まずく。彼女は精一杯の微笑を作り、そっと右手を差し出した。


「エディ。心配しなくても、私が隣にいてあげるからね……」


 虚ろな目をして、エディは口を利かず、右手を差し出すこともついになかった。物憂げな表情でヘレンが右手を引っ込めた横で、静かに焚き火は消えた。


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