叙段 落ちる
エディはゆっくりとロードを歩かせていく。道があまり広くないのと、人が馬のことなどお構いなしに道を行き来するので、ロードの巨躯を自由に動かすには不安があったからだ。エディはなるべく前だけを見て、街並みは見ないようにしていた。意志と関わらず甦る悪夢に馬上で襲われては、あの意地悪だった行商人の二の舞ともなりかねないと思ったからだ。ロードは粗食にも耐えてくれるし、今まで興奮しても嘶くくらいしかしなかったが、騎手が倒れたらいよいよどうなるかわからない。エディは慎重になっていた。
湖の方から風が吹いてきて、ヘレンのゆったりしたシルエットを揺らし、同時に何気ない会話をエディに届ける。
「叔父さん! 魚釣り行こう!」
「そうか。よしよし」
『叔父』。今までは聞いたところでどうと思うことのない単語だった。しかし、遊離させていたはずの記憶が蘇りつつある今、その単語はエディの心に無条件の暴力を加える単語と成り果てていた。
「叔父、さん? 叔父さん……」
エディはうわ言のように繰り返す。ヘレンはエディの様子が再び悪くなったのに気がついた。エディの感情は強く、ヘレンは身を貫かれるかのようだ。怖い。ただその一心が、エディの体を通じてヘレンに伝わる。
「エディ? どうしたの?」
一度身を震わせたかと思うと、エディはいきなりロードの両腹を蹴った。『全速前進』の合図だ。今まで『歩行』の合図を受けていたロードも戸惑ったし、それを目の当たりにしたヘレンも絶句した。小さく鳴いたロードの腹を、エディはもう一度強く蹴る。
「ロード! 早くここから離れてよ! 僕を何も無い場所に連れて行って!」
上ずった叫び声は、まるで幼い子どものようだった。ロードも諦め、大きく嘶きながら軽く前肢を持ち上げ反動をつける。もうエディもロードも御することは出来ない。とっさに判断したヘレンは、道を行く人々に向かって呼びかけた。
「道から離れて! この馬に轢かれたらただじゃ済みません!」
言い終わると同時に、ロードは強く地面を蹴り立った。今まで見たこともないほど大きな白馬にどよめき、人々が慌てて道を避けていく中を、馬は自分の出せる最大限の速度で駆けていく。地響きのような足音を立てながら大通りを出て、そのまま町の外へと抜けだした。エディはうつむいてすすり泣きながら、判然としない調子で繰り返していた。
「怖い。嫌だ……僕もだ。僕も叔父さんに殺される」
ヘレンは耳を疑った。また、なおもエディの恐怖は膨れ上がり続けている。ヘレンはエディに身を預け、耳元で尋ねた。
「ねえ。一体どうしたの? エディの叔父さんなんて――」
その時、突然ヘレンの脳裏に影絵のような光景が飛び込んできた。
痩せて小さな人影と、もう二つ、その人影に向かい合うように立つ影。男性と女性のもの。脇で見つめるような形になっていたヘレンは、息を潜めながらそう思った。男は旅嚢――ヘレンはエディが持っていた旅嚢だと気づいた――を投げつける。女は何かが詰まった巾着袋を放り投げる。小さな影は次々にそれを受け取ると、一歩退きながら旅嚢と巾着袋を見つめ、もう一度二人の影を見つめた。何事か話しているようだが、急に男がテーブルを叩くと、震え上がった影は急いで二階ヘ走っていった――
エディの息がにわかに荒くなる。心の中で警鐘が激しく鳴り始め、ヘレンは無意識のうちに鳥肌が立った。このままエディが倒れたら、危ないなどという言葉では済まない。すでに街からは遠く離れ、目の前に広がっているのはまばらに低い木が生えた、地の色が目立つ草原だった。ヘレンはエディを強く抱きしめ、必死に訴えた。
「エド、止めて! エド!」
「嫌だ! 嫌だ、“いや”だ!」
幼い頃の記憶に囚われたエディの意識は退行し、かつて知らなかったヘレンの声は届かない。むしろ、『あの時』は知らなかった人間に強く抱きしめられたことに嫌悪感を示したエディは、ヘレンのことを振り払った。
「あっ」
ヘレンは無理やり横に押され、最早立て直すことが出来ないほど平衡を失ってしまう。諦めたヘレンは目を閉じた。下手に落とされるよりは、自分から落ちた方が怪我は少ないだろう。ヘレンはそう信じ、鐙から足を離した。そのまま頭を庇いながら背中を丸め、肺がぺしゃんこになるほど息を強く吐きつつ背中から落ちた。その衝撃は凄まじく、華奢なヘレンの肩や背中を傷めつけ、服も破いた。そのまま慣性に引きずられ、ヘレンは地面を引き回される。頭だけは守り、ヘレンは体を引きちぎられそうな痛みに耐えた。
十五ヤードは転がされて、ようやく止まった。遠くでは、ヘレンの異変に気がついたロードがようやく足を止め、こちらに振り向いていた。関節が軋み、筋肉が痛む。それでも、ヘレンは歯を食いしばって立ち上がった。
「イタタ……」
軽い打撲はあるものの、服は右肩から背中にかけて大きく破けてしまったものの、大した怪我もなかった。痛みにさえ耐えれば、どこもしっかりと動いた。気を失ったエディを連れ、ロードは黙って歩いてきた。肩で息をしながら、ヘレンはロードの首筋を撫でる。
「ありがとう、ロード……でも、私も疲れちゃった……もう少し道から離れて、休もうか」
しかし、どっぷりと疲れてしまったヘレンは、道から数歩離れただけで倒れてしまった。僅かに保たれている意識の中で、ヘレンは必死に這って行こうとする。
「ダメ……どんな人が通るかわからないから、道端で倒れちゃいけないのに……」
「エディ! ヘレン!」
助け舟はやってきた。精悍な馬に跨り、陽光を背にしてイーサがそこにいた。ヘレンは一度笑ったきり、その場で仰向けになってしまった。気絶しているエディ、疲労困憊しているヘレンを交互に見て、イーサは慌てて二人のところまで馬を駆った。飛び降りざまに、イーサはヘレンの側に膝まずく。
「ヘレン、一体どうしたんだよ?」
ヘレンは嬉しそうに微笑み、蚊の鳴くような声を発する。
「良かった。イーサ、肩を貸して。私をもっと道から離れた……あの木のところまで連れて行って」
遠くに生えたほんの少し高い木を見遣った後、イーサはすぐに頷きかけたが、思いとどまって首を振る。
「ダメだ。女性にベタベタ触るなんて、出来るかよ」
イーサがそう言う事はヘレンも薄々勘づいていた。口元を引き伸ばし、茶目っ気にあふれた笑みを浮かべる。
「イスラムの男の人って、みんなそう言うんだね。でも……守られるべき女の子をこんなところに放っておくほうがダメだと思うけど?」
ヘレンはそう言いながら手をイーサの方へと伸ばす。彼は舌打ちをしたが、その手を力強く掴んで引き上げた。
「仕方ねえな。あの木までだぞ?」
「うん。助かるよ」
何とか立たせてもらったヘレンは、おぼつかない足取りで歩いた。ともすれば薄れていく意識の中でも、ヘレンは無意識にエディの肩と比べた。二人とも逞しいが、イーサはエディよりもやはり無骨で粗野だった。ふとヘレンは訝しんだ。どうして自分はエディの肩と比べたりなどしたのだろう。何を思っていたのだろうか。
考えているうちに、木陰に辿りついていた。お礼もそこそこに倒れこむと、ヘレンはそのまま泥のように眠ってしまった。
「……さっきから、お前は何なんだよ」
イーサは顔を逸らし、横目でちらちらとヘレンの姿を見る。煌々と光る火の下で黒服を縫っている彼女の服装は、長袖のシャツに若草色のスカートだ。髪の毛も隠していない。黒い服の時は隠れていた体の線を顕わにし、女性らしさを漂わせているヘレンの姿。イーサはまともに見ることが出来なかった。ヘレンは手際よく縫い物を進めながらくすくす笑う。
「イーサって、照れ屋さんなのね」
「……うるせえやい。せめて髪の毛くらい隠してくれよ。そこに手頃な布があるだろ」
イーサの目には、何よりわずかに波のかかった栗色の髪が魅惑的に映っていた。最近ヘレンも伸ばし気味だったため、夜風に合わせて肩にかかる髪が揺れている。再びくすくす笑いを始めると、ヘレンは空色の布を取って手際よく頭に巻いた。
「これでいいの?」
「ああ。悪いな」
ヘレンは会釈で答え、そのまま縫い物を再開した。イーサはその手際のよい手さばきを見つめる。ヘレンが服屋を開きたいと言った理由もわかる腕前だった。そんな彼女は手を動かす間にもエディの様子を窺うことを忘れない。健気。イーサにはそれ以外にヘレンを形容する言葉が見つからなかった。
「すごいよな。ヘレンも」
「どういう事?」
イーサはゆっくり人差し指を伸ばし、ヘレンが縫っている黒服を指差した。
「こいつに馬から落とされたんだろ? 俺だったら、その時点でこいつの事は見捨てるけどな」
ヘレンはエディの横顔を見つめた。確かに、イーサからすれば、妹に迷惑ばかりかけているばかりか、ついには殺しかけたろくでなしに映っているのかもしれない。だが、ヘレンの感謝は一回ロードから落とされたくらいで消えはしなかった。忘れなかった。いつでも自分のことを気にかけてくれたエディと、一緒に歩んできた日々は。
「私ね、親を亡くしちゃってから、ずっとエディに支えてもらってきたの。今こうしてイーサと普通にお話できてるのも、前向きに生きていこうと思えるのも、みんなエディのお陰。そうじゃなかったら……私は意地悪な男の子たちにいじめられて男性不信になってたし、もしかしたら私、父さんや母さんの後を追ってたかも」
エディの悲しそうな表情を見つめ、ヘレンはゆっくりと続けた。
「だから、私は恩返しするだけ。今までエディが支えてくれたんだもの。今度は私が支えてあげる。それだけ」
イーサが見たヘレンの眼差しは、とても妹が兄に向ける眼差しとは思えなかった。鼻を鳴らしながら、イーサは腕組みしつつヘレンの横顔を見つめる。
「なあ、お前たち、本当は兄妹なんかじゃないんだろ」
「えっ? ど、どうしてそう思うの?」
イーサは口元をこれでもかと引き上げ、最高の笑みを作った。
「だって、ヘレンの目がそう言ってるぜ。『私はこの人が好きだ』って」
ヘレンは目を丸くした。彼女の頬が赤いのは、最早火に照らされているからというだけではなかった。頬を一気に膨らませ、ヘレンはふいと顔を背けた。
「やめてよ。いきなりそんな事言わないで」
「否定しないんだな。おいおい」
「やめてってば……」
すっかり照れて赤くなっているヘレンの様子を見つめながら、イーサは従妹の姿を思い浮かべていた。十三になった彼女は、ようやく子供らしさが抜けてきた。後二年もすれば、目の前にいる少女のように、美しさの方が先に立ってくるのだろうか。
気付かないうちに、イーサはヘレンの顔をじっと見つめていた。本人より先にヘレンが気付き、ヘレンはむっとした表情で見つめてくる。
「どうしたの? 私の顔、まだ赤い?」
「え? あ、いや……ごめん。見つめちまって」
「気にしないってば。それより、どうかしたの?」
ズフラが成長したらこんな感じになるかもしれない。イーサは心で呟きながら、ヘレンから顔を逸らし、代わりに夜空を見上げる。満月だった。
「いや、俺には許嫁がいるからさ。ちょっと考えてたんだ」
「許嫁? どんな女の子なの?」
親たちが取り決めた結婚相手とは言え、イーサも従妹であるヌールのことが好きだった。そんな女の子の事を話すのは、やはり気恥ずかしくなってくる。頭を掻きながらイーサは口ごもる。
「かわいいよ。守ってやりたくなる、そんな感じの女の子さ」
「へえ。私も会ってみたかったなあ」
イーサは肩をすくめたまま、晴れた夜空を見上げた。
「だから……俺はしっかり稼いで、ちゃんと養えるようになりたいんだ。汚い話だけど、将軍になれば前線には出なくて済むようになる。そりゃあ、鼓舞が必要なときはあるかもしれないけどさ」
イーサが将軍になりたいのは、これだけが理由ではなかった。一瞬目を閉じて、イーサは一気に言い切った。
「それに、将軍になれば、無駄な戦いを止めさせられるかもしれない。だから俺は将軍になりたいんだ」
イーサの瞳は希望に満ち溢れていた。相槌を打ちながら聞いていたヘレンは、いきなりイーサの手を取った。
「頑張ってね。私も応援するよ」
「おい、ちょ、ちょっと! あんまり触らないでくれよ! ……照れるだろ」
とことん照れ屋なイーサに、ヘレンは困ったような笑顔を浮かべた。
「ヨーロッパじゃ普通よ? イスラムの人って、とても男女関係に慎重なんだねぇ」
「ヨーロッパじゃ普通でも、オスマンでは普通じゃないの。夢を応援してくれるのはいいから、もう少し俺を慎重に扱ってくれよ」
「はいはい」
ヘレンが愉しげに笑い声を上げたとき、急にエディが動き始めた。ヘレンははっと笑顔を打ち消し、エディの側にすり寄った。
「エディ、大丈夫?」
ヘレンの質問には答えず、エディはうわ言のように呟いた。
「全部思い出した。……僕の夢も。母さんだけじゃなくて、無抵抗だった父さんまで殺された本当の理由も。宗教の争いにだって巻き込まれた。母さんは確かにそのせいで死んだ。けど……父さんは違ったんだ……」