表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
我が神を求め  作者: 影絵企鵝
十一章 夢の在処は何処
43/77

鋪段 揺れ動く心

「エディ……」


 ヘレンはエディの隣でその手を握りしめる。倒れた後、エディはイーサの家に運び込まれ、再びベッドに寝かされたのだ。  いつも隣にいて、自分のことを支え続けてくれたエディが、今はとても脆く、儚い存在に見えた。ヘレンは、最後に見せた彼の表情を忘れることが出来ないでいた。絶望し、そして救いを必死に求めていた表情を。その瞳は特に、自分がかつて鏡を通して見つめた瞳と全く同じだった。


「エディ、今度は私が支えてあげるから、心配しないでね……」


 筋肉が緩んだのか、表情自体は昨日より穏やかなものになっていた。それでも返事は返ってこない。心配で胸が詰まり、ヘレンは小さく溜め息をついた。

 その時背後でドアが開き、イーサが足音を忍ばせながら現れた。彼が真剣に足元をそろそろ動かしているのを見て、ヘレンは思わず苦笑する。


「別に気にしなくたって、エディは目を覚まさないよ。それに、覚めてくれた方が嬉しいし」

「あ。それもそうか」


 一瞬足を止めたかと思うと、イーサは一足飛びにエディのそば、ヘレンの隣までやってきた。そんな様子に、ヘレンはさらに苦笑いする。


「ちょっと極端じゃない?」

「これが俺なんだよ」


 二人で一瞬笑いあうと、そのまま真顔に返ってエディの方に目を下ろす。顔を付き合わせたままで深刻な話は出来なかった。


「あの御者さん、どうなったの?」


 ヘレンの質問を聞き、イーサはそっと目を伏せた。少し考えただけでも恐ろしい姿だった。至るところに内出血が起き、特に太ももが二倍近くも膨れ上がっていたのだ。


「話を聞くと、相当凄まじい事故だったみたいだ。急に左前の車輪が外れて、その異変に慌てた馬が慌てて走りだしたらしい。その拍子にもう一つの前輪が潰れたんだ。……相当速度が出てたから、その馬車は御者を巻き込んだまま馬にぶつかったんだって。そのせいで一方の馬はあのざま。御者も……結局出血がひどすぎて助からなかった」

「そう……」


 はっきりとその顔は見なかったものの、ただ動かしていただけで壊れてしまうような馬車には心当たりがあった。こんな結末になってしまうのだったら、多少大金を叩いても水筒を買ってやった方が良かったのかもしれない。ヘレンはちらりとそんな事を考えた。至極残念そうな目をしているヘレンを横目で見つめ、イーサは首を傾げる。


「どうした?」


 一瞬イーサの方を向き、そうしてまた目を落とした。


「ううん。最後の商売くらい、上手く行ったかなあ。なんて思って」


 イーサがうつむいている彼女の言葉に返せたのは、溜め息ぐらいだった。交わす言葉もなくなり、二人はただただ黙りこくってしまう。頬をなでる風も乾ききっていた。息が詰まってしまいそうなほど重たい空気に包まれ始めたとき、エディが急に顔をしかめた。


「エディ?」


 ヘレンはエディに身を寄せる。息をすることも半分忘れ、ヘレンは必死にエディの顔色を見守った。一瞬唸ったかと思うと、彼はゆっくりと目を開き始めた。そのまま、焦点の定まらない瞳でエディはヘレンと視線を合わせる。


「ヘ、ヘレン? 僕は……どうして寝てるんだ?」

「覚えてないの? 昨日エドは道端で倒れたんだよ? すごく苦しそうな表情をして。私、一瞬エドの心臓が止まったのかと思っちゃったくらいに!」


 ひとまず目覚めた安堵と、それでも募る心配が入り混じり、ヘレンは舌でも噛みやしないかというほど早口にまくし立てた。エディは何とか起き上がり、肩で息をしているヘレンの目を見つめた。丸い目をさらに大きく見開き、じっとこちらを凝視している。その目からは、痛いほどヘレンの心配が伝わってきた。


「ごめん。最近変だよね。僕もわかってるよ。わかってるんだ」


 その時、エディは風を感じ、無意識に風が吹いてくる方角に目を向けた。そこには、先日見たときと変わらぬ湖の景色があった。陽の光を照り返す水面は、いつ見てもやはり美しい。

 だがしかし、その美しさこそが、エディを苦しめていたのだ。『絵』を想起させる風景を見た途端、再び忌々しい記憶がエディの頭を占め始める。目から生気は失われた。早くなってくる鼓動を抑えようと、無意識に手が胸元を押さえる。脳裏に殺されていく父の姿が蘇ってくる。それでも、エディは努めて冷静でいようとした。


「エド。どうしちゃったの?」


 ヘレンは目を赤くしながらエディの異変を見つめる。歯を食いしばり、その隙間から息を漏らす様子は痛々しいものだった。


「だめだ……ヘレンには心配かけないって、そう思うのに……」


 そう思うエディの心をよそに、呼吸は浅く速くなっていく。最早抑えは利かず、目眩まで始まった。

 みるみるうちに青くなっていくその顔を見て、ヘレンはついに耐えられなくなった。一瞬体を震わせ、そのままエディを抱きしめた。


「ねえ! 気をしっかり持ってよ! エド、元に戻って。元に戻って!」


 ヘレンがきつく抱きしめたお陰か、エディは瞬間息が詰まった。そこに出来た空白の中へ、ヘレンの温もりが入り込む。それが彼の心臓の動きを緩め、徐々に呼吸も静かになっていった。エディを思う心は、何とか彼の喪失を阻んだのだ。

 発作が収まり、茫然としていたエディだったが、急にヘレンを引き剥がすと、その肩を掴んで自分の前に引き出した。


「ヘレン! さっさとこの街から僕を出して! ……じゃないと、僕は頭がおかしくなりそうなんだ! ヘレン、僕を助けてくれ!」


 エディの絶望、困惑、そして幼さが宿った瞳をまざまざと見せつけられたヘレン。静かに決心すると、エディの手を肩から外した。その頬に、誰にも見えない涙が伝う。


「そうね。そうしなきゃだめかも」


 声が震えてしまわないよう、ヘレンは大きく息を吸い込んだ。それでも胸がつまり、声は絞り出すようにしか出てこない。


「イーサ。もし良かったら、厩舎からロードを連れてきてくれないかな。私は、イーサの家族のみんなにお別れを言わなきゃならないから……」

「ああ。わかった」


 イーサはベッドに倒れ込んだエディの虚ろな表情を一瞥し、思い詰めた顔でその場を後にした。ヘレンも静かに立ち上がると、その後を追うようにして居間へと赴いた。

 軋む扉を押し開き、顔を上げる。そこには、神妙な顔をしたイーサの家族がいた。ファティマは俯きがちのまま、そっとヘレンの方へと一歩歩み寄る。


「全て聞いていました。大変なことになってしまったみたいですね。あなたのお兄様は」


 ヘレンは控えめに頷く。ヘレンも医者ではないし、エディがどのような状況に置かれているかはわからない。だが、不安定な精神状態が体に危険な影響を及ぼすほどなのだ。一年ほど前の自分より余程ひどいという事はわかっていた。伏し目がちなヘレンを見て、無口だったイーサの弟アリーが口を開いた。


「あんなにすぐ倒れちゃうのに、旅なんか続けられる? 大丈夫?」

「わからない。でも、後に引くにも引けない。……だから、行くしかない。大丈夫。私が頑張って支えるから。エディは、私の事を隣で支え続けてくれたんだもの」


 イーサと違って、垂れ目気味で気弱そうな顔をしたアリーは、決意の固いヘレンに向かってこれ以上何かを言うことが出来なかった。代わりに、優しく微笑みながらムーザが何かを差し出す。空色の、とても長い布だった。ヘレンはムーザの意図するところがわからず、小さく首を傾げた。


「これは?」


 ムーザは静かに頷いた。


「二十年前、私がファティマと共に巡礼へ向かった際に、一人の若い行商人と出会ったのです。その行商人と私は気が合って、好意でこの布を貰ったのですよ。彼の話によると、寝ているといきなりこの布が降ってきたというのです。これが不思議なもので、私はターバン代わりに頭に巻いたり、ファティマは首に巻いたりしたのですが、これを身につけていると涼しくなるんです。この暑い地域を旅するのに、とても素晴らしい物だと思いませんか?」


 ヘレンは絹のように滑らかな肌触りの布を受け取り、恭しく頭を下げた。少しの間止まっていた涙が、再び蘇ってくる。


「ありがとうございます。本当は一宿一飯の恩義を果たしたいのですが、どうにもそういう訳には行かないようです……」

「お姉ちゃん、どうして泣いてるの?」


 ズフラが歩み寄ってきて、ヘレンの腰元を何度か叩いた。ヘレンはしゃがみ込み、ズフラと視線の高さを同じにする。彼女の純真無垢な表情を見つめていると、ヘレンはやはり感情を抑えきることが出来なかった。しゃくりあげながら、ヘレンはズフラをきつく抱き寄せた。


「私はどうしたらいいのかな? あのまま、何事も無く旅が続いてくれると思ってた。私はエドの事を支える、支えるって思ってたのに。結局エドを助けることなんか出来てない。私は無力なんだ」


 力が抜け、ヘレンは床に手をつき、下を見つめて溜めてきた不安を吐き出してしまった。


「私、エドのことをよく知ろうとしてなかった! トニオさんの絵を見たとき、どこか変だった! そう。どこか変なことくらいもうとっくにわかってたのに、私はただ見守ろうとしてた。そんな、ここまでひどい状態になるなんて思ってなかった……」


 ヘレンは小さな拳を振り上げ、思い切り床に叩きつける。


「ごめんね! エド、ごめんね!」


 その時、むせび泣くヘレンの背中を、温かい手が叩いた。振り向くと、そこには微笑みを浮かべたエディが立っていた。すでに旅立つ準備を終え、どこか悲壮な雰囲気も湛えて立っていた。


「謝る必要なんかないよ。ヘレンは悪くない。それに、僕のために特別何かしてくれようともしなくていいんだ。君が笑顔でいてくれるだけで、僕はそれを励みにできるから」


 ヘレンは唇を噛み締めた。どれだけ心がボロボロになっても変わらない優しさを受けることが、ヘレンにはむしろ辛かった。すすり泣きながら、ヘレンは小さく呟く。


「それだけでいいの?」

「うん。それだけで、僕はずっと頑張れるさ」


 その時、静かに玄関先の扉が開く。光を背にしたイーサが、そこに整然と立っていた。その背後では、ロードが天を仰ぎ、高らかに嘶いた。


「連れてきてやったぜ。もう行くんだろ」


 エディは無言で頷くと、イーサ達家族を見回した。


「ご迷惑おかけしました。僕も、まさか二回も倒れちゃうとは思わなくて……」

「気にしないことです。私達も迷惑などとは思っていませんから」


 ムーザがそう言うと、エディは姿勢を正し、静かに頭を下げた。


「ありがとうございました。それでは、ご達者でいてください」


 エディは泣き止んだヘレンを連れ、ロードに荷物を括りつけ始める。イーサはそれを黙って見守っていた。エディは慣れた手つきで、一分もしないうちにその作業を終えてしまう。そして、ヘレンと共に自分の背丈ほどもある白馬に素早く跨った。


「イーサ。頑張って将軍になれよ。僕も、僕の本当の夢を探してみるから」

「……ああ」


 エディの笑顔は、初めて出会った時とはどこもかしこも違った。大人びた雰囲気と幼い雰囲気が混在し、元々捉えがたい雰囲気だったエディを、さらに霧のような存在にしてしまっていた。だが、イーサはおぼろげながらもエディが持っていた危なっかしい雰囲気だけは捉えていた。それが、イーサの心を捕らえて離さない。エディ達は馬に乗って離れていくが、イーサはその姿から目を離すことがどうしても出来なかった。


「お兄ちゃん。どうしたの?」

「ん? いや、ズフラ、ちょっとな」


 それが、自分はまだやるべきことがあるに違いないという使命感にも似た確信へと移り変わるまでに、さして時間はかからなかった。一人頷くと、父と母の方に振り返る。


「父さん、母さん。俺、ちょっとあの二人が心配だから追いかけてみる」

「ん? どうして心配なんだい?」


 父の質問を静かに聞き、イーサは高い空を仰いだ。


「勘でしかないけど……またエディはすぐに倒れると思う。俺にはまだ、やるべきことが残ってる気がするんだ。頼むよ父さん。俺に二人のことを追いかけさせてくれ」


 ムーザも、イーサの強い視線を見て頷いた。


「将軍になりたいなら、自分のことは自分で決めなさい」

「わかった。ありがとう」


 イーサはもう一度エディが去っていった方角を見据えると、馬を借りに厩舎へとひた走った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ