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我が神を求め  作者: 影絵企鵝
十一章 夢の在処は何処
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承段 甦る悪夢

 オックスフォード大学。その屋上に座り込んでいる父。幼いエディは、その背後で大きな声を上げる。当然父は驚き、そして振り向いた。こんなところで何をしてるんだと、父はエディの髪をくしゃくしゃにした。エディはにやにやしながら、父が向かっていた画板、そして茶けた紙を指差す。エディは知っていたのだ。この場所にいるときの父は、大抵仕事なんかしていないということに。

 また絵を描いてるの。エディがそう尋ねると、父は自分の髪をくしゃくしゃにしながら頷いた。そして、エディに自分が描いていたオックスフォードの町並みを見せる。まだ鉛筆で輪郭が描かれていただけだったが、それでも十分輝いて見えた。


 そんなやり取りを、青少年エディはぼんやりと見つめていた。久しく思い出すことのなかった、父とのやりとりの断片。絵を指差しながら、幼い自分が何事か喋っているが、頭の中に響く自分の名前がそれを打ち消す。耳ざわりの良い、尖りのない声が自分のことを呼んでいる。エディは目の前の光景から目を逸らし、そっと目をつぶった。



「エディ!」


 目覚めると、エディは木の土台にむしろを敷いただけの、簡素なベッドの上に寝かされていた。隣では、その手を握ったヘレンがエディの顔色を窺っている。エディがおもむろに身を起こすと同時に、ヘレンは心配そうに目を瞬かせ、矢継ぎ早に質問をぶつけ始めた。


「大丈夫? 平気? 一体どうしたの?」


 エディは何度も頷いた。どこの具合もおかしくなければ、意識も覚醒している。ただ、最後の質問にはエディも答えが見つからなかった。ただ夢について思いを巡らせただけにも関わらず、自分は目を回し、倒れてしまった。一体どうしたの、とは自分が自分で聞きたいくらいで、答えられるはずもない。エディはうつむいたままで呟く。


「別に体は平気だけど……どうしたのかは俺にもよくわからないよ。とにかく、心配してくれてありがとう」


 エディはヘレンに向かって小さく微笑んでみせたものの、彼女は頬を一瞬ふくらませ、そのまま長い溜め息を付いた。


「そうだよ。心配したんだからね。丸一日寝てたんだよ? 一昨日の夜に倒れて、今日の朝にようやく起きたんだから」

「そんなに寝てたの、俺?」


 エディは素っ頓狂な声をあげてしまった。無理もない。確かに外は明るかったが、一日寝過ごしたという自覚は全く無く、夜に倒れて、次の朝に起きただけだと思っていたからだ。そんなエディの呆けた表情を見て、ヘレンは思わず二度目の溜め息をつく。目を覚ましたとはいえ、エディはまだまだ混乱しているようだ。そう決め付けると、ヘレンは静かに立ち上がる。


「今、居間でイーサ達が朝ごはんの準備をして待ってるから、私も手伝いに行くよ。こっちに来るのは、ちゃんと目が覚めてからでいいからね。無理しないで」


 それだけ言い残して、ヘレンはあっという間にエディを残して居間の方へと姿を消してしまった。エディはほんの少し寂しくなった。昔ならヘレン自身がエディから離れることが出来ず、その結果、エディが風邪を引いてしまったときなどは片時も離れずに看病してくれた。それが今ではこの通り、ひとまず峠を越えたと思えば、ヘレンは持ち前の友愛精神で泊めてくれた人を手伝い始める。引っ込み思案だった昔の彼女からすれば、大きすぎるくらいの進歩だ。エディにも、彼女の変化は概ね喜ばしいものとして映っていたが、何故だかこんな時、ひどく寂しい気分になってしまうのだった。


「ヘレン……もうちょっとくらい隣にいてくれたっていいじゃないか。それにしても……」


 取り残されたエディは、溜め息混じりに一言呟きながら考えてみる。イーサの夢は確固たるもののようだし、ヘレンもいつの間にか将来に目標を見出していた。夢を語ったイーサとヘレンの目はどちらも真っ直ぐで、ランプの光を受け輝いていた。夢を見出せない自分は、同じような目をしていただろうか。そう思うと、またもヘレンに置いてけぼりを食らったような気分になってきた。彼女に罪は全くないが、それでもやはり寂しいのには違いなかった。


 エディはかぶりを振ってベッドを降りる。そして、四角く小さな窓を見た。中には湖の姿があって、まるで絵として湖を切り取ったかのようだった。風にあわせて小さな波が立つ湖は、のどかな雰囲気に包まれている。エディは取り憑かれたようにそれを凝視した。同時に鼓動が浅く早くなってくるのを感じる。呼吸も同じだ。トニオの家でヘレンが感じたエディの異変。最早エディ自身でも実感せずにはいられなかった。自分の胸元を見つめながら、エディは一人、小さな声を絞り出す。


「どうして……ただきれいな景色を見ているだけのはずなのに。僕は――」


 遮って、エディの背後から馬のつんざくような(いなな)きが聞こえてきた。同時に何かが砕けるような音、人々の悲鳴。鈍い音までいくつか聞こえる。思わず振り返ったエディだが、生憎この部屋には通りに面する窓がない。深刻な事態を感じて、エディは居間に飛び込んだ。そこにいたイーサ達やヘレンも、雷に打たれたような表情で通りの方に目を向けていた。

 一分ほどして凄惨な音が収まると、イーサは気を取り戻してエディとヘレンの顔を交互に見つめた。


「エディ! ヘレン! 通りに行くぞ!」


 ヘレンは目を丸くした。持っていた皿をテーブルの上に置きつつも、彼女は心配そうに上ずった声を発する。


「ね、ねえ。一体何があったの?」

「多分事故だ! けが人を運んだり何なり、しなくちゃいけないだろ! 俺達若い人間が手伝わないと!」


 半ばイーサに引きずられるようにしながら、エディとヘレンは通りに出る。


「……ひどい」


 目の前に広がっていた光景を目の当たりにし、ヘレンは思わず息を呑んで立ち尽くした。隣の家の近くに、大きな車輪が倒れている。通りの真ん中に目を向ければ、見るも無残に馬車の残骸が散らばって、遠くには、あらぬ方向に首や足を曲げ、ところどころに“白いもの”がはみ出た馬の死骸も転がっていた。元は荷台の前半分、そして積荷と思しき部分に人々が集まり、必死の形相で叫んでいる。


「誰か! みんな手伝ってくれ! ここに御者が下敷きになってるんだ!」


 それを聞いたイーサは、途端に蒼白な表情となってヘレン達に目配せする。


「聞いたか? 俺達も手伝わないと!」

「う、うん!」


 イーサとヘレンは一直線に駆けていった。しかしエディは追いかけない。追いかけられなかったという方が正しい。彼は今ここにいる誰よりも青くなり、目の前が眩んでいくのを実感していた。腕や足の骨を折り、額などから血を流して倒れている数名、それを介抱する人々。それを見ているうちに蘇ってくるのは、おぞましい記憶の全てだった。



 あの時、八歳のエディはオックスフォード大学の屋上から絵を描いていた。同じようにして過ごしていた父の絵には敵うはずもなかったが、それでも一番の自信作を描き上げたと思ったエディは、両親にそれを見せようとして必死に駆け出したのだった。


 しかし、彼の希望は無残にも打ち砕かれた。その時大通りで繰り広げられていた血の惨劇。掴み合いや殴り合いなどという生やさしいものではなかった。数十人もの集まりが、各々に槌やナイフ、果てには包丁を持って暴れていた。誰かをよってたかって殴っている者もいれば、店を壊している者もいる。兵士があの手この手で止めにかかっていたが、元々カトリック側の人間だ。理不尽な暴力に反抗しているだけのカトリック達はまだしも、先の弾圧事件に堪忍袋の緒が切れ、暴徒化したプロテスタント達を止めることは至難の業だった。


 凍りついたように立ち尽くし、その有様を恐怖の眼差しで見つめていたエディだが、さらに彼を絶望へと突き落とす光景が目に飛び込んできた。


 惨劇の中にエディの両親がいた。父は膝まずき、母を胸に抱いてさめざめと泣いている。その母は、口元から血を流し、うつろな目をしていた。白地の服は真紅に染め抜かれ、腕は人形のように垂れ下がっていた。あまりに大きな衝撃を伴う光景に、エディは何が起きたかさえ飲み込めないうちに、さらに恐ろしいことが起きる。一人の男が背後から近づいたかと思うと、建築用と思しき大きな槌を、父の頭に向かって何の迷いもなく振り下ろしたのだ。


「引っ込んでろプロテスタントども! これ以上暴れるなら、みんなこんなにしてやる!」


 夫婦の悲惨な死、そして憤怒の表情を浮かべている一人の男を交互に見たプロテスタント達は、一気に血が冷えた。悲鳴を上げながら、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく。その逃げ足は速く、兵士達が捉えるのも至難だった。


 その時、一人の兵士は立ち尽くしている少年の事に気が付いた。彼の周りが安全か確かめながら、兵士は素早く駆け寄った。


「どうしてこんなところにいたんだい? 危ないじゃないか!」


 絵は静かにエディの手元から離れていく。茫然自失としていたエディには、兵士の呼び掛けに応える力などなかった――



 読書に耽り、奔流のように知識を取り込むことで押し流してきた記憶。『両親が殺された』という、ただ一つの残滓のみを残したとばかり思っていた。しかし、自分の命運を変えた出来事をさっぱり忘れられるはずなどなかったのだ。

 全身血まみれで助け出されていく一人の男を見た瞬間、エディは自分の血管全てが縮み上がるような錯覚を覚えた。血の気を失い、脂汗を流しながら、胸に爪を立てる。


「父さん、母さん……」


 

 ヘレンは急に背筋が冷えてくる感覚を覚えた。イーサ達が御者を助け出す光景から目を逸らし、ヘレンはエディがいる方角に振り向く。


「エディ!」


 目から光を失ったエディは、がっくりと膝をつき、そのままうつ伏せに倒れていく。状況を理解できなかったヘレンの目には、それがひどく緩慢な動作として映る。しばし呆然と眺めていた彼女だったが、エディが全く倒れこんでしまったのを見てようやく我に返る。彼の表情を見る限り、先日を遙かに上回る深刻な事態だった。心配と不安に、ヘレンは思わず声を詰まらせる。


「エ、エド?」


 恐る恐る近寄り、ヘレンはエディの側にひざまずく。彼を仰向けに直してみると、その目は固く結ばれていて、恐怖から目を背けようとしていた様子がありありと映し出されていた。冷や汗が一筋伝うが、彼女は何とか気を保ってそのままエディを揺すぶり始める。だがしかし、彼は一向に目を覚まさない。焦ったヘレンは、固まってしまった喉を必死に震わせた。


「エド? ねえ、エド!」


 イーサもエディの側に駆け寄ってきた。エディののっぴきならない状況を肌で感じ、イーサは首を小刻みに振る。そして、これではいけないと思い直した彼は、息を吸い込みエディの頬を軽く叩き始めた。


「おい! おい、どうしたんだよ! 目を覚ませって!」


 二人の呼びかけもむなしく、エディは甦る記憶に囚われ、記憶と共に封じ込めてきた感情に絡め取られて沈んでいった。


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