起段 夢は何処
Eventful Item
ハムサ
Money
百三十シリング
「こんな値段、反則ですよ! 水筒なんてそこらに行けばもっと安いじゃないですか!」
「これ以上はまけられないな。こっちだって大変なんだよ」
エディは一人の行商と口論を繰り広げていた。革製の水筒が破けてしまい、早いうちに新調しようとしたのだが、その行商は約二十シリングの法外な値段を吹っかけてきたのだ。粘り強く相手の信頼を勝ち取り、気分良く交渉を終わらせるのが普段のエディだった。しかし、相手も強情で、さらには生活もかかっているのでエディも必死になってしまう。
「でも、でも! こっちじゃ船賃だってもっと安いくらいですよ!」
「だめだ。だめ。近くにヴァンの街があるんだから、そこで買えばいいだろう? 俺も忙しいんだ。その街の屋敷に行かないとならんからな」
そう言ってエディを馬車の側から追い払うと、行商は二頭の馬にムチを入れた。ひどく軋んだ音を立てて、平坦な道にも関わらず、その馬車はがたごとと音を立てながら去ってしまった。エディはいらつきに任せ、小石を馬車に向かって蹴った。
「あのおんぼろ馬車。俺達の足元を見て……」
「もういいってば。しばらくは私の分を分けてあげるよ?」
ヘレンはそう言いながら、ロードの上から自分の水筒を投げ渡す。エディは一瞬手元の水筒を見つめた後、それを軽く振ってみせた。
「いいの?」
とは言いつつ、答えも聞かずにエディは水を飲み始めた。しかし、そんな事も気にならないほどヘレンは違うことが気にかかっていた。
「うん。それよりも……あっちから何か聞こえない?」
「え? ああ。そんな気がするかも」
耳を澄ませば、確かに乾いた音が三十秒ほどの間隔で聞こえてくる。軽くなった水筒を返すと、エディはロードの手綱を引いて、ヘレンが指差す方向へと近づいていった。柵で囲われた荒野の中に立つ、百人単位の赤い服を着た人々、あまりに距離が遠くて細かいところはよく確認できないものの、彼らが棒状の何かを持っていることは確認できた。そして、何やら丸い板と対面している。目を細めながらヘレンは呟く。
「何してるんだろ?」
二人並んで見ていると、遠くからラッパの音が飛んできた。同時に十人が一歩前に進み出て、棒を水平に構える。そこでエディはピンと来た。何度か頷きながら、炸裂音を聞きそして煙を感じる。
「銃の訓練だね。あの的を狙いましょう、ってところかな」
「じゃあ、あれは兵隊さん達か……兵隊さん達……」
ヘレンの脳裏には、やはりレイリーの姿が甦る。臆病風に吹かれて弱虫を自認していたが、彼は故郷を守る使命を果たそうと、勇気を奮って戦地へ舞い戻った彼。彼も今、必死に戦っているのかもしれない。そして、今目の前で訓練している兵隊とは敵同士。それを思うと、目の前の兵隊が訓練を頑張っていることを一概には感心できなかった。一瞬足元を見つめ、そっとエディの肩をつつく。エディも静かに目を閉じた。
「ああ。もしかしたら、この兵隊とレイリーさんが戦うことになるかもしれない。そう思うと、見る気が失せちゃう……」
半ば口ごもるように話し終えると、その光景から目を逸らしてエディはロードを駆ろうとする。しかし、急にヘレンがその動きを制した。その視線は一人に注がれている。
「待ってエディ。あの人……すごく強いやる気を感じる……」
エディは目を丸くして背後を振り返る。もう、ヘレンのことが不思議で仕方がない。自分は感じることの出来ない何かを、いつも彼女は感じ取っている。今に至っては、最早『勘』という言葉で片付けることさえエディには出来なかった。しかも、間違えたことがあるとは思えない。今回もそうだった。幾つも弾が打ち込まれて、脆くなっていたのであろう。遠目に見える小さな的は、ヘレンが指差した人物の弾丸によって、木っ端微塵に砕け散った。
「へえ……すごいな」
エディが呟く横で、ヘレンは指差した兵士のことを注視する。一瞬、その兵士がこちらを向いた気がした。
ベイルートの街を離れたエディ達は、一路北へとロードを駆った。馬であるロードを引き連れて旅を続けるには、どうしてもシルクロード『オアシスの道』を通らなくてはならないからだ。その為に、エディ達はベイルートから沿岸を辿って北へと向かい、ガジアンテブの辺りから東へ向かう。近くに湖がある街シャンルウルファを通り、のべ一ヶ月をかけて巨大な湖の岸辺、ヴァンの街に辿りついたのだった。
「イスラムの街って、なんだかほっとするかも」
ロードから降り、厩舎を探して緑が目立つ風景を歩いていると、ヘレンは急にそんなことを言った。日干しレンガで出来た素朴で小さな家が並んでおり、男性達や女性達がそれぞれ方々で談笑している。そんな光景を見ていると、エディも何やら同じような気分になってくる。
「そうかもね。ヨーロッパより、こっちの方が、時間がゆっくり流れてるような感じがするよ」
見れば、誰もが大手を振って、街をのんびり歩いている。強い風もほとんどなく、草の表面を撫でるような優しい風が常に吹いている。エディはそっと微笑んだ。
「オスマン帝国はヨーロッパの脅威だって習ったけど、実際に来てみたら、恐ろしいところじゃなかったね」
「うん。ここも変わらないね。いい人はいい人。そこに宗教なんか関係ないんだなあって、最近わかるよ」
口の端をうっすらと持ち上げながら、二人は見つめて頷きあった。そんな時、背後からいきなり声がする。
「お前ら、さっき俺達の訓練見てただろ」
「うわぁ!」
二人は飛び上がって振り返る。ロードも鼻息を荒くした。そこに立っていたのは、頭にターバンを巻いた、釣り上がったきつい眼差しを持った少年だった。エディやヘレンとも年はほとんど変わらないように見える。白を基調とした敬虔なイスラム教徒の格好とは違い、赤い上着を羽織り青く幅のあるズボンを履いて、ついでに腹に白い布を巻いている。銃を杖のようにして、いかにも不機嫌そうな表情をしていた。
「ど、どうしてわかったんですか?」
エディの上ずった声を聞くと、少年は細身で長柄の銃を持ち上げ、握りの方をロードの鼻先に突きつけた。
「こんな白くてでっけえ馬を連れてるの、お前らくらいしかいないじゃないか」
二人はのろのろとロードの顔を見上げた。ロードは二人を見下ろして、小さな声でいななく。またも二人はのろのろと首を動かし、目の前の少年に再び目を合わせる。
「確かにその通りですね。……でも、どうしてそんなに不機嫌そうなんですか?」
少年は溜め息をついた。これ以上無いというほどに大きな溜め息をついた。肩を落として猫背になって、あごを突き出すような形でエディの目を見つめる。
「なんだよ。その調子じゃあ……間諜ってわけじゃなさそうだな」
今度はエディがむっとする番だった。間諜と疑われかけたのはカレーの港以来だが、本気で疑われたのはこれが初めてだ。
「当たり前でしょう? 僕たちはヨーロッパから来てるんですから!」
「ヨーロッパぁ?」
そんな事は知らんとでも言いたげな表情をした後、少年はエディの顔を食い入る様に見つめた。確かに、茶色の髪、茶色の瞳、白い肌の人間は、アラブの世界にそうそういない。断りを入れた後、少年はヘレンの瞳もじっと見つめる。彼女の瞳も鳶色だ。ほんの少しのぞいている肌も白い。
「わからねえな。どうしてそんなところからこんなところに来るんだよ?」
「世界を遍歴して、人々の生活の姿を見つめてみたいと思ったからです」
自分でも大人びすぎた『嘘』だと思いながら、エディは胸を張って言い放つ。ヘレンは呆れて白い目をしたが、さすがに『行方不明の親を探しに』や『親戚に会いに』という嘘をもう付けないことも分かっていたから、黙って頷いただけだった。少年は肩をすくめる。
「わけわかんねえ。聞けば聞くほど訳のわかんない奴だな。お前ら」
エディは一瞬本当の理由を言ってやりたくなったが、次に少年が言った言葉で思いとどまる。
「でも、面白い奴だな。……で、宿は?」
少年は笑っていた。口は荒っぽくても、性根は人懐っこい方なのかもしれない。エディも一瞬感じていた不快感を打ち消し、にこやかに首を振る。
「それが……まだ見つかってないんです」
「へえ。ま、そうかしこまるなって。俺の家に来いよ。ちょっとは広いし、二人ぐらいなら泊められるさ」
「本当……かい?」
エディは目を輝かせ、ヘレンと顔を見合わせた。彼女も嬉しそうな目をしている。少年は頷き、ゆっくりと手を差し出してきた。エディも迷わずその手を取る。
「俺の名前はイーサ。よろしくな」
「俺の名前はエドワード。こっちは『妹』のヘレン。よろしくね」
その五時間ほど後、漆喰で塗られた食堂の中、エディ達はイーサの家族と共にテーブルを囲み、イーサの母が作ってくれたシシュケバブ(羊の串焼き)に舌鼓を打っていた。それがあんまり美味しいので、エディは思わずごくりと飲み込み大声を上げてしまった。
「おいしいです! こんなにおいしい料理食べたの、本当に久しぶりです!」
「本当ですか? 気に入っていただけたようで嬉しいです」
肩を小さくし、俯きがちにイーサの母は微笑んだ。珠のように大切にされているからか、イスラムの女性は大抵物腰が穏やかで、口調も柔らかかった。そういった意味では、ヘレンは非常に溶け込みやすい性格だった。
「はい。本当に……今まで旅してきた中で、指折りのおいしさです」
「やめてください。照れちゃいますよ」
ヘレンのゆったりとした褒め言葉に、ファティマはいよいよ頬を赤らめる。彼女はほんの少し誇りに思えた。ここまで褒められる料理を、毎日夫や子ども達に食べさせているのだから。そんなやり取りを断ち切り、イーサの幼い妹ズフラがヘレンの顔を指差す。
「ねえ、何でお姉ちゃんはお肌が白いの?」
今は食事中なので頬元を覆う布がない。その為、ヘレンの顔は目もとから口まで見て取れる。ヘレンはズフラのつぶらな瞳を覗き込む。
「私達はね、イングランドっていうとっても遠いところから来たの。そこだと、私みたいに白いお顔の人が大勢いるの」
「ふうん。お母さんのお肌が白いからお姉ちゃんのお肌も白かったってこと?」
ヘレンは、今はなき母の、『雪のよう』とも言われたらしい美顔を思い出しながら頷く。その表情を思い出していると、ヘレンは鏡を覗きたくなった。自分は、母の美貌を受け継ぐことが出来たのだろうか。こうヘレンが感慨に耽っているうちに、ズフラはヘレンの白い顔に興味を失したようで、返事もなしに刻んだ玉ねぎがたくさん入ったピラフを食べ始めた。
「あ、あれ? ……まあいっか」
幼い子供の移り気の早さに少々戸惑いながら、ヘレンもピラフを口に運ぶ。玉ねぎの甘みがほんのりと染みこみ、元々染みている塩味と共存して引き立てあっている。ヘレンは思わず目を輝かせてしまった。
「おいしい!」
イーサは何度も頷き、胸を叩いた。
「だろ? 俺が元気に訓練できるのは母さんのお陰さ。だから、俺は頑張って将軍になるのさ。そして、母さんや父さん達に楽をさせてやる、これが俺の夢さ」
それを聞いたイーサの父ムーザは、困ったような表情を浮かべて頷いた。反対した時期もあったが、実際に軍に入り、めきめき頭角を現したイーサの姿を見ては、ムーザもイーサの真剣さを認め、諦めざるを得ないと思っていた。
「イーサときたら、こればかり言って聞かないのですよ。……親としては少し心配ですが、応援してやることにしています」
その言葉を聞きながら、ヘレンは自分の指を見つめた。人差し指と親指に、小さなたこが出来ている。旅装のほつれを繕ううちに出来た、彼女の小さな自信だった。ルーシーにイロハを叩き込まれてから、ヘレンはずっと裁縫の腕を磨いてきたのだ。今となってはその師に負けているつもりはなかった。ゆっくりと息を吸い込み、ヘレンは自分の中に秘めていた思いを紡ぎ出す。
「私は……故郷に帰ったら洋裁店を開きたいと思います。以前、旅先で出会った女性が洋裁店を開いていたのですが、とても気丈な方で、私が憧れている人の一人なんです。ですから、その人のようになりたいと思って……」
窓から風が吹き込み、食卓に涼しい風を運ぶ。エディは足元の、わらを編んだだけの簡素な絨毯を見つめていた。ヘレンの夢を聞きながら、エディは自分の夢を探していた。あったはずだった。確固たる夢を持っていたはずだった。しかし、考えれば考えるほどに、思い出そうとすれば思い出そうとするほどに、頭の中で思考は空回りし、答えが遠ざかっていくようだった。
……どうしてだろう? 何で思いつかないんだろう。夢くらい、俺だって持っていたはずなのに……
必死に思い出そうとしているうち、突然頭の中に霧がかかったように思考が滞り始めた。目眩も始まる。耳鳴りが聞こえてきて、ヘレンの心配そうな声が、エディには遠く聞こえた。強く風が吹き、食卓を照らしていたランプの火を吹き消す。同時にエディは深い闇へと沈んでいった。
「ねえ! どうしたの! どうしたの!」
突然椅子からひっくり返ったエディのそばに寄り、ヘレンは隣で叫んだ。イーサもエディの隣に駆け寄り、その頬を叩く。
「おい、おいどうした! どうしたんだ!」
二人の呼びかけに応えることはなく、エディはただただ気を失っていた。