結段 イスラム、キリスト
翌日の朝、シンドバートの家に四人の少年たちが現れた。シンドバートによると、彼らは毎日この家の掃除をして、賃金を貰うためにやってくるらしい。仕事で外出しているシンドバートを除いては、毎日その四人と残った五人の家族で家の掃除をしているらしい。それを聞いたヘレンは、早速エディに呼びかける。
「ねえ、私達もお手伝いしない?」
黒い布で鼻から下を覆い、すでに準備は万端のヘレンとは対照的に、エディはベッドから起き上がっただけで、ぼんやりと窓の外を見つめたまま動こうとしない。小さくため息をついたヘレンは、エディの肩を静かに叩いた。
「ねえ。お手伝いしようって、言ってるんだけど……」
エディはうなだれ、眼下に広がる緑の庭を見つめた。裏庭の世話は少し手が抜かれているようで、煩雑に雑草が生い茂っている。乾いた風に様々な草が不規則に揺れ、乱れた波を作っていた。エディは深くため息をつき、横目でヘレンを見る。
「ごめん。俺、今日はそんな気分になれないよ」
侘しさを感じている表情を見ては、ヘレンもこれ以上とやかく言おうと思えなかった。肩をすくめ、ヘレンは両開きである扉の方に歩き、その取っ手に手をかける。その時、ふと思い出したように声を上げて振り向いた。
「そうだ。……気が向いたら、ちゃんと来てね」
「……ああ、そうするさ」
再びため息をついたエディを尻目に、ヘレンはドアを静かに押し開いた。その途端に黒い影とはち合わせして仰天したヘレンは、あっと声上げ仰け反った。影も急に硬直する。
「あ! ……だ、大丈夫ですか?」
目の前の影はハディージャだった。胸に手を当てて深呼吸しながら、ヘレンは何とか姿勢を立て直す。
「大丈夫です。取り乱してすみませんでした」
「いえいえ。お気になさらないで。それよりも、どうしましたか?」
ハディージャの澄んだそよ風のような声を聞くと、ヘレンはすぐに心が落ち着いた。優しげな、丸みを帯びた目を見つめてヘレンは会釈する。
「私も掃除を手伝っていいですか?」
「いいんですか?」
その表情は窺い知れないが、ハディージャは確かに笑ったように見えた。目元からも見て取れる。彼女はそのまま、両の手にぶら下げていたはたきの一つをヘレンに手渡す。そして、静かに頭を下げた。
「では、よろしくお願いします。私と一緒の部屋を掃除してくださいね」
「はい」
ちらちらとエディのこもっている部屋を心配そうに見遣りながら、ヘレンはハディージャの後に付いて行く。ふと耳を澄ませると、子ども達の楽しそうな声が下の階から聞こえてくる。おかげでやや気分が軽くなったヘレンは、吹き抜けの下を見つめて微笑み、再び後を追って歩き出した。
一方のエディはベッドから動かず、ひたすら裏庭を見つめていた。一宿一飯の恩義に報いるために、些細な事かもしれないが、絶対に何か手伝いをしてきた。こんなに広い家なのだ。いつもなら、ヘレンの言う通りに掃除の手伝いを率先して行なったことだろう。だが、どうしてもそんな気にはなれなかった。風は沈黙し、聞こえてくるのは下で子ども達が駆けまわっているくぐもった足音だけだ。息苦しくなり、裏庭から目を離したエディは、溜め息をついてベッドに寝転ぶ。
ずっとエディは男と女の結ばれ方について考え続けていた。一夫多妻も、シンドバートのような器の整った男がその形を取るなら男女共に幸せで、そこに問題はないかもしれないとは思った。しかし、一部の人間達によってキリスト教が腐敗したように、イスラム教だってやましい信徒がいないとは限らないだろう。『女房と何とやらは新しいほうがいい』とは言われたものだ。いやらしい心を充足させるためにこの慣習を悪用しない人間がいないだろうか。エディはいると思っていた。
存外何もしないというのは疲れるもので、エディはベッドに寝転び続けるのをやめ、今度は起き上がって部屋の徘徊を始めた。白い壁が太陽の光を照り返して眩しい。その中に、エディは一枚のやや大きな絵を見つけた。他はタンスや机、特に見るべきものはなく、エディは静かに近寄って眺める。
夕暮れの海を描いたものだ。エディはすぐに、ドゥブロヴニクの、灯台のある丘から見下ろした景色だと気がついた。そこにアラビアの雰囲気はなく、エディは直感でヨーロッパの商人から買ったものだと知る。そればかりか、エディはさらに気がついた。景色をそのまま読み込んだだけでなく、それに心象を加えて昇華させたその画風。エディには見覚えがあった。誰もいないのを確認すると、絵を外して裏を見る。そこには、確かに『トニオ・ドートリッシュ』と青色で書かれていた。
「やっぱり、トニオさんの絵か……」
一人呟いたとき、いきなり部屋の扉が開いた。エディは慌てて絵を戻しながら振り向く。ヘレンよりも小柄な女性だった。エディは会釈して、つっかかりながら話しかける。顔が見えないと、反射的に名前が出てこない。
「ヤ、ヤスミーンさん……一体どうしましたか?」
「掃除をしに来ただけですが……」
ヤスミーンは目を伏せて話し、すぐに箒で絨毯を掃き始めた。エディは表情を曇らせてベッドに戻る。風は長いこと吹いていない。今もやはり、聞こえてくるのはヤスミーンが箒で絨毯を掃く音だけだ。エディはどことなく居心地が悪くなり、落ち着かなくなってきた。重くのしかかってくる雰囲気を振り払おうと、エディは意を決して尋ねることにした。聞いて心に巣食う悩みから開放されるわけではないかもしれない。しかし、少なからずこの判然としない感情よりは前進できるはずだと。
「ヤスミーンさん、少しよろしいですか」
ヤスミーンはベッドに腰掛けているエディの背中を見つめる。ヤスミーンは少々逡巡した。見知らぬ男女は話を交わしてならないからだ。しかし、一日の宿を与えた旅人が見知らぬ男子とは言い切れないし、何よりエディの口調が切羽詰まっていた。箒を掃く手を休めると、ヤスミーンは静かに窓辺へ歩いて行く。
「……どうかいたしましたか」
エディはうつむき足元を見つめたまま、分かりきっている質問をする。
「ヤスミーンさん。今の生活は幸せですか?」
ヤスミーンはエディの背中に再び目を向けた。初めて出会った時の真っ直ぐな雰囲気は無く、今の背中はただただ小さかった。彼女は窓の外に目を戻す。空は雲一つなく、突き抜けるような青空だ。思い出されるのは三年前の不幸、そしてそこから立ち直ってきた軌跡だ。
「はい」
「どうしてですか? ……僕みたいなヨーロッパ庶民にはよくわからないです」
エディの口調には嘆息が混じっていた。ヤスミーンは言葉を選びながら、ゆっくりと口を開く。
「エドワードさん、でしたよね。私は、昔違う人を愛していました。シンドバートさんの親友です」
「え。それは一体どういう意味ですか?」
キリスト教は、過去より寡婦の再婚をよしとしなかったという。エディはここにおいてもイスラムとキリストの違いを感じた。しかし、ヤスミーンの柔らかい口調に引き込まれ、エディは思わず彼女の方に振り向く。
「それは、三年前のことでした。ヨーロッパへ遠征へと向かっていた私の夫が死んだという知らせが送られてきたんです。悲しく苦しい別れでした。小さい頃から親しくしてきた夫が、私から遠く離れたところで死んで、私は双子と共に路頭に迷ってしまったんですから。……実は、そこで助けてくれたのがシンドバートさんだったんです」
今まで沈黙していた外の世界が、風によって動き出す。草木が風になびく柔らかい音が日の光と共に部屋を満たした。その音に耳を傾けながら、ヤスミーンは続ける。
「彼は私や子供を引き取ってくれ、心身ともに支えてくれました。ハディージャさんも仲良くしてくれて……初めはただ感謝ばかりでしたが、今では私からもお二方のことを頑張って支えているつもりです」
エディは静かに振り向き、ヤスミーンを見る。彼女は一心に空を見つめていた。そこに不幸はない。方々で訪れてきた家族たちが身にまとっていたものと、雰囲気が同じだ。返す言葉も見つからなくなり、エディはまたしても顔を上げていられなくなってしまった。そんな姿を見かねたのか、ヤスミーンはそっとその場を離れながら、小さな声で付け足す。
「確かに、あなたにとっては異色なのかもしれませんが……」
扉が重々しく閉まる音を聞きながら、エディは虚ろな目で窓まで赴き、その空を見上げた。雲一つない空は、吸い込まれそうなほど青い。エディはゆっくりと目をつむる。
かつて、キリスト教とイスラム教は九度に渡って熾烈な戦争を繰り広げたという。はじめこそ、キリスト教は聖地を奪還するという名目の下で戦っていたものの、結局は腐敗を招いた。一方イスラムは、そんな侵略者から身を守るために戦っただけだった。
キリスト教は本来、隣人愛を説き、律法の内面化による真の愛に溢れた人間となることが本来の目的だろうと思っていたエディ。今のヨーロッパや、かつての十字軍遠征時のように血が流される事は、本来のキリストの意思に反し、後世の人間が勝手に創り上げた解釈の下に行われた行為に違いないと見ていた。しかし一方で、イスラム教は本来『聖戦』を肯定する。今のキリスト教も、イスラム教も、排斥のためには敵味方問わず血を流すことを肯定しているところで一致している。皮肉なことだ。
エディはようやくキリストもイスラムも受け入れきれない理由に気が付いた。たとえ神の道に従うためにでも、人の道に外れることが許されていいのだろうか。その疑問がエディの心を頑なにして、預言者の言葉を拒ませる。エディは冷めた微笑を浮かべ、空に向かってぽつりと吐き捨てた。
「こんな奴が……神様を探そうって、言ったのか……」
無意識のうちに、エディは海の絵に目を向ける。その瞬間、何かで刺されたような痛みが頭を襲う。激痛に耐えかね、エディは思わずベッドに倒れ込む。そして目を見開いた。
脳裏に流れ込む、幼い手つき、一枚の紙、拙いながらも力のある絵。それを大事に持って、その絵の持ち主はどこかに向かっていく。
「あっ!」
再び襲った激痛と共に、脳裏の映像は消える。息も絶え絶えになりながら、エディは苦しく呟いた。
「……どうしたんだよ、俺は……」
うずくまったまま、エディは静かに目を閉じる。頭痛は収まっていったが、その日はもう立ち上がれず、のろのろと過ぎていく時間を過ごしていくしかなかった。
「昨日から、本当にありがとうございました」
ヘレンはシンドバート達に向かって礼をする。イスラムの世界にも、ヨーロッパと変わりなく優しい人がいる。それがわかっただけで、将来の展望が明るく見えていた。ハディージャ達も笑顔で答える。
「シルクロードの旅、がんばってくださいね」
「はい。……あ、そうだ。これを受け取ってください」
ヘレンは海の腕輪を外すと、そっとハディージャに差し出した。その彫刻のきめこまやかさに感じ入ったのか、ハディージャは興味津々に見つめながら腕輪を手に取る。ヘレンは目だけで感情が伝わるように、満面の笑みを浮かべる。
「二日間泊めていただいたお礼です」
「まあ……お気になさらなくてもよろしいのに……」
その動作を見つめていたシンドバートは、突然自分の胸にかけていたペンダントを外した。閉じた手のひらの真ん中に大きな目が開いているという、とにかく奇妙な模様だった。丁寧にそれをヘレンに渡しながら、シンドバートは説明を始める。
「ハムサと言って、邪眼避けのお守りです。昔から、人の悪意がこもった視線は、実際に悪いことを起こすといいます。それを避けるため身につけるのが、このハムサなんですよ。これはささやかなお返しです。……この先も、頑張ってください」
「ありがとうございます! エディ、付けてみて」
それだけ言うと、ヘレンはそれをエディに手渡す、ようやく彼ははっとなった。子ども達やシンドバート、ハディージャ達に目を合わせてはいたものの、実際には心ここにあらず、だった。ぼんやりとハムサを受け取ると、ゆっくりとそれを首にかける。
「そのお守りが、あなたの旅をお助けしますように」
シンドバートの手が暖かく、エディはさらにもう一度はっとなった。宗教さえうっちゃれば、彼らはなんということはない、ただの優しい家族だった。ようやくそれに気付けて、エディは僅かに気持ちが上向いた。顔を上げ、エディは静かに微笑む。
「ありがとうございます、シンドバートさん。達者でいてくださいね」
「そちらこそ、お元気で」
静かに登っていく太陽が、シンドバート邸の庭に鮮やかな濃淡を生み出していた。エディは目を細めながらその景色を見つめる。その景色は、とにかく美しかった。
シンドバート一家は子宝に恵まれ、その後も幸せな家族を作り上げた。これも、シンドバート達がイスラム教、そしてコーランという歪みのない結束で結びついていたからであろう。