転段 パン屋と子供と
その日の夜、部屋の皆が寝静まったのを確認するとエディは二段ベッドの一段目から起き出し、足音忍ばせ机がある場所まで移動した。荷物を入れるための引き出しが脇に取り付けられており、机は結構な大きさがある。歪みがあるせいで軋む引き出しを、エディは周りが起き出さないよう慎重に開けた。そこから麻製の簡素な旅嚢を取り出した。詳しい経緯を憶えていないエディだったが、彼に与えられた遺産や両親の形見はこの袋に全て詰め込んでこの孤児院にやって来たのだ。エディはその袋の中身を全て取り出し、持って行く物の吟味を始めた。
間違いなくお金は必要になる。エディは巾着袋の中を空けた。中に入っているのは銀貨ばかりだ。月明かりだけでは不便に感じたエディは、こっそりランプに火を灯す。そこではたと気がついた。火を付ける道具が必要だ。エディは火口箱を手元に引き寄せた。光沢のある黒い箱のふたを開けると、火打石や、火打金、おがくずが入っている。少しおがくずの量が減ってしまっているのが気になるものの、調達はどこででもできるだろう。隣に座っている、家具師の息子であるジョンに頼めば確実だ。そう決め込んだエディは、とりあえず火つけ道具を脇へと押しやった。そして再び金勘定に取りかかる。
「ひぃ、ふぅ、みぃ……先立つものとしては心細いかな……」
そこには約四十シリング程――およそ一般人が二ヶ月半働いて得られる給料――しかなかった。これではすぐに旅費が尽きてしまう。出来る限りの節約が必要だと思ったエディは、目の前に転がっていた鉛筆に手を伸ばし、その尻で机を叩きながらしばし考え込む。そして、再び引き出しの中を探ったエディは、そこから釣竿を取り出した。ジョンの父が戯れに作った代物で、畳んでしまう事が出来るという優れものだが、あいにく普通に暮らして行く分には畳める必要が無い。そんなこんなで、ジョンは隣の席のよしみとしてその釣竿をくれたのだ。
「ジョン。ついに役立つ時が来たぞ」
一人呟き、エディは火口箱の隣に釣竿を置いた。その時、誰かが判然としない口調の寝言を言った。慌てたエディは、銀貨を財布の中にしまい込み、火口箱や釣竿と共に旅嚢に押し込んでしまった。そして、その他のものと乱雑にまとめ、元の引き出しに押し込んだ。ランプを消すと、エディはまたこっそりとベッドに戻る。
「まだ一週間あるんだ。怪しまれないようにのんびりしよう」
一方のヘレンも、同じく荷物の整理をしていた。手元に残った形見を見ていると、色々な感慨が湧いてきてしまうため、遅々として作業が進まない。今も、母が残した櫛を見つめていた。
「お母さん、これで私の髪を整えてくれたんだよね……」
小さい頃の日課は、起き出した途端に母の下へ行き、ついた寝癖を直してもらう事だった。この地方では見られない、『竹』という植物で作られたその櫛は、独特の、ヘレンお気に入りの匂いがした。ヘレンは静かに櫛をその髪に通す。母がしてくれたように、一掴み一掴み、丁寧に櫛を流していく。抜き取ると、ヘレンは願をかけるようにその櫛を額に当て、麻袋に戻した。
次に目を付けたのは、本棚に立て掛けられていた植物図鑑だ。植物に造詣が深かった母は、時折ヘレンと共に野に出て花のスケッチ、時にはキノコのスケッチまでしていた。そしてあらゆる書籍から調べた情報をそのスケッチの隣に付記していたのだが、それに目を通した父は、なんと親交のあった本屋に頼んで出版してしまった。これが中々の人気を博したので、母が照れながらも誇らしげな表情を浮かべていたのが懐かしい。これはきっと役に立つだろう。ヘレンもふわふわした幻想家ではない。旅がどれだけ大変なものかぐらい予想はついた。食料が尽きて、その辺の草を食まねばならない時もあるだろう。そんな時に毒草にあたっては大変だ。
「エディにも見せてあげないと」
小さく微笑み、図鑑は静かに本棚に戻した。そして、今度は銀貨のぎっしり詰まった瓶を両手に取る。元はそこそこ名の知れた地方貴族の出身でもあった母は、娘から見ても奇妙だと思える感覚を少し持っていた。その一つが空き瓶収集だ。何かと瓶詰めの商品を買って来ては、その瓶を洗って干して、コルクの蓋を新たに作ってもらってまで窓辺に飾っていたのだ。
ヘレンは変だと言って笑ったが、ある日父はその中で一番大きなものを選んで一シリングを入れた。これがいっぱいになったら、暇乞いしてどこかを静養旅行しようと言いながら。両親が倒れたのは、ようやくその瓶が一杯になって、どこを旅するか考えようという矢先の出来事だった。それが、今となっては伯父を名乗る人物が勝手に両親の遺産を相続してしまい、手元に残ったのは目の前の“旅費”のみだ。ヘレンは瓶を胸に抱き、静かに涙をこぼす。
「お母さん。お父さん。二人の分まで、私、色々なものを見てくるから……」
ヘレンは静かに瓶を月明かりの下に置く。青みがかった光を照り返し、瓶は黙して輝いていた。
「やっぱり水筒は必要だよね。川に沿って旅できるわけじゃないし」
翌日、孤児院の、皆が集まる広間でエディはチェスの駒を取り上げながら目の前のヘレンに話しかける。この部屋には他にも少年達が部屋の中心にある大きな角テーブルに本を広げて読書していたり、もっと小さな三、四歳程の子供達は部屋中を跳ねまわったりして遊んでいた。変にこそこそするより、木を隠すなら森の中とエディは自分達に注意が向きにくい環境で話をする事にしたのだ。ただ、紙と鉛筆を挟んで顔突き合わせて話しているだけだと余りに怪しすぎるため、チェスを楽しんでいるように見せかけているのだ。もしかすると、棋譜を書いて真面目に取り組んでいるかのようにさえ見えているかもしれない。
「他にも色々必要よ。怪我だってするだろうし、毛布を持ち出すわけにもいかないし。そうそう。食料だって必要になるわ。その辺のパンじゃなくて、しっかり保存が利く物」
「何だろ。ピクルスとか?」
「しょっぱいよ。もっといいもの無いかな」
そんな言葉と共にヘレンはチェックを掛ける。場を持たせるために手加減して欲しいなどと考えながらエディは周りを見回した。その時、今まで跳ねまわって大きな音を立てつづけていた小さな子ども達が、孤児院の院長の周りに集まっている。
「ねぇママ! ビスケットちょうだい!」
「ねえ!」
「こまったわねえ。今は保存食としての分しか無いから……」
エディは得心が行ったように何度も頷いた。チェス盤に向き直ると、ゆっくりとルークを動かす。
「ビスケットだ。ヘレン。それなら納得いくんじゃない?」
唸って考え込みながら、ヘレンはチェス盤に目を降ろす。ヘレンははたと手を止めた。攻めていたつもりが、いつの間にか逆にチェックを掛け返されていた。だが、それは最後の足掻きだ。冷静にナイトを飛ばしてルークを取り上げる。ステイルメイトになってしまう手だったが、話の種は尽きたのだ。これ以上続けるのも億劫だった。
「あ。動けない……」
「もう決まったんだよね。なら買い物に行こうよ」
エディは悔しそうな目をしたまま立ち上がると、院長に外出の許可を貰いに席を立った。
一時間後、エディ達は大通りにある商店群のところにいた。昼下がりになり、夕飯の準備をする為に買い物をする女性達がちらほら現れ出した頃だった。エディ達は様々な店に目移りさせながら大通りを何度も縦断する。一口にパン屋と言っても色々あるからだ。
「エディ。見てないで買い物しようよ。いい加減皆変な目で見るよ」
ヘレンが袖を引いて指摘したので、エディはひとまず目の前にあるパン屋に足を運ぶことにした。店先にはパンのいい香りが立ち込め、ふっくらと焼けたパンが積み上がっている。保存食を求めに来たのでなければ、迷わず手を付けたことだろう。ただ、肝心の店主が見当たらない。
「どうしたんだろ? 店先ほったらかして」
エディの言葉にヘレンが肩をすくめて見せたとき、店の奥から女性の困ったような声が聞こえてきた。エディ達はその光景を覗き見しようと奥に足を踏み込む。
「何してるのよ。ビスケットでもないのに二度焼きして」
「ごめん。取り違えちゃったんだ」
「ほんとだ。これがビスケットの生地ね? どうかしてるわあなた……」
「だって! 君のお腹の子どもはもう――」
「ちょっと。お客さんだわ」
お腹を重たそうに抱えた女性がエディ達に気がついて会釈した。気弱そうな店主も顔を少し引きつらせながら女性に倣う。彼女を怒らせていた原因は、目の前に置かれていた失敗作だった。失敗作といっても、見た目には美味しそうなのだが。エディは大声で尋ねた。とにかく出て来てもらえない事には話にならない。
「どうしたんですか?」
女性は困ったような表情で失敗作を指差した。
「ええ。主人ったら、ぼうっとしてビスケットと間違って普通のパンを二度焼きしたんですよ。お陰で折角ふわっと仕上がった生地が台無し。もう叩いたら砕けますよ。ほら」
そう言ってパンを一つ粉々にしてしまった妻を見て、パン屋の若い主人は声を裏返す程困ったようだ。
「仕方ないじゃないか! もうすぐ子どもが生まれる君が一生懸命仕事してたら、心配で心配で仕方ないんだよ!」
「そっちこそ仕方ないじゃない? 私が休んだらどうこの店を切り盛りするの?」
「それは――」
「駄目です!」
ヘレンが急に叫んだ。三人は驚いてヘレンに振り向く。彼女は全力で走ってきた後のように息を荒げ、込み上げる気持ちを発散するように言葉を続けた。
「無理なんてしないで下さい! 無理して体を壊したらどうしようもないじゃないですか!」
やはり、人の体調などには過敏な反応を示してしまうらしい。エディはヘレンの表情を窺いながらちらりとそんな事を考えた。病気で両親を失っているのだから無理もないだろう。その真に迫った言葉はパン屋の夫婦にも強く伝わったらしく、今まで言葉を曲げようとしなかった妻の方が目を伏して呟いた。
「でも、私が抜けたら仕事が……」
「なぁに、休めばいいよ。ちゃんと蓄えはあるんだし、一週間やそこらなら何とかなるさ」
「そうかなぁ」
一転して気弱な表情を見せた妻をパン屋は優しく励まそうとする。だが、どうしても彼女は心配で仕方が無い様子だ。そんな様子を見かねたエディは、小さく口を開いた。
「五日間ぐらいですけど、僕達が店番を手伝いますか?」
「へ?」
独り言のようなエディの言葉に、主人は耳を疑った。エディの表情を食入るように見つめ、主人は確かめるように尋ねた。
「今、店番を手伝ってくれるって言ったかい?」
「はい」
「でも、大丈夫なのかい?」
「ええ。お金の勘定くらいなら出来ますよ。ね? ヘレン」
胸を張ってみせながら、エディは俯きがちにしているヘレンの顔色を窺った。咄嗟に口をついて出た言葉に自分自身で戸惑い、感情をさらけ出してしまった自分が恥ずかしいと言った様子だ。事実、ヘレンは恥ずかしいと思っていたし、エディが急に言い出した事に困っていた。元より付き合いが狭く、中々知らない人には心を開けない彼女に、応対の仕事は難しいのだ。だが、言い出してしまったのは自分なのだという事と、そして手伝いたいと思っている事を自分に言い聞かせたヘレンは、思い切って頷いた。
「あ、あの。私、母を手伝ってパンを焼いた事が何度かあります……」
「本当かい?」
主人は妻と顔を合わせた。
「なあ、アンナ。ここは言葉に甘えた方がいいんじゃないか?」
「そうね。『ロバートのパン屋』はせっかくこの通りの一番人気になったんだから、ここで休んだら常連さんをがっかりさせるわ」
アンナは二人の目の前まで歩いて行くと、小さく首だけ下げた。お腹が大きくなった彼女にはそれが誠意を示す精一杯の仕草だった。
「お願いね。私はこの子に集中するから、その間、私の代わりに頑張って。そうだ、五日間って言ったよね? 最後の日のお務めが終わったら、何かお礼するわ」
二人は静かに頷いた。
翌日、二人は早速パン屋の店番を請け負った旨を話し、外出の許可をもらおうとした。すぐにそれは下りた。当たり前のことなのだ。まだ子どもは“小さな大人”だと見なされていたこの時代、未だ教育よりも仕事が優先される事の方が多かったのだ。エディ達は一生懸命働いた。来た客に出来たてのパンを紹介したり、パンを店頭に並べたり、お勘定もした。少年少女なりに出来る事は何でもした。お陰で、アンナは生まれて来ようとする子どもとしっかり向き合う時間が取れているようだ。
ついでに、エディとヘレンは話し合い、交代交代で買い物を済ませていく事にした。毛布、タオル、わら製の小さなバスケットに皮の水筒。薬や包帯も揃え、果てには古い世界地図なども買った。五日経って、残る必要なものは夜の明かりだった。
エディは大通りの端にある、小さな骨董品屋を訪れていた。値打ち物は桁を一つ見間違えそうになってしまう程の値が付いているが、単なるお古はそれなりの値段しかついていない。新品よりはるかに良心的な値段だ。
「おや。ランプをお探しですか?」
「ええ。安くても丈夫で、長持ちするようなランプはありませんか?」
白髪の腰が曲がった老人は、ゆっくりと立ち上がってランプが並んだ棚の前に立って商品を見定める。しわだらけの指が、ある一つのランプの前で止まった。鉄製でとうに表面は錆びているように見えるが、磨けばまだ現役として使えそうな品物だ。
「これがよろしいでしょう。これを売ってくれた旅人は、旅の途中に五、六度は落としたと仰っておりましたし、一度一杯にして火を付けてみましたが、一日は持ちましたよ」
エディは感心しながら頷いた。
「そんなにいいものなのに五シリングでいいんですか? あれなんか三ポンドするじゃないですか」
エディは一番高い所に置かれているガラス製のランプを指差した。
「あれは芸が細かいですからねえ。きっと名のある工芸家が作り上げた代物でしょう。見ているだけでうっとりしませんか」
老人は笑顔で頷きながら答える。歴史を感じさせる芸術品に囲まれ、憂いの無い余生を送っているという様子だ。ガラスものなんて買ったらおっかなびっくり冒険しなければいけなくなるだろうと、エディは買おうと到底思わなかったが。何にせよ、丈夫で長持ちするなら何も言う事は無い。エディは財布を取り出し、迷うことなく勧められたランプを指差した。
「これを下さい」
「わかりました」
椅子をカウンターの奥から引っ張って来て、老人は鉄製の錆びランプを取ろうとする。エディはその様子を眺めていたのだが、ふと店の外に目をやった時にエディは思わず目を擦った。ありえないものが見えたからだ。店番をしているはずのヘレンが、エプロンをしたまま慌てた様子で走っていったのだ。しかも、方向は『ロバートのパン屋』へと向いていた。エディは外に出て、我が目が正しいかどうかを確かめようとした。しかし、残念な事に日も傾き始めた頃、買い物をしようと訪れた人々でごった返し、既にヘレンの姿は無くなっていた。エディは店に引き返すと、老人からランプを受け取る。
「はい、五シリング」
「確かに。む? どうなされました。急に慌てたようになって」
「話してる暇は無いです! それじゃ」
エディは慌ただしく人混みの中へと身を躍らせた。