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我が神を求め  作者: 影絵企鵝
十章 イスラームとクライスト
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転段 結ばれること

 エディは空いた口が塞がらなかった。こんな時でも案外頭のどこかは冷静で、以前本でとんでもない文を読んだ気がしていた。そう、イスラム教徒は妻を何人も持つという話だ。どんな話もある程度飲み込んできたエディだったが、これだけはどうしようもなく相容れないと思った話だった。夫婦はお互いに愛の誓いを交わし、共に支え合うべきだと真っ当な人間ならば誰もが言ったし、エディの両親、ヘレンの両親もお互いを尊重する仲睦まじい夫婦だった。


「……不思議そうな表情ですね」


 シンドバートはエディの目をじっと見つめる。ハッとしてエディは姿勢を正した。だがすぐに、判然としない疑問が頭の中を占める。一夫多妻などが許されていいのだろうか。二人の女性を同時に愛し、それで本当に互いを支え合うことが出来るのだろうか。だが、エディはそれ以上反感を抱けなかった。ヘレンが内心を垣間見て反感を抱くような男だったなら、女性を侍らせて悦に浸っているだとか、糾弾もできたろう。しかし、シンドバートは敬虔なムスリムであったのだ。それが、エディの思考を惑わせ停滞させる。結局、泊めてくれる相手を悪く言うことも出来ずにエディはにこにこした。


「いえ……二人と結婚なさっている方など、今まで会ったことがありませんので……」


 シンドバートは頷いた。ヨーロッパで一夫多妻が許されていないのは知っていた。故に、エディが抱いている感情も何となく読み取ることが出来た。不快には思わない。寛容なのは彼の取り柄だ。


「まあ、確かにそうでしょうな。ですが、私はハディージャもヤスミーンも等しく愛していますよ。どちらかを贔屓したことなど一度もありません。アッラーの教えですからね。女性は守られるべき存在。私は幸いにして裕福ですから、二人の女性を守らせていただいているのです」

「は、はあ……」


 エディはぼんやりとシンドバートたち家族を眺めた。一番背の高い少年はこちらをまっすぐ見つめている。まだまだ幼い二人はヤスミーンと呼ばれた背の低い女性の影からこちらを窺っている。ヤスミーンも、ハディージャも、目しか窺うことが出来なかったが、雰囲気に棘はない。それを見ていると、分からなくなってしまった。一夫多妻制は本当に悪いことなのか。どうして悪いのか、改めて直面すると答えが出てこない事に気がついた。そこへ、さらにシンドバートは付け加える。


「一夫一妻制でなければいけないとは、世界が決めた法ではありません。歴史の流れを汲んで、預言者イエスと、その信徒が訴えているだけのこと。我々はアッラーが偉大なる預言者ムハンマドを通じて女性を守ることの大切さを説かれたので、それに従っているのです」


 シンドバート達の真っ直ぐな眼差しを目の当たりにしては、エディは最早何も言うことが出来なかった。



 エディ達は二階の一室に通された。傾いた陽の光が射しこむ部屋は、トニオの家くらいの広さがあった。ベッドが二つ備え付けられており、その布団には緻密な刺繍が施されており、一目で腕の有る職人が作ったとわかる。絨毯(じゅうたん)にしても同じだ。原色の強さが勢いとして現れた文様が描かれていた。エディは旅嚢を下ろすと早速ベッドの上に寝転んで、天井を見上げてしまう。自然に溜め息も洩れる。顔の下半分を覆う布だけを外しながら、ヘレンは首を傾げた。


「どうしたの?」


 真っ白な天井を見上げていると、エディはどことなく虚しくなってきた。天からの無言の圧力がかかっているかのようで息苦しい。エディは寝返りを打った。


「いや……俺達って、いや、人間って、結局は宗教から逃れられないのかなあ、なんて思ってさ」

「どうしてそんな事を思うの?」


 いつも頼もしく自分を引っ張ってくれる彼が、今日に限ってはどこか口調が弱い。耳を澄ませないと、布で覆われているせいでよく聞き取れないほどだ。


「俺は一夫一婦が当たり前だと思ってた。でも、所が違えばそんな事常識でも何でも無くなる。どうして一夫一婦が正しいのか、どうして一夫多妻がおかしいのか、俺は一瞬考えたんだ。だけど、はっきりした答えが見つからないんだ。みんながそうだったから? 正しいっていう人が多いから? それはキリスト教やヨーロッパの歴史が正しいんだと訴えることになるだけで、本当に正しい答えじゃないよ……」


 そこで一旦言葉を切ると、エディは起き上がってヘレンの瞳を見つめた。


「なあ、ヘレンはどう思うんだい? やっぱり、一夫一婦が正しいと思うのかい?」


 布を手にぶら下げたまま、ヘレンはエディの隣に座った。彼女としても、一夫一婦と一夫多妻の是非はよく分からない。案外嫉妬してしまう性格だと思い知った彼女自身は、夫が他の女性を愛しているところを見るのは辛いだろうと自分で思ったが、それでもシンドバートの言い分には頷ける部分もあった。


「うーん。正しいというより、私がもし結婚したとしたなら……私と、私の産んだ子どもをしっかり愛してほしいよ。でもね、私は平等に愛があるなら納得出来る気もする。……領主が(めかけ)を侍らせてるよりましだと思うよ」


 口を尖らせながら呟いた彼女の言葉に、エディは眉にしわを寄せ、いつになく真剣な表情をした。


「めかけ?」


 ヘレンは頷いた。


「領主の囲ってる愛人の事。不倫と違うのは、その存在は妻が認めているってところ。黙認されているけど、これも一夫多妻って言えるんじゃないかな? ……ある日の誕生日、お母さんが間違って強いお酒を飲んじゃって、ひどく酔った拍子に教えてくれたんだけどね……」


 彼女は窓の外を見つめ、静かに話し始めた。



 お母さんの家……バーミンガム家はね、元々はバーミンガム領主の傍系だったの。でも、世代が経つうちにそんな事は形骸化して、急に勢力を伸ばしてきた貴族に押されて凋落しちゃったんだって。到底貴族だなんて呼べないような慎ましい、というよりつましい生活に身を落としているうちに女の子、母さんは生まれたんだって。


 その女の子はすくすく育って、街中でも評判の美人になったの。街中を歩いていると言い寄ってくる男性も多かったみたい。でも、その女の子には好きな人がいた。それが領主の下で働いている書記官さんの一人。あの時の母さん、酔っ払って『ロビン以上に素敵な男の人なんてなんていないよ』なんて言ってたかな。母さんの父さん、つまりは私のおじいちゃんももう権勢を取り戻すのは諦めて、結果平民に家名が落ちることになっても、その書記官に娘を任せよう、って思うところまで二人の相性も良くて、仲も進展してたんだって。


 でもね、街を歩けば十人に五人は振り返るような美人だったから、その時の領主に目をつけられたの。もちろん、それは政敵の家系。何としても妾に迎えようと、四方手を尽くして詰め寄ったんだって。ついに会議の末席からも追いやられて、かつての貴族バーミンガム家はただの職なしになっちゃって。汚いその領主は、母さんが妾として領主の元に行くことで、昔の暮らしを出来るようにさせてやる。そう言ったの。


 母さんは泣き崩れたみたい。書記官の事は愛している。けれど、領主に従わなければ暮らせなくなってしまう。その板挟みに苦しんで、母さんはその書記官に訴えた。そして書記官……私の父さんは覚悟を決めたの。早馬でオックスフォードを訪れて、昔親交のあったオックスフォードの政務官に訴えて自分を雇う確約を取り付けたら、そのまま母さんとおじいちゃんを連れてオックスフォードに逃げちゃった。



「……二人はそこで結婚式を挙げて幸せになれたからよかったけど、もし父さんの決断がなかったら、お母さんは領主の愛人として生きてかなきゃならなかった。やっぱり、そこに幸せなんてなかったと思う。そこにあるのは、領主の一方的な支配欲だけだったんじゃないかな。……それよりも、ここはずっとまし。あの二人の目、とっても温かかったから……」


 そこでヘレンは一瞬口を閉ざした。確かに幸せだったのだ。両親の命をいとも簡単に奪えた病も、両親との幸せな記憶までも奪い去ることは出来なかった。確かに彼女の中に、両親と育んできた幸せは今も生きている。一度滅茶苦茶にされても、エディの助けを借りて、取り戻してきた。今も自分の中で、確かに生きている。ヘレンは静かに自分の胸に手を当てた。


「そっかあ……父さんも母さんも、幸せだったんだよね……」


 昔だったなら、ヘレンは絶対に泣き出す場面だったろう。そんな事には思いも至らず、エディはただただ黙りこくってヘレンの横顔を見つめた。形式的に妻は一人としながら、気に入った女性を自分のものとする横柄な領主。それと、三者の合意のもとに結婚関係を築き、形態は全く異なるながらも、幸せな家庭を築いているシンドバート。エディもシンドバートの方が正しいように思えてくる。しかし、どうしてもそれを正しいと言い切ることが出来なかった。


 世界を神が作ったなら、この世の真理だって神が作ったに違いない。ならば、神は一夫一婦と一夫多妻のどちらを真理と認めたのだろうか。鳥は一対一のつがいを作る。子が独り立ちするまでは、浮気もせずにひたすら子を夫婦で育てている。しかし、アフリカの地にいるというライオンは一頭のオスに多くのメスが付き従っているという。神がいるなら、どちらも併存させようというのか。なら人はどうだろう。神は人にどちらを認めているのだろう。いや、神は何人もいて、それぞれが違うことを言って、人々がそれぞれの神を信じているだけなのか。もしかすると、神が決めた真理に耳も貸さず、人が好き勝手に掟を定めているだけなのか。


 エディは分からなくなった。秘跡、神の恵みを受けるという七つの儀式の一つを前にして混乱したエディは、頭を抱えてうなだれる。流れは止まると澱む。混濁した思考の中で、エディは静かに呟いた。


「ねえヘレン。神様は本当にいるのかな……」


 エディの戸惑いや悩みが痛いほど伝わってきたヘレンは、静かにエディの肩に手を置き、さすり始めた。自分がエディにしてやれること、エディがそうしてくれたように隣にいることだった。エディはそんなヘレンの笑顔を一瞬見て、再びうなだれてしまった。




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