承段 豪商シンドバート
Eventful Item
海の腕輪(new!)
Money
百六十五シリング(up!)
「成功のために来たれ!」男の声が響く。
「我らが神の他に力はない!」通りで太い声が反響する。
「えぇと、これって……」
ヘレンがエディの方に擦り寄る。『たちかぜ号』の中、エディと共にイスラム教圏の慣習についてダルニアスから教えを受けたはずなのだが、見た目の不可思議さに囚われたせいで度忘れしてしまった。尻上がりの声色に、エディは苦笑いしてしまう。
「『礼拝』だね。一日五回、メッカに向いて祈りを捧げるのさ。さ、ちょっとこっちに来てよ」
それだけ言うと、エディはそっとヘレンの手を引き、なるべく通りから隠れるように、服屋の物陰に身を潜めた。ヘレンは何も言わなかった。なにもしない(出来ない)自分たちが通りに突っ立っているのは奇妙と思うのは、ヘレンも同じだったのだ。
「我らが神は偉大である!」
「我らが神は偉大である!」
声を殺しながらも、彼女ははっきりした口調で尋ねる。
「これを一日五回、毎日だっけ?」
「うん。……なんだか……すごいなぁ」
無言――とは少々違った。人々は、確かに何事かを呟いている。それがエディ達にはよく聞こえない。そんな微かな呟きが、彼らの信仰心の重みと相まって空気を厳かなものとした。エディ達はその重い空気を胸一杯に吸い込みつつ、目の端に捉えた店主の動きを見つめる。
なるほど、その動きは丁寧そのもので、頭を擦り付けんばかりに深く頭を下げる様は、彼の神への信仰の深さそのものだとエディには思えた。それを見ていると、エディは改めて自分たちの異端を感じる。彼らとは正反対の方角を向いて、顔も上げっぱなしなのだ。エディはその姿を見つめながら呟いた。
「この人達って、一番神様に正直な人たちなのかもしれない」
ヘレンも頷きながら、初めて目の当たりにした礼拝の姿を目に焼き付けていた。
先程の服屋から無事に服を貰ったエディ。早速着替え、再び二人はロードを従えて街を練り歩いていた。ここから先は見慣れない街が続くだろう。しかし、ヨーロッパは皆同じような街並みだったのだし、この街並みさえ覚えておけば、この先もある程度は戸惑わないで済むかもしれない。そう思ったのだった。
「これからどうしようか、ヘレン」
旅嚢を背負い直しながら、ヘレンはロードの顔を見上げた。ロードはヘレンを見つめて鼻を鳴らす。粗食に堪えてくれるのをいいことに、今までは草があるところを見つけては随時食事をさせていた。しかし、この先はそうもいかないかもしれない。
「ロードのこともあるし、砂漠や乾燥地帯はなるべく避けないと」
何度か頷いて見せると、エディは踵を返して振り向いた。そのまま後ろ歩きをしながら、ゆっくり人差し指を立てる。
「じゃあさ、まずは情報収集しないとね。馬が通るには、どんな道が一番ふさわしいか」
「そうね。……それにしても……」
声を潜めながら、ヘレンは建物の影に座り込んでいる男性二人に目を向けた。遠目からでも薄汚れているのがわかる服を着て、髭も髪も伸ばし放題、まともな暮らしが出来ているとは到底見えなかった。ヘレンは思わず憐憫の表情を向ける。
「何だかかわいそう……きっと物凄く貧乏なんだ……」
その時、その男達と目が合った。彼らは素早くロードやその包みに目を走らせ、何故だかいきなり近寄ってきた。
「お前ら、巡礼か?」
「え? あ、はあ……」
いきなり尋ねかけられ、エディは反射的に頷いてしまった。途端に男達は詰めよってくる。
「頼む。同じ信仰者として、我々にお金を恵んでくれないか。仕事がうまくいかず、最早その日の暮らしにも困っているのだ!」
口調はそうでも、ヘレンは男達の目の中に、どこか確信めいた光を感じた。困惑の思いを視線に寄せて、ヘレンは必死に訴えた。エディも強い瞬きで応える。今懐には百五十シリング以上もある。だが、一シリングあげる余裕を持って、その一シリングに泣くようなことがあっては困る。だが、ここまで真剣に頼まれては断るのも悪く思える。とにかく答えに窮していると、背後からいきなり声がした。
「旅人に迫るのはよしなさい。ほら、私からだ」
エディ達の間を割って一人の男が現れ、二人の浮浪者に小さな袋を渡した。中身を覗いたかと思うと、愛想良く笑って男達は姿を消した。
「大丈夫ですか? あの二人は最近特に困っている人達ですからね……巡礼の最中だというのに、大変でしたね」
男は振り向き微笑んだ。ヨーロッパと違って、この地方では誰もかれもひげを生やしているものらしい。だが、この男が生やしている豊かな口ひげにあごひげは、若干肉付きのある顔立ちと雰囲気が交ざり、金回りがよさそうに見えた。
「ありがとうございます。助かりました」
エディが素直に頭を下げると、男性は穏やかに首を振った。
「いえいえ。ザカートにサダカは信仰者として当然のこと。わかっていることじゃ……無さそうな“白さ”ですね」
男はエディの顔立ちを隅々見回す。服装こそ自分達と同じだが、とにかく顔が白かった。ヨーロッパ人そのものの容姿だった。気にかかって隣の女性の目を見れば、これがきれいな鳶色をしている。今までその目の色を見た記憶をたどると、やはりそれはヨーロッパ人だった。男はエディの目を覗き込むようにして尋ねる。
「あなた達、信仰者じゃないですね。ヨーロッパから来たんでしょう」
すぐに言い当てられてしまい、エディは困ったように頭を掻いた。
「あ、分かっちゃうんですね」
「ええ、目を見ればわかります」
その響きに、一瞬二人は目の前の人物がすばらしい洞察力でも持っているのかと考えたが、すぐに自分達の目の色のことだとわかった。
「服装はこっちの慣習に従ってみたのですが……さすがに目の色までは変えられませんね」
そこまでで一旦区切ると、エディは急に眼差しを真剣にして尋ねる。
「あ。もし良ければ、ですが、僕達を一日泊めてもらえませんか」
エディからにじみ出る誠実さは、やはり男性の心を動かすに一役買った。加えて、この男性は何と貿易商だったのだ。事実、ダルニアスが属する豪商の、今回の商売相手は彼だったのだ。旅人二人を泊めるなど、いとも容易いことであった。
「もちろん構いませんが……では、名前を教えてください」
エディはヘレンの方を見る。イスラムの女性観はメールから簡単に伺っていた。女性はなるべく男性と目を合わせず(今しがたばっちり視線を交わした事を思い出した)、赤の他人である男性と歩いているのは“はしたない”と思われる原因の一つのようだ(故にメールはダルニアスの『妹』として街を並んで歩いたらしい)。
こういった場面では自分達も先達に倣おうと取り決めていた二人は、小さく頷きあって男性の方に向き直る。
「僕はエドワード・サーベイヤー、そしてこっちは妹のヘレンです」
男性はにっこり笑う。
「なるほど。いかにもヨーロッパらしい、鋭い発音の家名ですね」
「そうなんですか? それに、家名なんて大層なものじゃないですよ。単に測量士ってだけですし」
「なるほど。昔から受け継いできた職業をそのまま名前に……おっと。立ち話もなんですな。どうぞこちらへ。まずは厩舎にご案内しましょう」
手招きしながらのんびりと歩き出した彼は、はたと止まって振り返る。
「ああ、忘れていました。私の名前はシンドバートと言います。私はあなた達を歓迎しますよ」
いまだかつてなかったほどの厚遇を受けているのだと感じ、エディ達は思わず感動して頭を下げる。
「ありがとうございます!」
「お気になさらず」
ゆったりした彼の足取りを、エディ達は慌てて追いかけた。
シンドバートの家に着くと、彼は先に迎える準備をしなければならないと言って、家に引っ込んでしまった。彼が戻って来るのを待つ間、二人は興味津々に家を見上げる。町外れの一角に建ったその家は、庭も含めて今まで訪れてきたどの家よりも大きかった。白が太陽の下に眩しく輝くその家は、十数人くらい楽に暮らせそうだ。
「こんな家に住んでるのか……貴族並みだね、ヘレン」
扉の前、庭や家の佇まいを眺めつつ、そう言ってヘレンの方を見る。彼女に半分貴族の血が流れているのは前から聞いていた。だが、ヘレンは曖昧な笑顔で首を振った。
「私? ……貴族って言っても、ひいおじいちゃんの頃に実権を取られて没落もいいところだったみたい。見栄も張れないじり貧の生活だったって言ってたよ。父さんとオックスフォードに来てからの方が暮らしは楽になったって、いつか話してくれたの。証拠に、テリーサは父さんの苗字で、母さんは元々バーミンガムっていう苗字だったんだって」
「へえ……そうだったのか……」
ヘレンは何の気も無しに言いのけたが、案外込み入った事情にエディはやや驚いてしまった。冷静に考えてみれば、勢い盛んな貴族の令嬢と単なる文官が結婚するのは確かに無理がある話だ。やはりヘレンは普通の生まれと大して変りないという事を再確認して、エディはどこかで安心していた。どうして安心しているのか、自分でも分からなかったが。
そうこうしているうちに扉が開き、シンドバートが二人の黒装束、そして三人の幼い男の子を従えて現れた。エディはヘレンと黒装束を見比べた。やはり似ている。シンドバートの方を見ると、六人は一斉に頭を下げた。
「よくいらっしゃいました。こちらにいるのが妻のハディージャ、」長身の女性を手で示し、次にもう一人、背が低い女性を指差した。「そしてヤスミーンです」
エディは文法がよくわからず目を瞬かせた。『妻の』がどこまでを修飾しているのか、エディは混乱した。常識で考えればハディージャのみのはずで、しかしそれならばヤスミーンとはいったいどんな立ち位置なのだろうか。舌が回らず、しどろもどろでエディは尋ねた。
「え? えっとあの……そちらは、シンドバートさんの奥さんですよね」
エディはひとまず、ハディージャの方に手を差し伸べる。そして、おそるおそる、のろのろした動作でヤスミーンの方に向けた。
「で……こちらは?」
シンドバートは首を傾げた。そして、さも当たり前のように言ってのける。
「どうしました? こちらは妻のヤスミーンですが」
「え? あ、ああ……はあ……」
エディは目を白黒させ、思わず一歩後退りしてしまった。
オスマンの乾いた風が、シンドバートの庭を駆け抜けて行った。