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我が神を求め  作者: 影絵企鵝
十章 イスラームとクライスト
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起段 オスマンへ

Eventful Item

ポセイドンの腕輪

Money

八十五シリング

 見知らぬ島が浮かんでくるという劇的な事件。あれはダルニアス隊共通の秘密という事になり、五日が経った今では話題に出す人間もいなくなった。第一、夢か(うつつ)かもわからないような出来事よりも、今は目の前に見えてきたオリエント地方の方がよっぽど重要だった。


「もうそろそろ着いちゃうのか……」


 ロードを甲板まで連れてきて、荷物をのんびりと結わえ付けながらエディは呟く。その目には、はっきりと新しい大地が見えていた。ヘレンも、眉を下げて寂しそうな表情を浮かべている。


「賑やかな笑い声が聞こえなくなると思うと、やっぱり寂しくなるね……」


 二人が深々と頷きあったところへ、メールが悠然とした足取りでやってくる。その手には、小さな箱のような物が握られていた。エディ達が彼女に気づくと、彼女は笑いかけてきた。普段通りの、包容力のある微笑みだった。


「さあ、元気でね。この先は荒野も多いだろうし、迷ったら大変なことになるわ。だから、これあげる」


 そう言って、メールが小振りな箱を手渡した。立方体型の箱を半分に開くと、中を見るなりヘレンが顔を輝かせた。


「わあ! 羅針盤じゃないですか!」


 その箱の中に入っていたのは、微かに揺れる鉄の矢印だった。確かに、東西南北が分かることで旅はぐっと楽になる。エディも目を丸くしてメールに尋ねた。


「本当にいいんですか?」


 一際明るい笑みを浮かべ、メールは黙って頷いた。ヘレンはすぐさま頭を下げた。


「ありがとうございます!」


 ヘレンが羅針盤を旅嚢(りょのう)に収めるのを見ながら、メールはファリアの方に目配せする。彼女は頷くと、手にぶら下げていた小包もヘレンに手渡す。不思議な顔をし、首を傾げながらヘレンはその布の小包を目の高さまで持ち上げた。


「ヘレン。イスラム教圏ではこれを着な。今から入るオスマン帝国はそんなんでもないけど、他教徒には厳しいんだ。特に女にはな」


 布の包みからのぞいていたのは、これまた黒い布だった。エディが横から覗きこみ、首を傾げる。


「喪服?」


 エディが苦笑いしながら呟いた冗談に、ファリアはからからと笑った。


「言い得て妙、ってやつだな。あたしはあんまりお洒落に気ぃ遣わないんだけど……それでもきついと思ったね」

「嘘……」


 旅の中でもお洒落に気を遣うヘレンは、片手で自分の口を押さえてしまった。ささやかな楽しみを取り上げられてしまうと知って、ヘレンはがっくりと肩を落とした。エディはその肩を撫でて慰める。


「まあまあ。インドはヒンドゥー教圏のはずだから、そこまで来れば大丈夫かもしれないよ」


 ところが、ヘレンは横目でエディを一瞥したきり、さらに肩を落としてしまった。


「かも。『かも』かぁ」


 ファリアは励ますようにヘレンの肩を叩くと、そのままエディの目を見つめる。


「おいエディ! この先ヘレンを守れんのはお前しかいないんだから、しゃんとしろよ?」


 エディは屈託のない笑顔で応える。


「ああ。わかってるって。そのために君から蹴り技を教えてもらったんだからさ」


 エディが静かに右手を差し出した。ファリアは一瞬戸惑った顔をしたが、すぐに右手を伸ばし、固く握りしめた。空いた左手では、親指を立てる仕草をしてみせる。


「お前達のこと、好きだぜ。応援してるから、頑張りなよ?」

「もちろんさ」


 エディとファリアが拳を突き合ったとき、ヘレンが思い出したような声を上げる。


「あ。私ねぇ、ファリア姉に渡したいものがあるんだった」

「なんだ?」


 ファリアが首を傾げているうちに、ヘレンは首元から例のお守りを取り出した。一瞬海神と見つめ合ったヘレンだが、やがてそれをファリアに差し出す。


「はい。これはポセイドン様の彫刻が入ったお守りらしいけど、私よりファリア姉のほうが似合うと思うし、この先船には乗らないだろうし、あげる」


 ファリアは口笛を吹くような口をして、満足げな声をあげる。


「本当に、ヘレンみたいな妹がいたらよかったんだけどなあ。……あたしは末っ子だったから……」


 それだけ言うと、ファリアは素早くお守りを首に下げた。荒々しさを含んだそのお守りは、『海の女』であるファリアの気性によく似合う。歯を見せて笑ったかと思うと、ファリアは腕にはめていた腕輪を外した。木製で、これにも緻密な海の彫刻が施されていた。おそらく、ドゥブロヴニクの海に違いない。


「こいつは礼だ。去年あったお祭りで買ったんだ。まあ、困ったら売れよ。ドゥブロヴニクで一番の彫刻師が作ったもんだし、売るとこに売りゃあ一週間ぐらい暮らせる金にはなるだろ」

「現金なこと言うね」エディがにやっとする。

「商売人の下で働いてっからな」


 ファリアの満面の笑みに、エディ達はつられて笑った。そのとき、船中にダルニアスの声が響き渡る。三人はもつれるような形で艦橋の方に振り向いた。


「みんなァ! そろそろベイルートに着くから支度しろ!」

「おぉッ!」


 ファリアは溜め息をついた。


「いよいよお別れかあ……何だか淋しくなるな」


 言葉の最後を聞き取れなかったエディが聞き返すと、ファリアは鼻先を掻きながらエディの肩を強く叩いた。歯を見せて笑う様はいつも通りだが、その頬が赤くなっているのを見逃さなかった。


「ばーか。恥ずかしいから何度も言わせんな」


 ファリアはエディ達に背中を向け、手を振りながら持ち場へと帰ってしまった。そんな様子を目で追い、メールは母親らしい微笑みを浮かべる。


「あの子も素直じゃないんだから。はっきり『二人ともっといたかった』、って言えばいいのに」

「それが女の子だっていう証拠なんじゃないですかね」


 エディは柔和な笑みを浮かべながらファリアの背中を目で追った。とにもかくにも男勝りで、人一倍荒い気質と言われる船乗り達にも物怖じせずにぶつかっていく。しかし、しっかりと繊細な感情も持ち合わせていたようだ。

 ふと、エディは隣の“女の子らしい”女の子にも目を向ける。彼女は一旦首を傾げたが、すぐに優しい笑顔を返してきた。

 常に穏やかな振る舞いのヘレンだけど、この旅に付いてきたくらいだから、案外大胆なところだってあるかもしれない。エディはこっそり心の中で呟いた。


「さ。最後くらい、格好つけないとね」


 そう言って、メールは茶目っ気たっぷりの笑みをエディ達に向ける。羅針盤片手に、メールは真っ直ぐ海の向こうを指差した。


「本日快晴! 風向き、風速ともに良好! ベイルートに向けて、よーそろーっ!」

「アイアイ、マム!」


 息の揃った船乗り達のやり取りは、いつ見ても心地よかった。



 ベイルートは、白い土壁の家が入り組んだ迷路を作っている。やはり海辺なためか、以前抱いていた土埃立つ街のイメージとは少し違ったものだった。


「なんだ。ヨーロッパとそんなに変わらないんだね」


 意外そうなエディの声色を聞き、ファリアは頭を掻きながら辺りを見回す。確かに、道路は丹念に舗装されているし、海の青もあれば植物の緑もある。ヨーロッパの港町とも大して変わりない、色彩明るい町並みだ。


「まあね。こんなとこから砂漠が広がってるわけないさ」

「エディ……」


 いきなり背後から消え入りそうな声が聞こえてきて、エディは背筋が冷えた。慌てて振り向くと、そこには目以外を黒い布で覆った人が立っていた。エディは思わず仰け反ってしまう。が、悲しそうに声を上げたのを聞いて、エディはようやくそれが誰なのかわかった。


「ヘ、ヘレン?」

「嫌。顔まで隠さなきゃいけないなんて……」

「大丈夫。目だけでも十分可愛いよ」


 エディは肩を叩きながら微笑んだ。それを聞いたヘレンは、目の動きだけでも動揺したのがわかる。しかし、すぐに半眼にして気の入っていない表情をしてしまった。


「そういう問題じゃないの。毎日少しずつ髪型変えて、その感想をもらうのが……ううん。何でもない」


 エディが首を傾げ、不思議そうな表情をした途端にヘレンは言葉を切ってしまった。エディはさらに怪訝な表情をする。ヘレンの表情を窺おうとするが、磁石のように離れてしまう。


「どうしてこっち向かないの?」

「別に。何でもないってば」


 まだまだ女心がよくわからないエディは、この前のように怒らせでもしただろうかと心配になってため息をついた。ロードは二人の微妙な空気を感じ取って鼻を鳴らしてしまった。それに気がついたエディは、静かにロードのたてがみを撫でる。


「なあ。俺は何か悪い事を言っちゃったかなあ?」


そうしているところへ、皮袋を手にしたダルニアスが現れた。気まずい雰囲気を感じていたエディは、素直にそれを喜んだ。


「ダルニアスさん!」

「あれ? やっぱり見送りに来たんだ」


 メールは帽子の角度を気にしながら尋ねる。先ほど船長室の扉を叩いた時は、返事一つすらしなかったのだ。ダルニアスはしかめっ面をする。


「ノックも声かけも、昔みたいにもう少し大きな音でしてくれないか? 淑やかにやられたら、気付くものも気付けないだろうが」

「あら、そう……うん。こんなもんね」


 メールはようやく今日の角度が決まったらしい。我が道を行く彼女に向かってダルニアスは肩を竦めてみせると、エディの目の前に持っている袋を突き出した。


「受け取れ。餞別だ」


 受け取ってみると、思わず手から落としそうになるほど重かった。おそるおそる中を覗いてみると、銀色の光がすぐ目に飛び込んでくる。エディは慌てて首を振り、それを突き返した。


「受け取れませんよ。こんなにたくさん……」


 ダルニアスは強情に銀貨の詰まった袋を突き出し、エディの胸に押し付けた。腰を落とし、目線をエディと同じ高さにする。


「お前達はこれを受け取る。俺の船長権限が及ぶ最後の命令だ。この先なんて、何があるかわからないだろう? あって困るわけでもなし、つべこべ言わずに持っていけ」

「あ、ありがとうございます」


 エディは海の男に深い恩を感じ、静かに頭を下げた。


「そう堅苦しくするな。頑張れよ」


 ダルニアスは最後にエディの肩を叩くと、そのまま船の中へと引っ込んでしまった。メールは視線でその背中を追う。ポケットに手を突っ込むダルニアスの肩は、普段より撫で気味になっているように見えた。メールは肩を上げ下ろししながら、物分かりよさそうに呟く。


「やっぱり寂しいのね。ファリアもダルニアスも、ほんと素直じゃない」

「別にあたしは素直だと思うけど?」


 鼻と口を近づけながら、ファリアは首を傾げた。メールは優しく微笑んだ。


「自分じゃよくわからないものよ。私も、連れには『素直じゃない』ってよく言われるし」


 エディはほうっと息を吐き出した。二人の微笑ましいやり取りをいつまでも見物していたかったが、時は待ってくれない。月日は待ってくれない。ヘレンの袖を引く。彼女は微笑んでみせ、頷いた。エディは顔を上げ、深々と息を吸って肺を膨らませる。


「すみません。そろそろ……行かないと」


 メールはあごを胸元に付けるくらい深々と頷いた。一方のファリアは、急にきょろきょろ余所見を始める。


「そうね。いつまでもこうしてるわけにはいかないものね。さあ、行きなさい。私達は全員応援しているから」


 二人はロードの隣に立ち、静かに街と向かい合う。潮風が、静かにエディの髪を揺らす。エディ達はもう一度だけ振り返った。


「行ってきます!」

「ええ。行ってらっしゃい」


 二人はロードを引き連れ、街中へと向けて歩き出した。その時、ドラの轟音が港中に響き出す。ダルニアスが、二人の旅の無事を祈って鳴らし続けているのだ。心の臓も震える轟音に勇気を貰い、二人は前を真っ直ぐ向いて、大股に街へと進んでいく。メールとファリアは何も言わずにその背中を見送っていた。



 ダルニアス船団は、その後も変わらず海の架け橋だった。ドゥブロブニク一有名な船団として、その名は轟いていく事となる。



「へぇ。みんなおんなじ格好してるんだ」


 エディは感心したような声を上げてしまった。白い町並みの中、ゆったりした幅広で、上下の境が希薄な服を着た男性が、方々を行き交っている。一方、消し炭のように真っ黒な服で女性たちは全身を覆っている。洋服を着ているのは、エディただ一人だった。エディは落ち着かない気分になり、ヘレンの方に振り返る。


「ねえ、服屋を探さない? ……って、ねえ?」


 ヘレンは伏し目がちだった。どう見てもいじけているようにしか見えない。足取りも投げやりで、明らかに虫の居所が悪そうだ。エディは恐る恐るヘレンの肩を突っついてみた。ヘレンはエディを尻目で睨む。


「服屋なら……勝手に行ってよ」


 『お洒落』という楽しみを奪われた苛立ちは、簡単には収まらないようだ。布のせいでくぐもる声だが、十二分につっけんどんな口調が伝わってきた。エディはいつものように愛想よく笑いながら、手を胸の前まで持ち上げる。


「そんな事言わないでよ。怒らないで、付いてきてよ。ね?」

「はぁい」


 薄い布がヘレンの口元で山になっている。口を尖らせているのだろう。エディは少々の間放っておくことにした。何を言っても不機嫌さが増すだけに違いない。幸いにも服屋は今いる道の突き当たり、目に届く位置にあった。急に『行きたくない』と言われずにすみそうで、エディは思わず喝采上げそうになってしまった。ある程度強引にヘレンの腕を引き、ロードの手綱も強く引いて服屋まで引き立てていく。ヘレンはエディにも聞こえるほど大きなため息をついた。諦めたのだ。何も、『お洒落』をするのは自分だけではないと。


「仕方ないかぁ。じゃあ、私がエディに似合う服を選んであげる」

「はいはい。ありがとう」


 適当に返事しつつ、エディはヘレンを引き連れて服屋に辿りついた。白い屋根から茶けた床までじっくり見回してから、ようやくエディ達は服屋の中にそろそろと足を踏み入れた。洋服とは出色の違う、痩身のエディの二回りほどは大きなサイズの服が畳まれて並べられている。その店は、白く幅広の服を着て、整った口髭を生やした男が店番をしていた。早速エディの身なりに気づき、立ち上がりながら男は声をかけてくる。


「そこの君。ヨーロッパから来たのかい?」


 エディは頷いた。


「ええ。わかりますか?」エディは自分の服をつまんで引っ張る。「やっぱり、この服のせいですよね」


 店主は頷く。同時に目の前の服を漁り始めた。


「そんな服を着ているのは、たまにやってくる貿易商くらいだ。目立つに決まってる」

「だから、このお店で服を変えようと思って」


 赤い細縞模様の入った服を持ち上げたとき、店主が訝しげな表情をした。服を片手にぶら下げたまま、ずかずかとエディの間合いに踏み込み、その耳を突き出す。


「もう一度同じ言葉を喋ってくれ」

「服を変えようと思って」


 目を真ん丸くして驚いた。一歩退いた店主は、あごを突き出すように顔を近づける。


「んん? ずいぶんオスマン語が上手いんだな。こんなにうまいヨーロッパ人は見たことないぞ」

「そ、そうですか? ありがとうございます」


 本当のことを言えるはずもなく、エディは愛想よく笑いながら頭を掻いた。意外なことがあったお陰で店主は気分がよくなったのか、エディに向かって近くの上着を突き出した。黒地に青く染められた毛糸が雨のように織り込まれている、エディが今まで見た中では一番不思議な柄だった。ついでにゆったりしすぎたワンピースのようなシルエットの服を取り出す。作りは簡素で、頭と腕を出す穴、そして腰でしめるための帯を店主が握っているだけだった。そんな無彩色の服と雨模様の上着を突き出しながら、店主はにっと笑う。


「ほら、旅の餞別だ。ここは暑いからな。そんなにぴったりした服を着てたら蒸し焼きになるぞ」


 エディは顔を輝かせて頷いた。アジアの旅も幸先が良さそうだ。そんな事を思った時だ。


「我らが神は偉大なり! 我らが神は偉大なり!」


 男の声が空高いところから響いてくる。途端に店主は服を置き、その店の奥の方角を見つめながら通りに出て行った。


「我らが神は偉大なり! 我らが神は偉大なり!」

「我らが神の他に神はなし! 我らが神の他に神はなし!」


 朗々と響く男の声にあわせ、店主までも大声で復唱を始めた。突然の出来事に戸惑い、二人は思わず通りを見渡す。そこには、通りに人々が皆集まり、同じく一点を見つめている光景が広がっていた。

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