結段 海より出でし朧島
降り立った無人島――確証は無いが、海の底に沈むような島に人、いや虫すらいないだろう――は、閑静な雰囲気が漂っていた。わずかに吹き寄せる潮風が、見たこともないほど大きくつややかな葉を揺らす。その大きな葉が空を覆うが、程良く日が洩れて景色を明るく彩っていた。エディはそんな木々の、濡れたように光る肌を撫でた。
「こんな木は見たことが無いです」
エディの好奇心溢れる声色にダルニアスも頷いて、右手に当たった葉をむしる。
「お前だけじゃない。ヨーロッパの奴らはみんな見たことが無いに違いない」
ダルニアスは葉を空に掲げた。日中の明るい光が、ちょうど良い具合に葉の切れ目から洩れてくる。森の木漏れ日をたったの一枚で再現していた。そんな珍しい葉を見ていると、ダルニアスは商業に携わるものとしての感性がとある考えを呼び起こす。葉で自分をあおぎながら、ダルニアスはエディ達の方を振り向いた。
「これを売れば小遣い稼ぎになるか?」
エディは目を細めた。確かに、こんな葉が道端で売られていたら立ち止まって眺めることはあるかもしれない。自分は買わないだろうとも思ったが、その感想は伏せてエディは取りあえず笑う。
「珍しがって買う人はいそうですね」
「なら、とりあえずこの葉も十枚くらい持って帰る事にするか。メールに頼んで、いい売り方を考えてもらうとしよう」
そう言いながらダルニアスが葉をむしっていると、突然この世で聞いたことのない音が聞こえてきた。重低音に微かな高音が交じり、耳が壊れそうだ。それが止んだかと思えば、この世とあの世を合わせても指折りの恐ろしい光景が目に飛び込んできた。
「ド、ドラゴン?」
「まさか。……そんなまさか」
ヘレンが放心して呟いた言葉を否定したいエディだったが、土台無理な話だ。その背後では、既にダルニアスが気を失っている。ヘレンは虚ろに呟いた。
「嘘よ。本当にいるなんて」
三人の目の前にいたのは、伝説に名高い、恐怖の対象として名高い、最強の生物として名高い、ドラゴンだった。こちらをじっと、握りこぶしほどの大きさがある目が見つめている。一呑みにされそうなほど大きな口から鋭い歯がのぞいた瞬間、エディ達は血の気が下りていくのを実感した。蒼いドラゴンは、一歩、また一歩と地を震わせながらこちらに迫ってきている。目眩が始まったヘレンは、思わずエディに抱きついた。
「ねぇ、私達、食べられちゃうのかな」
一方のエディは既に悟りを開いたようだ。何故だかは知らず、いやに木漏れ日が目に焼き付いた。彼はヘレンを、感情の無い虚ろな笑顔で抱きしめる。
「もう諦めよう。いいさ。一緒にこのドラゴンの骨肉になろう」
人は死を恐れる。しかし、死が身近で不可避なものに感じた瞬間、その恐怖は去ってしまうこともあるようだ。エディは既に、一年間一緒に連れだってきた少女と共に死ねるだけで、それも悪くないと思ってしまった。そんな感情に当てられ、ヘレンも何故だか動悸が収まっていくのを感じていた。
「そ、そうだね…… エディ、旅に誘ってくれてありがとう。これからも、ずっと一緒だよ……」
ドラゴンの口が、もう手を伸ばせば触れられるくらいまで近づいてきた。二人は恐怖を分け合うように抱きしめ合い、目を固く閉じた。しかし、“その時”はいつまで待っても訪れない。まぶたの中にはいつまでも日の光が透けてくるし、死の激痛が二人を襲うことはついになかった。再び心臓が弾みだすのを耳で実感しながら、エディは恐る恐る目を見開く。ドラゴンはいくらか自分達から離れ、静かにこちらを見下ろしていた。
「人間か。こんなところにやってくるとは珍しいな」
竜は穏やかな調子で話しかけてくる。拍子抜けした。あまりに拍子抜けしたので、エディは魂まで抜けかけた。呆けた表情をして、上ずり掠れた声で尋ねる。
「僕達を食べないんですか?」
竜はゆっくりと首を振った。竜の鱗が鎧のように擦れ合い、二人はその響きに合わせて小刻みに震える。ゆっくりと顔を近づけてきた竜は、語りかけるような口調で答えた。
「わしは老いた。もう肉など食べられたものではない。元々人間には恩があるから、食べられても食べようとは思わないがね」
エディは唇を震わせながら、肺から息をしぼり出した。食べられることは無いのだと安堵すると共に、頭から血が駆け下りていく。目眩を感じたかと思った瞬間、エディは地面に倒れ伏してしまっていた。
一体どれほどの時間が立っただろう。エディはようやく気がついた。隣では、ヘレンが心配そうに彼のことを見守っている。エディは思わず自分の胸に手をやる。僅かな弾みを手に感じ、エディは生きていることを実感しながら小さく笑いかけた。
「おはよう、ヘレン」
「おはようじゃないよ。急に倒れるから心配したんだよ」
ヘレンは不機嫌に口を尖らせる。その表情が可愛らしく、エディは思わず顔をほころばせてしまう。反対にヘレンは顔をしかめた。怒っているのに笑われるのは心外だ。
「ちょっと。私は真剣に心配してたんだよ?」
「ああ。ごめんごめん」
ゆっくりと伸びをしながら辺りを見回すと、今いるのは下草ばかりの広い場所だった。その中央で、ドラゴンは当たり前のように伏せている。
「起きたのか。少年」
「は、はい……」
エディが語尾をあやふやにすると、ドラゴンは静かに歯を剥いた。エディは全身を震わせ肩を縮こまらせる。
「どうした。わしが怖いのか。まあ、当たり前なんだろうがな」
ようやく、ドラゴンが笑顔を見せている事に気がついた。幾星霜の時を刻んだその顔は、目元が常に厳しいのだ。やっと安堵を噛み締められるようになったエディが気づき始めたのは、船長の存在だった。広い場所なのに、とんと姿が見えない。
「あれ。ダルニアスさんは?」
ヘレンは苦笑した。ドラゴンのことを指差しながら口を開く。
「ブレアさんと一緒に船まで帰してきたの。メールさんはやっぱりすごいよ。何にも動じなかったから。伝説にしか出てこない生き物を見たんだから、腰を抜かすくらい驚くと思ってたんだけど、『送ってくれてどうも』の一言だけ。やっぱりすごいなあ」
当然、ヘレンはその後メールが木桶に向かって昼食を全て吐いていたことは知らない。
そんなこととは露知らず、エディもメールの大人物ぶりに感嘆していると、ブレアはエディの事をまっすぐに見つめながら話しかけてきた。
「少年。名は何と言うのだ」
「エドワード・サーベイヤー。エディと呼ばれています」
ブレアは空を見上げ、小さく唸り始めた。食べる気が無いとしても、怒りが無いにしても、やはりエディにはブレアの一挙手一投足が恐怖の対象でならなかった。その様子を固唾を呑みながら見守っていると、ふとブレアは顔を下ろした。
「エディ。か、そこの少女のヘレンという名といい、どこかで聞き憶えがあるのだ。果たしてどこだったろうかなぁ」
「はあ……」
話だけを聞けば、本当にブレアは賢い老人という雰囲気だ。恐怖と穏和の落差にエディが呑み込まれそうになっていると、やがてブレアはエディに尋ねかけてきた。
「時にエドワード。まだまだ年端も行かぬ少年のようだが、一体どうしてこの島に現れたのだ?」
「えっと、それは、船長さんが浮かんできたこの島を探検しようと言い出したので――」
ブレアは首を振る。
「違う。違う。そうではない。もっと事の起こりから教えて欲しいのだ。簡単でも構わない」
エディは今までの経緯を簡潔にまとめて話した。両親を失ったヘレンと自分が出会った事。神を探して旅に出ようと決めた事。様々な人々と出会い、助けられてきた事。ブレアはずっと黙してエディの言葉を聞いていた。話し終わっても、ブレアは目を閉じたまま考え込んでいる。
「ブレアさん。これが一応、僕達の旅の経緯です」
ブレアは目を閉じたまま口を開いた。
「そうか。エドワード、ヘレン。汝らは大変な苦労をしてきたようだな」
いたわるような口ぶりを聞くと、もうエディは目の前のドラゴンがただの御老人にしか見えなくなりつつあった。老人に今まで積み重ねてきた思い出を尋ねるかのように、エディはブレアに呼びかける。
「そう仰るあなたこそ、ここでずっと一人暮らしてきたのでしょう? 寂しくないのですか?」
ドラゴンは再び空を見上げた。
「わしが生まれた所はここではない。もっと広く、温かい海辺だった。目を閉じれば、夕暮れの景色が思い出される。そこでわしは、ある子供と出会った。生まれて間もなかったわしと、その子供はすぐに友となった。その子供が少年となるまでの間に、わしはその子供を背中に乗せて飛べるまでに大きくなっていた。楽しい日々だった。ところがな……」
ドラゴンはそこで言葉を切った。ドラゴンの目は、少し潤んでいるように見えた。
「その時、世界は不穏な空気に包まれていたのだ。戦乱のさなか、我々ドラゴンは疑われた。我々も戦いに参加し、人間を危機に追い詰めるのではないかとな。そして、我々は討伐されることに決まってしまったのだ。少年はそれを知った時、絶望したそうだ。だが、その少年は諦めなかった。四人の旅人の力を借りて、わしを、友人の大陸亀と共にここまで飛ばしたのだよ。今生の別れとなっても、生きてくれていたほうが良いと言ってな。そして、旅人はいつかまた会える日が来ると言っていた。だから、わしはこうして待っているのだ。命の恩人と会える日を」
「一体、いつから」
「千年前からだ」
エディは息を詰まらせてしまった。十世紀も、このドラゴンはあてのない約束を頼りにこの島で生き続けているのだ。もう約束の旅人も生きてはいまい。それでも、純粋に旅人と出会える日を待ち続けているのだ。途端に、このドラゴンが悲しいくらいに純粋で、真っ直ぐで、心の優しい存在だということをエディは知った。このドラゴンの心を裏切るようなことは決して言えない。喉を震わせ、エディは言葉を絞り出した。
「会えると……いいですね」
竜は再び微笑むと、そばに落ちていた蒼く光る物を目で差した。
「エドワード。久しぶりに人と話すことが出来てよかった。思えば、あの旅人にも似たような風貌の男がいたのだ。だから、余計に懐かしく感じられたのだろう。礼というのもなんだが、そこの鱗を良ければ持って行って欲しい。ここに来て力がかなり減じてしまったが、それでもその鱗一片で水を綺麗にするくらいのことは出来る」
エディは鱗までゆっくりと歩み寄り、のろのろと屈んで取り上げた。海のように深い蒼色のそれは、傾き始めた橙色の光を受けて美しい陰影を作り出していた。旅嚢に鱗を収めると、エディはゆっくりと頭を下げた。
「ありがとうございます。……残念ですが、僕達は行かなければなりません。まだ僕達は旅をやり遂げていないから……」
「そうか。ならばわしはここでまた旅人を待ち続けるとしよう。この、大陸亀と共にな」
ヘレンはその言葉を聞き、きょろきょろと周囲を見回した。だが、亀らしき存在は見当たらない。それをブレアに尋ねようとして、はたと気がついた。ヘレンは今立っている地面を見つめながらブレアに今思い当たったことを尋ねる。
「大陸亀って、もしかして……」
ブレアは頷いた。
「その通りだ。この友の為にも、わしはこの場を離れるわけにはいかん。そうすれば、わしらは本当の意味で独りになってしまうからな。さあ、長くなったな。エドワードよ。折角だからわしが旅人と交わした約束の曲を聞いてくれないか。練習して、いつか自分に聞かせて欲しいと言っておったのだ……」
ブレアは翼を広げて立ち上がりながら背筋を伸ばし、空に向かって低く唸るようにその声を響かせ始めた。
木々がざわめく。ブレアの感情に左右されているかのように、海は泡立ち波が生まれる。地響きを感じ、エディとヘレンがよろめきながら何が起きているかを必死に感じ取ろうとしていると、突然ブレアのものではない声が響き始める。大地を響かせるようなその声は、今まで積み重ねてきた千年の重みがあった。押し殺し続けた寂しさと、それでもなお保ち続ける希望が絡み合って聞こえ、エディ達は自然と涙が浮かんでくるのを感じていた。
歌い終えたブレアと、エディ達は静かに向かい合う。
「ブレアさん。いつか、約束の人と会えることを願っています」
「うむ。汝らも、達者で旅を続けるのだ」
強く頷くと、エディ達は『たちかぜ号』に向かって駆け出していった。ブレアは静かにその背中を目で追っていく。ブレアはその姿が霞んでいくのを感じていた。
「似たような……いや。そうじゃない……エドワードさん。ヘレンさん……」
船に乗り込んだエディ達が振り返ると、再び泡に包まれた“生きている”島は、そのままその身を海に投じていくところだった。伝説のドラゴンとの出会い、そして再会を誓ったというその曲は、エディ達にとって決して忘れられないものとなった。二人は身を寄せ合い、島が完全に見えなくなってしまうまで神秘的な光景から目を離すことはなかった。
ファタ・モルガーナ。いずこの海に巻き起こった蜃気楼の中に、動く島は、その後消えていったという。