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我が神を求め  作者: 影絵企鵝
九章 地中海の朧島
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叙段 航海士、灯台守と船長と

 私はもう何が何だか分からなくなってた。右膝は木槌で絶え間なく叩かれるような痛みがするし、もう船には乗れないって言う絶望感が私をどん底に突き落としたの。だから、自分がどこに足を運んでいるかわからなかった。そして、もう一日は食べてないはずなのにお腹は空かないし、そもそも生きる事さえ意味が見出せなくなってた。そういう気分だと、そういう場所に足を踏み込んでしまうんでしょうね。


「おい、姉ちゃん、新入りか?」


 そんな声がしたわ。私はそこがどんな場所かわからなかったから、顔を上げようともしなかったし、そのまま声の主の横をすり抜けようとしたの。だけど……


「おい、売女のくせに無視してんじゃねえよ!」

「ば、ばいた……?」


 そこでようやく気がついたの。ここは『春』を売買する人たちが集まる通りだって。あの頃、今の政務官さんがドゥブロヴニクを治めるようになるまで、あんまり治安も良くなかったから……まっとうに生きてる女が、近寄るような所じゃなかったの……

 男の力は強くて、私は抵抗できなかった。それ以前に抵抗しようとも思えなかった。このまま身を堕とすんだな、ってどこか他人事にしか思えなかった。やっぱり男には敵わないんだって、それしか考えられなかった。でもね、その時に助けてくれた人がいたの。うん。そうよヘレン。その助けてくれた人がシオンだったの。あの人は木桶で男の頭を叩いて、その男が怯んでいるうちに私を引っ張って逃げようとした。そして、私が膝を壊して走れないってわかったら、そのまま私を抱きかかえて逃げてくれたの。


「メール、一体どうしたんだい? あんなところに足を踏み入れたら駄目じゃないか!」


 その時、十年来の幼馴染だったシオンに初めて怒られたの。私がいつも『弱虫』だってからかっても、にこにこ笑って気にも留めなかったシオンが。どきっとした。そして、ようやく私は我に帰った。


「迷子になってたんだよ」


 確か、そんなことを話した気がする。それで、私はそのままシオンの灯台に連れられて、看病されたわ。シオンは医者を連れてきて私の膝の様子を診せたり、物を食べる気力が失せていた私に何とか栄養のあるものを、っておかゆを作って食べさせてくれたりもした。そのお陰で、私はちょっとずつ良くなっていったの。膝も簡単に曲げ伸ばしはできなくなったけど、ちゃんとしゃがむ事が出来るようになったし、走ることもできるようになった。心の方もね……シオンといて安らいでいく気がしたわ。灯台から見る朝日が、私にはシオンの笑顔と重なって見えた。


「あの時、どうしてシオンは“あの”通りにいたんだ?」


 膝や気分が良くなっても、私は灯台を離れる理由が見当たらなくて、結局一年間シオンと暮らしてきたの。そんなある日、私はそうシオンに尋ねたの。そしたら、シオンは笑いながらこう言ったわ。


「君と同じ。迷子になったんだよ」ってね。


 でも、私は自分自身で気づいてた。シオンはきっと港でさまよっている私を見つけて、こっそり後を付けてくれたんだって。私の事を心配して。そして、一年間シオンと暮らしてて気がついたの。乱暴で暴力ばかりの父に反発して、男に女は負けないってことを示すために船乗りになったけど、結局、船乗りたちが持っていたのは私がいくら頑張っても持てないものだった。力とかね。でも、今まで散々小馬鹿にしてきたシオンだって、男らしくはないけど、たくさん良い所を持っている事に私は気がついたんだ。そして、シオンが持ってる良い所、優しさとか、心配りとか、勤勉とか。私でも努力すれば手に入れられるんだっていうことにも。気付いたら、私にとってシオンはかけがえのない存在になってたの。


「これからも、ずっと一緒に暮らしたいなぁ」


 私、いつの間にかそんな事まで言ってた。シオンの困った表情が懐かしいわ。



 一月後に私達はささやかな結婚式を上げて、もう一月後にはシレーヌを授かって。少し平坦かもしれないけれど、幸せな人生を送ってた。その頃の私にとって、海は灯台の窓から眺めるだけのものになってたわ。十年前の今くらいまで。ちょうど、こんな感じに風も何も無い穏やかな海を一家三人で眺めてた時、シオンがぽつっと呟いたの。


「ドゥブロヴニク以外の海は、どんな表情をしているんだろう」って。


 シオンはなんとなく呟いたのかも知れないけど、その言葉は私の心に小さな灯火をつけたわ。シオンが毎日そうしているように。私は恩返しがしたくなった。今まで『女は弱い』と思って、女性らしく生きることを拒んできた私に、力が弱いからって女性は人として劣ってるわけじゃないって、シオンは男のくせに教えてくれたから。もう海は男と張り合うための場所じゃなかった。灯台を離れられないシオンのために、この私の目にたくさんのものを焼き付けるための場所になったの。こう、シオンに言ったわ。


「じゃあ、私がたくさん見てきてあげる」って。


 次の日、私はダルニアスに話を付けに行ったの。いっちばん私の事を馬鹿にした奴で、いっちばん憎いヤツだったけど、もうそんなこと気にしてられなかった。だって、ダルニアスしか船員を募集してる人がいなかったから。当然、あいつは私のことを笑ったわ。散々仕事を邪魔した挙句に膝を壊して、のこのこ帰っていった奴が、今更何だって。昔の私なら、顔面を拳骨で殴りに行ったかも知れないけど、もう気にしなかった。だって、シオンのために何としても船に乗りたかったから。


「掃除でも何でもするから、立ったままでも寝るから、どうか私を船に乗せて」


 その時の私は、ダルニアスに向かって膝を付くことさえ恥ずかしいとは思わなかったわ。でも、ダルニアスは私の事をあんまり信用してなかった。当然だけど。また色々しでかして、船に迷惑をかけると思ったんだわ。だから……


「なら、男所帯の相手でもするのか」


 って、まあ、つまり、その……。ダルニアスはなかなか婉曲が上手いらしいわ。とにかく、さすがに私は迷ったわ。ちっぽけな自尊心は簡単に捨てられたけど、一介の妻としての貞操までそうそう捨てられないもの。でも、背に腹は代えられないし……って、結局飲むことにしたわ。え? ヘレン、私はそういう女よ。夢のためなら何でもしてみせる。でも、ダルニアスは困ったみたいね。単なる冗談だったんだから。『何でもする』って言った私の覚悟を確かめてただけで。


「ちょっと待ってくれ。夫も子もいるお前にそんなことをさせたら、船が最初の航海で沈む」


 なぁんて言ってたわ。

 かくして、私はこの船に乗り込めることになったの。もう荷物運びやらなにやらはもともと出来ないし、女らしく甲板の掃除をしたり、細々働いてたわ。そして、こっそり前にダルニアスが雇っていた航海士の記録やら何やらを読ませてもらって、自分でも航海日誌をつけたの。ここはどう風が吹きやすいだとか、ここはどんなふうに海流が流れているかって。まあ、前任の航海士はおじいさんだったから直ぐに引退しちゃったの。それでついに私の出番、そして今に至るってわけ。



「つまり、メールさんはシオンさんのことをとっても愛してるんだってことですね」


 ヘレンの奇をてらわない言葉にメールは耳まで赤くしたが、口元は自然に緩んできてしまう。


「そんなぁ。直接言わないで」


 お互いに見つめ合ってくすくすと笑い合っていたのだが、いきなりその二つの頭を誰かに鷲掴まれた。


「痛い痛い痛い!」

「おい、女二人! そんなところで私語をしてるな! 目の前を見ろ!」

「え?」


 メールとヘレンはダルニアスに叱られるままに指差された方を見る。すると、目の前にあったのは見たこともない島だった。森のように木が生い茂っており、人の住んでいる気配は全くと言っていいほど感じられない。メールは目を擦る。どれくらい話していたか見当もつかないが、周辺に島など全く存在しなかったはずだ。


「どうしてこんな所に島があるの?」


 ダルニアスも当惑したような表情で答える。


「知るか。急に大きな泡に包まれて海の底から浮かんできたんだよ!」

「へ? そんな事、あるわけないじゃない」


 その光景を実際に眺めていないメールとヘレンはいかにも訝しげで――ダルニアスからすればいかにも滑稽だが――、船長の言う事を中々信じようとしない。しかし、エディもヘレンの所に息せき切って飛んできて、同じ事を口走ったためにもう信じる他にはなくなってしまった。


「あんなすごい光景を見逃すなんて、どれだけ話し込んでるんだよ」

「ごめん。『女の(さが)』なの」

「何を言ってるのさ、ヘレン」


 舳先(へさき)に立って無人島の様子を眺めていたファリアが、淡々とした調子でダルニアスに質問する。


「どうします? 上陸してみますか?」


 ダルニアスは迷うことなく頷いた。メールは戸惑ったように彼の表情を窺う。


「ええ? 危険じゃないのかしら」


 だが、ダルニアスは豪快に笑ってみせた。


「危険で結構! もう少し勇気があれば、俺は冒険家になるつもりだったんだからな!」

「ちょっと恥ずかしいわよ」

「黙るがいい航海士。俺は行くぞ」


 普段は積極的なエディも、浮かんできた島に乗り込むというのは若干気が引けた。二人のやり取りから目を背け、頭を掻いて素知らぬ振りを突き通そうとする。しかし、魅入られたように島を見つめていたヘレンがいきなり手を挙げた。


「私、行きたいです」


 エディは今まで生きてきて一度もないというほど驚いた。昔はあれほど消極的で、受動的だったヘレンが、まさか自分も行きたくないと思うような場所に足を踏み込みたいと言い出すなど、正気の沙汰だとは思えなかった。肩を掴むと、エディは目を瞬かせながらヘレンの表情をまつ毛一本まで窺った。


「一体どうしたんだい? いきなりそんな事を言い出すなんて!」


 ヘレンも本心を明かせばあまり行きたいとは思えなかった。だが、目の前にある緑が生い茂る島にどうしても乗り込まなければならないと感じてしまったのだ。誰かが、いや、何かが自分を呼んでいる気がしてならなかった。この島の無視は許されないと、自分のもうひとつの心に呼びかけられている気がした。


「エディ。何かがあるの。私の勘よ」


 エディは溜め息をついた。せっかくヘレンが積極的になり始めたのだ。止めてしまう手はない。


「わかった。なら僕も行くよ」

「ねえ、あなた達本当に?」


 娘の親友達のやり取りを見つめながら、メールは心配そうな声を上げる。自分の目が届く範囲でその命を危険に晒すわけにはいかない。だが、エディはどんと胸を張ってみせた。


「大丈夫ですよ。何かありそうだったら一直線に逃げてきますから」

「よし、それこそ夢のある少年達の言葉だ! メール、他の仲間と一緒にいつでも出航ができる準備を整えておけ! そう、何かあったらいつでも逃げられるようにな!」


 メールは軽い頭痛がして頭を押さえてしまった。


「だから、情けないってその言葉……」


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